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上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代に越後国(現在の新潟県)など北陸地方を支配した武将・大名[2]。
江戸時代から現代に至るまで私利私欲に拘泥しない[注釈 3]「義の武将」という印象が強い。一方で、現代では利害を冷徹に判断しながら、領土拡大に努力した戦国大名として捉える研究者も多い[注釈 4](「後述」)。
既に頚城・新川・北信に多くの城を保持していた長尾・上杉氏にあっては、謙信が新たに築城した城は少ないが、川中島の戦いや七尾城の戦いに備え本格的に築城した例として以下が記される。
●飯山城︵信濃国︶[注釈10] - のちに城将の岩井信能は城下町の整備を行ない、現在まで続く飯山市の発展の礎を築いた。
●石動山城︵能登国︶ - 天平寺の石動山衆徒の拠点である大宮坊の砦を利用して築城。直江景綱を城将として置いた[35]。
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甥の喜平次︵後に養子となる景勝︶に宛てて身の上を案じる手紙を頻繁に送るなど、子煩悩な一面をみせている。特に関東在陣中の永禄5年︵1562年︶2月13日には、当時8歳だった喜平次に習字の手本として自ら﹃伊呂波尽手本﹄︵いろは文字︶を書いて送っている。手紙の本文も叔父らしい情け深いものだった[46][信頼性要検証]。
主君である謙信に対して2度も謀反を起こした家臣の北条高広を2度とも許し、帰参させている。また謙信に対し幾度も反乱を起こした佐野昌綱に対しても、降伏さえすれば命を奪うことはしなかった。同様に、家臣である本庄繁長が挙兵した際も、反乱を鎮圧した後に繁長の帰参を許している。
一方で規律を守るため厳しい処置を行ったという伝承も存在した。謙信の重臣である柿崎景家の死について、﹃景勝公一代略記﹄では景家と織田信長が内通しているとの噂を信じた謙信によって死罪に処されたものとしている。しかし近年ではこの説は疑問視されており、景家の最期は﹁病死、伏誅、手打ち、攻殺、逃亡﹂の5説があるという[49]。また、信長と内通した末に誅殺されたのは景家の嫡子晴家だったとする説もある。重臣・長尾政景の死についても宇佐美定満に命じて謀殺したとする伝えがある︵﹃北越軍記﹄︶が、信憑性に乏しい資料であるため近年では創作された可能性が高い説であるとされている。また、﹃謙信公御年譜﹄では、宇佐美定満と野尻池で舟遊びの最中、暑さを凌ぐために遊泳に興じたところ、酒に酔っていたこともあり溺死したと記している。謀殺説は謙信の厳格な一面を伝えているが、従来より史料批判とともにその信憑性が問われている[注釈17]。他にも北条軍に対する陣頭指揮を怠った厩橋城の城代・長尾謙忠を、謀反の疑い有りとして誅殺している[注釈18]。
永禄4年︵1561年︶、関東管領の就任式では忍城主・成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけたと書かれている書物がある。諸将の面前で辱めを受けた長泰は直ちに兵を率いて帰城してしまったという。原因は諸将が下馬拝跪する中、長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れを汲む名家で、武家の棟梁である源義家にも馬上から会釈を許された家柄であったとも言われている。謙信はこの故事を知らなかったと思われるが、この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東進出の大きな足かせとなったとの説もある[52][信頼性要検証]︶。ただし、成田氏の地位はこのように尊大な態度を取れるほど高くはなく、義家を馬上で迎える先例も原史料では認められず、研究者間ではこの説を事実と認めていない[53]。関東諸将の謙信への反感や離反の理由としても同様である。
天正元年(1573年)8月に越中国と加賀国の国境にある朝日山城を攻めた際に、一向一揆による鉄砲の乱射を受けて謙信は一時撤退を命じたが、吉江景資の子・与次だけは弾が飛び交う中で奮戦して撤退しようとしなかったため、謙信は与次を陣内に拘禁した。驚いた周辺は与次を許すように申し入れたが、謙信は「ここで与次を戦死させたら、越後の父母(吉江景資夫妻)に面目が立たなくなる」とこれを拒んで、事情を吉江家に伝えている。与次は間もなく許されて、急死した中条景資の婿養子となって中条景泰と改名した。
家臣団の内部抗争、国人層の離反、信玄との戦いが膠着状態に陥りつつある状況に嫌気がさした謙信︵当時は長尾景虎︶は毘沙門天堂に篭ることが多くなり、次第に信仰の世界に入っていくようになった。
弘治2年︵1556年︶3月23日、27歳の謙信は、突然、家臣団に出家の意向を伝え[54]、6月28日には春日山城を出奔、高野山を目指した[55]。しかし8月17日、大和国の葛城山山麓の葛上郡吐田郷村で家臣が追いつき必死に懇願した結果、謙信は出家を思い止まった。謙信の奇矯な性格をよく表している逸話とされているが、家臣団が謙信に﹁以後は謹んで臣従し二心を抱かず﹂との誓紙を差し出したことで騒動は治まっていることから、人心掌握を目的とした計画的な行動だったともいわれている。
この当時、本庄実乃・上野家成派と大熊朝秀・下平吉長派に分かれて家中を二分する対立が起こっており、蘆名氏や武田氏を巻き込んで越後国は騒乱状態にあった。この出家騒動以後、家臣団のほとんどは引き続き謙信に臣従したが、大熊朝秀はこれを機に越後を出奔、武田信玄の許に逃れて以降は武田氏に重用されている。
『芳年武者旡類:弾正少弼上杉謙信入道輝虎』(月岡芳年作)
信玄との生涯に亘る因縁からか、それが転じて二人の間には友情めいたものがあったのではないかと現在でも推測されることがある。
信玄は永禄10年(1567年)に同盟国の駿河今川氏真との関係が悪化し塩止めを受けているが(『萩原芦沢文書』)、武田氏領国の甲斐・信濃は内陸のため、塩が採れない。これを見越した氏真の行動であったが、謙信はこの氏真の行いを「卑怯な行為」と批判し、「私は戦いでそなたと決着をつけるつもりだ。だから、越後の塩を送ろう」といって、信玄に塩を送ったという。この逸話に関しては信頼すべき史書の裏付けがなく、後世の創作ではないかとも考えられているが、少なくとも謙信が今川に同調して塩止めを行ったという記録はない。
この時、感謝の印として信玄が謙信に送ったとされる福岡一文字の在銘太刀「弘口」一振(塩留めの太刀)は重要文化財に指定され、東京国立博物館に所蔵されている。『日本外史』では信玄の死を伝え聞いた食事中の謙信は、「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや」と箸を落として号泣したという。『関八州古戦録』でも同様の話を伝えられている。また、『松隣夜話』では信玄の死後3日間城下の音楽を禁止した。理由には「信玄を敬うというより武道の神へ礼を行なうため」と挙げている。「信玄亡き今こそ武田攻めの好機」と攻撃を薦める家臣の意見を「勝頼風情にそのような事をしても大人げない」と退けている。一方で上記の逸話は後世の創作の可能性もあり、謙信は信玄をかなり嫌っていたとも伝えられている。信玄が父親を追放したり、謀略を駆使して敵を貶めたりするのは謙信に言わせるところの道徳観に反しており、謙信は信玄の行いに激怒したという。信玄との利益を度外視した数々の闘争は、謙信が純粋に信玄を嫌っていたことが原因だという説もある。
北条氏政により栃木城︵唐沢山城︶が攻囲された際、8千人の兵を率い救援に向かった謙信は、自らが物見をして城主・佐野昌綱の危急を感知した。謙信は﹁ここまで来て昌綱を死なせてしまっては後詰としての名折れだ、ここは運を天にまかせ、自分が敵の陣を駆け抜けて城に入り力を貸そう﹂と言い、甲冑を着けずに黒い木綿の道服と白綾の鉢巻のみを身に付け、愛用の十文字槍を持ち、またいずれも白布の鉢巻をさせた馬廻や近習などと、主従合わせ数十騎︵諸説あり︶ばかりで北条勢3万5000人の敵中に突入した。敵方はただ唖然として見つめ、襲えば何か奇計を用いて報いられると思い誰も攻めかからなかったため、作戦のままに謙信は入城したという︵﹃関八州古戦録﹄︶。これを見聞きした北条方の将兵は謙信をして﹁夜叉羅刹とは是なるべし﹂と大いに恐れたという︵﹃常山紀談﹄﹃名将言行録﹄[注釈19]︶。そして翌朝、謙信は佐野昌綱以下唐沢山籠城勢と供に攻囲の北条勢に攻め掛かり、自ら槍を取って奮戦、またそれに呼応して謙信が率いて来た越後勢︵攻囲する北条勢の外側に在陣︶も北条勢を攻撃、北条勢は約1千人余りの死傷者を出して唐沢山包囲から撤退した[信頼性要検証]。
上杉神社内にある上杉謙信像
関東管領職にこだわり続けた面から、形式に拘る形式主義者、実質よりも権威を重んじる権威主義者、室町幕府体制の復興を願う復古主義者と評する声があるが、謙信の時代の関東や越後では畿内の幕府や管領などの権威と違い関東管領職の権威はある程度通用した、それ処か、室町時代より越後に勢力を持つ上杉一族の上に立ち、越後の各地で権力を拡大し自立を強める国人領主達を統合するためには、関東管領就任は何としても必要だった、との評もある。また、権威や管領職への敬意は、謙信の義理堅さを表しているとも言える。謙信の関東出陣回数は17回であり、いったん広げた支配地域は北条・武田氏の攻勢やそれを受けた諸将の離反で次々縮小したが、謙信の義理堅さの表れと見る向きもある。
一方で、越相同盟で北条家の強い要請にも関わらず武田信玄との正面衝突を避けたこと、信濃・関東での南下政策が難航すると北陸侵攻に力を入れたことなどから、領土拡張や利害を慎重に判断していたと分析する現代の研究もある。謙信の美化は、江戸時代に紀州徳川家が後援した上杉流軍学の影響が指摘される[注釈4]ほか、上杉景勝以降の米沢藩も謙信を神格化して家中統一と権威付けを図った[59]。
大義名分を盾に自己正当化をすることに拘り︵合戦をする際に自身を正当化するのは秀吉や家康もしており当然ではあるが︶、権威への羨望があったからこそ、山内上杉家を継いだとの説もある。ただし、元々は越後上杉家が守護を務め、越後上杉家の被官家臣が多くいた越後を統一するためには、上杉家宗家である山内上杉家の家督は必要不可欠であったとする指摘もある。
また、軍事面で評されることが多いが、謙信は内政面に関しても数多くの業績を残している。日本海側の海上交易の要衝としての利益も大きかった。豊富な資金力を生かして民政面でも成果を上げている。
特に、当時衣料の原料だった青苧の流通及び課税を統制し、利益を上げている。
なお、藤木久志は﹁上杉謙信は越後の民衆にとっては他国に戦争と言うベンチャービジネスを企画実行した救い主であるが、襲われた関東など戦場の村々は略奪を受け地獄を見た﹂と、通常言われる義人・上杉謙信像とは別の上杉軍の姿こそが実態であったとしている[60] が、市村高男は﹁合戦の主体となる正規の軍隊はどのようにして軍資金等を確保することができたのか﹂﹁敵地には略奪するほどの諸物資が存在したのであろうか﹂﹁社会状況の具体的な提示があるものの、戦闘に至る直接の契機についてはもとより、それらの社会状況と合戦を開始する権力側のいきさつがどのように関連していたのか﹂など数々の疑問を呈している[61]。一方でこの﹁出稼ぎ﹂説を支持する研究者、識者も現れており、福原圭一は藤木の説を引用し、略奪が行われていた可能性を示唆した[62]。ほか、黒田基樹も、出稼ぎ説の一部を複数の著作の中で踏襲している[63]。ただし、謙信のみならずこの当時の戦いでは、戦場での略奪・放火は一般的な行為だった。
信玄は死の直前、勝頼に対して﹁勝頼弓箭の取りよう、輝虎と無事を仕り候え。輝虎はたけき武士なれば、四郎若き者に、小目︵苦しい目︶みをすることあるまじく候。その上申し、相手より頼むとさえ言えば、首尾違うまじく候。信玄大人気なく輝虎を頼むと言うこと申さず候故、終に無事になること無し。必ず勝頼は、謙信を執して頼むと申すべく候。左様に申して苦しからざる謙信なり﹂と述べたとされる[64]。
また信玄没後の天正4年︵1576年︶10月15日、甲斐の教雅という僧侶が越後上条談義所︵長福寺︶の空陀法印に書状を送っているが、その中で﹁その国の太守謙信、おおかた太刀においては日本無双の名大将にて御入り候故、信玄入道時々刻々愚拙へ物語にて候き﹂とある︵﹃歴代古案﹄︶。
このように信玄や武田側の人間が謙信を高く評価していた事が窺われ、信玄は長らく敵対していた謙信を合戦を通じて深く信頼し、似た者同士と感じていた可能性がある。
当時から謙信の死は相当な衝撃を与えたようである。謙信の葬儀は3月15日に執り行なわれたが、このときのことを﹃北越軍談﹄はこう記している。
家門・宿老・侍隊将・奉行・頭人・近習・外様、出棺の前後を打囲て行列の姿堂々たれ共、獅竜の部伍に事替り、衆皆哭慟の声を呑み、喪服の袂を絞りければ、街に蹲る男女老若共に泪止め兼ねたり。彼五丈原の営中、赤星︵諸葛亮︶落て蜀軍傾覆するが如く、春日山の郭内は云にや及ぶ、城下に来り集る将士、宛然航路に楫を失ひ、巨海の波に漂ふに斉し。 — ﹃北越軍談﹄
なお、戦闘では強さを発揮した謙信が天下を取れなかった理由として、越中の一向一揆に手間取ったことも挙げられる[注釈20]。同じく北陸の大名であった朝倉氏も加賀の一向宗に悩まされ地盤を越えた戦略を取ることが出来なかった。
戦国時代から江戸時代初期にかけての上杉氏系図。越後守護上杉家から米沢藩主3代まで。
五十音順
- 越後守護家由来
- 長尾一門など
上杉謙信に仕えた武将のうち、特に評価の高い25名を選出したもの。寛文9年(1669年)、江戸幕府に提出された『上杉将士書上』に表記されている。
『上杉将士書上』[信頼性要検証]を出典。また、『甲越信戦録』(著者不明、江戸時代末期の軍記物)では景綱は直江兼続に換えて表記。
高野山の上杉謙信廟
上杉謙信の愛刀に太刀﹁無銘一文字﹂があり、山鳥毛︵さんちょうもう︶の号で呼ばれ、国宝に指定されている[67]。山鳥毛はかつては個人の所有で岡山県立博物館に寄託されていたが、2021年現在は岡山県瀬戸内市が所有し、備前長船刀剣博物館にて定期的に展示されている。
2015年に新潟県立歴史博物館を通じて、謙信ゆかりの地である新潟県上越市に譲渡の打診があり、ふるさと納税を含めた資金調達を行ったものの、専門家の評価額と所有者の希望額の折り合いが付かず購入を断念[68]。2018年4月、所有者から瀬戸内市に譲渡の打診があり[注釈21]、購入する方針を明らかにした[69]。その後、展示室整備や取得に掛かる費用など5億円余りをふるさと納税などを活用し調達に成功[70]。2020年3月より、瀬戸内市の所有となっている[71]。
織田信長より贈られたとされる謙信所用「ビロード織西洋マント」[72]。
狩野永徳の筆による六曲一双の金箔貼屏風。左双に京都御所や公方邸のある上京、右双に祇園祭で賑わう下京の景観が描かれている。創作経緯や贈答者には諸説あり。
朝櫻樓國芳画「名高百勇傳」より『上杉謙信』(木版画)
死去する1か月前の2月、謙信は京都から画家を呼び寄せて自らの肖像画と後姿を描かせた。肖像画は現在でもよく知られている謙信像だが、後姿はなんと盃を描かせたという。このときのことを謙信は、﹁この盃すなわち我が後影なり﹂と語ったとされる[73]。
謙信には現存する同時代の肖像画は存在しない。現在流布しているものは、かつて高野山無量光院が所蔵していた謙信の晩年期を描いた図像をもとにしているが、1888年︵明治21年︶高野山の大火で焼失した。江戸時代には信玄はじめ他の戦国諸大名と同様に軍記物による影響を受け、軍陣武者像や法体武将像、仏画風僧侶像など多様な謙信のイメージが確立する[73]。
現在、模写を含めて28点の謙信像が確認されている[73]。
上杉神社・稽照殿には、小圃千浦が描いた謙信の肖像画が納められている。映画やドラマで描かれる謙信の風貌や陣羽織のデザインなどは、千浦の作品からの影響が大きい。
- 春日山城 - 彫刻家の滝川毘堂が1969年の大河ドラマ『天と地と』の放映の際に制作[74]。
- 春日山神社 - 彫刻家の滝川毘堂が春日山城跡中腹に立つ上杉謙信像の制作時にひな型として製作された像のうち一体が春日山旅館にあったが、同旅館は2022年に閉館したため春日山神社に寄贈された[74]。
- 上越信用金庫高田中央支店 - 旧高田信用金庫本店時代から存在[74]
- 上越市埋蔵文化財センター - 2010年までリージョンプラザ上越にあったものを移設[74]
- 上越妙高駅東口 - 金箔を貼った兜が特徴[74]
- 上越文化会館ロビー - 木彫原型[74]
- 県立武道館「謙信公武道館」 - 開館一周年を記念して設置[74]
- ポケットパーク[74]
- 上越市役所応接室 - 3体のうち2体は彫刻家の滝川毘堂作[74]
謙信に扮したGACKT
現代フィクション作品
上杉謙信を扱う著名な創作作品としては、永禄四年の川中島の顛末を描いた吉川英治﹃上杉謙信﹄︵1942年、﹃週刊朝日﹄連載︶、謙信の出生から川中島の決戦までを描いた海音寺潮五郎﹃天と地と﹄︵1962年、朝日新聞社︶などが挙げられる。海音寺の﹃天と地と﹄はNHK大河ドラマ﹃天と地と﹄︵1969年、演‥石坂浩二︶[75]や角川映画﹃天と地と﹄︵1990年、演‥榎木孝明︶をはじめ数度映像化されている。
平成期からは、軍記や史料を用いて描かれた津本陽﹃武神の階﹄︵1991年、角川書店︶や、最新の研究結果に基づいて物語化された志木沢郁﹃上杉謙信﹄︵2006年、学研パブリッシング︶などが刊行された。
また、主役ではないが、井上靖の小説﹃風林火山﹄︵1953年 - 1954年﹃小説新潮﹄連載、1955年新潮社刊︶を原作としたNHK大河ドラマ﹃風林火山﹄︵2007年︶では原作以上に重要な役割を担うオリジナルの描写をされ、GACKTが演じた長尾景虎︵=上杉謙信︶役をキービジュアルとした写真集﹃Gackt 龍の化身﹄︵NHK出版︶が発刊された。大河ドラマで役者個人の写真集を発売するのは初めてのことだった[76]。さらにGACKTはこれ以降﹁謙信公祭﹂において複数回にわたり、謙信役として招聘され参加している[77][78]。また直江兼続を主人公としたNHK大河ドラマ﹃天地人﹄では、それ以前の作品ではあまり描かれていない謙信の晩年が描かれている。
楽曲
●三田明﹁友情〜上杉謙信﹂︵1973年、作詞‥千家和也、作曲‥渡辺岳夫。コンピレーション・アルバム﹃戦国の武将﹄︵規格品番‥SJX-155︶収録︶
●ロイヤルナイツ﹁上越市民の歌﹂︵1977年、作詞‥小林隆治、補作‥森菊蔵、作曲‥狛林正一︶
3番に謙信が登場する。
●さくらゆき﹁月の刃﹂︵2009年、作詞‥小栗さくら、作曲‥あきつ︶
(一)^ ﹃歴名土代﹄に見えず。
(二)^ 文書上でのやりとりのみ。
(三)^ 江戸時代後期の白河藩士・広瀬蒙斎による﹃白河風土記﹄は﹁依怙︵︶へも合力す﹂︵私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す︶と評している。今川家や北条家から塩を禁輸された武田信玄に塩を送ったとされる﹁敵に塩を送る﹂の故事も有名であるが、同時代の史料では確認できず、後世創作された可能性が高い。
(四)^ ab山田邦明、萩原大輔など[3]
(五)^ 謙信の父・長尾為景が憲政の義理の祖父である関東管領上杉顕定を滅ぼした長森原の戦い以来、山内上杉家と長尾氏の関係は断絶していたが、天文17年︵1548年︶頃から、上杉憲政と長尾晴景の間で関係修復が行われ始めていた[16]。
(六)^ 叙任の月日は、上杉家御年譜一・謙信公では4月23日、上杉家文書・上越七三では5月26日︵大覚寺義俊の斡旋による︶としている。なお、歴名土代には記載なし。
(七)^ なお、﹃歴代古案﹄所載の景虎遺言では比叡山に隠棲したとしている。
(八)^ かつて北条三郎は北条氏秀と同一とされていたが、﹃関八州古戦録﹄以外に出典がなく、現在では否定的意見が有力である[25][26]。
(九)^ ﹃その時歴史が動いた﹄︵NHK、2007年4月4日放送。﹃NHKその時歴史が動いた傑作DVDマガジン戦国時代編 Vol.9 上杉謙信﹄︿講談社MOOK﹀2012年1月。︶では、﹁関東侵攻後、信長を打倒し京へ上洛﹂が有力説とされた。
(十)^ ﹃上杉輝虎書状案﹄によると、1564年10月1日に謙信自ら普請の完了を確認している。
(11)^ 栗岩英冶、桑田忠親、井上鋭夫、花ヶ前盛明など多くの研究者が著書で指摘している。
(12)^ 風湿︵痛風やリウマチに相当する漢方医学の語︶。風毒ともいう。
(13)^ 将軍・義輝は病気見舞いとして大舘左衛門佐輝氏を坂本の陣所へ遣わし、同日、鉄砲火薬の調合書︵﹃鉄放薬之方并調合次第﹄︶一巻を謙信に贈った。
(14)^ 近衛前久からの慰問の書状がある︵﹁ふくちういかゝ候や、これのみあんじ申候。うけたまはりたく候。猶ゆたんなく、御屋うじやうかんよふにて候﹂6月10日付[46]︶。
(15)^ 雪の中、厠で倒れたと史料にあることも、死因が脳卒中だと考えられる一因である。
(16)^ 松隣夜話﹄の記述を基に、王丸勇が著書﹃英雄医談―病跡学こぼれ話﹄で推測した[48]。
(17)^ 池田嘉一は著書﹃史伝上杉謙信﹄において、北越軍記の史料価値の否定とともに謀殺説を批判したが、没地について論拠を求めた布施秀治の﹃上杉謙信傳﹄では、﹃謙信公御年譜﹄に記された永禄4年7月5日の死亡は明らかな誤りと著されている。これは、永禄7年3月までの政景の文書が存在しているからであり、この点に関してだけは﹃北越軍記﹄の同年7月5日死亡が正しいものとしている。何れにせよ記録が錯綜しているため、どの説についても確証は得られない。
(18)^ 長尾謙忠は詰腹。一族郎党は後任城代の北条高広に託した[51]。
(19)^ ﹃関八州古戦録﹄では主従45騎、﹃常山紀談﹄では13騎、﹃名将言行録﹄だと23騎率いると記されていた。
(20)^ 謙信は仏教を信仰していたが、信仰していたのは一向宗︵浄土真宗︶ではなく真言宗である。
(21)^ 一文字派は長船の刀工である。
(一)^ 系図纂要、大日本史料、上杉三代日記、北越軍談より。
(二)^ 上杉謙信書翰
(三)^ ﹁義の武将﹂謙信 実像に迫る/新史料や分析 過度な美化見直しも﹃読売新聞﹄朝刊2020年11月4日︵文化面︶
(四)^ 小野榮 2006.
(五)^ abc小野榮 2006, p. 63.
(六)^ ab井上 1964, p. 15.
(七)^ 花ヶ前 1991, p. 9.
(八)^ abcd小野榮 2006, p. 64.
(九)^ 黒田基樹 著﹁総論 長尾為景の研究﹂、黒田基樹 編﹃長尾為景﹄戎光祥出版︿シリーズ・中世関東武士の研究 第三四巻﹀、2023年、ISBN 978-4-86403-464-7、14–16・22–26頁。
(十)^ ab花ヶ前 1991, p. 10.
(11)^ ab布施 1917, p. 4.
(12)^ 布施 1917, p. 3.
(13)^ 井上 1964, p. 16.
(14)^ 花ヶ前 1991, p. 11.
(15)^ 池 & 矢田 2007, p. 81.
(16)^ 森田真一﹁北条氏と山内・扇谷両上杉氏﹂黒田基樹編 ﹃北条氏康とその時代﹄ 戒光祥出版︿シリーズ・戦国大名の新研究2﹀、2021年7月。ISBN 978-4-86403-391-6、236–237頁。
(17)^ ab上杉家御年譜 1989.
(18)^ 天野忠幸﹃三好一族と織田信長﹄︵戎光祥出版、2016年︶ISBN 978-4-86403-185-1、29–33頁。
(19)^ 木下聡﹁山内上杉氏における官途と関東管領職の問題﹂︵初出:﹃日本歴史﹄第685号、2005年/所収:黒田基樹 編著﹃シリーズ・中世関東武士の研究 第一二巻 山内上杉氏﹄︵戒光祥出版、2014年︶ISBN 978-4-86403-108-0︶
(20)^ 小丸俊雄﹃小田氏十五代―豪族四百年の興亡 下巻﹄︿ふるさと文庫―茨城﹀1979年3月、56-65頁。https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001499816-00。
(21)^ 山田 2019, p. 128.
(22)^ ab大野太平﹃房総里見氏の研究﹄寶文堂書店、1933年、290頁。
(23)^ 外山信司﹁上杉謙信の臼井城攻めについて﹂﹃千葉城郭研究﹄第9号、2008年。
(24)^ ﹃静岡県史﹄資料編7、3491-3494号
(25)^ 長塚孝﹁北条氏秀と上杉景虎﹂﹃戦国史研究﹄12号、1986年。
(26)^ 黒田基樹の論文[要文献特定詳細情報]、など
(27)^ 谷口克広﹃信長と将軍義昭―提携から追放、包囲網へ―﹄︵中央公論新社、 2014年︶p117
(28)^ abc矢田俊文 2005, p. 153.
(29)^ 矢田俊文 2005, p. 182.
(30)^ ab石渡 2017, p. 110.
(31)^ ab矢田俊文 2005, p. 154.
(32)^ abcd小野榮 2006, p. 62.
(33)^ 小野榮 2006, p. 66.
(34)^ 西川広平﹁米沢藩士市河家による系図作成﹂﹃山梨県立博物館 研究紀要﹄第5集、山梨県立博物館、2011年、67︵36︶ - 66︵37︶。
(35)^ ﹃能登国司畠山殿伝記﹄など。
(36)^ ﹃古老物語﹄[信頼性要検証]
(37)^ ﹃犯罪学雑誌﹄29号、日本犯罪学会、1963年4月。
(38)^ “朱皺漆六枚胴具足 三宝荒神形兜付︵伝上杉謙信所用︶ - 仙台市の指定・登録文化財”. www.sendai-c.ed.jp. 2021年3月15日閲覧。
(39)^ “︻特集︼越後の青苧︵あおそ︶は上杉謙信の財源だったのか?歴史上の謎を探る”. 新潟県内のニュース|にいがた経済新聞. 2022年11月24日閲覧。
(40)^ ab“中世の青苧と座|国税庁”. www.nta.go.jp. 2022年11月24日閲覧。
(41)^ abc布施 1917.
(42)^ 桑田忠親﹁史論 上杉謙信 戦国孤高の名将の虚実﹂﹃別冊歴史読本﹄1988年春号、31頁。
(43)^ ﹃謙信公御年譜﹄
(44)^ ab池田嘉一 1971.
(45)^ 花ヶ前 2005.
(46)^ ab﹃上杉家文書﹄
(47)^ ab栗岩英冶 1943.
(48)^ 王丸勇﹃英雄医談-病跡学こぼれ話﹄新人物往来社、1972年。 [要ページ番号]
(49)^ 室岡博﹃柿崎景家―川中島先陣﹄日本城郭資料館出版会、1969年。 [要ページ番号]
(50)^ 花ヶ前 1984.
(51)^ ﹃関八州古戦録﹄
(52)^ ﹃北条記︵相州兵乱記︶﹄
(53)^ 市村高男﹃戦国期東国の都市と権力﹄︿思文閣史学叢書﹀1994年11月。ISBN 978-4784208555。http://www.shibunkaku.co.jp/shuppan/shosai.php?code=4784208550。 [要ページ番号]
(54)^ ﹃上杉家文書﹄弘治二年8月17日︻長尾景虎書状︼
(55)^ ﹃上杉︵羽前米澤︶家譜﹄︻紀州高野山に赴カントス︼
(56)^ ab﹁故上杉輝虎外四名贈位ノ件﹂ アジア歴史資料センター Ref.A10110299500
(57)^ 矢田俊文 2005, p. 124.
(58)^ 矢田俊文 2005, p. 134.
(59)^ 今福匡﹃神になった戦国大名 上杉謙信の神格化と秘密祭祀﹄︵洋泉社︶
(60)^ 藤木久志﹃雑兵たちの戦場﹄朝日新聞社、1995年。 [要ページ番号]
(61)^ 市村高男﹃東国の戦国合戦﹄吉川弘文館、2009年。
(62)^ 笹本正治監修﹃川中島合戦再考﹄新人物往来社、2000年。 [要ページ番号]
(63)^ 別冊太陽﹃戦国大名﹄平凡社、2009年刊他
(64)^ ﹃甲陽軍鑑﹄巻十三︵品第39︶
(65)^ 笹本正治 2005, p. 78.
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(72)^ ﹁上杉神社 稽照殿﹂︵山形県米沢市︶所蔵保管。
(73)^ abc長谷川伸﹁上杉謙信の虚像 ─上杉謙信画像と要門派越後流軍学の展開─﹂﹃新潟県立歴史博物館研究紀要﹄第5号、2004年3月、107-125頁。
(74)^ abcdefghi“上越市内各所の上杉謙信像11体を紹介 春日山神社には新たな銅像がお目見え”. 上越タウンジャーナル. 2023年5月10日閲覧。
(75)^ “天と地と”. 日本放送協会. 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年2月3日閲覧。
(76)^ ““Gackt謙信”写真集発売、NHK大河ドラマでは史上初”. ORICON STYLE‥eltha. 2016年4月6日閲覧。
(77)^ “GACKT謙信今年も出陣 ﹁今年で一区切り﹂第90回謙信公祭”. 上越タウンジャーナル. 2017年9月26日閲覧。
(78)^ “謙信公祭”. 上越タウンジャーナル. 2015年6月16日閲覧。[リンク切れ]