前田元敏
郁文館夢学園所蔵 | |
人物情報 | |
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生誕 |
安政4年5月4日(1857年5月26日) 土佐国土佐郡高知城下(高知県高知市廿代町11番地) |
死没 |
1927年(昭和2年)1月24日 東京府東京市小石川区久堅町74番地 急性肺炎 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京大学理学部採鉱冶金学科中退 |
配偶者 | 前田京 |
両親 | 前田元幸、久 |
子供 | 前田元、直、幸久、鈴木静子 |
学問 | |
活動地域 | 高知市、大垣市、熊本市、鹿児島市、東京市 |
主な指導学生 | 浜口雄幸、小橋一太、斎藤博[要曖昧さ回避]、大町桂月、加藤高明 |
称号 | 従七位 |
主要な作品 | 『英和対訳大辞彙』 |
前田 元敏︵まえだ もととし、安政4年5月4日︵1857年5月26日︶ - 1927年︵昭和2年︶1月24日︶は戦前日本の英学者。土佐藩出身。岐阜県立岐阜県尋常中学校大垣分校初代校長、日本中学校教頭、郁文館中学校教頭。
生涯[編集]
土佐[編集]
安政4年︵1857年︶5月4日土佐国高知城下︵高知県高知市廿代町11番地︶に土佐藩槍指南前田元幸の嫡男として生まれた[1]。文久3年︵1863年︶寺子屋に学び、慶応3年︵1867年︶5月15日祖父及と藩主山内豊範に御目見した[2]。 明治2年︵1869年︶藩校致道館に入学して漢学を学び、明治5年︵1872年︶7月から英学を学び、廃館後、明治6年︵1873年︶5月共立学舎英語学校に入学して引き続き英学を学んだ[2]。東京[編集]
末延道成、千頭清臣等と共に官費貸費生として上京し[3]、1874年︵明治7年︶9月東京外国語学校に入学し、新渡戸稲造・内村鑑三等と共に学んだ[2]。12月24日英語科が東京英語学校として独立し、1875年︵明治8年︶9月開成学校に進学した[2]。 1877年︵明治10年︶9月東京大学予備門全科を修了し、東京大学理学部諸学科に進学、2年生から採鉱冶金学科に進んだが、1881年︵明治14年︶2月卒業目前で病気のため帰郷し、6月退学した[2]。遊芸に耽って散財したため呼び戻されたともいわれる[1]。高知[編集]
1882年︵明治15年︶4月高知共立学校設立に参加し、洋学教師に就任した[2]。 1883年︵明治16年︶1月31日共立学校を解雇され[2]、11月26日高知県高知中学校三等教諭、1884年︵明治17年︶5月3日二等教諭として高知師範学校に兼勤し、10月2日退職した[4]。1884年︵明治17年︶1月13日嶽洋社学課局英書科・算術科教師を兼任した[2]。 1885年︵明治18年︶5月14日岐阜県教諭試補となり、大垣中学分校に勤務したが[4]、廃校となり[1]、8月30日退職、9月1日私立大垣英語学校校長に就任した[4]。 1887年︵明治20年︶6月9日高知県尋常中学校に戻り、1888年︵明治21年︶1月9日から3月21日まで高知県尋常師範学校に兼務した[4]。熊本・鹿児島・岐阜[編集]
1888年︵明治21年︶12月1日高知尋常中学校を退職し、12月19日熊本市第五高等中学校教授に就任し、英語・博物学・数学を教えた[2]。 1891年︵明治24年︶1月23日病気のため第五高等中学校を退職し、9月鹿児島県高等中学校造士館外国語科主任を務めた[2]。 1892年︵明治25年︶8月岐阜尋常中学校に戻り、1893年︵明治26年︶3月1日岐阜市今泉に開校した私立中学師範補充学校で監督を務めた[2]。1894年︵明治27年︶4月岐阜県尋常中学校大垣分校開校に伴い初代校長を務めた[2]。東京[編集]
1895年︵明治28年︶9月大垣分校長を辞職し[2]、上京して小石川区竹早町に住み、日本中学校に勤務した[1]。1898年︵明治31年︶9月尋常中学郁文館第2代教頭候補に推されるも実現せず、同年日本中学校教頭に就任した[2]。 1902年︵明治35年︶同文書院教頭となったが、12月22日教科書疑獄事件に際し収賄幇助の容疑で拘引された[2]。1903年︵明治36年︶4月4日証拠不十分により免訴となり、1904年︵明治37年︶9月郁文館中学校英語教師に就任した[2]。 1904年︵明治37年︶日本中学校内に私立東京英語学校を再興し、井上十吉、武信由太郎、斎藤祥三郎、佐久間信恭等を招聘したが、1年6ヶ月で閉校した[2]。1921年︵大正10年︶2月23日郁文館第3代教頭となった[2]。 晩年小石川区久堅町の自宅にも塾を開き、第一高等学校の受験指導を行った[1]。 1927年︵昭和2年︶1月風邪を拗らせて急性肺炎を患い、1月24日早暁死去した[1]。戒名は篤学院育英日志居士[1]。墓所は多磨霊園4区甲種6側7番[1]。著書[編集]
●﹃ブラウン英文典 詳文解法独案内﹄ ●﹃英和対訳大辞彙﹄ ●ウィルソン・マーシアス原著﹃プライマー独案内﹄ ●﹃訂正増補英和対訳大辞彙﹄ ●西村貞共編 Kambe’s English Readers. ●﹃ほととぎす﹄ - 父元幸への鎮魂歌集。 ●川田正澂共編 Nesfield’s Idiom and Grammar – Abridged and Adapted for Japanese Students. ●井上十吉・斎藤祥三郎共著﹃英語作文﹄ ●﹃英語中学卒業生之友 巻の壱﹄ ●Japanese Views and Reviews.︵﹃今昔日本人の視点﹄︶ – ﹃週刊 ザ・ファー・イースト﹄に連載。 ●﹃問題詳解 英文和訳ノート﹄ ●﹃問題詳解 英文法ノート﹄ ●阿部新作共編﹃大正三年度諸官立学校入学試験問題詳解﹄教え子[編集]
●浜口雄幸︵高知時代︶[1] - 浜口家への入家を取りなした[2]。 ●小橋一太︵熊本時代︶ [1]。 ●斎藤博[要曖昧さ回避]︵熊本時代︶[1]。 ●大町桂月︵熊本時代︶[1] ●加藤高明 ︵日本中学時代︶[1]栄典[編集]
●1891年︵明治24年︶12月 従七位[1]人物[編集]
若い頃は素行が悪く、高知の料亭の抱芸妓と心中を試みたことがあった[1]。 難解な土佐弁を話し、語尾に﹁じゃろう﹂を付けるのが口癖だった。日本中学での同僚田部重治は﹁前田と話す時は日本語よりも英語の方がよくわかった﹂と回想している[1]。 英文学はシェークスピアよりジョン・ミルトンを重んじ、ウォルター・スコットの﹃湖上の美人﹄を称賛した[1]。休日には将棋、釣りを楽しみ、葉巻を嗜んだ[1]。前田家[編集]
先祖[編集]
(一)利国 – 山城国出身。応仁の乱勃発後、土佐国幡多荘に逃れた[2]。 (二)平兵衛利益 – 長宗我部元親に仕え、讃岐国引田の戦いで仙石勘解由を討ち取った[2]。 (三)源十郎利春 – 信親に仕え、豊後国戸次川の戦いで討死[2]。 (四)彦九郎︵次郎右衛門︶家勝 – 利春弟。元親に仕え、朝鮮出兵、小田原の役に参戦し、長宗我部氏改易後、潜伏した[2]。 (五)元庵 – 医業を営んだ[2]。 (六)七右衛門利宗 – 土佐藩家老野々村迅清に仕官[2]。 (七)素平次宗貞 – 家老深尾内匠に仕官[2]。 (八)宗右衛門利寿 – 白札格[2]。 (九)平兵衛元実[2] (十)楠次郎及 – 上士格留守居組[2]。 (11)元幸 – 致道館槍術師範役[2]。 家勝の墓は高知市布師田西谷、利寿から元幸までの墓は高知市東秦泉寺にある[2]。親族[編集]
●父‥元幸 ●母‥久[1] ●妹‥安井とき[1] ●弟‥運吉 – 投機に手を出し、家財を散財させた[1]。 ●妻‥京 – 大垣魚屋町[2]の商家出身[1]。 ●長男‥元 – 1888年︵明治21年︶8月24日生[2]。日本電気に勤務[1]。 ●孫‥汪 – 元長男[2]。 ●孫‥昭 – 元次男[2]。 ●孫‥博 – 元三男。英語通訳[1]。 ●孫‥収[2] ●曽孫‥ブライアン・マエダ[2] ●次男‥直 – 1896年︵明治29年︶1月16日生[2]。ハルビン駐在海軍武官。戦後8年間ソ連に抑留され、ウラジミール中央収容所に収容された[1][5]。 ●三男‥幸久 – 1899年︵明治32年︶6月28日生[2]。福井県立鯖江高等学校長[1]。 ●孫‥敢 – 幸久長男[2]。 ●孫‥葵 – 幸久次男[2]。 ●娘‥鈴木静子[1] – 1907年︵明治40年︶9月生[2]。脚注[編集]
参考文献[編集]
- 坂口久子「前田元敏」『学苑』第13巻第7号、昭和女子大学光葉会、1951年8月。
- 村端五郎「あとがき」『今昔日本人の視点』高知大学人文学部、2008年3月31日。
- 村端五郎「前田元敏と『英和對譯大辭彙』」『国際社会文化研究』第9号、高知大学人文学部国際社会コミュニケーション学科、2008年12月25日。
- 「高知県尋常中学校教諭前田元敏第五高等中学校教諭ニ転任ノ件」 – 国立公文書館デジタルアーカイブ