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八島 (能)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
八島
作者(年代)
世阿弥室町時代
形式
複式夢幻能
能柄<上演時の分類>
修羅能(二番目物)
現行上演流派
観世宝生金春金剛喜多
異称
屋島(観世流)
シテ<主人公>
源義経
その他おもな登場人物
旅の僧(ワキ)
季節
場所
讃岐国屋島
本説<典拠となる作品>
平家物語
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11

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宿姿姿

沿

11

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(1)()()(2)(3)姿()()

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[]



ワキ「これは都方みやこがたより出でたる僧にて候、われいまだ四国を見ず候ほどに、このたび思ひ立ち西国さいこく行脚と志し候
(中略)
ワキ「急ぎ候ふほどに、これははや讃岐の国屋島の浦に着きて候、日の暮れて候へば、これなる塩屋に立ち寄り、一夜を明かさばやと思ひ候[1]


西


[]

[2]

竿姿[1]

シテ「面白や月海上かいしょうに浮かんでは、波濤はとう夜火やかに似たり
ツレ「漁翁ぎょおうよる西岸せいがんに沿うて宿す
シテ・ツレ「暁湘水を汲んで楚竹そちくくも、いまに知られて芦火の影、ほの見えそむるものすごさよ[注釈 1][3]



西
[ 2]

僧の宿の求め[編集]

漁翁・漁夫が塩屋に戻ってきたことから、僧は、一夜の宿を貸してほしいと、漁夫を通じて願い出る。漁翁は、余りに見苦しいのでと、いったんはその求めを断る。しかし、僧が、自分は都の者で、この浦を初めて訪れたが、日が暮れたので、なにとぞ一夜の宿を貸してほしいと重ねて頼むと、漁翁はこれを承諾した。

シテ「なに旅人は都の人と申すか
ツレ「さんぞうろう
シテ「げにいたはしきおんことかな、さらばお宿を貸し申さん
(中略)
地謡〽さて慰みは浦の名の、さて慰みは浦の名の、群れ居るたずをご覧ぜよ、などか雲居くもいに帰らざらん、旅人の故郷ふるさとも、都と聞けば懐かしや、われらももとはとて、やがて涙にむせびけり、やがて涙にむせびけり[4]




宿


漁翁による物語[編集]

錏(しころ)は兜の左右・後方に垂らし首を覆う部分で、図の14番。
『源平合戦絵図』錏引きの場面(『平家物語』では平景清と美尾屋十郎)(左)、義経方の佐藤継信と平家方の菊王丸の最期(右)。


シテ「いでその頃は元暦元年三がち十八日のことなりしに、平家は海のおもて一町ばかりに船を浮かめ、源氏はこのみぎわにうち出でたまふ、大将軍のおん出立いでたちには、赤地の錦の直垂に、紫裾濃むらさきすそごのおん着背長きせながあぶみ踏ん張り鞍笠に突つ立ち上がり、一院のおん使、源氏の大将検非違使けんぴいし、五位の尉、源の義経と 〽名乗りたまひしおん骨柄こつがら、あつぱれ大将やと見えし、いまのやうに思ひ出でられて候[5]


318[ 3]姿使使[ 4]

()

ツレ〽その時平家の方よりも、言葉戦ひこと終はり、兵船ひょうせん一艘漕ぎ寄せて、波打際に下り立つて 「くがかたきを待ちかけしに
シテ「源氏の方にも続くつわもの五十騎ばかり、中にも三保みほの四郎と名乗つて、まつさきかけて見えしところに
ツレ「平家の方にも悪七兵衛景清と名乗り、三保の谷をめがけ戦ひしに
シテ「かの三保の谷はその時に、太刀打ち折つて力なく、少し汀に引き退しりぞきしに
ツレ〽景清追つかけ三保の谷が
シテ「着たる兜のしころをつかんで
ツレ〽後ろへ引けば三保の谷も
シテ〽身を逃れんと前へ引く
ツレ〽たがいにえいやと
シテ〽引く力に
地謡〽鉢付はちつけの板より引きちぎつて、左右そうへくわつとぞ退きにける、これをご覧じて判官ほうがん、お馬を汀にうち寄せたまへば、佐藤継信つぎのぶ、能登殿の矢先にかかつて、馬よりしもにどうと落つれば[注釈 5]、船には菊王も討たれければ、ともにあはれとおぼしけるか、船は沖へくがは陣に、相引きに引く潮の、あとは鬨の声絶えて、磯の波松風ばかりの、音淋しくぞなりにける[6]





退






退[ 6]殿[ 7]

漁翁の正体の暗示[編集]


姿

シテ〽春の夜の
地謡〽うしおの落つる暁ならば、修羅の時になるべし、その時は、わが名や名乗らん、たとひ名乗らずとも名乗るとも、よし常の憂き世の、夢ばし覚ましたまうなよ、夢ばし覚ましたまふなよ[7]




間狂言[編集]


退[8]

[]

[]



ワキ〽声も更け行く浦風の、声も更け行く浦風の、松が根枕そばだてて、思ひを延ぶる苔筵こけむしろ、重ねて夢を待ち居たり、重ねて夢を待ち居たり[9]



義経の登場[編集]

能面「平太」。赤平太を用いる場合が多いが、観世流の小書「弓流」では白平太を用いる[2]

()()姿



ワキ〽不思議やな、はや暁にもなるやらんと、思ふ寝覚の枕より、甲冑を帯し見えたまふは、もし判官にてましますか
シテ「われ義経が幽霊なるが、瞋恚に引かるる妄執にて、なほ西海さいかいの波に漂ひ 〽生死しょうじの海に沈淪せり[10]



西


ワキ〽昔をいまに思ひ出づる
シテ〽船とくがとの合戦かせんの道
ワキ〽所からとて
シテ〽忘れえぬ[10]

[僧]昔を今思い出す
[義経]船の陣と陸の陣との合戦の道を
[僧]この場所柄とあって
[義経]忘れることができない。

義経による物語[編集]

『源平合戦絵図』義経の弓流しの場面。


シテ「その時なにとかしたりけん、判官弓を取り落し、波に揺られて流れしに
地謡〽そのをりしもは引く潮にて、はるかに遠く流れ行くを
シテ「敵に弓を取られじと、駒を波間に泳がせて、敵船てきせん近くなりしほどに
地謡〽かたきはこれを見しよりも、船を寄せ熊手くまでに懸けて、すでにあよおく見えたまひしに
シテ「されども熊手を切り払ひ、つひに弓を取り返し、元の渚にうち上がれば
地謡〽その時兼房申すやう、口惜くちおしのおん振舞ひやな、渡辺にて景時が申ししもこれにてこそ候へ、たとひ千金を延べたるおん弓なりとも、おん命には代へたまうべきかと、涙を流し申しければ、判官これを聞こし召し、いやとよ弓を惜しむにあらず、義経源平に、弓矢を取つてわたくしなし、しかれども、佳名かめいはいまだ半ばならず、さればこの弓を敵に取られ義経は、小兵こひょうなりと言はれんは、無念の次第なるべし、よしそれゆゑに討たれんは、力なし義経が、運の極めと思ふべし、さらずは敵に渡さじとて、波に引かるる弓取りの、名は末代にあらずやと、語りたまへば兼房、さてそのほかの人までも、みな感涙を流しけり[11]







[ 8][ 9]

終曲[編集]





シテ「今日の修羅の敵はそ、なに能登守教経とや、あらものものしや手並は知りぬ 〽思ひぞ出づる壇の浦の
地謡〽その船戦ふないくさいまははや、その船戦いまははや、閻浮えんぶに帰る生死いきしにの、海山うみやま一同に震動して、船よりは鬨の声
シテ〽くがには波の楯
地謡〽月に白むは
シテ〽つるぎの光
地謡〽うしおに映るは
シテ〽兜の星の影
地謡〽水や空、空行くもまた雲の波の、撃ち合ひ刺しちごふる、船戦の駆け引き、浮き沈むとせしほどに、春の夜の波より明けて、かたきと見えしは群れ居るかもめ、鬨の声と聞こえしは、浦風なりけり高松の、浦風なりけり高松の、朝嵐とぞなりにける









[ 10][ 11]


沿[]


[12]

51464

[13]

[]


[14][13]

11[15][14]

[13][16]

脚注[編集]

注釈[編集]



(一)^  (2013: 419)

(二)^ 西宿 (1988: 330)

(三)^ 2219 (2013: 418)318I (2013: 488)

(四)^ 11 (179)

(五)^  (2013: 419)

(六)^ 11()()()34 (187)

(七)^ 11殿 (182)

(八)^ 11退退 (2013: 418) (173)

(九)^ 11使 (188)

(十)^  (2013: 419)

(11)^  (2013: 419)

出典[編集]

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 ︿1988ISBN 4-10-620379-0 

   2013ISBN 978-4-04-653872-7 

1979ISBN 4-397-50117-3 

 ︿1959ISBN 4-04-400702-0 

2012ISBN 978-4-473-03197-6 

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