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稲葉紀通

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凡例

稲葉紀通
時代 江戸時代前期
生誕 慶長8年(1603年
死没 慶安元年8月20日1648年10月6日
戒名 顕竜院殿胸雲詐晴大居士
墓所 京都市右京区花園妙心寺町の妙心寺雑華院
官位 従五位下淡路守
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠家光
伊勢田丸藩主、摂津中島藩主、丹波福知山藩
氏族 稲葉氏
父母 稲葉道通日根野盛就
兄弟 紀通船越永景継室、阿部忠秋正室
大助、松平勝則正室、稲葉通任正室
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系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 打ち首の状態であり、武士社会の贈物としては不適切で使用できない。また宮津藩側から挑発を受けた、と福知山藩側が思った可能性もある。
  2. ^ 幕府に激しく叱責された稲葉紀通は、火縄銃を乱射して抵抗したが、最後は自害したとされている。また、火縄銃を乱射して抵抗する藩主に手を焼いた家臣により、狙撃されて死亡。体面が悪いため藩は自害として届けた、とする説もある。

参考文献[編集]

関連項目[編集]