梅若万三郎 (初世)
初世梅若万三郎︵しょせい うめわか まんざぶろう、1869年1月3日︵明治元年11月21日︶ - 1946年︵昭和21年︶6月29日︶は、観世流能楽師。
﹁安宅﹂。最も数多く舞った得意曲であった
東京生まれ。明治の三名人といわれた初世梅若実の長男。父に師事して道統を継いだ。梅若吉之丞家を継承。弟に梅若六郎、子に梅若万三郎 (2世)、梅若猶義。
1921年︵大正10年︶いわゆる観梅問題のもつれから、六郎、観世銕之丞らとともに梅若流として独立。宗家となるが、1933年︵昭和8年︶1月観世流に復帰。1937年︵昭和12年︶宝生新と帝国芸術院創立とともに会員。1944年︵昭和19年︶朝日文化賞受賞。1946年︵昭和21年︶文化勲章受章。
その芸風は﹁目利きにも目利かずにも訴える﹂[1]﹁華麗で輪郭の大きい強靱な演技﹂[2]と評される。野上豊一郎は世阿弥の言葉を引き、﹁寿福増長の人﹂と最大限の賛辞を送った[3]。﹁明治の三名人﹂︵梅若実、櫻間伴馬、宝生九郎︶亡き後の第一人者で、宝生新とともに﹁明治、大正、昭和にかけての名人﹂[4]と目される。
人物[編集]
著書[編集]
- 『能楽随想 亀堂閑話』(積善館、1938年)
- 『万三郎芸談』(積善館、1946年)
脚注[編集]
- ^ 能謡観照
- ^ 能・狂言事典
- ^ 『亀堂閑話』「寿福増長の人・梅若万三郎氏」
- ^ 『亀堂閑話』再版時の観世銕之亟 (8世)の序