早稲田小劇場
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早稲田小劇場︵わせだしょうげきじょう︶とは、早稲田大学の学生演劇から生まれた、小劇場運動第1世代の象徴とも言える劇団・劇場の名称である。﹁早稲小﹂︵わせしょう︶などと略して呼ばれることも多い。
概要[編集]
演出家の鈴木忠志は、早稲田大学在学中に脱新劇を目指し、1961年に﹁新劇団自由舞台﹂を創立。これは早大の学生劇団﹁自由舞台﹂から独立するかたちで創立されたものである。大学卒業後、1966年﹁新劇団自由舞台﹂を発展解消し、新たに﹁劇団早稲田小劇場﹂を結成した[1]。同劇団には、劇作家の別役実、俳優の小野碩らが在籍し、小劇場運動の旗手としての役割を果たした[1]。1976年、活動の拠点を富山県利賀村︵現南砺市︶に移し[2]、﹁SCOT︵Suzuki Company of Toga︶﹂と改称した[1]。劇場[編集]
﹁早稲田小劇場﹂は劇団の名称であるとともに、鈴木が運営していた劇場の名称でもある。当時、劇団員たちのたまり場であった早稲田大学近くの喫茶店﹁モンシェリ﹂の主人の好意で、工事費の実費を出せば、店の2階に稽古場を兼ねた小劇場を造ってもらえることとなった。1966年5月、別役作、鈴木演出による旗揚げ公演﹃門﹄を経たのち、劇団員たちは各自アルバイトにて工事費を捻出。そして同年11月に早稲田小劇場アトリエは完成した[3]。 1976年以降、劇団としての早稲田小劇場が富山県に移転したため、劇場は﹁早稲田銅鑼魔館﹂の名で民間の貸劇場として運営される[2]。1978年には鉄筋コンクリート5階建てのビルが新築されたが、1995年には経営難から活動停止状態に陥る。1997年、館の運営は早稲田大学に引き継がれ、﹁早稲田芸術文化プラザどらま館﹂と改名[1][2]。学生に演劇発表の場として提供されていたが、2012年に耐震強度不足のため閉館[1]、同年取り壊された[2]。 2013年、早大学生が大学への提言を行うプレゼンテーション大会﹁Waseda Vision150 Student Competition﹂第1回大会にて、早大演劇サークル有志による﹁チーム・シアター早稲田﹂が決勝に残った。決勝での学生らの﹁どらま館に変わる新たな劇場の建設を!﹂という提言を受け、早稲田小劇場は再度開設されることになった[4][5]。 2015年3月、﹁早稲田小劇場﹂の名称を冠した﹁早稲田小劇場どらま館﹂として再建された[1][2]。こけら落とし公演として平田オリザによるアンドロイド版﹃変身﹄が、またプレ公演としてジエン社﹃30光年先のガールズエンド﹄、第七劇場﹃オイディプス﹄、ろりえ﹃さようなら、どらま館﹄が上演された[6]。主な出身者[編集]
脚注[編集]
- ^ a b c d e f “どらま館の歴史”. 早稲田小劇場どらま館. 2021年12月2日閲覧。
- ^ a b c d e “盛り上がれ!早稲田演劇 2015年3月竣工 早稲田小劇場どらま館竣工に向けて…”. 早稲田ウィークリー. 2021年12月2日閲覧。
- ^ 扇田昭彦(1995)『日本の現代演劇』岩波書店
- ^ 劇場施設「早稲田小劇場どらま館」、2015年4月に開設 「演劇の早稲田」をより一層盛り上げる街の新しいシンボルに 2014年4月
- ^ 劇場施設「早稲田小劇場どらま館」、2015年4月に開設 「演劇の早稲田」をより一層盛り上げる街の新しいシンボルに
- ^ 早稲田小劇場どらま館 こけら落し