岡田国太郎
岡田 国太郎 | |
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生誕 |
1861年1月29日 日本 近江国野洲郡守山村 |
死没 |
1945年3月11日(84歳) 滋賀県守山市 |
出身校 | 東京帝国大学医学部 |
職業 | 陸軍軍人(軍医官)、医師、細菌学者 |
配偶者 | 岡田由己 |
子供 | 阿都麻、岡田驤、築江、久江、岡田弟左、淑江 |
親 | 岡田逸治郎、たみ |
岡田 国太郎︵おかだ くにたろう、1861年1月29日︵万延元年12月19日︶ - 1945年︵昭和20年︶3月2日︶は、日本の陸軍軍人︵軍医官︶、医師、細菌学者。医学博士︵滋賀県出身者として初の医学博士︵博士登録番号42番︶[1]︶。
東京帝国大学卒業記念 前列左伊東重・3人目鈴木愛之助・右三輪徳寛、 中列右2人目国太郎・3人目神吉翕次郎、後列左佐藤恒久・右2人目高畑挺蔵
国太郎の母たみの実家である木村家は滋賀県栗太郡辻村を本貫地とする鋳物師であるが、拠点は三河岡崎にあり、日本人で唯一のダーウィン・メダルを受賞した木村資生、弟で分子科学研究所名誉教授を務めた木村克美、木村家より鈴木家の養子となり日本の二輪車立ち上げのパイオニアと呼ばれる鈴木俊三は縁戚に当たる。
守山市大光寺境内の国太郎建立︵1944年︶石碑
守山帰郷と再上京
1906年︵明治39年︶8月21日、父の病気を理由に陸軍軍医学校教官を休職する[19]。その後、予備役に編入されると郷里守山に戻り、父を看病しつつ医院を開業、後に弟の吉相も加わり、守山で地域医療に従事する。1909年︵明治42年︶8月14日に発生した姉川地震に際し負傷者救助等の被災者支援に従事していたところ、同年10月4日父逸治郎が永眠する。
その後、先輩・友人より再三上京を促され1914年︵大正3年︶東京に戻り、同年3月神田表神保町の延壽堂病院の委嘱を請け内科部長として、1923年︵大正12年︶9月1日の関東大震災により病院が焼失するまで民間医療に従事。以降は、東京と郷里守山を往復する悠々自適の生活を送り、1944年︵昭和19年︶3月守山に帰り翌1945年︵昭和20年︶3月2日に死去︵一部資料は11日と記すが、岡田家過去帳に従う︶。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
1861年1月29日︵万延元年12月19日︶、近江国野洲郡守山村吉身︵現・滋賀県守山市吉身︶で誕生。父は滋賀県議会議長や衆議院議員を務めた岡田逸治郎、母は逸治郎の最初の妻・たみ。八男七女の次男として誕生したが、長男が夭折したことにより跡取りとして育てられる。 1877年︵明治10年︶、京都欧学校︵後の京都府立一中︵現京都府立洛北高等学校・附属中学校︶︶に入学し、ドイツ語を学んだ。 1878年︵明治11年︶、東京外語学校に入学。 1879年︵明治12年︶、東京大学医学部予科に入学。同年11月30日、大津町の吉田次右栄門の四女﹁由己﹂と結婚する。1887年︵明治20年︶7月9日、﹁東京帝国大学医科大学﹂となった年に卒業した[2]。軍医時代[編集]
東京帝国大学医科大学を卒業する直前、1887年︵明治20年︶6月4日、陸軍三等軍医︵少尉相当︶に任官して陸軍省医務局に出仕。同年8月18日東京鎮台陸軍病院治療課副医官に転じ[3]、同年11月15日陸軍戸山学校附を命じられる[4]。1889年︵明治22年︶6月24日福岡衛戍病院附となり[5]、同11月10日陸軍二等軍医︵中尉相当︶に進級。 ドイツ留学期 1890年︵明治23年︶2月24日付にて福岡衛戍病院附を免じられ[5]、翌25日ドイツへの留学を命じられる[6]。ドイツでは、大学の先輩で寮生活を共にした北里柴三郎の世話によりロベルト・コッホ︵Heinrich Hermann Robert Koch、1843年-1910年︶に師事し、細菌学・伝染病を研究した。また、ベルリンでは京都欧学校時代の恩師ゼッケンドロフに公私ともに世話になる、同時期に留学した後藤新平とよく行動を共にした。1892年︵明治25年︶12月4日、陸軍一等軍医︵大尉相当︶に進級。 日本帰国後 1893年︵明治26年︶6月8日、日本に帰国[7]。同6月9日付にて陸軍軍医学校教官[8] および森林太郎︵森鷗外︶校長の副官を命じられる。また、同年11月、岡田は小池正直・森林太郎・菊池常三郎・平山増之助と共に陸軍病院建築法審査委員に任じられた[9]。 1895年︵明治28年︶1月11日、清国派遣軍内の伝染病調査のため清国に派遣される。1896年︵明治29年︶、﹁衛生学科教科書︵陸軍軍医学校︶﹂作成に森校長の副官として携わる。1897年︵明治30年︶10月11日、陸軍三等軍医正︵少佐相当︶に進級。また、陸軍軍医学校副官の任を解かれ同校教官となり、併せて陸軍衛生会議議員兼広島軍用水道敷設部事務官を命じられる。1899年︵明治32年︶、当時軍医監であった小池正直が3月に授与されたのに続き、7月24日学位︵医学博士︶を授けられた[10][11]。 1901年︵明治34年︶11月3日、陸軍二等軍医正︵中佐相当︶に進級し、同年12月8日台湾守備混成第二旅団司令部附兼台中衛戍病院病院長に転じる[12]。1904年︵明治37年︶4月2日、軍医学校教官を命じられる[13]。同年7月25日陸軍一等軍医正︵大佐相当︶に進級。以降、清国に派遣の後陸軍予備病院御用掛を命じられ、その後軍医学校教官に復す。 1904年︵明治37年︶12月、広島予備病院御用掛を命じられ、広島予備病院第四分院伝染病患者病理試験および細菌検査主任に就任[14]。直後より軍医小久保恵作が院長を勤める同第三分院に戦地帰還脚気患者を収容し脚気精密検査を開始した[15]。 1905年7月、広島予備病院内に脚気病調査委員会が設けられ、岡田が委員長に、小久保恵作三等軍医正・片山誠治二等軍医・日本赤十字社下方正信が委員に任命された。10月脚気調査のため奉天に派遣される。 岡田が軍医学校へ異動後軍医小久保恵作との連名で﹃脚気病調査第一回略報﹄︵東京医事新誌1428︶にて脚気の病原菌発見が発表された。同年12月軍医都築甚之助も脚気病原菌発見を発表し、岡田・小久保両軍医が発見した菌と比較したところ、三名が発見したとする菌全てが別物であることが判明。岡田および都築は脚気病原菌発見を自己否定するに至った[16][17][18]︵国内では、引き続き脚気伝染病説と中毒説の勢いが強く、脚気の原因をめぐる混乱と葛藤は1920年代の﹁ビタミン欠乏﹂説の確定まで続いた。日本の脚気史参照︶。離現役、民間医師としての後半生[編集]
栄典[編集]
位階 ●1902年︵明治35年︶2月20日 - 正六位[20] 勲章等 ●1895年︵明治28年︶ ●10月31日 - 功五級金鵄勲章・勲六等瑞宝章[21] ●11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[22]事蹟[編集]
主な事蹟[編集]
台湾でペスト菌を確認 1896年︵明治29年︶、岡田は台湾の台南部隊附軍医の依頼により安平港に寄港したジャンク船病死者の調査を行った。その前々年の1894年︵明治27年︶に北里柴三郎およびフランス人細菌学者アレクサンドル・エルサンが相次いでペスト病原菌発見を発表していた。岡田は検査の結果、この内エルザンが発見した菌︵通称・エルザン菌︶を検出した旨、10月12日東京医学会に発表した[23]。日本領土内でのペスト菌確認はこれが最初であり、この確認を契機に台湾での防疫体制が整えられていった[24]。 陸軍衛生事蹟編纂 1896年︵明治29年︶12月16日、日清戦争における戦時の衛生・医療行為をまとめた﹁明治二十七八年役陸軍衛生事蹟﹂の編纂を委員として行う︵1901年︵明治34年︶12月17日解任︶[25]。 陸軍薬局方︵第二版︶編纂 1897年︵明治30年︶10月8日、﹁陸軍薬局方︵第二版︶﹂の編纂を委員として行う︵1898年(明治31年)5月30日復命をもって修了︶[26]。著作[編集]
●﹁細菌学﹂︵1884年︶同改定版︵1886年、1891年︶ 岡田国太郎著 金原医籍出版 ●﹁細菌学診断﹂︵1884年︶ アイゼンベルグ著 岡田国太郎監修 都築宗正出版 ●﹁免疫及血清療法編‥病原幺体学﹂︵1886年︶ 岡田国太郎著 英蘭堂出版 ●﹁原生動物編‥病原幺体学﹂︵1888年︶ 岡田国太郎著 英蘭堂出版 ●﹁神戸に於ける﹁ペスト﹂病毒の侵入経路に就て﹂ 岡田国太郎 雑誌太陽6巻1号エピソード[編集]
岡田国太郎と北里柴三郎その他[編集]
家族[編集]
●妻‥由己︵1863年-1956年︶滋賀県大津、吉田次右栄門四女 ●長男‥岡田驤︵1885年―1953年︶福岡医科大学卒、旧制福岡高校︵現九州大学︶教授。 ●次男‥岡田弟左︵1899年―1975年︶日本興業銀行より日本軽金属・三島製紙監査役。長男孝男は順天堂大学名誉教授。次男悌次は著作活動等を通じ広島での被爆体験を伝える。 ●父‥岡田逸治郎︵1839年-1909年︶明治維新後滋賀県県会議長・衆議院議員を務める。 ●母‥岡田たみ︵1857年-1864年︶滋賀県栗太郡辻村木村重左衛門五女。 ●弟‥中野善次郎︵1866年-1944年︶逸治郎三男。草津中野家の養子となる。滋賀県議会議員・草津町長を務める。 ●弟‥岡田吉相︵1883年-1952年︶逸治郎五男。医師︵京都東松原にて開業︶。長男博は名古屋大学医学部名誉教授・愛知医科大学学長を歴任。 ●弟‥岡田信︵1885年-1946年︶逸治郎六男。大蔵省官僚、銀行家。東洋拓殖理事、台湾総督府財務局長、北海道拓殖銀行頭取、満州興業銀行頭取などを歴任。 ●弟‥岡田満︵1886年-1962年︶逸治郎七男。歯科医師、慶應義塾大学医学部歯学科教授。 ●弟‥岡田渡︵1892年-1970年︶脚注[編集]
(一)^ ﹁学位大系博士氏名録 昭和7年版﹂︵発展社出版部︶
(二)^ ﹃官報﹄第1209号、帝国大学文科大学卒業証書授与。
(三)^ ﹃官報﹄第1243号、叙任及び辞令。
(四)^ ﹃官報﹄第1316号、叙任及び辞令。
(五)^ ab﹃官報﹄第1795号、叙任及び辞令。
(六)^ ﹃官報﹄第2000号、辞令。
(七)^ ﹁日本科学技術史大系 第24巻 医学<1>﹂、﹁医学関係海外渡航者一覧︵1868-97年︶222-226頁﹂
(八)^ ﹃官報﹄第2983号、叙任及び辞令。
(九)^ ﹁軍医としての鴎外﹂50頁︵山田弘倫著 医海時報社 昭和9年︶
(十)^ ﹃官報﹄第4819号、学位授与。
(11)^ ﹁大日本博士録 大正11年9月1日﹂32-33頁 博士番号第42
(12)^ ﹃官報﹄第5539号、叙任及び辞令。
(13)^ ﹃官報﹄第6233号、叙任及び辞令。
(14)^ ﹁広島衛生医事月報︵73︶﹂1905年1月
(15)^ ﹁広島衛生医事月報︵75︶﹂1905年3月
(16)^ ﹁中外医事新報 第609号﹂脚気病調査第一報 ︵日本医史学会︶
(17)^ ﹁軍医学会雑誌 第144号﹂︵陸軍軍医学会︶
(18)^ ﹁高木兼寛の医学-東京慈恵会医科大学の源流﹂︵松田誠著 東京慈恵会医科大学出版 1986年︶
(19)^ ﹃官報﹄第6945号、叙任及び辞令。
(20)^ ﹃官報﹄第5587号﹁叙任及辞令﹂1902年2月21日。
(21)^ ﹃官報﹄第3704号﹁叙任及辞令﹂1895年11月1日。
(22)^ ﹃官報﹄第3862号・付録﹁辞令﹂1896年5月16日。
(23)^ ﹁濟生学舎医事新報 第48号﹂ペスト病原菌の研究 岡田國太郎
(24)^ ㄧ代醫人杜聰明醫師的介紹討論 http://www.knu.edu.tw/lfy/session02/files/981217-%E6%9D%9C%E8%81%B0%E6%98%8E.pdf#searc
(25)^ ﹁明治二十七八年役陸軍衛生事蹟﹂戦時衛生事蹟編纂の沿革︵陸軍衛生事蹟編纂委員会編、陸軍衛生事蹟編纂委員会 明治35年3月︶
(26)^ ﹁陸軍薬局方 第二版﹂︵陸軍省 明治40年5月︶
(27)^ ﹁北里柴三郎傳﹂41-42頁︵北里研究所 昭和7年︶
(28)^ ﹁後藤新平 第1巻﹂441頁︵鶴見祐輔著 後藤新平伯伝記編纂会 昭和12年︶
(29)^ ﹁北里柴三郎傳﹂︵北里研究所 昭和7年︶
(30)^ ペスト病ノ原因調査第一報告︵北里柴三郎著伝染病研究所1894年︶
(31)^ ﹁済生学舎医事新報(52)1987年4月 東京医学会第十総会見聞録﹂︵済生学舎医事新報社︶
(32)^ ﹁ペスト病論﹂完 山極勝三郎著 東京帝国大学医学部 明治32年︵1899年︶12月︶http://museum.umic.jp/yamagiwa/works03.html
(33)^ ﹁鴎外の医学方面での活躍 ペスト菌発見﹂http://www.mars.dti.ne.jp/~akaki/igaku03.html
(34)^ ﹁後藤新平 第1巻﹂第三章衛生局時代 第四節留学︵鶴見祐輔著 後藤新平伯伝記編纂会 1937年︶
(35)^ ab﹁北里柴三郎 熱と誠があれば﹂p.98 ︵福田眞人著 ミネルヴァ書房 2008年︶
(36)^ ﹇守山市史‥生活・民俗編 2006.03.31より﹈
(37)^ ケーベル会会報 第10号 1997.10.20
参考文献[編集]
- 『現代滋賀県人物史 乾、坤巻』布施善次郎編、暲竜社、1919年。
- 学校法人北里研究所「抗体の発見と血清療法の確立」 http://www.kitasato.ac.jp/kinen-shitsu/birth150/birth150_8f.html