徳川篤守
徳川 篤守︵とくがわ あつもり、1856年11月11日︵安政3年10月14日︶ - 1924年︵大正13年︶10月19日︶は、御三卿清水徳川家の第7代当主。伯爵。初名は松平常三郎。のち、廣光と改名。夫人は小笠原忠幹の娘・登代子。
来歴[編集]
水戸藩主徳川慶篤の次男として水戸藩上屋敷︵小石川︶に誕生する。兄に水戸徳川家を継いだ篤敬がいる。生後に水戸へ遷され、藩校弘道館で教育を受ける。1870年︵明治3年︶2月24日、叔父の昭武が水戸家を継いで以来当主不在であった清水徳川家を相続し、従五位に叙任して家禄2500石を賜る。なお﹁海舟日記﹂によれば、同年1月頃の勝海舟らによる清水家の相続に関する話し合いでは、篤守の他に津山松平家の松平斉民・康民親子が候補者として挙がっていた。 1870年11月10日、次侍従に就任して明治天皇に近侍する。1871年1月19日、姓を清水に改める。同年2月25日、次侍従を辞職してイギリス留学を認められるが、同年5月にアメリカへ留学し、コロンビア大学法科にて法律の専門課程を学ぶ。なお、同期に鳩山和夫や江木高遠、神鞭知常、相馬永胤、目賀田種太郎らがいる。 1877年7月12日、帰国する。同年、再び徳川姓に復する。屋敷を元下屋敷であった東京西早稲田︵現在の甘泉園︶に構える。1879年2月、外務省御用掛となって北京公使館に勤める。1880年7月、帰国する。同年12月、御用掛を辞職する。1884年7月7日、華族令により伯爵を授けられる。1889年7月、貴族院設置を視野に入れて結成された伯爵会において、松浦詮らとともに幹事に就任する。 1892年8月、家政の経済的な行き詰まりのために融資を受けることになるものの、訴訟事件に発展する。翌年に敗訴し、数万円にも及ぶ負債を抱え込むものの、徳川一族の支援で負債を整理した。しかし1898年、再び経済的に行き詰まり、債権者に訴えられる。もはや徳川一族も経済的な支援をすることはなかったという。一連の出来事は新聞でも報じられたため、1899年1月26日、華族としての礼遇を停止される。 同年4月20日、華族の体面を維持できないとして、爵位を返上する[1]。その後、1902年まで控訴をするなどして争うものの、最終的に禁固刑となる。 1924年、死去する。享年69。栄典[編集]
●明治3年2月 - 従五位[2] ●1884年︵明治17年︶7月7日 - 伯爵[3]子女[編集]
●長女 芳子︵1882年 - 1962年︶ - 子爵朽木綱貞夫人。 ●長男 好敏︵1884年 - 1963年︶ - 家督を継ぐ。1928年、陸軍航空兵分野確立の功労により、新たに男爵を授けられる。 ●次女 貞子︵1885年 - 1952年︶ - 侯爵蜂須賀茂韶[4]養女、吉井子爵家︵旧鷹司松平家︶分家・吉井信照夫人。 ●三女 保子︵1888年 - 1959年︶ - 牧師森明︵森有礼三男︶夫人。哲学者の森有正は明と保子の子である。 ●次男 守︵1890年 - 1961年︶ ●三男 川上明︵1891年 - 1949年︶ ●四女 鈴子︵1891年 - 1976年︶ - 牧師小原十三司夫人。 ●四男 光︵1892年 - 1960年︶ ●五女 重子︵1893年 - ?︶ ●五男 山田雄︵1895年 - 1949年︶この節の加筆が望まれています。 |
脚注[編集]
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
伯爵 (清水)徳川家初代 1884年 - 1899年 |
次代 (爵位返上) |