1924年1月から1953年3月に渡って同国の最高指導者であった。一般に広く知られている「スターリン」という姓は「鋼鉄の(人)」[注釈 2]を意味する筆名であり、本名はヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(ロシア語: Ио́сиф Виссарио́нович Джугашви́ли、グルジア語: იოსებ ბესარიონის ჯუღაშვილი)(#名前も参照)。
レーニン政権下の活動 (1917–1924)
編集
1918年3月までボリシェヴィキの本部が置かれたペトログラードのスモーリヌイ学院(英語版)
1917年10月26日、レーニンは新ロシア政府として組織された﹁人民委員会議︵ソヴナルコム︶﹂の議長への就任を宣言した。スターリンは民族問題人民委員に任命された。新しい任務に専念できるようにと、スターリンは﹃プラウダ﹄の編集者としての地位を解任された[105]。新政府においてスターリンは、レーニン、トロツキー、スヴェルドロフとともに非公式な﹁4人組﹂として首脳部を形成した。ボリシェヴィキの本部が置かれたスモーリヌイ学院では、スターリンの執務室はレーニンの執務室の近くに設けられており、約束なしでレーニンの書斎を訪れることが許されていたのはスターリンとトロツキーの2人だけだった。当時のスターリンはレーニンやトロツキーのように一般的に有名ではなかったものの、ボリシェヴィキ内部では重要人物として台頭していた。スターリンはレーニンによる秘密警察機関﹁チェーカー﹂の設立を強力に支持し、チェーカーによって始められた赤色テロも擁護した。カーメネフやブハーリンとは異なり、スターリンがチェーカーとそれによるテロの急激な成長拡大について懸念を示すことはなかった。
ボリシェヴィキが権力を掌握した後、右派・左派を問わずその支配に抵抗する勢力が蜂起し、ロシア内戦が勃発した。内戦により減少を続ける食糧の供給を確保するため、人民委員会議は1918年5月、スターリンをロシア南部における食糧徴発の責任者としてツァリーツィンに派遣した。軍司令官としての価値を示すため、スターリンはツァリーツィンに到着するとすぐに現地の軍の指揮権を自らに移行させた。ツァリーツィンで、スターリンは将来的に自らの軍事的・政治的支持基盤の中核となる、クリメント・ヴォロシーロフとセミョーン・ブジョーンヌイの2人との親交を深めた。数的優位によって勝利を得るため、スターリンは大量の赤軍兵士を動員して反ボリシェヴィキの白軍を攻撃したが、この戦略は赤軍側に多大な犠牲を強いることとなり、レーニンにも懸念を抱かせた。
白軍との戦闘の一方で、スターリンはツァリーツィンのチェーカーに命令を出して反革命分子の嫌疑がある者を逮捕し、時には裁判なしで処刑した。また、軍事・食糧収集に従事する中産階級の﹁専門家﹂を政府からの命令に反して粛清し、さらに一部を処刑した。スターリンによる国家的暴力とテロの使用は、ほとんどのボリシェヴィキ首脳が許容する範囲を超えていた。例として、農民が食糧徴発の実施に従うことを確実にするため、スターリンはいくつかの農村を燃やすように命令した。
1919年の初期にモスクワへ戻ったスターリンは、長年の伴侶となるナジェージダ・アリルーエワと3月24日に結婚した。同じく3月の第8回党大会で、レーニンは過度の犠牲者を出すに至った戦術を用いたとして、スターリンを批判した[105]。1919年5月、スターリンはペトログラード近くの西部戦線に派遣された。赤軍兵士の大規模な逃走と離反を止めるため、スターリンは脱走兵と反逆者を集めると、彼らを公然と﹁裏切り者﹂として処刑した[105]。
ボリシェヴィキは1919年末までにロシア内戦での勝利を確定させた。それに伴い、人民委員会議はその関心を国外へのプロレタリア革命の拡大に向け、この目的達成のため、1919年3月には﹁コミンテルン﹂を結成していた︵コミンテルンの創立式典にはスターリンも出席した︶。スターリンは、欧州中のプロレタリアートが革命の寸前にあるというレーニンの考えには同意していなかったものの、単独で存在する限り、ソビエト・ロシアは無防備なままであるとは認識していた。1920年2月、スターリンは労農監査人民委員︵英語版︶に任命された。同月にはまた、カフカース戦線に異動となった。
1920年、ポーランド・ソビエト戦争が激化し、ポーランドはウクライナに軍を展開し、一度は赤軍が抑えたキーウを、ウクライナのディレクトーリヤ軍と合同して、1920年5月7日に占領していた[注釈7]︵キーウ攻勢︵ウクライナ語版、英語版︶︶。5月26日には、スターリンもウクライナの南西戦線に派遣された。赤軍は6月10日にキーウを奪還し、速やかにポーランド軍をウクライナから駆逐してポーランドに押し返した。1920年7月16日、ボリシェヴィキはこのまま戦争を継続し、ポーランド領内に侵攻することを決定した。レーニンは、赤軍の侵攻によってポーランド国内のプロレタリアートが立ち上がり、赤軍と共同でユゼフ・ピウスツキの政権に反抗すると信じていた。一方、スターリンはポーランドの労働者階級はナショナリズムから自国の政権を支持すると予想しており、レーニンの考えに対し警告を発した。スターリンはまた、赤軍はポーランドに侵攻するには準備不足の状態であり、侵攻を強行した場合クリミアの白軍に再起のチャンスを与え、内戦が再燃する事態になりかねないと考えていた。最終的にスターリンは議論に負け、レーニンの決定を受け入れた。
その後、ミハイル・トゥハチェフスキーが率いる赤軍がポーランドの首都ワルシャワに向けて進撃する一方で、スターリンは南西戦線でリヴィウの攻略を指揮した。8月初旬、スターリンは配下の部隊を移動してトゥハチェフスキーのワルシャワ攻略を支援するよう再三にわたり命令されたが、リヴィウ攻略を優先するため、命令の実行を拒否した。8月中旬、ポーランド軍は反攻に転じて赤軍を撃退し︵ヴィスワ川の奇跡︶、スターリンは政治局会議に参加するためモスクワに帰還した。モスクワに戻った後レーニンとトロツキーから戦争指導について批判され、自尊心を傷つけられたスターリンは、8月17日に自らを軍事的役職から解任することを要求し、9月1日に受理された。
1920年9月22日から開かれた第9回共産党協議会で、トロツキーはスターリンがポーランドとの戦争で﹁戦略的ミス﹂を犯したとの告発を行った。トロツキーは、部隊の移動命令を拒否することでスターリンは戦争をサボタージュしたと主張し、レーニンもそれに同調したほか、大会期間中、スターリンの行動を擁護する者は皆無だった。スターリンは屈辱を与えられたと考え、トロツキーへの敵愾心を強めた。ポーランド・ソビエト戦争は、1921年3月18日、ボリシェヴィキがポーランドと講和条約︵リガ平和条約︶を結んだことにより正式に終戦を迎えた[注釈8]。
1921年2月、近隣諸国に支配を拡大することを望んだソビエト政府は、メンシェヴィキの支配地域であるグルジア民主共和国に侵攻した。同年4月、スターリンはトルキスタンに赤軍を派遣し、ロシアによる同地域の支配を再確認させた。民族問題人民委員として、スターリンは各々の国民と民族集団が自己表現の権利を有するべきであると考えており、そのためにはロシア国家内に地域的問題の管轄を許可された﹁自治共和国﹂を設けることが助けになると信じていた。スターリンの生まれ故郷であるカフカースは、多民族が混在する事情から特有の問題をはらんでいた。スターリンは、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンに各々の3つの自治共和国を設けるという構想に反対しており︵それぞれの自治共和国内の民族的マイノリティが虐げられる可能性が高いと考えていた︶、代わりに﹁ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国﹂という連邦国家の樹立を要求した。しかし、グルジア共産党は連邦国家の構想に反抗し、﹁グルジア問題﹂が引き起こされた。
1921年の半ば、スターリンは南カフカースを訪問し、グルジア内の民族的マイノリティ︵アブハジア人、オセチア人、アジャリア人︶を排除するような排外的グルジア愛国主義を避けるよう、グルジア共産党員に要求した。この訪問の際、スターリンは長男ヤーコフに会い、彼をモスクワに連れて帰った。それに先立つ1921年3月には、妻ナジェージダがスターリンにとっての次男ワシーリーを出産していた。
内戦の終結後、ロシア全土で政府による食糧徴収への反発を主な動機とする労働者のストライキや農民の一揆が勃発し、その対策としてレーニンは市場経済を容認した改革である﹁新経済政策︵ネップ︶﹂を施行した。この当時、共産党内部でも内紛が生じ、労働組合の廃止を求めるトロツキーの党派にレーニンが反対したことを受け、スターリンが反トロツキーの党派を組織した。1922年の第11回党大会において、レーニンはスターリンを党書記長に任命した。この任命にあたり、すでに他の役職に就いているスターリンの作業負荷を過度に増加させ、また権力を必要以上に拡大させるとの懸念が示されたが、それでも彼が書記長に指名された。歴史学者ロバート・サーヴィスによれば、主な同盟者の1人であるスターリンを重要な地位に就けることは、レーニンにとって好都合であった。
ゴールキのダーチャで病気療養中のレーニンを訪れたスターリン
1922年5月、レーニンは脳卒中の発作を起こし、半身不随となった。その後レーニンはゴールキの別荘︵ダーチャ︶で静養生活に入り、人民委員会議とのつながりは頻繁に面会に訪れるスターリンを通してのものとなった。スターリンは、レーニンから2度にわたって自殺用の毒薬を入手するよう要求されたが、その願いを聞き入れることはなかった。この時期のレーニンは、スターリンの態度を﹁アジア的﹂であるとして嫌悪しており、妹のマリヤ・イリイチナ・ウリヤノヴァ︵英語版︶に対しては、スターリンが﹁知的ではない﹂と漏らしていた。さらに、レーニンとスターリンは国際貿易の問題をめぐって意見を対立させたほか、グルジア問題をめぐっても、レーニンはグルジア単体での共和国を望むグルジア共産党中央委員会を支持しており、スターリンが推進する南カフカースの連邦国家に反対した。
両者の意見の不一致は国家の形態にも及んだ。レーニンは、﹁ヨーロッパ・アジア・ソビエト共和国連邦﹂という名の連邦国家の創設を要求し、ロシア国家は他のソビエト共和国と同列・同条件でこの新連邦に加盟するべきであると主張した。スターリンは、レーニンの案では非ロシア人の独立感情が促進されると考え、非ロシア民族はロシア・ソビエト共和国内部に彼らの﹁自治共和国﹂を設けることで満足させられると主張した。レーニンがスターリンを﹁大ロシア排外主義﹂として批判した一方で、スターリンはレーニンを﹁民族自由主義﹂として批判した。両者の妥協の結果として、新連邦国家は﹁ソビエト社会主義共和国連邦︵Union of Soviet Socialist Republics︶﹂と命名されることとなった。1922年12月、ソビエト社会主義共和国連邦の樹立が正式に承認された。
同じ1922年12月にはレーニンの政治活動への参加をめぐり、スターリンが電話でレーニンの妻ナデジダ・クルプスカヤを﹁ウラジーミル・イリイッチ︵レーニン︶と仕事の話はするな、さもないと党統制委員会に引っ張り出すぞ﹂と激しく叱責するという事件が起きた[217]。レーニンはこのことでスターリンに激怒し、翌1923年3月5日に﹁私は自分へなされた仕打ちを忘れるつもりはない…発言を取り消すなり謝罪する用意があるか、それとも我々の関係を断ち切るかよく考えよ﹂と詰問する手紙を送った。それに対しスターリンは、クルプスカヤへの発言の真意はあくまでも医師たちの指示を守ってもらうためであって乱暴だとは思っていなかったと釈明し、﹁あなたが我々の﹃関係﹄を保持するために私の発言を撤回せよと言われるなら、そういたします。しかし、問題は何なのか、私の落ち度がどこにあるのか、人々が私に何を欲しているのかは推量したくありません﹂という﹃ずいぶん礼節を欠いた﹄[218]返事をしたためた。
1923年3月6日、スターリンの返信を受け取る前に、レーニンは3度目の脳卒中発作を起こして廃人同然の状態となり、大きく回復することのないまま翌年の1月21日に死去した。1923年4月には、のちの日本の検事総長であった小山松吉が﹃﹁ソヴイエト﹂露国の司法制度及び訴訟手続﹄を法律雑誌に連載した[注釈9]。
1924年5月22日の第13回党大会にて、クルプスカヤの希望によりレーニンの遺書︵英語版、ロシア語版︶が公開された[注釈10]。遺書の内容は、﹁スターリンはあまりに粗暴過ぎる。この欠点は、われわれ共産主義者の仲間うちやその交際の中では我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢ならないものとなる﹂﹁背信的なスターリンを指導者にしてはならない﹂というものであった。レーニンはスターリンを書記長の地位から外し、﹁より忍耐強く、より丁重で、より思いやりがあり、あまり気まぐれではない人物﹂を、そのポストに任命するよう提案していた[219]。
左からスターリン、アレクセイ・ルイコフ、レフ・カーメネフ、グリゴリー・ジノヴィエフ(1925年撮影)
1924年1月にレーニンが死去すると、スターリンは葬儀の取り仕切りを任され、葬儀当日にはレーニンの棺を担いだ。未亡人となったクルプスカヤの意向に反し、共産党政治局はレーニンの遺体に防腐処理を施した上で、モスクワ・赤の広場内の霊廟に設置した。霊廟は死後増大したレーニンに対する個人崇拝の一部であり、同年にはペトログラードがレーニンを称え﹁レニングラード﹂と改名された。レーニン亡き後の後継者候補にはスターリンの他、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ルイコフ、トムスキーなどが浮上したが、スターリンが権力独占への主な障害とみなしたのはトロツキーであり、レーニンの存命時からジノヴィエフ、カーメネフと組んで反トロツキーの同盟を結成していた。
1924年5月の第13回党大会︵英語版、ロシア語版︶において、﹁レーニンの遺書﹂が地方代表団の団長に対してのみ読み上げられた。スターリンは︵自分を批判する︶遺書の内容を恥じ、党書記長を辞任すると自ら申し出た。このへりくだった行動により、スターリンは解任の危機を脱し、書記長に留まることを許された。ジノヴィエフは増加するスターリンの権力に懸念を抱いていたが、第13回党大会では﹁左翼反対派︵英語版︶﹂を率いるトロツキーに対抗するため、スターリンの味方に付いた。
トロツキーの左翼反対派はネップ︵新経済政策︶が資本主義への行き過ぎた譲歩であると考えており、ネップ支持派のスターリンを﹁右翼﹂とみなした。スターリンは党中央委員会を自らの支持者で固める一方で、左翼反対派の党員を徐々に要職から排除していった、これらの動きは︵スターリンと同じく︶左翼反対派の提案がソビエト連邦を不安定にすると考えていたニコライ・ブハーリンによって支持されていた。ブハーリンは第13回党大会で共産党政治局に昇進し、スターリンと同盟関係を結んだ。
スターリンは1924年終盤からカーメネフとジノヴィエフへの攻撃を開始し、彼ら2人の支持者を重要な地位から外していった。1925年に入ると2人はスターリンとブハーリンに対して公然と敵対するようになり、同年12月の第14回党大会では政治局の多数派であるスターリンの党派に攻撃を仕掛けたが、その試みは失敗に終わった。スターリンは逆に、カーメネフとジノヴィエフによる分派主義的な行動が党の安定性を危険に晒していると批判した。1926年の半ば、カーメネフとジノヴィエフはトロツキー支持派と組んで﹁合同反対派︵英語版︶﹂を結成し、スターリンに対抗した。この時期、スターリンは革命を世界に広げることよりもボリシェヴィキがすでに支配した国での共産主義の構築に集中すべきだと主張し始めた。これは党内の多くの同志たちや、スターリンのイデオロギーに反対していたトロツキー、カーメネフ、そしてジノヴィエフをも引き込んだ。
スターリンは自身の政敵の評判を徐々に下げていった。トロツキーは革命前からボリシェヴィキにはいなかったことや、カーメネフとジノヴィエフが革命に反対票を投じていたことを指摘した。トロツキー、カーメネフ、そしてジノヴィエフは党内でますます孤立を深め、1927年11月には共産党中央委員会から追放された。11月14日、トロツキーとジノヴィエフは党からも追放され、続いて12月にはカーメネフも追放されるに至った[105]。カーメネフとジノヴィエフは謝罪の公開書簡を書き、約6カ月後に復党となったが、トロツキーはソ連からも追放された。
スターリンはより迅速な工業化と、レーニンによる新経済政策︵ネップ︶を嫌った多くの党員に共感を呼んだ経済の集中管理の促進を始めた。1927年末の穀物供給の危機的な不足は、スターリンに農業集団化の推進を促進させた。1928年1月、スターリンは富農が秘蔵していた穀物の没収を監督したシベリアへ個人的な旅に出かけた。党員の多くは没収を支持したが、ブハーリンとアレクセイ・ルイコフ首相は憤慨した[105][241]。ブハーリンは富農の財産の融資による迅速な工業化というスターリンの計画を批判し、ネップへの復帰を提唱した。スターリンはブハーリンを派閥主義的で資本主義的傾向であるとして非難し、その他の中央政治局の委員たちはスターリンに味方した。1929年11月、ブハーリンは政治局から追放された。
スターリンは﹁貧民階級の味方﹂という聴衆への訴えによって人気を得た。スターリンは従来のボリシェヴィキの理論である﹁世界革命﹂路線を放棄して、一国で共産主義を構築する﹁一国社会主義﹂政策を提唱した。ロシア人は世界大戦と内戦で疲れており、﹁一国社会主義構築への専念﹂は、戦争に対する楽観的な解毒薬となった。自身の反対勢力ができあがるため、スターリンは党内の一派が党の指導者の方針に公然と反対することができない派閥主義の禁止を大きく利用した。1928年︵五カ年計画の最初の年︶まで、スターリンの指導者の地位は最上位にあった。この翌年、世界革命・永続革命を提唱していたトロツキーはスターリンに反対していたために追放された。ブハーリンによる党内右派のような反対勢力の裏をかき、コルホーズと工業化を主張・推進したスターリンは、党と国の両方を統制した。しかしながら、セルゲイ・キーロフのようなほかの指導者の人気が示したように、彼は1936年から1938年の間に行った﹁大粛清﹂まで、絶対的な権力を掌握することはできなかった。
スターリン政権は強制的に集団農場に移行した。大規模に機械化された農場から農業による生産高を増やし、農民たちをより政治的支配下に置き、より効率的に徴税するためであった。集産化は、1861年の農奴制の廃止以来見られなかった、土地と農産物の制御からの疎外という急激な社会的変革を起こした。農業集団化の最初の年には、工業生産高が200%︵パーセント︶、農業生産高は50%増加するだろうと見積もられていた[242] が、達成されることはなかった。
ソ連時代のロシアはアメリカから毎年大量の穀物を輸入していた。ロシア革命後のソ連は、﹁社会主義の優越性﹂︵社会主義がいかに優れているか︶を具現化させるため、工業化を重視した経済政策を推進するようになる。工業を重視したがために農作物の値段は安値に抑えられ、農民たちは農産物の出し惜しみにでた。スターリンはこれの打開のため、個々の農家がそれぞれの農業をするのをやめさせ、農民全員を集団農場に集めて労働させ、収穫できた農作物を国に納めさせることにした。集団農場が各地に作られ、個人で持っていた農家の土地は没収されて集団農場のものとなった。集産化は数多くの農民たちの生活水準を急激に低下させたことで、農民たちは農産物を自分たちが生きられる最低限の生産高しか作らなくなった。個人の農家が持っていた家畜までもが取り上げられたため、それならば自分で家畜を殺してしまえ、という農家が続出、ついにはソ連全土で家畜を殺して食べる催しが行われた。さらにはコルホーズの役人が殺害されるなど、農民たちは激しく抵抗した。
スターリンは、農業集団化に反対したこの予期せぬ失敗者を﹁クラーク︵富農︶﹂と主張し、﹁農業がうまくいかないのは、農村に残った資本家である。すなわち富農が原因であり、富農を撲滅すべきである﹂と党大会で糾弾した︵しかしながら、実際に﹁富農﹂と認定された農民は全農業人口のうちのわずか4%であった︶。スターリンが対象としたのは、﹁ネップの時代に利益を手にした農民﹂であり、ゲーペーウーとコムソモールによる暴力の矢面に立たされ、それらは人口の60%であった。スターリンは農民たちを無理やり分けた。﹁貧農﹂と見なされた者は集団農場の労働者にされて働かされ、﹁富農﹂﹁富農の助力者﹂、そして後に﹁元富農﹂と公式に定義された人々は、銃殺されるか強制収容所﹁グラーグ﹂に収容されるか、国から遠く離れた辺鄙な地域へ国外追放となった。この﹁富農﹂撲滅政策によって、富農の追放︵en:Dekulakization︶が起こった年である1930年の間に2万0201人の人々が処刑されたことを記録データが示している[243]。農業集団化の第2段階︵スターリンによる高名な論説﹁成功による幻惑︿Dizzy with success﹀﹂[244]、﹁集団農場の同志たちに答える﹂[245] によって1年間中断となった︶は、戦術的・政治的撤退という彼の手腕の最たる例に続いて、初期の戦略の強化が施された。
﹁富農﹂に分類された農民は、勤勉な農家であるケースが多かった。家を挙げて農業に取り組んだために、相対的に豊かな生活を送っていたが、スターリンの農業集団化政策によって彼らが弾圧されたことで農業に熱心に取り組む人間がいなくなるという皮肉な事態となった。集団農場における労働者は、政府により決められた穀物しか作れず、その生産した穀物も不当に低い価格でしか買い取って貰えなかった。このため、農民の労働意欲は低下しソ連の農産物の収穫高は大きく下がり、ソ連は豊富な穀倉地帯を所有しているにもかかわらず食糧不足に陥った。﹁ロシアの穀倉地帯﹂と呼ばれたウクライナで﹁ホロドモール﹂と呼ばれる飢饉が発生︵後述︶し、農民たちが次々と餓死していった。
大粛清初期のNKVD長官ゲンリフ・ヤゴーダ
セルゲイ・キーロフは政治局員・党エリートであり、その弁舌と貧困層への真摯な態度で大きな人気があった。彼はスターリンの忠実な部下であったが、いくつかの意見の相違もあり、多くの歴史家がスターリンは彼を潜在的な脅威として考えていたとする[246]。実際、一部の党員はスターリンの後継者としてキーロフに対して秘密裏に接近していた。1930年代のスターリンは、高まりつつあったキーロフの人気についてますます心配していた。1934年に開催された新しく中央委員会を決める投票で、スターリンは1108の反対票を受けた一方、キーロフはどの候補よりも少ない3の反対票を受けたのみであった。この一件は、スターリンのキーロフに対する反感をますます強めたものと思われる。
1934年12月1日、キーロフはレニングラードにおいてレオニード・ニコラエフ︵en:Leonid Nikolaev︶という青年によって暗殺された。ニコラエフは当時のNKVD長官ゲンリフ・ヤゴーダと関係があり、スターリンがヤゴーダを通じてニコラエフをそそのかしキーロフを暗殺させたとする説は根強い[248]。キーロフの死はボリシェヴィキをぞっとさせたが、スターリンは暗殺の知らせを聞くと、レニングラードに向かい暗殺事件の真相を究明するため、異例の現地指揮を行った。
キーロフ暗殺に対するスターリンの公式の対応は、嫌疑のかかっているスパイと反革命分子を探し出すことで安全対策を強化するというものであった。しかし実質的には、スターリンは自身の指導体制を脅かすことになる可能性のある者たちを排除していったのだった。スターリンは自身の生立ちから人一倍コンプレックスを強く感じるゆえ、異常なまでの権力欲と顕示欲の塊であり、その目的を達するためなら手段を全く選ばなかったのである。この過程は、それから広範にわたる追放へと変移していった。キーロフの暗殺は、1936年8月から1938年11月まで続くことになる大粛清の前兆であった。
キーロフが暗殺されると、スターリンはトロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフを含めた自身の反対勢力者たちを陰謀に巻き込むための構想を抱いた[249]。調査と裁判は拡大していった[250]。1934年1月の第17回党議会においては過半数の代議員が彼の言いなりであった[246]。見せしめの裁判あるいはトロツキーやレニングラードの政治局員セルゲイ・キーロフの暗殺のあとに法律を改定する[246]。この党大会で選出された党中央委員会の委員および中央委員候補139人のうち、98人が逮捕・銃殺された。党大会の党員1956人のうちの1108人が﹁人民の敵﹂︵ロシア語враг народа, "vrag narodaヴラグ ナローダ"︶︵en:Enemy of the people︶という烙印を押され、秘密裁判で死刑判決を受けると直ちに処刑された。スターリンは、裁判所に対して﹁人民の敵﹂と判断した者には死刑判決を下すこと、そしてただちに死刑を執行するよう命令していた。取り調べの際には﹁肉体的圧迫﹂、すなわち拷問を用いることを認め、罪を認めない者には拷問によって力ずくで﹁罪﹂を認めさせた。
スターリンは、起訴や弁護人による訴えなしによるわずか10日間の調査で刑を迅速に執行できるようにする﹃テロ組織とテロ行為﹄という新しい法案を可決した。その後、モスクワ裁判として知られる複数の裁判が開かれたが、その手続きはソ連全土にわたって模倣された。反革命活動の禁止を記載した法律の第58条は、幅広くあらゆる態度・物腰に適用された。根拠薄弱な口実として火事が起きただけで﹁破壊活動とみなされ逮捕されるケースが存在した。もっとも、多くの場合は誰かに﹁人民の敵﹂︵﹁人民のための党を裏切るのは、人民の敵である﹂︶の烙印を押し付けるだけで十分であった。そして国民の迫害・虐待が始まり、死とまではいかなくとも、しばしば尋問、拷問、そして国外追放にまで及んだ。ロシア語のトロイカには、NKVDの下に置かれる3つの委員会によって裁判はすぐに単純化され、刑は24時間以内に執行される、という新たな意味が加わった。
共産党中央政治局の最高責任者の座に君臨していたスターリンは権力をほぼ絶対的なものまでに強化し、政治的反対者、自身のイデオロギーに反対する者、ボリシェヴィキ中央委員会の古参党員たちを策略によって逮捕・追放した。スターリンは大粛清を、日和見主義者と反革命分子を追放する試みとして正当化した[253][254]。党による粛清の標的とされた者たちはNKVDトロイカによる公開裁判後に矯正労働キャンプ︵グラグ︶への収容あるいは処刑という、より厳しい措置が取られた[253][255][256]。
軍事指導者たちの多くは反逆罪の判決を受け、赤軍の陸軍将校の大粛清に繋がっていく[257]。あまりにも多くの、かつて高い地位にいた革命家たちや党員への粛清はレオン・トロツキーをして﹁スターリン政権とレーニン政権とは﹃血の川﹄によって隔てられてしまった﹂と言わしめた[258]。トロツキーは﹁スターリンは反対者の意見にではなく、その頭蓋骨に攻撃を加える﹂との言葉も遺している[259]。
1937年よりメキシコで亡命生活を送っていたトロツキーは、1940年8月、同地で登山家のスペイン人であったラモン・メルカデルにより暗殺された。メルカデルはトロツキー暗殺のために派遣された刺客と考えられている。これにより、かつての党指導者間の政敵の最後の生き残りを、スターリンは抹殺するかたちとなった。オールド・ボリシェヴィキは、スターリン、カリーニン、そしてモロトフの3人のみとなった。NKVDによる大規模な作戦︵en:Mass operations of the NKVD︶は、ポーランド人、ドイツ民族、朝鮮人といった海外のさまざまな民族を標的とした。計35万人︵その内の14万4000人がポーランド人︶が逮捕され、24万7157人が処刑された[241]。粛清と並行して、ソビエトの教科書と他の宣伝材料の歴史を書き直させた。NKVDによって処刑された著名人は、初めから存在しなかったかのように教科書や写真から跡形もなく取り除かれた。革命の歴史は、徐々にレーニンとスターリンという主要の2人についての話のみに変わっていった。
公開されたソビエトの公文書と公式のデータによれば1937年には35万3074人、1938年には32万8612人︵歴史家はほぼ70万人と見積もっている︶[261] もの﹁普通の﹂ソビエト国民…労働者、農民、教師、司祭、音楽家、軍人、年金受給者、バレリーナ、乞食が処刑された[262][263]。一部の専門家は、公開されたソビエトの公文書は数字が控えめか、不完全か、頼りにならないと考えている[264][265][266]。例えば、ロバート・コンクエストは大粛清で処刑された人数は68万1692人ではなく、その約2.5倍であったと示している。彼は名誉回復された犠牲者の死因と死んだ日付をKGBが偽造し、証拠隠滅したと考えている[268]。伝えられるところによれば、当時、銃殺された人々のリストを見直していたスターリンは、とくに誰かに呟くこともしなかったという[269]。
スターリンは、NKVDの諜報部隊をモンゴル人民共和国に派遣してモンゴル人によるNKVDトロイカを設立し、数万人が﹁日本のスパイ﹂として処刑されたスターリン主義者によるモンゴルの弾圧︵en:Stalinist repressions in Mongolia︶を誘発させた。モンゴルの統治者ホルローギーン・チョイバルサンは、スターリンの指導に密接に従った[243]。
ただし、1937年と翌年に集中的に発生した大粛清︵銃殺刑はロシア連邦国立公文書館︿GARF﹀による資料によれば、1937年と翌年の合計が約78万人、対して前年の36年は1118人︶の原因、政治的な計画性ならびにその過程におけるスターリンの関与の程度に関しては上述の説明に対する異論もある。ソ連崩壊後に公開された公的資料に基づく研究によれば、ノーメンクラトゥーラならびにモスクワが当時強引に進めていた農業集団化などの国家統制政策とそのもたらした混乱が一方にあり、他方でボリシェヴィキの伝統的な主意主義︵﹁鉄の規律を誇る党﹂︶的体質という﹁二つのモデルの混在﹂とそれに起因する矛盾が、社会全体を巻き込んだ政治的なヒステリー現象たる大粛清の社会構造的な原因であるとされている[270]。
主な犠牲者としては、かつてスターリンとともにトロイカ体制を築いたジノヴィエフ、カーメネフの両名に始まり、グリゴリー・ソコリニコフ、チュバール、ゲオルギー・ピャタコフ、ニコライ・ブハーリン、ボロージン、アレクセイ・ルイコフ、カール・ラデック、ミハイル・トゥハチェフスキー、スタニスラフ・コシオール、レフ・カラハン、イオナ・ヤキール、などである。アドリフ・ヨッフェ、ミハイル・トムスキーは自殺した。第17回大会の中央委員140人のうち、無傷で残ったのはわずか15人であった。トゥハチェフスキーを初めとする赤軍の高級将校の大部分が含まれており、将官と佐官の8割が反逆罪の名の下に銃殺されたとされる。
俳優で演出家のフセヴォロド・メイエルホリド、作家のマクシム・ゴーリキー、生物学者のニコライ・ヴァヴィロフのような、文化人や学者も犠牲となった。外国からコミンテルンに来ていた、ドイツ共産党員のヘルツ、ノイマン、ハンガリー共産党のクン・ベーラ、ポーランド共産党中央委員のほぼ全員も処刑か強制収容所送りとなった。日本人では、日本共産党員の山本懸蔵、演出家の杉本良吉、ドイツ共産党員でソ連に移住していた元東京帝大医学部助教授の国崎定洞が行方不明となった︵いずれも逮捕・処刑されたことがのちに判明する︶。
また、後述のようにこの記事に掲載されているスターリン、レーニン、カリーニンの3人が写っている写真は集合写真からの切り抜きであるが、実際の写真は1919年に行われた党中央委員選出の際に撮られたものであり、素性が分からない人物1人︵後列に立っているため顔が見えない︶を含めて21人が写っている写真であった。この中で氏名が判明している20名︵スターリンら3人を数えなければ17名︶の内11名がスターリンに粛清され、他にも3名︵上記のヨッフェとトムスキーの他にミハイル・ラシェヴィチ︶がスターリンに抗議して自殺している[271]。
粛清の実行者である秘密警察職員ですら例外ではなく、ゲンリフ・ヤゴーダからニコライ・エジョフ、ラヴレンチー・ベリヤへと長官が変わるなかでNKVD職員たちも何万人と粛清された。たとえばエジョフの場合、NKVDを掌握した時点で前任者であるヤゴーダやメンジンスキーの息がかかった職員を大勢粛清して組織内での自分の立場を強化している。ほどなくヤゴーダ自身も粛清されることとなるが、エジョフも最終的にはヤゴーダと同じようにベリヤに取って代わられ、粛清されている[注釈11]。ベリヤも権力を握った時点でエジョフと同じようにNKVD内のエジョフ派幹部らを粛清しているが、ベリヤ自身もスターリン死後の権力闘争で敗れて粛清されている。当然のように、この時もNKVD内の親ベリヤ派と目されていた側近達が新体制によってベリヤとともに粛清されている。
粛清される側になったNKVDの元トップらは、当然自分たちが今まで粛清してきた人々と同じ運命をたどることになった。後述のように、今まで描かれていた絵画や写っていた写真から削除されたのである。ヤゴーダの場合、自分が建設した運河をスターリン、キーロフ、それにヴォローシロフらと船に乗って歓談している絵があったが、粛清後は削除され、代わりにヤゴーダのいた場所には手すりに掛けられたコートが追加された[272]。ベリヤの場合、粛清後はそれまでソビエト大百科事典に載っていたベリヤの項目が完全に削除され、すでに第2版を購入していた人々の下には﹁ベーリング海の新たな情報﹂なる4ページの記事が送付された。
﹁大粛清﹂の犠牲者数については諸説あるが、1930年代の弾圧による死亡者は200万人前後とされる︵同書624頁︶。この数字は、フルシチョフが1962年から1963年に行った秘密調査における数字ならびにゴルバチョフが1988年に行った再調査における数字とほぼ一致する︵同書626頁︶。
1936年12月にスターリンは新憲法︵スターリン憲法︶を制定した。これは、プロレタリアート独裁に基づき、﹁労働者の代表であるソビエトに全ての権力を帰属させ、生産手段の私有を撤廃し、各人からはその能力に応じて、各人にはその労働に応じて﹂という社会主義の原則に立つもので、﹁ソ連邦における労働﹂とは、すなわち﹁“働かざる者、食うべからず”﹂の原則の下、働きうるすべてのソヴィエト市民の誇りある義務であり、また努めである﹂とさせた[273]。そして、﹁労働者の利益に従って﹂という条件の下、満18歳以上の国民すべてに選挙権が与えられ、普通・平等・直接・秘密選挙制を採用し、民族の平等権など、人民民主主義の理念が提唱されたもので、社会主義国としては世界初だった。
だが、この憲法は国内よりも対外的な宣伝を意図して作られたものであり、候補者推薦制とソ連共産党による一党独裁制は変わらず、民族の平等や宗教の自由などは、実際にはまるで守られることはなかった。もっとも当時それ自体は珍しいことではないが、ソ連の場合、最初の選挙で議員の一人に19歳の少女が選ばれるなどエンターテイメント的な宣伝が行われ、有権者の千人に一人は候補者名を塗り潰し反ソ・反選挙的態度を見せるなどの国内の反感も受けていた[注釈12]。
なお、スターリン憲法はスターリンの死後に一部が改正され、1977年10月にレオニード・ブレジネフによって新憲法が採択されたが、内容はこのスターリン憲法が基礎となっている。のちにミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカによって、1988年12月および1990年3月に改正された。後者の改正では大統領制・複数政党制が導入され、一党独裁制は放棄された。最終的に、1991年12月の崩壊により、憲法は失効するに至った。
スターリンは、秘密警察と情報機関の適用範囲と権力を大きく増大させた。彼の指導の下、ソ連の諜報部隊は、ドイツ︵赤いオーケストラ︶・イギリス・フランス・日本・そしてアメリカを含む世界の主要な国の大部分に諜報の網を構築し始めた。スターリンは偵察、共産主義の政治的プロパガンダ、そして国が許可した暴力との違いが分からなかった。スターリンはこれらをNKVDによる仕事として統合し始めた。海外の共産党のソ連支持、スターリン支持の状態にするために諜報員を潜入させるコミンテルンの活用は大きな成果を上げた。秘密警察と海外での諜報活動を統合させたスターリンの手腕の最たる例の一つは、メキシコに亡命したトロツキーの暗殺の許可を秘密警察に与えたことである[274]。
スターリンとベリヤは、極端な同質化を国内に求め、諸民族の自治や文化的違いを敵視し、少数民族を迫害した[275]。1930年代末には、ソビエト愛国主義とロシア愛国主義が融合し、ロシア民族とロシア帝国が後進民族に文明をもたらしたとする大ロシア主義が称揚され、少数民族はこの大ロシア主義を妨害するものとみなされた[275]。
第二次世界大戦と冷戦 (1939–1953)
編集
スターリンが冬季に着用していた軍服のコートとブーツ、制帽
民族的にスターリンはグルジア人に属し、グルジア語を母語として育ち、ロシア語を学び始めたのは8–9歳の頃だった。グルジア人であることに誇りを抱いており、生涯にわたって強いグルジア訛りのロシア語を話した。サイモン・セバーグ・モンテフィオーリによれば、スターリンはロシアおよびロシア人への親近感は抱いていたものの、ライフスタイルや性格の面では常に極めてグルジア人的であった。
スターリンは穏やかな声色で喋り、ロシア語を使う際にはゆっくりと、慎重に言葉を選んで話した。私的な場では下品な言葉遣いも用いたが、公的な場でそうすることは避けていた。演説は不得手であったと評されている。多くの聴衆を前に演説することはまれであり、文書の形で自らの考えを発表する方を好んだ。スターリンの演説についてドミトリー・ヴォルコゴーノフは、﹁単純かつ簡潔で、人を惹きつける奇抜な文句や豊かな想像力、壇上での芝居がかった演技などを欠いていた﹂とし、ラテン的な明確さが、スターリンの単純明快な魅力であったと指摘している。スターリンの文体もまた、単純明快さと簡潔さを特徴とするものであったと評されている。
ソビエト連邦の指導者としてのスターリンは午前11時頃に起床することが多く、午後3時から5時の間に昼食をとり、夕食は午後9時以降であり、夕食後には夜遅くまで働いた。夕食には他の政治局員やその家族が同席することが多かった。指導者としてのスターリンはダーチャに赴く際以外ほとんどモスクワを離れなかった。旅行を嫌い、飛行機による移動は拒否していた。物的な欲求は少なく、単純で安価な衣類や家具とともに質素な生活を送った。生涯にわたる喫煙者であり、パイプと紙巻きタバコの両方を愛用した 。
スターリン(1945年)
成人したスターリンの身長は163センチメートルであり、身長を高く見せるため底の厚い靴を履いていたほか、パレード中は小さな台の上に立っていた。顔には子供の頃に罹患した天然痘によるあばたが残っていたが、公表される写真ではあばたが修整により取り除かれていた。また生まれつき左足の指が一部癒着していたほか、左腕は少年期に重傷を負ったことで右腕よりも短く、また柔軟性を失っており、左手は服の袖にしばしば隠れるほどだった[348][349]。スターリンはこの障害のために1916年に徴兵を免除されている。1917年、妻のナジェージダに対して﹁子供の頃に軽馬車に轢かれ、医者にかかる金がなかったので腕が曲がったままになってしまったのだ﹂と説明しており、これが正しければ挫傷が化膿して腕にひきつりができたと推測される[348] が、非合法活動に従事していた青年時代の怪我による[351] とも、前述の天然痘か、それとは別の病気に由来するとの説もある。年を取るにつれて黒い髪は白髪となって減った。また、歯科衛生が悪化し、死亡時には自身の歯が3本しか残っていなかった[352]。
スターリンの下で働いた通訳ベレズホフは、初めて彼に会った瞬間、イメージとあまりにも違っていてショックを受けたという[349]。﹁背が低くげっそりし、天然痘の瘢痕で覆われた顔は疲れて土気色、軍隊服が貧弱な肉体を締まりなく包んでいる﹂と表現している︵もっともモスクワ攻防戦の最中で、スターリンにとって最も厳しい時期ではあった︶[349]。スターリンに会ったことがある国連大使[誰?]が言うには、﹁スターリンの顔は醜い痘痕顔であり、片手︵左手︶に麻痺がある風采のあがらない小男﹂であったという。レーニンの隣に遺体を展示されたときは、プロパガンダのために防腐処理され、がっしりした体つきであばたもなくなっていた。﹃レーニンをミイラにした男﹄[353] によると、スターリンの遺体防腐処理を担当したデボフという男性が、﹁スターリンの顔は天然痘によってできるあばたと茶色のシミでいっぱいで、プロパガンダ用の写真や絵とは大きくかけはなれており、衝撃を受けた﹂と証言している。憲兵の報告書では、﹁あばた﹂がスターリンのあだ名になったほどであるという[351]。プロパガンダ映画で1930年代後半からスターリン役として定着していたミハイル・ゲロヴァニの風貌は、あくまでプロパガンダのスターリン像に基づくものであった。実際のスターリンの容貌は、1970年代より配役が多かったヤコフ・トリポーリスキーの方が近い。
スターリンは複雑な精神の持ち主であり、強い自制心と抜きんでた記憶力を有し、また努力家で、学ぶことに対して貪欲だったと評されている。ヴォルコゴーノフによれば、スターリンにとって﹁私生活と仕事は全く同一のもの﹂であり、休暇のために政治活動から離れることはなかった。
スターリンは相手に応じて異なる自分を演じることができ、また人を騙すことに長け、しばしば自らの真意や目的について他者を欺いた。優れた組織者であり、戦略的な思考を持ち、他者をそれぞれの精神力と実用性、利口さによって判断した。時に粗野で無礼な態度をとることを自認していたが、怒りで声を荒げることは稀だった。しかし晩年に健康状態が悪化するにつれ、気難しく気まぐれな傾向が強まっていった。高圧的な物言いをした一方で、非常に愛嬌がある一面もあり、リラックスした際には冗談を言ったり、人の物真似をしてみせた。モンテフィオーレは、この愛嬌が﹁党におけるスターリンの権力の基盤﹂であったことを示唆している。
スターリンは情け容赦がなく、残酷な気質を持ち、他のボリシェヴィキと比較しても暴力的な傾向が強かった。独善的な怒りを抱くことができ、また憤慨しやすく、復讐心に燃え、執念深く、他者に対する不満を長年にわたり保持した。拷問や処刑が行われる場に立ち会ったことは一度もなかったが、ロバート・サーヴィスはスターリンが人々を貶めたり辱めることによって﹁心からの満足感﹂を得ており、また近しい側近に対してですら﹁安心のない恐怖﹂を与えることを楽しんでいたと指摘している。一方で、身近な部下に配慮を示すこともあった。通訳のベレズホフが仕上げた電文を見て気に入らないと﹁君は何を聞いていたのだ!﹂と怒ったが、ただ突き放すのではなく、重要な部分を口述して修正させた。
モンテフィオーレはスターリンを﹁天性の過激派﹂と評しており、サーヴィスは偏執病および社会病質人格障害の傾向を指摘しているが、スターリンの残忍さは個人的性質ではなく、ソビエト連邦とマルクス・レーニン主義の大義を存続させるという確固たる決意に由来していたと見る歴史家も存在する。
スターリンは、妻子などの近親者にも心を開くことはなく、多くの近親者も不幸な最期を迎えた。1905年、スターリンは最初の妻であるエカテリーナ・スワニーゼと結婚し、長男のヤーコフをもうけるも、エカテリーナは25歳で病没した。
スターリンは息子のヤーコフに対し厳しく接したため、ヤーコフは拳銃自殺を試みたが失敗した。それを知ったスターリンは﹁やつは拳銃を真っ直ぐに撃つことすらできない﹂と言った。一方で、独ソ開戦後に長男のヤーコフが砲兵中尉として出征した際には﹁祖国のために貢献してこい﹂と直接激励している。後日彼がドイツ軍の捕虜になったとき、スターリングラード攻防戦での戦いで降伏したドイツの陸軍元帥フリードリヒ・パウルスと、ヤーコフの解放を条件にした交渉を提示してきたドイツに対して、スターリンは﹁中尉と元帥を交換する馬鹿が何処にいるのかね﹂﹁ナチスに寝返った息子などいない﹂と返答して申し込みを拒絶。﹁私の息子ヤーコフの命はあなたの手中にある。あなたが捕虜数百万人全員を解放するか、あるいは私の息子は彼らと運命をともにするだろう﹂と述べ、人質交換には一切応じなかった[381][382]。実質的に自分の父親に見捨てられる形となったヤーコフはこの事実を宣伝放送で聞いて衝撃を受け、ひどく落胆したと伝えられている。それから暫くして、ヤーコフは自身が収容されたザクセンハウゼン強制収容所内で死亡した。死因や経緯については不明瞭な部分が多く、鉄条網に向かって射殺されたとも[383]、収容所内の電気柵に突進して自ら命を絶ったとも伝えられている[384]。一説として、ヤーコフは収容所で他の捕虜と行進させられていたとき、突然看守の制止を振り切り鉄条網に突進し自身を﹁撃て!﹂と叫び、射殺されたという逸話が知られている。後に部下から息子の最期を聞いたスターリンは、ヤーコフを実質見捨てたとはいえショックを受け、塞ぎ込んだまま食事に手をつけなかったという。
2人目の妻であるナジェージダ・アリルーエワとの間には、次男のワシーリー・スターリンと娘のスヴェトラーナが生まれた。ナジェージダは1932年に亡くなり、公式には﹁虫垂炎による病死﹂と発表された。彼女はスターリンとの口論の後に遺書を残して拳銃自殺を遂げた。娘のスヴェトラーナによれば、その遺書は﹁一部は個人的、一部は政治的﹂なものだったという[385]。テレビ局のA&Eによると、一部のロシア人はスターリン自身が夕食の席で起こった口論の後にナジェージダを殺害したと信じている。歴史家は、最終的に彼女の死が﹁スターリンの現実との繋がりを断ち切った﹂と主張している[386]。
次男のワシーリーも異母兄ヤーコフ同様にスターリンから冷遇されたが、要領の良さと周囲が気遣ったこともあって空軍中将まで昇進した。しかし、一パイロットとしては26回の出撃で撃墜2機・協同撃墜3機と少ないながら戦果も挙げたものの、高級将校としては能力も経験も不足していた。ワシーリー自身が責任者を務めた空軍記念日でのモスクワ軍管区の空軍部隊による観閲飛行の際、父であるスターリンに見栄を張りたいと考えてか、悪天候の中にもかかわらず強引にB-29のコピーであるTu-4爆撃機を飛行隊に参加させ、結果として1機のTu-4が墜落事故を起こした。観閲飛行終了後にスターリンの別荘で行われた会合にも参加しなかったことで、度重なる失態に愛想を尽かした父スターリンに要職からは解任された。さらにスターリン死後に彼の庇護者であったベリヤが政治闘争に敗れて処刑されたことと、新たに台頭したニキータ・フルシチョフがスターリン派に対する粛清、追放を進めたことに伴い、ワシーリーの立場はますます悪化、失脚し軍籍も剥奪された。のちに、略式裁判で懲役8年が確定されたことで身を持ち崩した。1960年1月11日、ワシーリーは1年ほど早く刑期を終えて釈放された。釈放時には彼を取り巻く政治情勢は軟化しつつあり、元将官としてモスクワ市内の住居と年300ルーブルの恩給が支払われた。また空軍中将時代の軍服や勲章の着用も許可されたが、極度の酒好きがたたり、1962年に急性アルコール中毒で亡くなった。
娘のスヴェトラーナは可愛がられたこともあり、スターリンの自宅で行われたチャーチルとの私的な会談にも同席した[387]。だが彼女にしても、最初の恋人を﹁イギリスのスパイ﹂とみなされてシベリアに追放されている。のちにほかの男性との間に子供をもうけた際には祝福の手紙を貰ったが、結局彼女はソ連を捨てて1967年にアメリカに亡命。彼女は亡命先のアメリカで回顧録を出版し、その中で﹁父はいたるところに敵をみた。孤独感と絶望感からくる弾圧マニアだった﹂と述べている。
スターリンは3人目の妻としてラーザリ・カガノーヴィチの姉妹であるローザ・カガノーヴィチと結婚したとみられている[388]。シベリアに追放されていた時期にスターリンは不倫関係にあった女性との間に非嫡出子のコンスタンティン・クザコフをもうけたとされる。2001年3月、ロシアの民放テレビ局﹁NTV﹂は、ノヴォクズネツクに住む、それまで知られていなかったスターリンの孫ユーリー・ダヴィドフにインタビューを試みた。彼は、父親が自分たちの血統について話したと述べたが、スターリンへの個人崇拝に反する運動であるので黙っているとも話した。
スターリンはほかに愛人も作ったが、彼女らがスターリンの女性関係の派手さや残忍さを見かねて批判すると、彼女らはいつの間にか姿を消したり、不審な死を遂げたという。
スターリンはビリヤードに熱心でその腕前は熟達していた。また、腕時計を好んで収集していた。いたずら好きでもあり、例として政治局員用の椅子の上にトマトを置き、局員が気づかず座るのを待っていたことがあった。社交的な催しの際には、参加者に歌うよう促し、また飲酒をすすめたが、これは酔った参加者が秘密を漏洩させるのを期待していたためであった。
幼児期には花への愛を示しており、年を取ってからは熱心な園芸家となった。モスクワの自宅の温室には熱帯や温帯の植物が植えられ、スターリンはその世話をするのが趣味であった。大戦後はレモンの栽培に凝り出し、来客に次々とレモンを食べさせ﹁私が育てたんだ。それもモスクワでだぞ!﹂と自慢した[395]。
新聞を読みくつろぐスターリン︵1920年︶
趣味の一つとして、映画鑑賞があった。格調高い映画を好んだレーニンとは対照的に、スターリンは大衆的な娯楽映画を好み、アメリカ映画をよく取り寄せさせていた[396]。ジョン・フォード監督の﹃肉弾鬼中隊︵英語版︶﹄を観た際には、勇敢な兵士達の戦闘シーンに感銘を受け、同様の映画の制作を部下に指示し、ミハイル・ロンム監督による﹃十三人︵英語版︶﹄が作られた[396][注釈16]。
かなりの読書家であった。2万冊以上の蔵書を持ち、このうち5500冊には﹁スターリン蔵書﹂の印が押されていた[注釈17]。ジャンルはマルクス、エンゲルス、カウツキー、レーニンなどの社会主義関係、カント、フィヒテ、ヘーゲルなどの哲学書、文学書、歴史書、百科事典、外国語辞書、軍事書、雑誌、パンフレットから、ジノビエフやラデックなどの粛清した政敵の著書、ヒトラーの﹃我が闘争﹄、マキャヴェッリの﹃君主論﹄、毛沢東の著作など多歧に渡り、クレムリンの住居や別荘にきちんと分類されて置かれていた。彼は寸暇を惜しんで読みふけり、多くの色鉛筆でアンダーラインを引いたり余白に書き込むのを楽しみとし、気に入った本は息子の誕生日プレゼントとして送った。訪問客には机上の新刊の包みを指さして﹁私の読書のノルマは毎日500頁です。﹂と公言していた。
スターリンのグルジア語のファーストネーム"იოსებ"は"Iosif"︵ヨシフ︶と音訳され、ラストネームの"ჯუღაშვილი"は、"Jugashvili" あるいは "Jughashvili"︵ジュガシヴィリ︶と音訳される[注釈18]。-შვილი "-shvili"はグルジア語の接尾辞で、﹁子供﹂または﹁息子﹂を意味する[注釈19]。ჯუღა︵jugha‥ジュガ︶には複数の語源があるが、グルジア東部カヘティ州にあるジュガアニ︵Jugaani︶村に由来する[398]。英語圏においては"Joseph Stalin"(ジョセフ-スターリン)と綴られる。
スターリンの生年月日は、長い間改竄されてきた[6]。スターリンの生年月日について発表された複数の情報源には矛盾があるが、ゴリにある生神女就寝教会にて、﹁1878年12月18日︵ユリウス暦:12月6日︶生まれ﹂という記録が発見されている。この出生日付は、学校の退学証明書、彼が23歳になる1902年4月18日からの広範な帝政支持者、ロシア秘密警察の記録、逮捕の記録、その他以前の革命活動の記録に至るまでそのままの状態で保存されている。1921年になってようやく、スターリン自身が手書きの履歴書にて﹁1878年12月18日﹂と記載している。しかしながら、1922年に権力を握ったのち、スターリンは自身の誕生日を﹁1879年12月21日︵ユリウス暦:12月9日︶﹂に変えた。その日は彼の誕生日としてソ連国内で祝われた[399]。
スターリンは、ソビエト連邦内の宗教法人と複雑な関係にあった[400]。スターリンは、グルジアの神学校で勉強していたころに隠れた無神論者となっている[401]。スターリンが無神論者になったという話は、スターリンが数年以上は信心深く、敬虔なままであったことを含むいくつかの明白な根拠を提示するのに失敗している[402]。根拠の一つとして、スターリンによる第二次世界大戦中の教会に対する禁止令は、彼が天から受けたと信じた指令であるという[403]。
スターリンは、少年時代からユダヤ人に対する嫌悪感を薄らながらも抱いていたが、ヒトラーのような強迫観念とは異なり、帝政時代のロシアではごくありふれた偏見の域を出ないものであった。﹁額に汗して働かぬ人々﹂というのが、長年スターリンが持っていたユダヤ人観であった。指導者になってからも、党・政府の役職にラーザリ・カガノーヴィチやマクシム・リトヴィノフなどユダヤ人などを重用し、反ユダヤ主義は犯罪であるとして糾弾しており[404]、公式には自身の反ユダヤ感情に触れることを避けていたが[注釈20]、私生活の場では、連日催されていた深夜の酒宴などにおいて、仲間たちとともにユダヤ人に対するエスニックジョークを話題にしては楽しんでいた。また、ロシアにおける反ユダヤ主義はスターリンの支配下で大幅に高まったことが指摘されている[404][405]。第二次世界大戦中には娘スヴェトラーナの最初の恋人、アレクセイ・カプレル︵英語版︶︵Aleksei Kapler︶がユダヤ人であったことから、彼を逮捕してヴォログダ収容所での5年間の重労働刑を宣告している。
スターリンは商業民族的なユダヤ人に定住地域を与えて農民に変えようとロシア極東にユダヤ自治州を設置したが、これは失敗した[407]。また、当初はダヴィド・ベン=グリオンが社会主義者だったことやキブツとソ連の農業集団化政策の類似点から、国連でのパレスチナ分割決議への支持や米国に次いでのイスラエル国家承認、チェコスロバキアを通じた武器援助を行うなどイスラエルに対する支援を行ったが[408]、冷戦が進行するとともにイスラエルは西側陣営につき、ソ連は反シオニズムを掲げることになり、スターリンはユダヤ人︵特にシオニスト︶に対する強迫観念に取り付かれるようになり、ソビエト体制の転覆を企むシオニズムの手先・破壊分子としてソ連国内のユダヤ人を危険視するようになった[404][409]。その代表例が医師団陰謀事件である。なお、スターリンは最晩年の1953年、﹁ユダヤ人問題の最終的解決﹂と称してソ連国内のユダヤ人全員をシベリアおよびカザフスタンに強制収容する計画を実行する予定であったといわれるが、スターリンの死によってこの計画は中止となり、後継者のベリヤにより逮捕されていたユダヤ人も全員釈放されたことで実現はしなかった[404][409]。
カフカースにはもともと極端な反ユダヤ主義はなかった。昔から多くの民族が隣り合って住んでいた地域であり、ユダヤ人もその民族の一つに過ぎなかった。グルジアに住むユダヤ人は、その多くが仕立て屋、貸金業者、靴職人などであり、いずれも裕福であったためか、靴作りの技術が優れていたためか、スターリンの父親である靴職人ヴィッサリオンは彼らを憎悪︵嫉妬から︶し、幼い息子に対してユダヤ人に対する憎悪を教え込んだ[410] ことも、スターリンの反ユダヤ感情の一因である。
レーニンは自身の晩年にスターリンと激しく対立している。とくにグルジア問題をめぐってスターリンの﹁大ロシア主義﹂を批判、スターリンの書記長職からの解任を提案するに至った。しかし、スターリンの独裁政治はレーニンの独裁政治と類似点がみられるという指摘が多くある。たとえばレーニンは反革命派を﹁害虫﹂と呼んで弾圧し、さらに農民から食料を強制徴発し飢餓による殺戮、帝政派を根絶させるためにクラークやコサックへの大量虐殺を行ったが、スターリンはこれらの特徴を引き継いだ。スターリンは大粛清では赤軍の将校を一掃し、さらにはウクライナにおけるホロドモールによって数多くの死者を出すなど、徹底した恐怖政治を敷いた。さらに秘密警察による罪状のでっち上げや強制収容所への収容も共通している。ゴルバチョフはスターリンだけでなくその元凶のレーニンも批判した。
スターリンは宿敵であるヒトラーを高く評価し、親近感を抱いていたと言われている。イギリスの外務大臣︵当時︶アンソニー・イーデンと会談した時、スターリンはヒトラーを賞賛するような発言をした。しかしイーデンが唖然としているのに気が付いたスターリンは慌てて、﹁ヒトラーは欲望の限界を知らないが、自分は満足というものを知っている﹂と発言し、西ヨーロッパへの野心がないことを表明したという。1934年、ヒトラーがエルンスト・レームを抹殺したことを知ったスターリンは﹁ヒトラーとは実にたいした奴だ!政敵を片付けるには一番良い方法だ﹂とミコヤンに語った[411]。
1940年11月12日、モロトフとウラジーミル・デカノゾフソ連大使、通訳2人がヒトラーの執務室を訪れた際、ヒトラーはモロトフと握手をかわし﹁スターリン閣下は歴史的人物であり、私もそうなるでしょう。是非閣下と会談したい﹂と述べた。帰国したモロトフが伝えると、スターリンは有頂天になったという[411]。
なお、ヒトラーもスターリンを自分に唯一匹敵する指導者として評価していた。独ソ戦中の1942年には﹁スターリンは我々の無条件の尊敬に値する。彼は彼なりに並々ならぬ人物であり、半ば野獣、半ば巨人である﹂と言明した。また﹁ロシアをあの男にまかせるのも悪くない。もちろん我が国の管理下でだが。彼はロシア人を取り扱う方法を心得ているからな﹂と夕食会で述べた[292]。ベルリン陥落寸前の1945年にも、アルベルト・シュペーアの前でスターリンを賞賛していた。ヒトラーは頑固な反共主義者として知られるが、一方でボリシェヴィキの政策に影響を受け、一党独裁制、統制経済、秘密警察、強制収容所、宣伝手法をソ連を参考に創設したといわれる︵ベニート・ムッソリーニのイタリアにはスターリン時代のソ連やナチスの様な大規模な収容所や秘密警察の組織は存在しなかった︶。さらに、トゥハチェフスキーやエルンスト・レームのような政敵の排除のやり方を、ヒトラーとスターリンはともに参考・利用した説も存在する。
ソ連軍によるベルリン陥落直前に起きたアドルフ・ヒトラーの死の際はスターリンはこれを疑い、ヒトラーの亡骸を発見して死亡したことを確認するよう命じ、総統官邸を制圧して正式な検死の報告があっても容易に信じようとしなかった[414][415]。
ヒトラーとスターリン、両者と握手をしたことがあるワレンチン・M・ベレズホフ︵フランス語版︶︵モロトフ、スターリン元通訳︶によれば、2人の握手は﹁そっけなく、冷淡﹂である点でよく似ていたという。ベレズホフによれば、スターリンは敗者ヒトラーに配慮し、わざとヒトラーの遺体は見つからなかったと宣伝した。彼は一連のスターリンとヒトラーの交流を﹁残酷なロマンス﹂と評した。
セルゲイ・エイゼンシュテイン
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "ヨシフ・スターリン" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年3月) |
残虐極まりなく、悪の帝王そのもののような印象を受けるが、外部からの訪問者と話すときは常に口元に微笑を浮かべ、謙虚であり、他人を持ち上げるなどして、好感を持たれた男性であった。話相手を魅了する力があり、酒席ではその力が倍増した[421]。日本の松岡洋右外務大臣は、スターリンとモロトフの接待で泥酔し、抱えられてクレムリンを退出した[421]。1939年8月23日、独ソ不可侵条約締結後のカクテルパーティーにおいて、訪ソと同時にドイツより運搬してきた﹁新第三帝国首都模型﹂を披露したヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相はスターリンと大いに意気投合した[422]。帰国後、ヒトラーに﹁スターリンとモロトフは実に気持ちのよい連中です。懐かしい党友に囲まれているようでした﹂と報告したとされる。1941年12月、イギリス外相アンソニー・イーデンに独ソ戦勝利を断言してイーデンを安心させる一方、腹心達には﹁レーニンが築いたものを失った、破局だ﹂と弱音をはいた[423]。
レーニンの﹃大会への手紙﹄の存在を知ったとき、スターリンは書記長の辞任を表明したが、その表明は断固たるものではなかった。スターリンは、1920年代にも辞任を2度表明しており、第15回党大会のあとにはより断固たる形で辞任を表明している。トロツキーとジノヴィエフの合同反対派は敗北し、大会はこれを組織的に手続きした。この大会後の第1回中央委員会総会にて、スターリンは中央委員たちに対して﹁最近までこういう事情があったと思う。つまり、反対派にたいしてある程度対抗してきた多少とも峻厳な人間として、党は私を書記長のポストに置く必要があったことだ。反対派は現在、粉砕されただけでなく、党から追放された。ところが、われわれにはレーニンの指示があり、私の考えでは、これを実現しなければならないと思う。したがって私は、書記長のポストからの解任を総会に要請する。同志のみなさん、党はこれによって得するばかりで損はないと、私はみなさんに請け合う﹂と要請した。しかし、この頃のスターリンの権威は増大しており、党内では団結を目指して闘い、さまざまな分派たちに容赦なく反論を加える体現者となった。書記長の辞任は再び思いとどまるよう説得されたが、スターリンは慰留されることを確信していた。解任要請も、自分の立場を強化するためであった。
トロツキーとの権力闘争の時、トロツキーがレーニンの遺書を公表し、遺書通りにトロツキーらがスターリンに書記長の座を降りるよう要求した際、スターリンは一切反論せずに反省の弁を述べ、書記長の座を降りることを明言している。しかし、この時スターリンは、﹁私はしがない事務屋ですが、あなたたちのお力になりたいのです﹂などと持ち上げてカーメネフたちに接触していた。すでに地盤を固めていたスターリンは、カーメネフ、ジノヴィエフらの反対によって、書記長の座に留まったのである。その後カーメネフらがトロツキーの権力をそごうと人民委員の座を降りるよう提案したとき、スターリンはトロツキーを擁護し、提案に反対している︵のちに解任し、追放した︶。これはほかの党員に自身の寛容さを見せるためであった。しかし、政敵を超える権力を持ち始める頃からスターリンはその本性を現し始め、ほかの党員が気付いたときには、もはやどうにもできないほどの絶大な権力を握っていた。スターリンは腹に一物も二物も持ち、本性を全く相手に感じさせず、仮面を被ることに長けていた。このため、スターリンが本性を現すまで、古参党員の多くは彼のことを取るに足らない小物と考えていた。
大抵は粗野で、傲慢で、虐待的であったスターリンであったが、主に政治家への訪問者に対しては魅力的で礼儀正しく振舞った[348][425]。
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "ヨシフ・スターリン" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年3月) |
スターリンはもともと人間不信だったのだが、権力を得る過程において独裁者にありがちなパラノイアが加わったことにより、猜疑心が極限までに加速する。特にスターリンは第一次五カ年計画とそれに次ぐ大粛清を行ったことによる死者とそれに伴う犠牲者の恨みを忘れることができず、この結果、自分は常に命を狙われていると偏執的に思い込むようになった。日常生活では毒殺を極度に恐れたため、彼が口にする飲食物は全てNKVDの管理下にある専用の農場や養魚場で採取され、専門家により入念に検査された。フルシチョフは、スターリンが﹁どこでも、誰に対しても、あらゆる事柄に関しても、敵・スパイ・裏切者の姿を見出した﹂と述べている。晩年にはベリヤ、フルシチョフなど有力な部下達の忠誠心を疑い、彼らの部屋を全員秘密警察に盗聴させている[要出典]。
また、一度でも敵の捕虜になっていた兵士をスターリンは﹁スパイの可能性がある﹂として決して信用せず、帰還しても彼らは強制収容所へ送られた。晩年の猜疑心が強かった時期には、はるか以前の第一次世界大戦時に捕虜になった者を処刑するほど疑い深かった。独ソ戦中、ドイツ軍はロシア人の捕虜に対して過酷な待遇をしたが、スターリンは自国民の捕虜に対する赤十字の調査も拒否し続け、挙句の果てにはロシア人の捕虜が収容された収容所を爆撃させている。爆撃機からばら撒かれたビラには﹁祖国を裏切った者たちへ﹂と書いてあった。スターリンには常に2人のボディーガードがつきそい、腹心モロトフとの会見にも同席した[426]。一方で執務室に入るためのボディーチェックは存在せず、入室手続きも行われなかった。デスクにはブロンズ製のカップが置かれ、太い青エンピツと赤エンピツが入っていた。重要外交書類に青エンピツで署名すると、全行政機関が即座に行動を開始した。
この性向は晩年に近づくほど強まり、﹁自分の周りにいる人間は全て敵である﹂という妄想に悩まされていた。あまりの恐怖に人前に出ることはほとんどなくなり、部屋から出ることは稀になっていった︵被害妄想の典型的な症状である︶。さらに、晩年には認知症も入り、スターリンの住居には厳重な警備が敷かれるようになった。軍隊が攻めてきても、2週間持つほどの重装備であったという。スターリンの部屋は複数に分かれており、どこに泊まるのか誰にも知らされず、スターリンしか持っていない鍵を、部屋に何重にも施していた。フルシチョフの回想によると、同志との会話で、スターリンの部屋へ行くとまた鍵が増えているのだろう、と話していた。無論、勝手に入ろうものならば容赦なく粛清された。ちなみに、スターリンが部屋に入ってからまずやることは、ランプを持って部屋を隅々まで検査することであった[要出典]。スターリンの元通訳は、信じていたヒトラーに裏切られた屈辱と恐怖から、もともと強かった猜疑心が病的になったのではないかと述べている[426]。
スターリン時代の犠牲者数については諸説あるが、膨大な犠牲者が出たことは確実である。
M.エルマンは、1934年から1953年までに、グラーグ管理下の労働収容所に1875万人が収容され、100万人以上が処刑され、200万人が労働軍その他グラグの強制労働組織に編入され、強制移住の対象となった少数民族は500万、1928年以降にクラークとして抑圧された人は1000万人であり、被害者の合計は3675万人と推計した[429][430]。
歴史学者オーランドー・ファイジズによれば、スターリン体制下の被害者、つまり銃殺された人、強制収容所に収容された人、特殊居住地に移送されたクラーク、奴隷労働を強制された人、強制移住の対象となった少数民族などの総数は控えめにみつもっても2500万人と推計される[430][注釈21]。しかし、ここには飢饉の犠牲者や戦死者など戦争犠牲者は含まれない[430]。
歴史学者ネイマークは、スターリン時代におよそ1500万人から2000万人が共産主義の名において殺害されたという[431]。
1920年から1951年にかけての強制移送では約2000万人が強制移住させられ、約112万人 - 191万人が殺害された。NKVDによって、ウクライナの約100万人のドイツ人、約107万人のヴォルガドイツ人がシベリア、カザフスタンに強制移住させられ、うち20%の約41万人が輸送中または移住地に到着後に死亡し、他の少数民族ふくめて約80万人近くが殺害された[432]。クリミアでのタタール人、ギリシア人、アルメニア人、イタリア人、ブルガリア人など18万3000人がバレンツ海方面へ、15万1000人がウズベキスタンに強制移住させられた[432]。
強制収容所グラーグには総計1800万人〜2500万人が収容され、1930年から1953年までにグラーグでの死者数は150万から600万人にのぼった[433][434][435][436][437][438]。
1930年から1937年にかけてのクラーク撲滅運動による死者数は650万人、農業集団化によるカザフ人の死者数は100万人、1932-33年の飢餓(ホロドモール)の死亡者数はウクライナで500万人、北カフカースで100万人、その他の地域100万人で合計1450万人が死亡した[439]。
1930年代の集団化、飢饉、大テロルのスターリン体制の犠牲者の総数は1600万 - 2200万人、うち集団化の犠牲500万、飢饉による死亡500万 - 750万、大粛清による死者500万 - 1000万人とされ、戦後の犠牲も含めれば2500万人以上ともされた[440]。
ソ連崩壊以降の資料公開に基づく計算では、1937年のソ連の人口は1億6200万人であり、1926年 - 1939年の過剰死亡者総数は790万人、ウクライナの1932年 - 1934年飢饉︵ホロドモール︶の被害は200万 - 300万人︵出生率低下をふくめた人口喪失では350万 - 400万人︶、その他の地域の犠牲は400万 - 600万人とされる[440]。ただし、カザフスタンについては中国への流出と死亡が区別困難であり、また飢饉のなかで死んだため登録されなかった乳幼児が200万いたともされる[440]。集団化による犠牲は50万 - 100万で、粛清による犠牲は150 - 300万人とされ、1930年 - 1953年の銃殺刑は80万人[440]。
大粛清では80万人︵NKVD統計では74万5220人[441]︶が処刑された[442]。
第二次世界大戦後のドイツ人追放では、1500万人のドイツ人が強制移住させられ、200万人が死亡した[432]。シベリア抑留では約57万5000人の日本人が強制収容所に収容され[443]、うち約5万8232人が死亡した[444]。
スターリン政権下のロシアで発生した大飢饉は、ほかの地域にも影響を及ぼした。
- ソ連時代のウクライナ・ソビエト社会主義共和国
ソビエトウクライナにおける犠牲者の総数は、現在では220万人[445][446]から1000万人に及ぶと試算されている[447][448][449]。当時のソ連は国際連盟への加盟をまだ認められていなかったが、国際連盟はソ連に飢饉への対応について勧告を行い、飢饉が収束したあとの1934年、加盟を認めた[注釈22]。
現代の多くの学者は、ソ連時代の飢饉はスターリン治下のソ連政府の方針によって引き起こされたものであることに同意している[450]。その他の歴史学者は、1931年と1932年の不十分な収穫高は飢饉がもたらしたさまざまな天災によって引き起こされ、1933年の豊作によって飢饉は終結したと考えている[451]。ソビエトおよびその他の歴史学者は、迅速な農業集団化が同じくソ連の迅速な工業化を達成させ、最終的に第二次世界大戦に勝利するために必要であったと主張する。
ウクライナで発生した大飢饉ホロドモールは、﹁ウクライナ人の大量殺人﹂と呼ばれることがある。この飢饉はソ連政府による企みであることを示唆しており、とくに政治的な要因と社会的な存在物としてウクライナ国家を破壊するためにウクライナ人が標的にされた[452]。一方の歴史家たちは26の国々が公式に認めたこの飢饉がジェノサイド条約に該当するホロドモールへと至る政策であろうとなかろうと、異議を唱え続けている。
歴史学者のアラン・ブロックによると、﹁ソビエト全体の穀物量は1931年時のそれほど悪くはない ...ウクライナ人500万人もの犠牲者を出した飢饉は、穀物の不作ではなく国家の需要過多であった﹂という。スターリンは飢饉を緩和することができたであろう多数の穀物の備蓄の解放を拒絶し、その一方で穀物の輸出を続けた。ウクライナの農民は穀物を隠しており、それに応じて過酷で新しい集団農場の窃盗法を厳重に施行した、とスターリンは確信した[453][454]。
教授のマイケル・エルマンは、ウクライナ人は1932年から1933年における大量虐殺の犠牲者となった、と結論付けている。より緩和された定義によれば、その主張は大量虐殺研究の分野の一部の専門家から支持されている。エルマンはまた、この大量のウクライナ人の死がソビエトによる大量虐殺︵例:Polish Operation of the NKVD︶でなければ、大量の犠牲者に関する事柄に関しては最悪であると主張している[455]。
レーニン時代にも飢餓に見舞われていたウクライナ人の間では、飢餓への怯えから反ソ感情が激増した。そのことから、1941年のナチス・ドイツとソ連の開戦のときには、スターリンの恐怖政治からの解放についての期待が高まることになった︵NKVDはウクライナから退却する際に再び大量殺戮を行っている︶。しかし、その後の独ソ戦ではウクライナも激戦地となり︵ナチス・ドイツもまた、ウクライナ人にとっては過酷な占領者であった︶、500万以上の死者を出した。
第二次世界大戦の直後
ソ連は、1946年から1948年におけるソ連国内の大規模な飢饉︵Famines in Russia and USSR︶でおよそ100万から150万人が犠牲となった経済政策と資格授与制度、ならびに繁殖力の低下による第2の人口減少を経験した[456]。
現代への影響
2006年11月28日、ウクライナの議会は﹁ソビエト時代の強制的な飢饉はウクライナ人に対する大量虐殺である﹂という議案を通しており[457]、同国の大統領ヴィクトル・ユシチェンコ︵当時︶はホロドモールを非難している。これに対してロシア政府は﹁当時のソ連指導部の主要な敵は民族ではなく、富農などの階級が相手だった﹂﹁飢餓によりロシア人にも一定の死者が出ている﹂とし、ウクライナによる親西欧・反ロシア的な政治キャンペーンであると反発している[458][459]。
ロシア内戦と戦時共産主義は、ロシア経済に壊滅的な影響を与えた。1922年の工業化による生産高は、1914年の13 %であった。経済の回復は、社会主義の枠内においてある程度の市場の柔軟性を許した新経済政策﹁ネップ﹂の下でもたらされた。スターリンの指導の下、この政策は1920年代後半に﹁五カ年計画﹂に差し替えるよう命ぜられた。これらは国の指導による急激な工業化という非常に野心的な事業と農業集団化を要求した。貿易をほとんど行わなかった共産党員と、近代的でない経済基盤に対する国際的な反応のため、スターリンの政府は、資本を工業に、富農から財産を冷酷に搾り取ることで再投資に費やしたものを確保するため、一般のソビエト国民の消費を抑制することで両方とも工業化に出資した。
1933年の労働者の実収は、1926年の頃のおよそ10分の1にまで落ち込んだ。強制収容所内の囚人と政治犯は、無報酬での労働を強制された。共産党員とコムソモールのメンバーらは、さまざまな建設事業のためにしばしば﹁動員﹂された。彼ら労働者への指導と、製造工程改善のため、ソ連は海外の専門家︵イギリスのエンジニア、スティーブン・アダムズやアメリカのアルバート・カーンなど︶を利用した。初期の破綻と失敗にもかかわらず、最初の2つの五カ年計画は、非常に低い経済基盤から迅速な工業化を成し遂げた。通常、ソ連がスターリンの指導の下で経済成長を遂げたことに同意される間に、正確な成長率については論争がある。しかしながら、これらの成長が、数百万人もの人間の死の上で成し遂げられたということについては議論の余地はない。
ソ連の公式の目算は、年間成長率を13.9 %と述べていた。ロシア人と西欧人は、5.8 %、さらには2.9 %という低い数字を示した。実際に、ある予測では、ソ連の経済成長率はスターリンの死後に一時的に非常に高くなっていた[460]。ロバート・ルイスによれば、前もって遡ると、ソ連経済を近代化するのに五カ年計画は大幅に役立ったという。
新製品が開発され、既存の生産の規模と効率は著しく増加した。一部の革新は、土着の技術開発や、導入された海外の技術に基づくものであった[461]。
ソ連政府の下、国民は社会的な自由化による利益と恩恵を受けた。少女は十分かつ平等な教育を施され、女性は就職においても平等な権利を得て[241]、自分と家族の生活を改善させた。スターリン時代の発展は、寿命と、典型的なソビエト国民の生活の質を上げたことで、健康管理の進歩に寄与した[241]。スターリンの方針は、健康管理と教育をソビエト国民なら誰でも関われるようにし、チフス、コレラ、マラリアへの感染の恐れが事実上ない第一世代を作り上げた[462]。これらの病気の発生は最低を記録し、寿命は10年単位で伸びた[462]。スターリン治下のソビエトの女性たちは、出産前の胎児の検診では病院の安全装置の下で出産可能な最初の世代であった[462]。
教育は、経済発展後の生活水準の向上の例でもあった。スターリン治下に生まれた世代は、ほぼ例外なく読み書きができる世代であった。1930年代には、数百万の人間が、大規模な識字能力運動、そして労働者訓練制度による恩恵を受けた[463]。技師たちは産業技術を学ぶため海外に送られ、外国の技師数百人が契約によってロシアに連れてこられた[462]。輸送関連が改良され、新しい鉄道が多く造られた。彼らの割り当てがスタハノフ運動参加者のそれを超えた労働者は、その奨励金を受け取った[463]。彼らは、急速に拡大するソビエトの経済によって大量生産された商品を買う余裕があった。工業化による需要の増加と、第二次世界大戦による労働人口の減少に起因した抑制は、生存者、とくに女性専用の求人広告の大幅な拡大を引き起こした[463]。
国内では、スターリンは自らを﹁大祖国戦争﹂においてドイツに対する勝利ヘ導いた偉大な戦時指導者として宣伝し、その結果、1940年代の終了までに、強力なプロパガンダ活動によってソ連のナショナリズムは増加した。多くの科学的な発見は、ソ連の研究者によって﹁取り戻された﹂。例として、
●ジェームズ・ワットの蒸気機関はチェレパノフ親子による発明
●トーマス・エジソンの白熱電球はヤブロクコフとロディジンによる発明
●グリエルモ・マルコーニの無線通信はポポフによるもの
●ライト兄弟の飛行機はモジャイスキーによる発明
とされた。また、第二次世界大戦前から戦後にかけて、スターリンを偉大な戦時指導者として、また、多民族国家であるソ連の指導者として賞賛する多数の映画とポスターが製作された。実際スターリンとレーニンはそう親密ではなかったのだが、親密であったように見せかけるために多くの写真が改竄され︵例として、上記のスターリン、レーニン、カリーニンの3人が映っている写真は、集合写真から切り出されたものである︶、多くの絵画や彫刻が作成された。それらはどれも、﹁偉大なる同志レーニンを補佐する偉大なる指導者スターリン﹂といった調子のものであり、﹁レーニンと親しげに談笑するスターリン﹂や﹁同志レーニンに内戦の状況を報告するスターリン﹂など、実際にはありえない題材ばかりであった。前述のように、革命直後の彼はグルジアなどに派遣されており、レーニンに﹁状況報告﹂できるような立場にはいなかった。それどころか、スターリンはポーランド・ソビエト戦争のとき自分の戦功を優先してトゥハチェフスキーを適切に支援しなかったとレーニンに糾弾され、革命軍事会議議員から罷免されてすらいる。当然、これらの事柄は完全に無視され、隠蔽された。
また、大粛清などで粛清された人物が載っているポスターや写真も改竄された︵壇上で演説するレーニンの写真においては、引き続き階段で待機していたトロツキーを削除している[464]︶。これらのポスターや写真を持っている個人は、粛清された人物の顔を切り抜くか、黒く塗り潰すよう求められた[465]。塗り潰されていない写真を持っていること自体が犯罪であるとされ、もし秘密警察に見つかればそれだけで処刑される可能性すらあった。
ほかにも、スターリンを誹謗中傷するような言動は厳禁とされ、家族や友人の間での些細な冗談であっても、密告によって逮捕・粛清される危険があったため、国民は細心の注意を払わねばならなかった。
スターリンは、ソ連周辺にてレーニンと自身の個人崇拝を作り上げた。レーニン廟の創設者による遺体防腐処理は、レーニンの未亡人であるナデジダ・クルプスカヤの異議に反して実行された。自らの思想をマルクス・レーニン主義として定式化し、レーニンをマルクスの正統な後継者と位置付けた。
スターリンは大いなる敬愛と崇拝の対象となった。歴史上の多くの個人崇拝が、彼のそれとたびたび比較された。数多くの街、村、都市はソビエトの指導者の名前から取られ、多くの都市がスターリンの名前を含むように改名し︵それらの都市や地名のリスト︶、多くの賞がスターリンの名前を冠するようになった。例えばスターリン国家賞やノーベル平和賞のソビエト版と言われるスターリン平和賞などである。政権の推移に伴って名称がしばしば変更されており、いずれもソビエト連邦の崩壊とともに廃止された。
また、スターリン︵もしくはスターリンとレーニン︶の彫像が大量に作成され、ありとあらゆる場所に設置されたが、当然これらもスターリンを称賛するプロパガンダの一環として建設されたため、上記の容貌の部分に書かれてあるような欠点は全て﹁修正﹂されていた。また、彫像のようなものだけではなく、文学や音楽、さらに詩集にもスターリンを神の如く賛美するものに満ち溢れていた。それらの作品の中には、第二次世界大戦を1人で終結させたといった荒唐無稽な内容のものが多い。また、1944年発表のソビエト連邦国歌にスターリンの名前が現れるほどの凄まじい個人崇拝がまかり通っていた。1948年には﹃スターリン小伝﹄という本が出版され、﹁最も偉大な統領﹂といった美辞麗句が大量に散りばめられた本であるが、この中にスターリン自ら書き加えた箇所がある、とフルシチョフは暴露している。その文章は﹁スターリンは、党と人民の統領としての課題を立派に果たし、全ソヴィエト人民の支持を完全に獲得していたが、反面、自分の活動の中に、自慢、高慢、うぬぼれなどの影が少しでも見えるのを許さなかった﹂という。
しかし、これらの事物はスターリンの実像を大きく歪めた。数多くの記念碑や像によって、スターリンがかつてのロシア皇帝アレクサンドル3世とは異なり、長身で頑強な男性であると仮定することは容易である。また、これらの作品を書いたり作ったりした人物全員が、例えばヴァノ・ムラデリに代表される筋金入りのスターリン崇拝者でない限りは、スターリンに心酔していたということをすぐには意味しない。そのように心酔しているふりをしなければならないという、一種の強迫観念と社会環境に囚われていた可能性は否定できない︵スターリンが気に入らない者は容赦なく粛清されるため︶。[要出典]
●﹃スターリン全集﹄︵英語版︶全13巻、外国語出版︵モスクワ︶、1954年 - J.V.STALIN Internet Library
●﹃無政府主義か社会主義か﹄
●﹃十月革命への道﹄
●﹃レーニン主義の基礎﹄スターリン全集刊行会翻訳 大月書店 1952年 ISBN 4272820109
●﹃レーニン主義の諸問題によせて﹄
●﹃民族問題とレーニン主義﹄
●﹃わが党内の社会民主主義的偏向について﹄
●﹃中国革命の見通しについて﹄
●﹃トロツキー主義かレーニン主義か?﹄
●﹃弁証法的唯物論と史的唯物論﹄
●﹃マルクス主義と民族問題﹄
●﹃ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争﹄
●﹃マルクス主義と言語学の諸問題﹄
●﹃ソ同盟における社会主義の経済的諸問題﹄
全集は大月書店より刊行された。全集に収録されなかった著作には、大月書店﹃スターリン戦後著作集﹄に収められている文献もある。
- 似而非レニン主義の克服 益田豊彦訳. 共生閣, 1927.
- 支那革命の現段階 ブハーリン共著 蔵原惟人訳. 希望閣, 1927.
- 支那革命の諸問題 高山洋吉譯. 叢文閣, 1927.9.
- 資本主義安定の諸問題 ジヤン・ステン,ロゾヴスキー共著 広島定吉訳. 白揚社, 1927.4.
- 新ロシア問答 益田豊彦訳. 希望閣, 1927.5. レニン主義の諸問題
- ソヴェート聯邦の内外政策 山内封介譯. 白揚社, 1927.
- トロツキーズムとレーニズム 荒井眞次譯. 共生閣, 1927. レーニズム叢書
- レエーニニズムの基礎 河合勝三訳. プレブス出版社, 1927.7. イスクラ・パンフレット(1927年に発売禁止処分[484])
- レニニーズム 千葉太郎譯. 白揚社, 1927.
- レニン主義と民族問題 松本篤一譯. 希望閣, 1927. レニン主義の諸問題
- 資本主義安定の最新現象と國際状勢について ブハーリン共著 岡田, 鳥海共譯. 南宋書院, 1928.
- 十月革命への道 佐野学,西雅雄訳編 白揚社, 1928. スターリン・ブハーリン著作集;第7巻
- 世界資本主義の安定より危機へ ブハーリン共著 広島定吉訳編. マルクス書房, 1928.6.
- 人間レニン クルプスカヤ共著 瓜生信夫訳. 希望閣, 1928.
- プロレタリア政治学 近藤栄蔵訳. 無産社, 1928.12.
- レーニン主義序論 高山洋吉譯. 希望閣, 1928. マルクス主義文庫
- レーニン主義の基礎 佐野學,西雅雄 編輯. スターリン・ブハーリン著作集刊行會, 1928.
- レーニン主義の爲の鬪爭 佐野學,西雅雄編輯. スターリン・ブハーリン著作集刊行會, 1928. スターリン・ブハーリン著作集 第12卷
- ロシア共産党第十五回報告演説 秋田篤訳. 希望閣,1928.6.
- 我党と反対派 島田元麿訳. 平野書房, 1928.
- 國際無産階級運動 ブハーリン 佐野學,西雅雄 編輯. 白揚社, 1929. スターリン・ブハーリン著作集 第16卷
- 社會主義建設の爲の鬪爭 ブハーリン 佐野學,西雅雄 編輯. 白揚社, 1929. スターリン・ブハーリン著作集 第10卷
- 報告と討論の結語 ブハーリン共著 佐野学,西雅雄共編. 白揚社, 1929.6. スターリン・ブハーリン著作集 第11巻
- マルキシズム的指導に對する二文献 ブハーリン共著 和田英二譯. 希望閣, 1929. マルクス主義文庫
- マルクス主義入門 ブハーリン共著 佐野学, 西雅雄訳編. 白揚社, 1929. スターリン・ブハーリン著作集 第1巻
- 労働者に答ふ ブハーリンスターリンより ブハーリン共著 滝口徹治訳. 希望閣, 1929.7.
- ロシアに於ける階級闘争と革命 ブハーリン共著 佐野学,西雅雄共編 スターリン・ブハーリン著作集刊行会, 1929
- 共産主義序説 レーニン共著 高山洋吉訳. 白揚社, 1930. 「マルクス主義の旗の下に」文庫
- 最近の問題 入江武一訳 白揚社, 1930.
- サヴェート農村の社会主義的建設 山口信次訳. 希望閣, 1930.
- サヴエート国家の現勢 茂森唯士訳. 戦旗社, 1930.
- 社会主義建設の勝利的躍進 全ソヴエート同盟第十六回党大会報告並ニ決議 大井三智夫訳 マルクス書房 1930.
- 世界資本主義の現段階 ブハーリン共著 佐野学,西雅雄共編. 白揚社, 1930.2. スターリン・ブハーリン著作集 第15巻
- レーニン主義の基礎 高木孝作訳 1930.6. 共生閣文庫
- レーニン主義の基礎 田畑三四郎譯. 白揚社, 1930.
- レーニン主義の基礎. 續 入江武一譯. 白揚社, 1930.
- レーニン主義とは何ぞや 北輝夫訳 1932.4. 共生閣文庫
- レーニン主義の基礎 野沢孝平訳 1933. 改造文庫
- レーニン主義の諸問題 白井転訳. 白揚社, 1932-33 スターリン著作集
- 支那革命論・民族問題 ブハーリン共著 有村俊雄等訳. 白揚社, 1936.
- 十月革命への道 佐伯嶺三訳. 民主評論社, 1946.
- ソヴェト民族政策論 米村正一訳. ナウカ社, 1946.
- ソ聯憲法とソ聯民主主義 園部四郎訳. 人民社, 1946.
- プロレタリアートの戰略と戰術 スターリンの二論文 青野季吉譯. 社會書房, 1946.8.
- 弁証法的唯物論と史的唯物論 石山正三訳. 社会主義著作刊行会, 1946. 社会主義著作集
- レーニン主義の基礎 北輝夫訳. 彰考書院, 1946.
- レーニン主義の基礎 秋山憲夫訳. 人民社, 1946.
- レーニン主義の諸問題 秋山憲夫訳. 人民社, 1946.
- レーニン主義の諸問題 第1 (レーニン主義の基礎) 広島定吉 訳. ナウカ社, 1946.
- レーニン小傳 ジノビエフ共著 船形書院, 1946.10.
- 十月革命論 高山洋吉訳. 鮎沢書店, 1947.
- レーニン主義の諸問題 外国語図書出版所 訳. 外国語図書出版所, 1948.
- スターリン全集. 第15巻 (ソヴェート同盟共産党史) 中城竜雄訳. 真理社, 1950.
- スターリン全集. 別巻 (レーニン主義の諸問題) 中城竜雄訳. 真理社, 1950.
- スターリン著作集 真理社 訳. 真理社, 1950.
- スターリン著作集. 第6,7 高山洋吉 訳. 第三書房, 1950.
- スターリンは答える アメリカ各界代表との会談を中心に 高山洋吉編. 五月書房, 1950.
- 無政府主義か社会主義か 片山サトシ訳編. 暁明社, 1950.
- スターリン著作集. 第8 (党内闘争論) 高山洋吉訳. 第三書房, 1951.
- 世界はひとつ 高山洋吉 訳編. 五月書房, 1951.
- 哲学論文集 真理社 訳編. 真理社, 1951.
- 民族問題 箕浦義文訳. 五月書房, 1951.
- レーニン主義の諸問題 補集 高山洋吉訳. 第三書房, 1951.
- レーニン・スターリン中国論 解放社編集部編 平沢三郎,松本滋,小林信訳 五月書房, 1951.
- 作家への手紙 除村吉太郎編. ハト書房, 1952.
- スターリン全集 第1-13巻 スターリン全集刊行会 訳. 大月書店, 1952-53.
- ソ同盟における社会主義の経済的諸問題 日ソ親善協会 訳. 日ソ親善協会, 1952.
- レーニン主義の基礎について 平沢三郎訳 1952. 国民文庫
- レーニン主義の諸問題によせて 他三篇 田中順二訳 1952. 国民文庫
- 十月革命論 スターリン全集刊行会 訳 1953. 国民文庫
- スターリン 新村猛,松岡達也編訳 1953. 青木文庫
- ソ同盟における社会主義の経済的諸問題 民主主義科学者協会訳編 1953. 青木文庫
- ソ同盟における社会主義の経済的諸問題 他一篇 飯田貫一訳 1953. 国民文庫
- ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争 清水邦生訳 1953. 国民文庫
- 第十四回協議会と大会の報告 萩原秀夫訳 1953. 国民文庫
- 中国革命論 平沢三郎,松本滋共訳 1953. 国民文庫
- 弁証法的唯物論と史的唯物論 他二篇 石堂清倫訳 1953. 国民文庫
- ボリシェヴィキ党の建設 スターリン全集刊行会訳 1953. 国民文庫
- マルクス主義と民族問題 他十篇 平沢三郎等訳 1953. 国民文庫
- レーニン・スターリン社会主義経済建設論 中共幹部必読文献編集委員会編 石堂清倫訳. 五月書房, 1953.
- レーニンについて スターリン全集刊行会訳 1953. 国民文庫
- スターリン戦後著作集 スターリン全集刊行会訳. 大月書店, 1954.
- ソ同盟共産党大会政治報告. 第15回 スターリン全集刊行会訳 1954. 国民文庫
- ソ同盟共産党大会政治報告. 第16回 スターリン全集刊行会訳 1954. 国民文庫
- 民族問題とレーニン主義 他十篇 スターリン全集刊行会訳 1954. 国民文庫
- 平和的共存 スターリン全集刊行会訳 1955. 国民文庫
- レーニン=スターリン青年論 自由ドイツ青年団中央委員会編 松本滋訳 1955. 国民文庫
- スターリン極秘書簡 モロトフあて・1925年-1936年 ラーズ・リーほか編 岡田良之助,萩原直訳. 大月書店, 1996.12.
(一)^ 1943年3月にソ連邦元帥の階級を授与され、1945年6月にソ連邦大元帥に昇進した。しかしスターリンは生涯ソ連邦大元帥の制服を着用することはなく、肩章もソ連邦元帥のものを使用した。
(二)^ Сталин︵スターリン︶という名称は、ロシア語で﹁鋼鉄、鋼﹂を意味する名詞сталь︵スターリ︶に、﹁~の﹂を意味する接尾辞-ин︵イン︶が付いて形成された語である。したがって、この名称を文字通りに訳せば﹁鋼鉄の﹂となる。
(三)^ 実の父親は別の人物であるとの説も存在する[18]
(四)^ この経歴から聖書を隅から隅まで読んだといえる唯一の独裁者と評されている[34]。
(五)^ チアトゥラでは、スターリンとメンシェヴィキ党員の両者が炭鉱労働者からの支持を争った。メンシェヴィキ党員たちの大胆な雄弁よりも、明白で簡潔な話し方をするスターリンを好んだ鉱夫たちは、後者を選んだ[21]。
(六)^ この筆名自体は1912年から使用されていた。
(七)^ ウクライナのディレクトーリヤ政府は、ポーランドによるリヴィウなどハリチナー地方の領有を認める代わりに、ディレクトーリヤをウクライナを代表する唯一の政府として承認し、ソビエトをウクライナ領内から排除することを全面的に支援する確約をポーランドより取り付け、ポーランドと共闘していた。
(八)^ なお、ポーランドは翌年の1922年に日本政府と日波通商航海条約を締結し、手厚い輸出支援を受けた。
(九)^ 法曹会﹃法曹会雑誌﹄第1巻1号-6号︵1923年4月-9月︶。7号は
関東大震災の報となった。
(十)^ レーニンの遺書は地方代表団の長にだけ読み聞かせられ、トロツキーはスターリンの解任を要求する好機を掴むことができなかった[105]。
(11)^ 1938年12月8日に内務委員の職を罷免されてベリヤに取って代わられ、翌1939年の4月10日に逮捕され、1940年2月4日に銃殺刑となった。
(12)^ 封筒に入れない、別の候補者名を書くなどの無効票を加えればもう少し増える。
(13)^ 移住させられた43%が感染症と栄養失調で死んだともいう[279]
(14)^ チェチェン人は、スターリンの死後に故郷への帰還を許されたが、ロシアへの不信感と憎悪は強まった。クリミア・タタール人はウズベキスタンに移住させられ、クリミア・タタール人が追われたあとにはロシア人が住みついた。クリミア・タタール人帰還運動を行っていた自治組織メジュリスは、ソ連崩壊後もロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入に反対する運動や集会などを行っている[280][281][282][283]
(15)^ しかしこの時期に赤軍はスターリングラード前面で大規模な戦術的後退を実施しており、同指令と明らかに矛盾する。主眼は大祖国戦争の意義の強調であり、独諜報機関への撹乱工作の側面もあったものとされている。
(16)^ ﹃十三人﹄はシナリオと演出で好評を博し、アメリカで﹃サハラ戦車隊﹄﹃廃墟の守備隊﹄に再翻案された[396]
(17)^ 死後、蔵書は散逸して、書き込みが残されている書物は391冊しか見当たらない[397]
(18)^ ロシア語による音訳は"Джугашвили"、英語では"Dzhugashvili" あるいは "Djugashvili"と音訳される。
(19)^ 反ユダヤ主義プロパガンダの一部に﹁ジュガシヴィリ﹂を﹁ユダヤ人の息子﹂の意とする情報が存在するが、グルジア語でユダヤ人は"ebraeli" (ებრაელი) であり、したがってこの情報は誤りである︵Stalin before the Revolutionを参照︶
(20)^ 大粛清では、カーメネフ、ジノヴィエフ、ラデックらがユダヤ人である点には触れられなかった。トロツキーについても、﹃プラウダ﹄などの風刺画で、額にハーケンクロイツを付けた姿など﹁ナチスの手先﹂として描かれることが多く、ユダヤ人であることには言及されなかった。
(21)^ M.エルマンの合計3675万人から複数回収容された人を差し引けば、ファイジズの推計2500万人は実態よりも控えめとなる[430]。2500万人とは、1941年当時のソ連の人口2億人の8分の1にあたる。
(22)^ なお日本は1933年の齋藤内閣期に、国際連盟を脱退していた。ドイツも同様である。
(一)^ 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク. 2021年10月26日閲覧
(二)^ Сталин, Иосиф Виссарионович // Собаки — Струна. — М. : Советская энциклопедия, 1976. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 24, кн. I).
(三)^ Геннадий Ангелов. Люди, изменившие мир
(四)^ Память священномученика Ермогена (Долганева)
(五)^ Montefiore 2007, pp. 69–71.
(六)^ abAlthough there is an inconsistency among published sources about Stalin's year and date of birth, Iosif Dzhugashvili is found in the records of the Uspensky Church in Gori, Georgia as born on December 18 (Old Style:December 6) 1878. This birth date is maintained in his School Leaving Certificate, his extensive tsarist Russia police file, a police arrest record from April 18, 1902 which gave his age as 23 years, and all other surviving pre-Revolution documents. As late as 1921, Stalin himself listed his birthday as December 18, 1878 in a curriculum vitae in his own handwriting. However, after his coming to power in 1922, Stalin changed the date to 1879年December 21︵ユリウス暦 December 9︶. That became the day his birthday was celebrated in the Soviet Union.“Prominent figures”. State and Power in Russia. 2008年7月19日閲覧。
(七)^ Halfin, Igal. Terror in My Soul:Communist autobiographies on trial. pp. p.15. https://books.google.co.uk/books?id=TVOBqYG86EIC&dq=Terror+in+My+Soul:+Communist+Autobiographies+on+Trial&pg=PP1&ots=NMnl1AZWon&sig=9GSNRBpzl4MnhaGB5zWY0razesY&hl=en&sa=X&oi=book_result&ct=result#PPR7,M1
(八)^ Wheatcroft, S. G.;Davies, R. W.;Cooper, J. M. (1986). Soviet Industrialization Reconsidered:Some Preliminary Conclusions about Economic Development between 1926 and 1941. 39. Economic History Review. p. 264. ISBN 9780719046001. https://books.google.co.jp/books?id=m-voAAAAIAAJ&dq=&redir_esc=y&hl=ja
(九)^ abGetty, Rittersporn, Zemskov. Victims of the Soviet Penal System in the Pre-War Years:A First Approach on the Basis of Archival Evidence. The American Historical Review, Vol. 98, No. 4 (Oct., 1993), pp. 1017–1049.
(十)^ Abbott Gleason (2009). A Companion to Russian History. Wiley-Blackwell. p.373. ISBN 1-4051-3560-3
(11)^ Carley, Michael Jabara (1993). “End of the ‘low, dishonest decade’:Failure of the Anglo‐Franco‐Soviet alliance in 1939”. Europe-Asia Studies 45(2): 303–341. doi:10.1080/09668139308412091. ISSN 0966-8136.
(12)^ Weinberg, G.L. (1995). A World at Arms:A Global History of World War II. Cambridge University Press. p. 264. ISBN 0521558794
(13)^ Rozhnov, Konstantin, Who won World War II?. BBC.
(14)^ Superpower politics:change in the United States and the Soviet Union Books.Google.com
(15)^ How Russia faced its dark past, BBC News (5 March 2003)
(16)^ Russian youth:Stalin good, migrants must go:poll, Reuters (25 July 2007)
(17)^ Service 2004, p. 14; Montefiore 2007, p. 23.
(18)^ “Was Prejevalsky really the father of Joseph Stalin?”. Logoi.com. 2008年10月19日閲覧。
(19)^ Kotkin 2014, pp. 15–16.
(20)^ Service 2008, pp. 13–17.
(21)^ abcdefghijklmサイモン・セバーグ・モンテフィオーリ. Young Stalin. 2007. ISBN 9780297850687
(22)^ abMontefiore 2010, pp. 22–25.
(23)^ Service 2008, pp. 16–17.
(24)^ Ludwig, Arnold M., King of the Mountain:The Nature of Political Leadership, University Press of Kentucky, 2002, ISBN 0813190681 p.152
(25)^ Kotkin 2014, pp. 20–22.
(26)^ Conquest 1991, p. 12; Montefiore 2007, p. 31; Kotkin 2014, pp. 20–21.
(27)^ Montefiore 2007, pp. 31–32.
(28)^ Conquest 1991, p. 11; Service 2004, p. 20; Montefiore 2007, pp. 32–34; Kotkin 2014, p. 21.
(29)^ Service 2004, p. 20; Montefiore 2007, p. 36.
(30)^ Conquest 1991, p. 12; Service 2004, p. 30; Montefiore 2007, p. 44; Kotkin 2014, p. 26.
(31)^ Conquest 1991, p. 12; Volkogonov 1991, p. 5; Service 2004, p. 19; Montefiore 2007, p. 31; Kotkin 2014, p. 20.
(32)^ エドワード・ラジンスキー 1996, 上巻p52-53.
(33)^ エドワード・ラジンスキー 1996, 上巻p53.
(34)^ Galbraith JohnKenneth; 橋本恵﹃20世紀を創った人たち:ガルブレイス回顧録﹄TBSブリタニカ、1999年。ISBN 4484991179。
(35)^ Deutscher 1966, p. 28; Montefiore 2007, pp. 51–53; Khlevniuk 2015, p. 15.
(36)^ Montefiore 2007, pp. 54–55.
(37)^ Conquest 1991, p. 19; Service 2004, p. 36; Montefiore 2007, p. 56; Kotkin 2014, p. 32; Khlevniuk 2015, p. 16.
(38)^ Montefiore 2007, p. 69; Kotkin 2014, p. 32; Khlevniuk 2015, p. 18.
(39)^ Conquest 1991, p. 19; Montefiore 2007, p. 62; Kotkin 2014, pp. 36, 37; Khlevniuk 2015, p. 18.
(40)^ Deutscher 1966, p. 38; Montefiore 2007, p. 64.
(41)^ Montefiore 2007, p. 69.
(42)^ Montefiore 2007, pp. 70–71.
(43)^ 横手﹃スターリン﹄p.51 p.53
(44)^ Service 2004, p. 41; Montefiore 2007, p. 71.
(45)^ Deutscher 1966, p. 54; Conquest 1991, p. 27; Service 2004, pp. 43–44; Montefiore 2007, p. 76; Kotkin 2014, pp. 47–48.
(46)^ Montefiore 2007, p. 79.
(47)^ Deutscher 1966, p. 54; Conquest 1991, p. 27; Montefiore 2007, p. 78.
(48)^ abMontefiore 2007, p. 78.
(49)^ Conquest 1991, p. 27; Service 2004, p. 45; Montefiore 2007, pp. 81–82; Kotkin 2014, p. 49.
(50)^ Montefiore 2007, p. 82.
(51)^ Conquest 1991, p. 28; Montefiore 2007, p. 82; Kotkin 2014, p. 50.
(52)^ Deutscher 1966, p. 63; Rieber 2005, pp. 37–38; Montefiore 2007, pp. 87–88.
(53)^ Conquest 1991, p. 29; Service 2004, p. 52; Rieber 2005, p. 39; Montefiore 2007, p. 101; Kotkin 2014, p. 51.
(54)^ Montefiore 2007, pp. 91, 95; Kotkin 2014, p. 53.
(55)^ Montefiore 2007, pp. 90–93; Kotkin 2014, p. 51; Khlevniuk 2015, pp. 22–23.
(56)^ Conquest 1991, p. 29; Service 2004, p. 49; Montefiore 2007, pp. 94–95; Kotkin 2014, p. 52; Khlevniuk 2015, p. 23.
(57)^ Montefiore 2007, pp. 97–98.
(58)^ Conquest 1991, p. 29; Service 2004, p. 49; Rieber 2005, p. 42; Montefiore 2007, p. 98; Kotkin 2014, p. 52.
(59)^ Deutscher 1966, p. 67; Service 2004, p. 52; Montefiore 2007, p. 101.
(60)^ Deutscher 1966, p. 67; Conquest 1991, p. 29; Service 2004, p. 52; Montefiore 2007, p. 105.
(61)^ Deutscher 1966, p. 68; Conquest 1991, p. 29; Montefiore 2007, p. 107; Kotkin 2014, p. 53; Khlevniuk 2015, p. 23.
(62)^ Deutscher 1966, p. 75; Conquest 1991, p. 29; Service 2004, p. 52; Montefiore 2007, pp. 108–110.
(63)^ Service 2004, p. 52; Montefiore 2007, pp. 114–115.
(64)^ Service 2004, p. 52; Montefiore 2007, pp. 115–116; Kotkin 2014, p. 53.
(65)^ Service 2004, p. 57; Montefiore 2007, p. 123.
(66)^ Conquest 1991, pp. 33–34; Service 2004, p. 53; Montefiore 2007, p. 113; Kotkin 2014, pp. 78–79; Khlevniuk 2015, p. 24.
(67)^ Deutscher 1966, p. 76; Service 2004, p. 59; Kotkin 2014, p. 80; Khlevniuk 2015, p. 24.
(68)^ Montefiore 2007, p. 131.
(69)^ Conquest 1991, p. 38; Service 2004, p. 59.
(70)^ Kotkin 2014, p. 81.
(71)^ abDeutscher 1966, p. 80; Service 2004, p. 56; Montefiore 2007, p. 126.
(72)^ Service 2004, p. 58; Montefiore 2007, pp. 128–129.
(73)^ abMontefiore 2007, p. 129.
(74)^ Montefiore 2007, pp. 131–132.
(75)^ Montefiore 2007, p. 132.
(76)^ Montefiore 2007, p. 143.
(77)^ Deutscher 1966, p. 87; Montefiore 2007, pp. 135, 144.
(78)^ Montefiore 2007, p. 137.
(79)^ Montefiore 2007, pp. 132–133.
(80)^ Montefiore 2007, p. 145.
(81)^ Deutscher 1966, p. 90; Conquest 1991, p. 37; Service 2004, p. 60; Kotkin 2014, p. 81.
(82)^ Service 2004, p. 64; Montefiore 2007, p. 159; Kotkin 2014, p. 105.
(83)^ Service 2004, p. 64; Montefiore 2007, p. 167; Kotkin 2014, p. 106; Khlevniuk 2015, p. 25.
(84)^ Service 2004, p. 65.
(85)^ Conquest 1991, p. 41; Service 2004, p. 65; Montefiore 2007, pp. 168–170; Kotkin 2014, p. 108.
(86)^ “Luxury beckons for East End's house of history”. Guardian. 2008年7月19日閲覧。
(87)^ Deutscher 1966, p. 100; Montefiore 2007, p. 180; Kotkin 2014, p. 114.
(88)^ ニコライ・トルストイ 1984, p. 37
(89)^ Montefiore 2007, p. 189.
(90)^ Montefiore 2007, p. 191; Kotkin 2014, p. 115.
(91)^ Conquest 1991, p. 44; Service 2004, p. 71; Montefiore 2007, p. 193; Kotkin 2014, p. 116.
(92)^ Montefiore 2007, p. 194.
(93)^ Service 2004, p. 74; Montefiore 2007, p. 196; Kotkin 2014, p. 115.
(94)^ Montefiore 2007, pp. 197–198; Kotkin 2014, p. 115.
(95)^ Montefiore 2007, p. 195.
(96)^ Conquest 1991, p. 44; Service 2004, p. 68; Montefiore 2007, p. 203; Kotkin 2014, p. 116.
(97)^ Conquest 1991, p. 45; Service 2004, p. 68; Montefiore 2007, pp. 206, 208; Kotkin 2014, p. 116.
(98)^ Conquest 1991, p. 46; Montefiore 2007, p. 212; Kotkin 2014, p. 117.
(99)^ Conquest 1991, p. 46; Montefiore 2007, pp. 222, 226; Kotkin 2014, p. 121.
(100)^ エドワード・ラジンスキー 1996, 上巻p108-110.
(101)^ Conquest 1991, p. 47; Service 2004, p. 80; Montefiore 2007, pp. 231, 234; Kotkin 2014, p. 121.
(102)^ Montefiore 2007, p. 236; Kotkin 2014, p. 121.
(103)^ Montefiore 2007, p. 237; Kotkin 2014, pp. 121–22.
(104)^ Service 2004, p. 83; Kotkin 2014, pp. 122–123.
(105)^ abcdefgRobert Service. Stalin:A Biography. 2004. ISBN 978-0-330-41913-0
(106)^ Conquest 1991, p. 48; Service 2004, p. 83; Montefiore 2007, p. 240; Kotkin 2014, pp. 122–123.
(107)^ Montefiore 2007, p. 241.
(108)^ Service 2004, p. 84; Montefiore 2007, p. 243.
(109)^ abService 2004, p. 84; Montefiore 2007, p. 247.
(110)^ Conquest 1991, p. 51; Montefiore 2007, p. 248.
(111)^ Montefiore 2007, p. 249; Kotkin 2014, p. 133.
(112)^ Service 2004, p. 86; Montefiore 2007, p. 250; Kotkin 2014, p. 154.
(113)^ Conquest 1991, p. 51; Service 2004, pp. 86–87; Montefiore 2007, pp. 250–251.
(114)^ Montefiore 2007, p. 255.
(115)^ Montefiore 2007, p. 256.
(116)^ Conquest 1991, p. 52; Service 2004, pp. 87–88; Montefiore 2007, pp. 256–259; Kotkin 2014, p. 133.
(117)^ Montefiore 2007, p. 263.
(118)^ Conquest 1991, p. 54; Service 2004, p. 89; Montefiore 2007, p. 263.
(119)^ Service 2004, p. 89; Montefiore 2007, pp. 264–265.
(120)^ Service 2004, p. 59.
(121)^ Conquest 1991, p. 53; Service 2004, p. 85; Montefiore 2007, p. 266; Kotkin 2014, p. 133.
(122)^ Kotkin 2014, p. 133.
(123)^ abMontefiore 2007, p. 267.
(124)^ Himmer 1986, p. 269; Volkogonov 1991, p. 7; Service 2004, p. 85.
(125)^ Himmer 1986, p. 269; Service 2004, p. 85.
(126)^ Himmer 1986, p. 269; Volkogonov 1991, p. 7; Montefiore 2007, p. 268; Kotkin 2014, p. 133.
(127)^ Himmer 1986, p. 269.
(128)^ Montefiore 2007, pp. 267–268.
(129)^ Montefiore 2007, pp. 268–270; Khlevniuk 2015, p. 28.
(130)^ Conquest 1991, p. 54; Service 2004, pp. 102–103; Montefiore 2007, pp. 270, 273; Khlevniuk 2015, p. 29.
(131)^ Montefiore 2007, pp. 273–274.
(132)^ Conquest 1991, p. 55; Service 2004, pp. 105–106; Montefiore 2007, pp. 277–278; Khlevniuk 2015, p. 29.
(133)^ Montefiore 2007, p. 287.
(134)^ Conquest 1991, p. 56; Service 2004, p. 110; Montefiore 2007, pp. 288–289.
(135)^ Service 2004, p. 107; Montefiore 2007, pp. 282–285; Kotkin 2014, p. 155; Khlevniuk 2015, p. 30.
(136)^ Montefiore 2007, pp. 292–293.
(137)^ Montefiore 2007, pp. 298, 300.
(138)^ Conquest 1991, p. 57; Service 2004, pp. 113–114; Montefiore 2007, p. 300; Kotkin 2014, p. 155.
(139)^ Conquest 1991, p. 57; Montefiore 2007, pp. 301–302; Kotkin 2014, p. 155.
(140)^ Service 2004, p. 114; Montefiore 2007, p. 302; Kotkin 2014, p. 155.
(141)^ Service 2004, p. 114; Montefiore 2007, p. 302.
(142)^ Volkogonov 1991, pp. 15, 19; Service 2004, p. 117; Montefiore 2007, p. 304; Kotkin 2014, p. 173.
(143)^ Volkogonov 1991, p. 19; Service 2004, p. 120; Montefiore 2007, p. 310.
(144)^ Conquest 1991, pp. 59–60; Montefiore 2007, p. 310.
(145)^ Conquest 1991, p. 64; Service 2004, p. 131; Montefiore 2007, p. 316; Kotkin 2014, p. 193; Khlevniuk 2015, p. 46.
(146)^ Montefiore 2007, p. 316.
(147)^ Conquest 1991, p. 65; Montefiore 2007, pp. 319–320.
(148)^ Montefiore 2007, p. 32.
(149)^ Montefiore 2007, pp. 322–324; Kotkin 2014, p. 203; Khlevniuk 2015, pp. 48–49.
(150)^ Montefiore 2007, p. 326; Kotkin 2014, p. 204.
(151)^ Conquest 1991, p. 68; Service 2004, p. 138.
(152)^ Montefiore 2007, pp. 332–333, 335.
(153)^ Service 2004, p. 144; Montefiore 2007, pp. 337–338.
(154)^ Service 2004, p. 145; Montefiore 2007, p. 341.
(155)^ Montefiore 2007, pp. 341–342.
(156)^ Montefiore 2007, pp. 344–346.
(157)^ Service 2004, pp. 145, 147.
(158)^ Service 2004, pp. 144–146; Kotkin 2014, p. 224; Khlevniuk 2015, p. 52.
(159)^ Service 2004, pp. 147–148; Kotkin 2014, pp. 227–228, 229; Khlevniuk 2015, p. 52.
(160)^ Conquest 1991, p. 70; Volkogonov 1991, p. 30; Service 2004, p. 148; Kotkin 2014, p. 228; Khlevniuk 2015, p. 52.
(161)^ Conquest 1991, p. 71; Kotkin 2014, p. 228.
(162)^ Conquest 1991, p. 71; Kotkin 2014, p. 229.
(163)^ Montefiore 2003, p. 27; Kotkin 2014, p. 226.
(164)^ Service 2004, p. 150.
(165)^ Montefiore 2003, p. 157.
(166)^ abService 2004, p. 158.
(167)^ Service 2004, p. 165; Kotkin 2014, pp. 268–270.
(168)^ Conquest 1991, p. 77; Volkogonov 1991, p. 39; Montefiore 2003, p. 27; Service 2004, p. 163; Kotkin 2014, pp. 300–301; Khlevniuk 2015, p. 54.
(169)^ Service 2004, p. 173.
(170)^ Service 2004, p. 164; Kotkin 2014, pp. 302–303.
(171)^ Conquest 1991, pp. 78, 82; Montefiore 2007, p. 28; Khlevniuk 2015, p. 55.
(172)^ Conquest 1991, p. 81; Service 2004, p. 170.
(173)^ Volkogonov 1991, p. 46; Montefiore 2007, p. 27; Kotkin 2014, pp. 305, 307; Khlevniuk 2015, pp. 56–57.
(174)^ Conquest 1991, pp. 78–79; Volkogonov 1991, p. 40; Service 2004, p. 166; Khlevniuk 2015, p. 55.
(175)^ Service 2004, p. 171.
(176)^ Service 2004, p. 169.
(177)^ Service 2004, p. 175.
(178)^ Conquest 1991, p. 91; Service 2004, p. 175.
(179)^ Service 2004, p. 176.
(180)^ Service 2004, p. 174.
(181)^ abService 2004, p. 178.
(182)^ Fischer 1964, p. 389; Rice 1990, p. 182; Volkogonov 1994, p. 281; Service 2000, p. 407; White 2001, p. 161.
(183)^ Service 2004, p. 176; Kotkin 2014, pp. 352–354.
(184)^ Service 2004, p. 178; Kotkin 2014, p. 357; Khlevniuk 2015, p. 59.
(185)^ Service 2004, pp. 176–177.
(186)^ abcdService 2004, p. 177.
(187)^ Conquest 1991, p. 87; Service 2004, p. 179; Kotkin 2014, p. 362; Khlevniuk 2015, p. 60.
(188)^ Service 2004, pp. 180, 182; Kotkin 2014, p. 364.
(189)^ Service 2004, p. 182; Kotkin 2014, pp. 364–365.
(190)^ Davies 2003, p. 211; Service 2004, pp. 183–185; Kotkin 2014, pp. 376–377.
(191)^ Service 2004, pp. 184–185; Kotkin 2014, p. 377.
(192)^ Service 2004, p. 185.
(193)^ Kotkin 2014, p. 392.
(194)^ Kotkin 2014, pp. 396–397.
(195)^ Kotkin 2014, p. 388.
(196)^ Service 2004, p. 202.
(197)^ Service 2004, pp. 199–200; Kotkin 2014, p. 371.
(198)^ Service 2004, p. 200.
(199)^ Service 2004, pp. 194–196; Kotkin 2014, p. 400.
(200)^ Service 2004, pp. 194–195; Kotkin 2014, pp. 479–481.
(201)^ Service 2004, pp. 203–205; Kotkin 2014, p. 400.
(202)^ abConquest 1991, p. 127; Service 2004, p. 232.
(203)^ Conquest 1991, p. 89; Service 2004, p. 187; Kotkin 2014, p. 344; Khlevniuk 2015, p. 64.
(204)^ Service 2004, p. 186.
(205)^ Conquest 1991, p. 96; Volkogonov 1991, pp. 78–70; Service 2004, pp. 189–190; Kotkin 2014, p. 411.
(206)^ Service 2004, p. 190.
(207)^ Conquest 1991, p. 97; Volkogonov 1991, p. 53; Service 2004, p. 191.
(208)^ Service 2004, pp. 191–192; Kotkin 2014, p. 413.
(209)^ Service 2004, p. 192; Kotkin 2014, p. 414; Khlevniuk 2015, p. 68.
(210)^ Conquest 1991, p. 102; Service 2004, pp. 191–192; Kotkin 2014, p. 528.
(211)^ Conquest 1991, p. 98; Service 2004, p. 193; Kotkin 2014, p. 483; Khlevniuk 2015, pp. 69–70.
(212)^ Conquest 1991, p. 95; Service 2004, p. 195; Khlevniuk 2015, pp. 71–72.
(213)^ abService 2004, p. 195.
(214)^ Volkogonov 1991, p. 71; Service 2004, p. 194; Kotkin 2014, pp. 475–476; Khlevniuk 2015, pp. 68–69.
(215)^ Conquest 1991, pp. 98–99; Service 2004, p. 195; Kotkin 2014, p. 477, 478; Khlevniuk 2015, p. 69.
(216)^ Volkogonov 1991, p. 74; Service 2004, p. 206; Kotkin 2014, p. 485.
(217)^ ドミトリー・ヴォルコゴーノフ ﹃レーニンの秘密﹄下巻p.277
(218)^ ドミトリー・ヴォルコゴーノフ﹃レーニンの秘密﹄下巻 p.278
(219)^ 亀山郁夫﹃大審問官スターリン﹄︵小学館︶p.24。
(220)^ Kotkin 2014, p. 426.
(221)^ Kotkin 2014, p. 453.
(222)^ Kotkin 2014, p. 455.
(223)^ Kotkin 2014, pp. 495–496.
(224)^ Conquest 1991, p. 104; Montefiore 2003, p. 30; Service 2004, p. 219; Kotkin 2014, p. 534; Khlevniuk 2015, p. 79.
(225)^ abConquest 1991, p. 110; Montefiore 2003, p. 30; Service 2004, p. 219; Kotkin 2014, pp. 542–543.
(226)^ Conquest 1991, p. 130; Montefiore 2003, p. 30; Service 2004, p. 221; Kotkin 2014, p. 540.
(227)^ Fainsod & Hough 1979, p. 111.
(228)^ Montefiore 2003, p. 27.
(229)^ Conquest 1991, p. 98; Kotkin 2014, p. 474; Khlevniuk 2015, p. 52.
(230)^ Service 2004, pp. 222–224; Khlevniuk 2015, p. 79.
(231)^ abConquest 1991, p. 111; Volkogonov 1991, pp. 93–94; Service 2004, pp. 222–224; Kotkin 2014, pp. 546–548; Khlevniuk 2015, p. 79.
(232)^ Service 2004, pp. 214–215, 217.
(233)^ Khlevniuk 2015, p. 87.
(234)^ Service 2004, p. 225.
(235)^ Service 2004, p. 227.
(236)^ Service 2004, p. 228.
(237)^ Service 2004, p. 228; Kotkin 2014, p. 563.
(238)^ Service 2004, p. 240.
(239)^ abService 2004, pp. 240–243; Khlevniuk 2015, pp. 82–83.
(240)^ Conquest 1991, p. 126; Conquest 2008, p. 11; Kotkin 2014, p. 614; Khlevniuk 2015, p. 83.
(241)^ abcdサイモン・セバーグ・モンテフィオーリ. Stalin:The Court of the Red Tsar, Knopf, 2004 (ISBN 1-4000-4230-5).
(242)^ “The rise of Stalin:AD1921–1924”. History of Russia. HistoryWorld. 2008年7月19日閲覧。
(243)^ abHiroaki Kuromiya, The Voices of the Dead:Stalin's Great Terror in the 1930s. Yale University Press, 24 December 2007. ISBN 0300123892 p. 2
(244)^ Stalin, Joseph, Dizzy with success,Pravda, 2 March 1930
(245)^ Stalin, Joseph, Reply to Collective Farm Comrades, Pravda, 3 April 1930
(246)^ abcミハイル・ヴォスレンスキー著﹃ノーメンクラツーラ﹄
(247)^ Brackman 2001, p. 204.
(248)^ ﹃スターリン秘録﹄
(249)^ Brackman 2001, pp. 205–6
(250)^ Brackman 2001, p. 207
(251)^ abOvery 2004, p. 182.
(252)^ Tucker 1992, p. 456.
(253)^ abOrlando Figes The Whisperers:Private Life in Stalin's Russia, 2007, ISBN 0-8050-7461-9.
(254)^ Lenin, Stalin, and Hitler:The Age of Social Catastrophe. By Robert Gellately. 2007. Knopf. 720 pages ISBN 1400040051
(255)^ Ian Kershaw, Moshe Lewin, Stalinism and Nazism:Dictatorships in Comparison, Cambridge University Press 1997, ISBN 0521565219, page 300
(256)^ Leo Kuper, Genocide:Its Political Use in the Twentieth Century, Yale University Press 1982, ISBN 0300031203
(257)^ The scale of Stalin's purging of Red Army officers was exceptional—90% of all generals and 80% of all colonels were killed.This included three out of five Marshals, 13 out of 15 Army commanders, 57 of 85 Corps commanders, 110 of 195 divisional commanders and 220 of 406 brigade commanders as well as all commanders of military districts. (pg 195, Carell, P. (1964) Hitler's War on Russia:The Story of the German Defeat in the East. translated from German by Ewald Osers, B.I. Publications New Delhi, 1974 (first Indian edition).
(258)^ Tucker, Robert C., Stalinism:Essays in Historical Interpretation, , American Council of Learned Societies Planning Group on Comparative Communist Studies, Transaction Publishers, 1999, ISBN 0765804832, page 5
(259)^ ﹁ビジュアル世界史﹂︵東京法令出版︶129頁
(260)^ Overy 2004, p. 338.
(261)^ Barry McLoughlin; Kevin McDermott(eds) (2002). Stalin's Terror:High Politics and Mass Repression in the Soviet Union. Palgrave Macmillan. pp. 141. ISBN 1403901198. https://books.google.co.jp/books?id=8yorTJl1QEoC&pg=PA141&dq=stalin%27s+terror+700,000&ei=R05ZR9bZDoiUtgOr6pjBAw&ie=ISO-8859-1&sig=08u7x3Z4UWcEB5mE40uQ4mmllhs&redir_esc=y&hl=ja
(262)^ Hiroaki Kuromiya, The Voices of the Dead:Stalin's Great Terror in the 1930s. Yale University Press, 24 December 2007. ISBN 0300123892 p. 4
(263)^ Barry McLoughlin; Kevin McDermott(eds) (2002). Stalin's Terror:High Politics and Mass Repression in the Soviet Union. Palgrave Macmillan. pp. 6. ISBN 1403901198. https://books.google.co.jp/books?id=8yorTJl1QEoC&pg=PA6&ots=IOh_JSgyB0&dq=the+communist+elites+were+not+the+main+victims.&ie=ISO-8859-1&sig=dPGlm6GphRec7dkugH2rZooFafM&redir_esc=y&hl=ja
(264)^ Rosefielde, Steven (1996). “Stalinism in post‐communist perspective:New evidence on killings, forced labour and economic growth in the 1930s”. Europe-Asia Studies 48(6): 959–987. doi:10.1080/09668139608412393. ISSN 0966-8136. http://sovietinfo.tripod.com/RSF-New_Evidence.pdf.
(265)^ Conquest, Robert (1999). “Comment on Wheatcroft”. Europe-Asia Studies 51(8): 1479–1483. doi:10.1080/09668139998426. ISSN 0966-8136. http://sovietinfo.tripod.com/CNQ-Comments_WCR.pdf.
(266)^ Pipes, Richard, Communism:A History (Modern Library Chronicles), page 67
(267)^ Applebaum 2003, p. 584.
(268)^ Thurston, Robert W.; Lauber, Jack M. (1996). “Life and Terror in Stalin's Russia, 1934–1941”. History:Reviews of New Books 25(1): 35–35. doi:10.1080/03612759.1996.9952634. ISSN 0361-2759. , Life and Terror in Stalin's Russia:1934-1941. - book reviewsbyRobert Conquest, 1996, National Review
(269)^ Quoted in Dmitri Volkogonov, Stalin:Triumph and Tragedy (New York, 1991), pg 210.
(270)^ ﹃ソ連秘密資料集 大粛清への道﹄618頁
(271)^ King, pp.44-45
(272)^ King, pp.156-157
(273)^ 日本国憲法とは何か 八木秀次 PHP研究所 2003年 ISBN 9784569628394 p169
(274)^ Soviet Readers Finally Told Moscow Had Trotsky Slain. Published in the New York Times on January 5, 1989. Accessed October 4, 2007.
(275)^ abcdefネイマーク﹃スターリンのジェノサイド﹄,p101-104.
(276)^ abBoobbyer 2000, p. 130.
(277)^ abAlan Bullock, pp. 904–905
(278)^ abネイマーク﹃スターリンのジェノサイド﹄,p105.
(279)^ Soviet Transit, Camp, and Deportation Death Rates
(280)^ Rapoza, Kenneth (2014年3月16日). “As Crimea Secession Vote Passes, Ukraine Restricts Entry By Russians”. Forbes. http://www.forbes.com/sites/kenrapoza/2014/03/16/as-crimea-secession-vote-passes-ukraine-restricts-entry-by-russians/ 2015年12月2日閲覧。
(281)^ Doloov, Anna. “Authorities Threaten to 'Liquidate' Crimean Tatar Council”. The Moscow Times. 2015年12月2日閲覧。
(282)^ “Interview:Crimean Tatar Leader Expects Tensions To Rise”. Radio Free Europe/Radio Liberty. 2015年12月2日閲覧。
(283)^ “Crimean Tatar activists face "extremism" warning”. Agence-France Presse. 2015年12月2日閲覧。[リンク切れ]
(284)^ ベレズホフ 1995, p. 60
(285)^ ベレズホフ 1995, p. 60.
(286)^ ベレズホフ 1995, p. 66.
(287)^ ベレズホフ 1995, p. 69.
(288)^ abベレズホフ 1995, p. 70
(289)^ ベレズホフ 1995, p. 71.
(290)^ abベレズホフ 1995, p. 72
(291)^ ベレズホフ 1995, p. 21.
(292)^ abcベレズホフ 1995, p. 73
(293)^ NHKスペシャル﹃社会主義の20世紀﹄
(294)^ ベレズホフ 1995, p. 293.
(295)^ ベレズホフ 1995, p. 47.
(296)^ ﹁産業新潮﹂2000年10月号所収。﹃︻返せ!北方領土を!プーチン大統領︼~四島返還、粘り強く主張し続けよ~﹄細川隆一郎の﹁THE 提言﹂
(297)^ 寺山恭輔﹃スターリンと新疆:1931-1949年﹄社会評論社
(298)^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. “抗米援朝運動”. コトバンク. 2021年9月2日閲覧。
(299)^ Dildy, Doug; Laurier, Jim (2013-05-20). F-86 Sabre vs MiG-15: Korea 1950–53. Osprey Publishing. ISBN 9781780963211.
(300)^ Zaloga, Steven J. "The Russians in MiG Alley: The nationality of the "honcho" pilots is no longer a mystery. The Soviets now admit their part in the Korean War" Air Force Magazine, volume 74, issue 2, February 1991.
(301)^ Seidov, Igor; Britton, Stuart (2014-03-19). Red Devils over the Yalu: A Chronicle of Soviet Aerial Operations in the Korean War 1950–53. Helion and Company. ISBN 9781909384415. p.35
(302)^ Agov, Avram (2013). "North Korea's Alliances and the Unfinished Korean War" . The Journal of Korean Studies. Vancouver. 18 (2): 238.
(303)^ ボリス スヴァーリン 著、江原 順 訳﹃スターリン 上: ボルシェヴィキ党概史﹄ニュートンプレス、1989年2月1日、367頁。ISBN 9784315507607。
(304)^ 宇野俊一ほか編 ﹃日本全史︵ジャパン・クロニック︶﹄ 講談社、1991年、1104頁。ISBN 4-06-203994-X。
(305)^ abcd﹃ロシア - 崩れた偶像・厳粛な夢﹄ 下巻p.132 ロイ・メドヴェージェフによる証言。またメドヴェージェフによれば、党中央委員会当局者による連絡不備のため、モンゴルでは12月22日付の地元紙にスターリンについての論説と肖像写真が掲載されている。
(306)^ ﹃ロシア - 崩れた偶像・厳粛な夢﹄ 下巻p.133
(307)^ ロシアでようやく固まったスターリンへの評価 2010年5月19日 JB PRESS
(308)^ ab“プーチン氏は﹁手ぬるい﹂ ロシアで高まる独裁者スターリン人気﹁民主主義ではなく﹃皇帝﹄が必要﹂”. 東京新聞. (2022年5月25日). https://www.tokyo-np.co.jp/article/179406 2023年8月24日閲覧。
(309)^ スターリンテストに落第 Archived 2006年2月21日, at the Wayback Machine.
(310)^ “﹁歴史上の偉人﹂スターリン首位=プーチン氏は2位-ロシア調査”. 時事通信. (2017年6月27日). http://www.jiji.com/jc/article?k=2017062700738 2017年6月29日閲覧。
(311)^ シベリア観光庁、スターリン記念碑を再建
(312)^ スターリン人気上昇中 モスクワに新たなスターリンの銅像
(313)^ “スターリン人気じわり上昇 ロシア中部で胸像除幕”. 共同. (2011年7月20日). https://web.archive.org/web/20110723201436/http://www.47news.jp/CN/201107/CN2011072001000610.html
(314)^ Will Stewart (2010年4月23日). “Stalin's mass murders were 'entirely rational' says new Russian textbook praising tyrant |Mail Online”. Dailymail. http://www.dailymail.co.uk/news/article-1051871/Stalins-mass-murders-entirely-rational-says-new-Russian-textbook-praising-tyrant.html 2012年9月11日閲覧。
(315)^ 国立スターリン博物館公式サイト(グルジア語、ロシア語、英語)
(316)^ [1][リンク切れ]
(317)^ . 47NEWS. (2010年6月25日). 生誕地でスターリン像撤去 グルジア、未明に隠密作戦 2010年6月26日閲覧。
(318)^ Georgia on their mind
(319)^ THE FLAG OF CHANGE:GEORGIA’S NEW BANNER A EurasiaNet Photo Essay by Chris Schuepp:3/26/04 EurasiaNet Culture
(320)^ “スターリン再評価で旧市名復活の動き 世論﹁過去にこだわりすぎ﹂”. 毎日新聞. (2023年2月8日). https://mainichi.jp/articles/20230208/k00/00m/030/173000c 2023年9月24日閲覧。
(321)^ “﹁スターリングラード﹂復活 攻防戦勝利から70年 愛国心高揚 独裁者賛美に反発も”. 産経新聞. (2013年2月2日). https://web.archive.org/web/20130203024216/http://sankei.jp.msn.com/world/news/130202/erp13020219320002-n1.htm 2012年2月3日閲覧。
(322)^ abConquest 1991, p. 1.
(323)^ Conquest 1991, p. 1; Khlevniuk 2015, p. 97.
(324)^ Khlevniuk 2015, p. 97.
(325)^ Montefiore 2007, pp. 66–67.
(326)^ Conquest 1991, p. 1; Montefiore 2003, p. 2; Montefiore 2007, p. 42; Khlevniuk 2015, p. 97.
(327)^ Montefiore 2003, p. 579.
(328)^ Conquest 1991, p. 183; Volkogonov 1991, p. 5; Kotkin 2017, p. 5.
(329)^ Conquest 1991, p. 37.
(330)^ Conquest 1991, p. 149; Volkogonov 1991, p. 49; Service 2004, p. 334; Khlevniuk 2015, p. 52.
(331)^ Khlevniuk 2015, p. 329.
(332)^ Volkogonov 1991, pp. xx–xxi.
(333)^ ドミトリー・ヴォルコゴーノフ 1992, 上p25.
(334)^ Volkogonov 1991, p. 21; Khlevniuk 2015, p. 97.
(335)^ Montefiore 2003, p. 60.
(336)^ Montefiore 2003, p. 60; Service 2004, p. 525.
(337)^ Service 2004, p. 525.
(338)^ Montefiore 2003, pp. 35, 60.
(339)^ Service 2004, p. 331.
(340)^ Khlevniuk 2015, pp. 102, 227.
(341)^ Khlevniuk 2015, p. 195; Kotkin 2017, p. 3.
(342)^ Conquest 1991, p. 311; Volkogonov 1991, p. 102; Montefiore 2003, pp. 36–37; Service 2004, pp. 497–498.
(343)^ Conquest 1991, p. 282; Volkogonov 1991, p. 146; Service 2004, pp. 435, 438, 574; Kotkin 2017, p. 1.
(344)^ Conquest 1991, p. 12; Volkogonov 1991, p. 5.
(345)^ Conquest 1991, p. 12.
(346)^ Kotkin 2017, p. 4.
(347)^ Service 2004, p. 25; Khlevniuk 2015, pp. 13–14.
(348)^ abcNikolai Tolstoy. Stalin's Secret War. Holt, Rinehart, and Winston (1981), ISBN 0-03-047266-0. p. 19-21
(349)^ abcベレズホフ 1995, p. 223
(350)^ ニコライ・トルストイ 1984, p. 62.
(351)^ abエドワード・ラジンスキー 1996, 上巻p52
(352)^ Hartston, William. Encyclopedia of Useless Information.Naperville, Illinous:Sourcebooks, Inc. 2007. 350.
(353)^ レーニンの遺体保存を担当した人物の回想録、日本語訳は文春文庫︵2000年︶
(354)^ abService 2004, p. 343.
(355)^ Volkogonov 1991, p. 8; Service 2004, p. 337.
(356)^ Conquest 1991, pp. 193, 274; Volkogonov 1991, p. 63; Service 2004, p. 115; Kotkin 2014, p. 425; Khlevniuk 2015, p. 148.
(357)^ Service 2004, p. 42; Montefiore 2007, p. 353; Kotkin 2014, pp. 424, 465, 597.
(358)^ abService 2004, p. 115.
(359)^ Volkogonov 1991, p. 145.
(360)^ Conquest 1991, p. 317; Volkogonov 1991, p. xxvi; McDermott 2006, p. 13.
(361)^ Conquest 1991, p. xvi; Service 2004, p. 18; McDermott 2006, p. 13.
(362)^ Montefiore 2003, p. 42; Kotkin 2014, p. 424.
(363)^ Kotkin 2014, p. 424.
(364)^ Service 2004, p. 342.
(365)^ Volkogonov 1991, p. 120; Kotkin 2014, p. 648.
(366)^ abService 2004, p. 337.
(367)^ Khlevniuk 2015, p. 145.
(368)^ McCauley 2003, p. 92; Montefiore 2003, pp. 49–50; Kotkin 2014, pp. 117, 465; Kotkin 2017, p. 5.
(369)^ Montefiore 2003, p. 41.
(370)^ Service 2004, p. 338; Khlevniuk 2015, p. 53.
(371)^ Conquest 1991, p. 318; Khlevniuk 2015, p. 7.
(372)^ Service 2004, p. 258; Montefiore 2007, p. 285.
(373)^ Service 2004, pp. 4, 344.
(374)^ Kotkin 2014, p. 597; Kotkin 2017, p. 6.
(375)^ Service 2004, pp. 10, 344; Kotkin 2017, p. 5.
(376)^ Montefiore 2003, p. 175.
(377)^ Service 2004, p. 5.
(378)^ ベレズホフ 1995, p. 230.
(379)^ Montefiore 2007, p. 42.
(380)^ McDermott 2006, p. 12.
(381)^ Rappaport, Helen. Joseph Stalin:A biographical companion. Biographical Companions. Santa Barbara, California: ABC-CLIO. p. 72. ISBN 9781576070840
(382)^ “Historical Notes:The Death of Stalin's Son”. TIME (1968年3月1日). 2012年9月11日閲覧。
(383)^ Douglas, Martin. Lana Peters, Stalin’s Daughter, Dies at 85, New York Times, November 28, 2011. Retrieved November 29, 2011. "One of her brothers, Yakov, was captured by the Nazis, who offered to exchange him for a German general. Stalin refused, and Yakov was killed."
(384)^ “NYT:Ex-Death Camp Tells Story of Nazi + Soviet Horrors”. 2009年5月29日閲覧。
(385)^ Koba the Dread, p. 133, ISBN 0786868767;Stalin:The Man and His Era, p. 354, ISBN 0807070017, in a footnote he quotes the press announcement as speaking of her "sudden death";he also cites pp. 103–105 of his daughter's book, Twenty Letters to a Friend, the Russian edition, New York, 1967.
(386)^ “YouTube - Joseph Stalin Biography 1 of 2”. 2009年6月12日閲覧。
(387)^ abベレズホフ 1995, p. 327
(388)^ Kahan, Stuart, The Wolf of the Kremlin, William Morrow & Co, 1987
(389)^ Montefiore 2003, pp. 58, 507; Kotkin 2017, p. 1.
(390)^ Kotkin 2017, p. 1.
(391)^ Conquest 1991, p. 283; Service 2004, p. 437.
(392)^ Service 2004, p. 522.
(393)^ McCauley 2003, p. 90; Service 2004, pp. 437, 522–523; Khlevniuk 2015, p. 5.
(394)^ abMontefiore 2007, p. 24.
(395)^ ﹃知られざるスターリン﹄244頁
(396)^ abc山田和夫 (1993-03). “映画大好きの独裁者ジョセフ・スターリン”. ワンダープレス: 21.
(397)^ ﹃知られざるスターリン﹄P・121~122 P・351~357
(398)^ Предки Сталина ︵ロシア語︶
(399)^ “Prominent figures”. State and Power in Russia. 2008年7月19日閲覧。
(400)^ Avalos, Hector, Fighting Words:The Origins Of Religious Violence. by, page 325
(401)^ Vladislav Zubok; Constantine Pleshakov. Inside the Kremlin's Cold War:From Stalin to Khrushchev. pp. 4 Zubok and Pleshakov further state, "Many would later note, however, that his works were influenced by a distinctly Biblical style" and "his atheism remained rooted in some vague idea of a God of nature."
(402)^ Stalin:Breaker of Nations. by Robert Conquest, page 20
(403)^ (Radzinsky 1996, p.472-3)
(404)^ abcdニコライ・トルストイ 1984, pp. 39–40
(405)^ エドワード・ラジンスキー 1996, 下巻.429-430 p.440
(406)^ ニコライ・トルストイ 1984, pp. 35–36.
(407)^ “なぜスターリンは極東にユダヤ自治州を建設したか?”. ロシア・ビヨンド (2017年10月19日). 2020年12月2日閲覧。
(408)^ Recognition of Israel JSTOR - The American Journal of International Law, Vol. 4, No. 3, July 1948.
(409)^ ab﹃KGBの内幕﹄下巻p.73-84
(410)^ エドワード・ラジンスキー 1996, 上巻p44-45
(411)^ abベレズホフ 1995, p. 25
(412)^ ベレズホフ 1995, p. 24.
(413)^ ニコライ・トルストイ 1984, p. 99.
(414)^ Kershaw, Ian, Hitler, 1936-1945: Nemesis, W. W. Norton & Company, 2001, ISBN 0393322521, pages 1038-39
(415)^ Dolezal, Robert, Truth about History: How New Evidence Is Transforming the Story of the Past, Readers Digest, 2004, ISBN 0762105232, page 185-6
(416)^ ベレズホフ 1995, p. 23.
(417)^ ベレズホフ 1995, p. 74.
(418)^ abエドワード・ラジンスキー 1996, 下巻p378
(419)^ エドワード・ラジンスキー 1996, 下巻p377
(420)^ ﹃KGBの内幕﹄上巻p.38
(421)^ abベレズホフ 1995, p. 227
(422)^ リッベントロップ述 ﹁ヨーロッパ及び東亜建設の戦ひ﹂﹃戦の責任者は誰か﹄、日本産業報国新聞社出版部、1941年
(423)^ abcベレズホフ 1995, p. 228
(424)^ ドミトリー・ヴォルコゴーノフ 1992, p231-232.
(425)^ Nikita Khrushchev. Khrushchew remembers;the last testament.. Boston, Little, Brown and Company (1970). p. 289
(426)^ abベレズホフ 1995, p. 224
(427)^ ベレズホフ 1995, p. 225.
(428)^ ベレズホフ 1995, p. 231.
(429)^ M.Ellman,Soviet Repression Statistics: Some Comments,Europe-Asia Studies,Vol.54,No.7 (Nov.,2002),pp.1151-1172,https://www.jstor.org/stable/826310.
(430)^ abcdオーランドー・ファイジズ﹃囁きと密告――スターリン時代の家族の歴史﹄上巻︵染谷徹訳、白水社、2011年︶p25.および巻末注(2)
(431)^ ネイマーク﹃スターリンのジェノサイド﹄根岸隆夫訳 みすず書房 2012年,p.12.
(432)^ abcChristiane Grieb, War Crimes,Soviet,World War II, in Timothy C.Dowling編 Russia at War, ABC-Clio,2015, p.929-930.
(433)^ Alexopoulos, Golfo (2017). Illness and Inhumanity in Stalin's Gulag. Yale University Press. ISBN 978-0-300-17941-5
(434)^ Figes, Orlando (2009年). “Ученый: при Сталине погибло больше, чем в холокост”. BBC News. 2022年4月15日閲覧。 “Хотя даже по самым консервативным оценкам, от 20 до 25 млн человек стали жертвами репрессий, из которых, возможно, от пяти до шести миллионов погибли в результате пребывания в ГУЛАГе. Translation: 'The most conservative calculations speak of 20–25 million victims of repression, 5 to 6 million of whom died in the Gulag.'”
(435)^ Erlikman, Vadim (2004). Poteri narodonaseleniia v XX veke: spravochnik. Moscow 2004: Russkaia panorama. ISBN 5-93165-107-1.
(436)^ Healey, Dan (1 June 2018). “GOLFO ALEXOPOULOS. Illness and Inhumanity in Stalin's Gulag”. The American Historical Review 123 (3): 1049–1051. doi:10.1093/ahr/123.3.1049. https://www.deepdyve.com/lp/ou_press/golfo-alexopoulos-illness-and-inhumanity-in-stalin-s-gulag-i363rKPYOp.
(437)^ Wheatcroft, Stephen G. (1999). “Victims of Stalinism and the Soviet Secret Police: The Comparability and Reliability of the Archival Data. Not the Last Word”. Europe-Asia Studies 51(2): 320. doi:10.1080/09668139999056. http://sovietinfo.tripod.com/WCR-Secret_Police.pdf.
(438)^ Steven Rosefielde. 2009. Red Holocaust Routledge. ISBN 0-415-77757-7. p. 67 "...more complete archival data increases camp deaths by 19.4 percent to 1,258,537"; pg 77: "The best archivally-based estimate of Gulag excess deaths at present is 1.6 million from 1929 to 1953."
(439)^ ロバート・コンクエスト、白石治朗訳﹃悲しみの収穫﹄恵雅堂出版、2007年、p.495-509.
(440)^ abcd塩川伸明﹁第六章 盛期スターリン時代﹂﹃世界歴史体系 ロシア史3﹄山川出版社1997年、p217-227
(441)^ NKVD1953年統計報告
(442)^ ネイマーク﹃スターリンのジェノサイド﹄,p.120.
(443)^ ﹃シベリア抑留﹄ - コトバンク
(444)^ ロシア連邦政府等から提供された抑留者に関する資料の公表︵特定者の追加掲載︶について令和元年12月6日、厚生労働省。
(445)^ France Meslé, Gilles Pison, Jacques Vallin France-Ukraine:Demographic Twins Separated by History, Population and societies, N°413, juin 2005
(446)^ ce Meslé, Jacques Vallin Mortalité et causes de décès en Ukraine au XXè siècle + CDRom ISBN 2-7332-0152-2 CD online data (partially - http://www.ined.fr/fichier/t_publication/cdrom_mortukraine/cdrom.htm
(447)^ Stanislav Kulchytsky, Hennadiy Yefimenko. Демографічні наслідки голодомору 1933 р. в Україні. Всесоюзний перепис 1937 р. в Україні:документи та матеріали (Demographic consequence of Holodomor of 1933 in Ukraine. The all-Union census of 1937 in Ukraine), Kiev, Institute of History, 2003.
(448)^ С. Уиткрофт (Stephen G. Wheatcroft),﹃О демографических свидетельствах трагедии советской деревни в 1931—1933 гг.﹄Archived 2008年3月20日, at the Wayback Machine. (On demographic evidence of the tragedy of the Soviet village in 1931-1833), "Трагедия советской деревни:Коллективизация и раскулачивание 1927-1939 гг.:Документы и материалы. Том 3. Конец 1930-1933 гг.", Российская политическая энциклопедия, 2001,ISBN 5-8243-0225-1, с. 885, Приложение No. 2
(449)^ - The famine of 1932–33
(450)^ “Ukraine's Holodomor”. Times Online. 2008年10月19日閲覧。
(451)^ “Natural Disaster and Human Actions in the Soviet Famine of 1931-1933” (PDF). The Carl Beck Papers in Russian and East European Studies. オリジナルの2012年8月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120824073308/http://www.as.wvu.edu/history/Faculty/Tauger/Tauger%2C%20Natural%20Disaster%20and%20Human%20Actions.pdf 2008年12月28日閲覧。.
(452)^ Findings of the Commission on the Ukraine Famine. Famine Genocide. (1988-04-19). http://www.faminegenocide.com/resources/findings.html See also:“Statement by Pope John Paul II on the 70th anniversary of the Famine”. Skrobach. 2007年6月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年8月23日閲覧。 See also:“Expressing the sense of the House of Representatives regarding the man-made famine that occurred in Ukraine in 1932–1933”. US House of Representatives (2003年10月21日). 2008年8月23日閲覧。 See also:Yaroslav Bilinsky (1999). “Was the Ukrainian Famine of 1932–1933 Genocide?”. Journal of Genocide Research vol.1 (2): 147–156. doi:10.1080/14623529908413948. http://www.faminegenocide.com/resources/bilinsky.html.
(453)^ Alan Bullock, p. 269
(454)^ “The Industrialisation of Soviet Russia” (PDF). Palgrave Macmillan (2004年). 2008年12月28日閲覧。
(455)^ Michael Ellman Archived 2007年10月14日, at the Wayback Machine., Ellman, Michael (2007). “Stalin and the Soviet famine of 1932 – 33 Revisited”. Europe-Asia Studies 59(4): 663–693. doi:10.1080/09668130701291899. ISSN 0966-8136. http://www.paulbogdanor.com/left/soviet/famine/ellman1933.pdf.
(456)^ According to Ellman, although the 1946 drought was severe, government mismanagement of its grain reserves largely accounted for the population losses. Michael Ellman, "The 1947 Soviet Famine and the Entitlement Approach to Famines," Cambridge Journal of Economics 24 (2000):603–30. PDF file
(457)^ Lisova, Natasha (2006年11月28日). “Ukraine Recognize Famine As Genocide”. Associated Press. http://www.ukemonde.com/holodomor/index.html
(458)^ 露と歴史認識めぐり緊張 ウクライナの﹁帰属﹂いずこ Fuji Sankei Business i 2009年9月4日
(459)^ 産経ニュース、2008年11月18日
(460)^ Charles N. Steele (2002) (PDF). Sustainable Development:Promoting Progress or Perpetuating Poverty?. Profile Books. オリジナルの2006年3月12日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20060312002026/http://ipn.lexi.net/images/uploaded/12-402934626c558--charles_steele_chapter6.pdf 2008年12月28日閲覧。 See also:“Reassessing the Standard of Living in the Soviet Union” (PDF). Centre for Economic Policy Research (2002年). 2009年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年7月19日閲覧。
(461)^ Robert Lewis; ed. Mark Harrison, R.W. Davies, S.G. Wheatcroft (1994). The Economic Transformation of the Soviet Union. Cambridge University Press. pp. 188
(462)^ abcdSimon Sebag Montefiore. Stalin:The Court of the Red Tsar, Knopf, 2004 (ISBN 1-4000-4230-5)
(463)^ abcActon, Edward, Russia, The Tsarist and Soviet Legacy, Longmann Group Ltd (1995) ISBN 0-582-08922-0
(464)^ 外部リンクの ボリシェビキを再発見する を参照、1枚目の写真では写っているトロツキーが巧妙に消されているのが分かる。トロツキー失脚後はこちらの写真しか使われなかった。
(465)^ ロシアのニュース を参照。トロツキーの顔が2枚目の写真では削り取られている。
(466)^ abSmith, Edward Ellis.The Young Stalin. New York:Farrar, Straus and Giroux, 1967. pg 77.
(467)^ abcEdvard Radzinsky Stalin Chapter Thirteenth provocateur [2] ︵ロシア語︶
(468)^ abАгент Охранки или провокатор по призванию? by Sergey Zemlyanoy Nezavisimaya Gazeta 3 July 2002 ︵ロシア語︶
(469)^ Тайные грабежи Сталина крышевал Ленин Archived 2009年2月23日, at the Wayback Machine. Komsomolskaya Pravda 13 November 2008
(470)^ СТАЛИН - АГЕНТ ОХРАНКИ:ЗА И ПРОТИВ by A. Ostrovsky ︵ロシア語︶
(471)^ エドワード・ラジンスキー 1996, 上巻p51.
(472)^ エドワード・ラジンスキー 1996, 上巻p42.
(473)^ エドワード・ラジンスキー 1996, 上巻p45.
(474)^ エドワード・ラジンスキー 1996, 上巻p44.
(475)^ “旧ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンのひ孫、オーケストラとともにコンサートを行う 国際ニュース”. AFPBB. (2007年6月24日). https://www.afpbb.com/articles/-/2243735?pid=1715927
(476)^ アントニー・ビーヴァー著 川上洸訳﹂﹁ベルリン陥落 1945﹂白泉社 625-626頁
(477)^ ドミトリー・ヴォルコゴーノフ 1992, 下巻p335.
(478)^ ﹁勝利と悲劇﹂下巻P・625~626
(479)^ ベレズホフ 1995, pp. 325–326
(480)^ ベレズホフ 1995, p. 332.
(481)^ ベレズホフ 1995, p. 339.
(482)^ abベレズホフ 1995, p. 320-321
(483)^ ﹃ゴムウカ回想録﹄
(484)^ 発売禁止に現れた出版界の傾向︵一︶﹃東京朝日新聞﹄昭和2年12月28日︵﹃昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年﹄本編p275 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年︶
●狂信の創造者スターリン イサド・ベイ 内山賢次訳. 論争社, 1961.
●スターリン時代 ワルター・クリヴィッキー 根岸隆夫訳. みすず書房, 1962. 新版2019ほか
●暴虐の人スターリン バーナード・ハットン 北見一郎訳. 新潮社, 1962.
●スターリン その秘められた生涯 木村浩訳 講談社学術文庫, 1989.
●スターリン アイザック・ドイッチャー 上原和夫訳. みすず書房, 1963-64. 新版全1巻, 1984
●トリアッティの証言 ドキュメント・スターリンの粛清 レナート・ミエーリ 大石敏雄訳. 弘文堂, 1965.
●スターリン トロッキー 著 マルミュス編 武藤一羊・佐野健治訳. 合同出版, 1967
●スベトラーナ回想録 父スターリンの国を逃れて スベトラーナ・アリルーエワ 江川卓訳. 新潮社, 1967
●スターリン主義に抗して あるアメリカ共産党員の回想 ジョン・ゲーツ 雪山慶正,西田勲共訳. 合同出版, 1968.
●スターリンとの対話 ミロヴァン・ジラス 新庄哲夫訳. 雪華社, 1968.
●スターリンの肖像 ヴィクトール・セルジュ 吉田八重子訳. 新人物往来社, 1971.
●スターリンの死 ジョルジュ・ボルトリ 杉辺利英訳. 早川書房, 1975 のち文庫
●ロバート・コンクウェスト﹃スターリンの恐怖政治﹄片山さとし訳 三一書房 1976年
●﹃スターリン批判 フルシチョフ秘密報告﹄志水速雄訳・解説、講談社学術文庫、1977年
●スターリン現象の歴史 J.エレンステン 大津真作訳. 大月書店, 1978.10.
●スターリン主義を語る G.ボッファ, G.マルチネ 佐藤紘毅訳 1978.2. 岩波新書
●クレムリンとのわが闘争 私はスターリンに裏切られた ミロヴァン・ジラス 新庄哲夫訳. 学習研究社, 1980.12.
●スターリンとスターリン主義 ロイ・メドヴェーデフ 石堂清倫訳. 三一書房, 1980.9.
●スターリン主義とはなにか ジュゼッペ・ボッファ 坂井信義訳. 大月書店, 1983.8.
●デービッド・シプラー﹃ロシア 崩れた偶像・厳粛な夢﹄川崎隆司監訳、時事通信社 1984
●ニコライ・トルストイ﹃スターリン その謀略の内幕﹄読売新聞社、1984年。
●大粛清・スターリン神話 アイザック・ドイッチャー 大島かおり・菊地昌典訳 TBSブリタニカ 1985.4
●評伝スターリン アルド・アゴスティ 坂井信義訳. 大月書店, 1985.4.
●スターリンと闘った人々 オールド・ボリシェヴィキの回想録 水谷驍/E.マンデル、井上隆太・鎌倉良訳 柘植書房, 1987.11.
●アブドゥラフマン・アフトルハノフ﹃スターリン謀殺―スターリンの死の謎 ベリヤの陰謀﹄田辺稔訳、中央アート出版社 1991
●ドミトリー・ヴォルコゴーノフ﹃勝利と悲劇 スターリンの政治的肖像﹄朝日新聞社、1992年。
●アルバート・マリン﹃スターリン―冷酷無残、その恐怖政治﹄駐文館編集部訳、駐文館 1992
●クリストファー・アンドルー、オレク・ゴルジエフスキー共著﹃KGBの内幕﹄福島正光訳、文藝春秋 1993
●ロバート・コンクエスト﹃スターリン ユーラシアの亡霊﹄佐野真訳、時事通信社 1994
●ワレンチン・M・ベレズホフ、栗山洋児訳﹃私は、スターリンの通訳だった。:第二次世界大戦秘話﹄同朋舎出版、1995年。ISBN 4810422283。
●King, David The Comissar Vanishes, Metropolitan Books, 1997, ISBN 0-8050-5294-1
●イリヤ・ズバルスキー/サミュエル・ハッチンソン共著﹃レーニンをミイラにした男﹄赤根洋子訳、文春文庫、2000年
●ルドルフ・シュトレビンガー﹃赤軍大粛清﹄守屋純訳 学習研究社 1996年/学研M文庫、2001年
●アンソニー・リード、デーヴィッド・フィッシャー共著 ﹃ヒトラーとスターリン 死の抱擁の瞬間﹄根岸隆夫訳、みすず書房、2001年
●アラン・ブロック﹃対比列伝 ヒトラーとスターリン﹄鈴木主税訳、草思社 全3巻 2003年/草思社文庫 全4巻 2021年
●ジョレス&ロイ・メドヴェージェフ﹃知られざるスターリン﹄久保英雄訳、現代思潮新社 2003年
●ステファヌ・クルトワ/ニコラ・ヴェルト﹃共産主義黒書︵ソ連篇︶﹄外山継男訳、恵雅堂出版、2006年
●エドワード・ラジンスキー﹃赤いツァーリ:スターリン、封印された生涯﹄日本放送出版協会、1996年。
●ユーリイ・ボーレフ﹃スターリンという神話﹄亀山郁夫訳、岩波書店 1997年
●サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ﹃スターリン 赤い皇帝と廷臣たち﹄染谷徹訳、白水社、2010年
●サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ﹃スターリン 青春と革命の時代﹄松本幸重訳、白水社、2010年
●オレーク・Ⅴ・フレヴニューク﹃スターリンの大テロル 恐怖政治のメカニズムと抵抗の諸相﹄富田武訳、岩波書店、1998年
●オレーク・Ⅴ・フレヴニューク﹃スターリン 独裁者の新たなる伝記﹄石井規衛訳、白水社、2021年
●ノーマン・Ⅿ・ネイマーク﹃スターリンのジェノサイド﹄根岸隆夫訳 みすず書房 2012年
●Applebaum, Anne (2003). Gulag:A History. Doubleday. ISBN 0-7679-0056-1
●Brackman, Roman (2001). The Secret File of Joseph Stalin:A Hidden Life. Frank Cass Publishers. ISBN 0-7146-5050-1
●Overy, R. J. (2004). The Dictators:Hitler's Germany and Stalin's Russia. W. W. Norton & Company. ISBN 0-393-02030-4
●Tucker, Robert C. (1992). Stalin in Power:The Revolution from Above, 1928–1941. W. W. Norton & Company. ISBN 0-393-30869-3
●Service, Robert (2004). Stalin: A Biography. London: Macmillan. ISBN 978-0-333-72627-3
●Kotkin, Stephen (2014). Stalin: Paradoxes of Power, 1878–1928. London: Allen Lane. ISBN 978-0-7139-9944-0
●Khlevniuk, Oleg V. (2015). Stalin: New Biography of a Dictator. New Haven and London: Yale University Press. ISBN 978-0-300-16388-9
●Davies, Norman (2003) [1972]. White Eagle, Red Star: The Polish-Soviet War 1919-20 and 'the Miracle on the Vistula'. London: Pimlico. ISBN 978-0-7126-0694-3
●Montefiore, Simon Sebag (2007). Young Stalin. Alfred A. Knopf. ISBN 9781400044658
●Service, Robert (2008). Stalin: A Biography. London: Pan Macmillan. ISBN 9780330476379
●Deutscher, Isaac (1966). Stalin (revised ed.). Harmondsworth: Penguin
●Rieber, Alfred J. (2005). "Stalin as Georgian: The Formative Years". In Sarah Davies; James Harris (eds.). Stalin: A New History. Cambridge: Cambridge University Press. pp. 18–44. ISBN 978-1-139-44663-1。
●Himmer, Robert (1986). “On the Origin and Significance of the Name "Stalin"”. The Russian Review 45(3): 269–286. doi:10.2307/130111. JSTOR 130111.
- 革命の挫折 スターリン主義の歴史 1913-60年 佐久間元 論争社, 1961. 論争叢書
- スターリン主義の解剖 勝部元編. 合同出版社, 1963.
- 異端の哲学史 スターリン主義への葬送曲 山田宗睦 弘文堂, 1966.
- マルクス主義とスターリン主義 対馬忠行 現代思潮社, 1966.
- 歴史としてのスターリン時代 菊地昌典 盛田書店, 1966
- スターリン批判以後 黒田寛一 現代思潮社, 1969.
- スターリン 鋼鉄の巨人 人物現代史 大森実 講談社, 1978 のち文庫
- スターリン 木村武雄 土屋書店, 1978.12.
- スターリン暗殺計画 ドキュメンタル・ミステリィ 桧山良昭 徳間書店, 1978.10.
- スターリンと大国主義 不破哲三 新日本新書, 1982.3.
- 福田ますみ『スターリン 家族の肖像』文藝春秋 2002年 ISBN 416358160X
- 亀山郁夫『大審問官 スターリン』小学館 2006年 ISBN 4093875278
- 斎藤勉『スターリン秘録』産経新聞社、2001年 のち扶桑社文庫
- 横手慎二『スターリン 「非道の独裁者」の実像』中公新書 2014年 ISBN 978-4-12-102274-5