1984年2月1日国鉄ダイヤ改正
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1984年2月1日国鉄ダイヤ改正︵1984ねん2がつ1にちこくてつダイヤかいせい︶では、日本国有鉄道︵国鉄︶が1984年︵昭和59年︶2月1日に実施したダイヤ改正について記す。昭和59年2月改正なので﹁59・2﹂︵ゴーキュウニ︶とも呼ばれた。
1980年︵昭和55年︶10月1日に実施された﹁減量ダイヤ﹂改正同様、長距離の優等列車や貨物列車が削減されたが、その一方で近距離電車が増発された。
当時としては異例であった、厳冬期での全国ダイヤ改正の実施となった。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/30/Railway_transport_volumes_of_Japan.svg/350px-Railway_transport_volumes_of_Japan.svg.png)
JRおよび私鉄の輸送キロ推移︵旅客/貨物︶
国鉄は1964年︵昭和39年︶度に赤字に転落した後、昭和50年代になると新幹線建設などの出費も重なってその赤字額は莫大なものになり、国鉄経営の再建が叫ばれるようになっていた。1980年︵昭和55年︶に成立した国鉄再建法においては﹁昭和六十年度までにその経営の健全性を確保するための基盤を確立︵第2条︶﹂することが要求されていた。そして国鉄分割民営化を求める声も日増しに強くなっていき、国鉄は合理化の推進など支出削減を迫られた。
更に、荒廃した労働現場と職員のモラル低下といった利用者に不安や嫌悪感を与える国鉄自身の問題、モータリゼーションによる自動車などへの移行、度重なる運賃・料金の値上げなどにより、国鉄を利用する旅客や貨物は減少する一方︵旅客24 %,貨物6 %のシェア[1]︶で、﹁国鉄離れ﹂[2]が止まらなかった。
そのため合理化政策の一環として、利用が低迷するようになった分野を大幅に削り、鉄道の長所を生かせる区間についての強化を図ることが考えられ、それがこのダイヤ改正で実施されたのである。
ダイヤ改正の背景[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/30/Railway_transport_volumes_of_Japan.svg/350px-Railway_transport_volumes_of_Japan.svg.png)
改正の内容[編集]
輸送量削減目標については「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法#経営改善計画」を参照
優等列車の削減[編集]
まず旅客では、車両の陳腐化や自動車・高速バス・航空機などへの乗客移行により、閑古鳥が鳴くようになっていた列車を大幅に削ることになった。地方ローカル線へ直通する急行列車や、寝台列車などが主な対象であった。東京駅 - 紀伊勝浦駅間の寝台特急﹁紀伊﹂や、高山本線の急行﹁のりくら﹂︵夜行︶等が廃止された。また、廃止は免れたものの、新大阪駅 - 西鹿児島駅間の寝台特急﹁明星﹂は鳥栖駅以東について、﹁あかつき1・4号﹂との併結運転となった。
地方都市圏の普通列車増発[編集]
詳細は「シティ電車」を参照
1982年︵昭和57年︶11月15日の上越新幹線開業に伴うダイヤ改正で広島鉄道管理局下の山陽本線広島駅 - 大野浦駅・岩国駅間で試験導入された“国電形ダイヤ”︵15分間隔のパターンダイヤ化︶が好成績を収めたことを受け、この改正では、札幌・静岡・名古屋・岡山・福岡の各都市圏でも同様のパターンダイヤが導入され増便が実施された。この結果これらの線区でも乗車率が上昇したため、以後の改正では﹁地方各線の普通列車増発﹂も軸とされるようになった。
貨物列車の大整理[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7f/Suita_classification_yard%2C_Osaka%2C_Japan.png/300px-Suita_classification_yard%2C_Osaka%2C_Japan.png)
「日本の貨車操車場」も参照
本改正ではついにヤード終結形輸送が全廃されるに至った。それに伴い操車場は全廃された[4][3]。
この時点で廃止された主な操車場
●吹田操車場、新鶴見操車場、東灘操車場、大宮操車場、岡山操車場、広島操車場、青森操車場、稲沢操車場、郡山操車場、武蔵野操車場、静岡操車場、香椎操車場、米原操車場、竜華操車場、北上操車場
廃止は全国で100箇所以上に及んだ。なお、一部は貨物駅もしくは正式な旅客駅に役目を変えて現存するほか、武蔵野、北上などの操車場は1986年︵昭和61年︶まで輸送基地や信号場として施設が利用されていた。