仁賢天皇
仁賢天皇 | |
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『御歴代百廿一天皇御尊影』より「仁賢天皇」 | |
在位期間 | |
時代 | 伝承の時代(古墳時代) |
先代 | 顕宗天皇 |
次代 | 武烈天皇 |
崩御 | 広高宮 |
陵所 | 埴生坂本陵 |
漢風諡号 | 仁賢天皇 |
諱 |
大脚 大為 億計 |
別称 |
億計天皇 大石尊 意祁命 意富祁王 |
父親 | 市辺押磐皇子(履中天皇皇子) |
母親 | 荑媛 |
皇后 | 春日大娘皇女(雄略天皇皇女) |
子女 |
高橋大娘皇女 朝嬬皇女 手白香皇女(継体天皇后) 樟氷皇女 橘仲皇女(宣化天皇后) 武烈天皇 真稚皇女 春日山田皇女(安閑天皇后) |
皇居 | 石上広高宮 |
仁賢天皇︵にんけんてんのう、允恭天皇38年 - 仁賢天皇11年8月8日︶は、日本の第24代天皇︵在位‥仁賢天皇元年1月5日 - 同11年8月8日︶。﹃日本書紀﹄での名は億計天皇。諱は大脚あるいは大為。
略歴[編集]
去来穂別天皇︵履中天皇︶の長子である市辺押磐皇子の第二子。母は葛城蟻臣︵ありのおみ︶の女の荑媛︵はえひめ︶。同母姉に飯豊女王、同母弟に弘計天皇︵顕宗天皇︶がいる。安康天皇が暗殺されたあとの後継者争いで父が大泊瀬天皇︵雄略天皇︶に殺されたため、弟と共に身を隠す。 大泊瀬天皇が在位23年で崩御して子の白髪天皇︵清寧天皇︶が即位した際、弟と共に命がけで皇族であることを現して無事に皇子と認められ太子になった。白髪天皇が在位5年で崩御した際、弟の弘計皇子に皇位を譲って太子のままでいた。弘計天皇が即位3年で崩御すると即位。皇子の小泊瀬稚鷦鷯尊を皇太子に定め、11年8月に崩御。名[編集]
●億計天皇︵おけのすめらみこと︶ - ﹃日本書紀﹄、和風諡号 ●大脚︵おおし︶ - ﹃日本書紀﹄、諱 ●大為︵おおす︶ - ﹃日本書紀﹄、諱 ●嶋郎︵しまのいらつこ︶ - ﹃日本書紀﹄、字 ●大石尊︵おおしのみこと︶ - ﹃日本書紀﹄、顕宗紀 ●嶋稚子︵しまのわくご︶ - ﹃日本書紀﹄、顕宗紀 ●意富祁王︵おおけのみこ︶ - ﹃古事記﹄ 漢風諡号である﹁仁賢天皇﹂は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。事績[編集]
安康天皇3年、天皇が暗殺された後に父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子︵後の雄略天皇︶に殺されると、弟の弘計王︵後の顕宗天皇︶と共に逃亡して身を隠した。まず丹波国与謝郡︵丹後半島東半︶に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変えて丹波小子︵たにわのわらわ︶と称した。縮見屯倉首︵しじみのみやけのおびと︶に雇われて牛馬の飼育に携わっていたが、清寧天皇2年に、弟王が宴の席で王族の身分を明かした。清寧天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わし、翌年に2王を宮中に迎え入れ、皇子と認めた。4月に億計皇子が33歳にして立太子され、皇太子となった。 同5年に清寧天皇が崩じたときに皇位︵王位︶を弟王と譲り合い、その間は飯豊青皇女が執政した。﹃古事記﹄では、2王が身分を明かして宮中に戻ったのは清寧天皇の崩御後、飯豊王の執政中のことであるとする。翌年、弟王が即位︵顕宗天皇︶したが[1]、わずか在位3年︵﹃古事記﹄では8年︶で崩御した。 これを受けて、億計王が仁賢天皇元年1月に即位した。3年2月に石上部︵いそのかみべ︶舎人を、5年に佐伯造︵さえきのみやつこ︶を置いた。また、6年9月に高麗︵こま︶へ日鷹吉士︵ひたかのきし︶を遣わし、皮の工匠などの手工業者を招いたという。仁賢天皇の時代は国中が良く治まり、人民から﹁天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている﹂と評された。 7年1月には皇子の小泊瀬稚鷦鷯尊を皇太子に定め、11年8月に崩御。﹃水鏡﹄に50歳、﹃帝王編年記﹄には51歳とある。 皇后は雄略天皇の皇女である春日大娘皇女であるが、父を殺した雄略天皇の皇女を皇后とした理由として、仁賢天皇自身が傍系の出身であるため、直系の皇女を皇后に迎え入れ正統性を強めたと考えられている。これは娘の手白香皇女も、傍系出身の継体天皇の皇后となったことで繰り返されている。系譜[編集]
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| 10 崇神天皇 |
| 彦坐王 |
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豊城入彦命 |
| 11 垂仁天皇 |
| 丹波道主命 |
| 山代之大筒木真若王 |
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〔上毛野氏〕 〔下毛野氏〕 |
| 12 景行天皇 |
| 倭姫命 |
| 迦邇米雷王 |
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| 日本武尊 |
| 13 成務天皇 |
| 息長宿禰王 |
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| 14 仲哀天皇 |
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| 神功皇后 (仲哀天皇后) |
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| 15 応神天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 16 仁徳天皇 |
| 菟道稚郎子 |
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| 稚野毛二派皇子 |
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| 17 履中天皇 |
| 18 反正天皇 |
| 19 允恭天皇 |
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| 意富富杼王 |
| 忍坂大中姫 (允恭天皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 市辺押磐皇子 |
| 木梨軽皇子 |
| 20 安康天皇 |
| 21 雄略天皇 |
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| 乎非王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 飯豊青皇女 |
| 24 仁賢天皇 |
| 23 顕宗天皇 |
| 22 清寧天皇 |
| 春日大娘皇女 (仁賢天皇后) |
| 彦主人王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 手白香皇女 (継体天皇后) |
| 25 武烈天皇 |
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| 26 継体天皇 |
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履中天皇の孫で、市辺押磐皇子︵いちのへのおしはのみこ︶の子。母は荑媛︵はえひめ、葛城蟻臣の女︶。顕宗天皇の同母兄︵ただし、﹃播磨国風土記﹄は母を手白髪命とする︶。
后妃・皇子女[編集]
●皇后‥春日大娘皇女︵かすがのおおいらつめのひめみこ︶ - 雄略天皇皇女 ●高橋大娘皇女︵たかはしのおおいらつめのひめみこ︶ - ﹃古事記﹄の高木郎女か。 ●朝嬬皇女︵あさづまのひめみこ︶ - ﹃古事記﹄の財郎女か。 ●手白香皇女︵たしらかのひめみこ︶ - 継体天皇皇后、欽明天皇母 ●樟氷皇女︵くすひのひめみこ︶ ●橘仲皇女︵たちばなのなかつひめみこ、橘皇女︶ - 宣化天皇皇后、石姫皇女母 ●小泊瀬稚鷦鷯尊︵おばつせわかさざきのみこと、武烈天皇︶ ●真稚皇女︵まわかのひめみこ︶ - ﹃古事記﹄は真若王で男性とする。 ●妃‥糠君娘︵ぬかきみのいらつめ︶ - 和珥臣日爪女 ●春日山田皇女︵かすがのやまだのひめみこ︶ - 安閑天皇の皇后皇居[編集]
都は石上広高宮︵いそのかみのひろたかのみや。奈良県天理市石上町、あるいは同市嘉幡町か︶。陵・霊廟[編集]
陵︵みささぎ︶の名は埴生坂本陵︵はにゅうのさかもとのみささぎ︶。宮内庁により大阪府藤井寺市青山3丁目にある﹁ボケ山古墳︵野中ボケ山古墳︶﹂に治定されている。墳丘長122メートルの前方後円墳である。宮内庁上の形式は前方後円。
仁賢天皇11年10月に奉葬された。元禄探陵において所在不明とされたが、河内の学僧覚峰は現陵に擬定し、ボケ山の﹁ボケ﹂を﹁オケ︵億計︶﹂の誤りと考証した。この成果に基づき、幕末に現陵に治定して修補を加えた。中軸線は市辺の推定地の方向に向いている。北西に陪冢1基がある。
皇居では、皇霊殿︵宮中三殿の1つ︶において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。また、神戸市西区押部谷町木津には、仁賢・顕宗両帝を祭神とする顕宗仁賢神社がある。この神社の他にも西区内や明石市や三木市には所縁を称する神社が数多くある。
考証[編集]
億計︵仁賢天皇︶・弘計︵顕宗天皇︶2王の発見譚は典型的な貴種流離譚であるため、津田左右吉はその史実性を疑い、実在しない架空の人物であるとした。 その一方で仁賢に関しては実在が確実視される継体天皇やその皇子である安閑天皇、宣化天皇がいずれも仁賢の皇女たちを皇后に迎えており、6世紀以降の王統と極めて繋がりが深い事から、血統の繋がらない顕宗天皇や露悪的な記述の著しい武烈天皇よりは実在の人物である可能性が高いと考える研究者もいる。 また、隅田八幡神社人物画像鏡の銘文に見える日十大王の名がヲシ大王、続けて言及される男弟王がヲホド王と読める事から、前者を仁賢天皇の諱である大石命または大脚命に比定し、後者を継体天皇に比定する説がある。在位年と西暦との対照[編集]
当天皇の在位について、実態は明らかでない。﹃日本書紀﹄に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については﹁上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧﹂を参照。脚注[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 埴生坂本陵 - 宮内庁