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{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->

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| Name = ジョージ・セル

| Name = ジョージ・セル<br />George Szell

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''''''George Szell[[1897]][[67]] - [[1970]][[730]][[]][[]][[]][[ ()|]][[]]Széll GyörgyGyörgy Endre SzélGeorg Szell

''''''George Szell[[1897]][[67]] - [[1970]][[730]][[]][[]][[]][[ ()|]][[]][[]]Széll GyörgyGyörgy Endre Szél[[]]Georg Szell


== 生涯 ==

== 人物・来歴 ==

ハンガリー人の父と[[スロヴァキア]]人の母の間に生まれ、3歳で一家ともども[[ユダヤ教]]から[[カトリック教会|カトリック]]に改宗する。幼くしてピアノ演奏に才能を示し、「神童」と呼ばれた。わずか3歳から[[ウィーン国立音楽大学|ウィーン音楽院]]でピアノ、指揮、作曲(教師は[[マックス・レーガー]]など)を学んだ。11歳で自作を弾いてまずピアニストとしてデビューし、次いで16歳で[[ウィーン交響楽団]]を指揮して指揮者としてもデビューする。さらに[[ベルリン・フィルハモニー管弦楽団]]にもピアニスト・指揮者・作曲家として顔を出すようになった。セルは青年期までは作曲家としての作品も数多く残したが、最終的には指揮者の道を選び、[[リヒャルト・シュトラウス]]の教えを受け、そのアシスタントを経た後、[[1917年]]ごろから[[ストラスブール]]の歌劇場をはじめ[[ドイツ]]各地の歌劇場でキャリアを積んだ。[[1924年]]には当時[[ベルリン国立歌劇場]]に君臨していた[[エーリヒ・クライバー]]の下で第1指揮者を務め、その後[[プラハ・ドイツ歌劇場|プラハのドイツ歌劇場]][[音楽総監督]]に就任した。しかし、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ]]の台頭に脅威を感じて[[イギリス]]に移動し、活動を続けた。[[1939年]]、[[オーストラリア]]・アメリカへの演奏旅行中に[[第二次世界大戦]]が勃発したため、帰国をあきらめ、そのままアメリカに定住した。[[アルトゥーロ・トスカニーニ|トスカニーニ]]の援助で彼の[[NBC交響楽団]]の客演指揮者として迎えられた後、[[メトロポリタン歌劇場]]でも指揮をとった。


[[]][[]]3[[]][[|]]3[[|]][[]]102316[[]][[]][[1917]][[]][[]][[1924]][[]][[]]1[[|]][[|]][[|]][[]][[1939]][[]][[]][[|]][[NBC]][[]]


[[1946年]]、[[エーリヒ・ラインスドルフ|ラインスドルフ]]の後任として[[クリーヴランド管弦楽団]]の常任指揮者に就任した。これは1945-46年のシーズンに客演した際に大好評だったから招聘されたといわれている。このとき、セルは地元の代議士トーマス・セルドーの後援を受けて、経営陣から一切のマネジメントの権限を手に入れ、管弦楽団の改革に大なたを振るう。こうして、一旦は[[アルトゥール・ロジンスキ]](ラインスドルフの前任)が鍛えたものの、決して一流とは言えなかった同楽団をさらに鍛えぬいた結果、程なく全米の「ビッグ・ファイブ」と呼ばれる第一級のオーケストラのひとつ<ref>ちなみに他の4楽団は、[[ニューヨーク・フィルハーモニック]]([[レナード・バーンスタイン]])、[[フィラデルフィア管弦楽団]]([[ユージン・オーマンディ]])、[[ボストン交響楽団]]([[シャルル・ミュンシュ]]および[[エーリッヒ・ラインスドルフ]])、そして[[シカゴ交響楽団]]([[フリッツ・ライナー]]および[[ジャン・マルティノン]]、[[ゲオルク・ショルティ]])である(括弧内は1960年代の常任指揮者)。</ref>として高い評価を得るに至った。

[[1946年]]、[[エーリヒ・ラインスドルフ|ラインスドルフ]]の後任として[[クリーヴランド管弦楽団]]の常任指揮者に就任した。これは1945-46年のシーズンに客演した際に大好評だったから招聘されたといわれている。このとき、セルは地元の代議士トーマス・セルドーの後援を受けて、経営陣から一切のマネジメントの権限を手に入れ、管弦楽団の改革に大なたを振るう。こうして、一旦は[[アルトゥール・ロジンスキ]](ラインスドルフの前任)が鍛えたものの、決して一流とは言えなかった同楽団をさらに鍛えぬいた結果、程なく全米の「[[アメリカ五大オーケストラ|ビッグ・ファイブ]]」と呼ばれる第一級のオーケストラのひとつ<ref>他の4楽団は、[[ニューヨーク・フィルハーモニック]]([[レナード・バーンスタイン]])、[[フィラデルフィア管弦楽団]]([[ユージン・オーマンディ]])、[[ボストン交響楽団]]([[シャルル・ミュンシュ]]およびラインスドルフ)、そして[[シカゴ交響楽団]]([[フリッツ・ライナー]]および[[ジャン・マルティノン]]、[[ゲオルク・ショルティ]])である(括弧内は1960年代の常任指揮者)。</ref> として高い評価を得るに至った。



1960年代には[[ウィーン]]、[[ベルリン]]、[[ロンドン]]などでも客演指揮を行なった。[[1970年]][[5月13日]]から[[5月27日]]にかけてクリーヴランド管弦楽団とともに[[日本万国博覧会]]を記念した企画の一環として来日公演を行い、日本でも極めて高い評価を受け、多くの聴衆に感銘を与えたが、帰国後まもなく[[多発性骨髄腫]]のため急逝した。


[[1960]][[]][[]][[]][[1970]][[513]][[527]][[]][[]]15162021222325268[[]]{{|1897|6|7|1970|7|30}}


== 芸風 ==

== 演奏スタイル ==


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[[]][[]][[]]1950336[[|]][[|]][[|]][[|]][[|]][[|]][[|]][[|]][[|R.]][[|]]



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反面、あまりに精密かつ禁欲的で客観的な演奏はしばしば冷たいと評されることもあり、[[グスタフ・マーラー|マーラー]]や[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]などの演奏でそうした批判も聴かれた。



== 録音活動 ==

== 録音活動 ==

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*[[ヨハン・シュトラウス2世]]:「[[皇帝円舞曲]]」(ウィーン・フィル)

*[[ヨハン・シュトラウス2世]]:「[[皇帝円舞曲]]」(ウィーン・フィル)

*[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]:[[チェロ協奏曲 (ドヴォルザーク)|チェロ協奏曲]]([[パブロ・カザルス]]、[[チェコ・フィルハーモニー管弦楽団|チェコ・フィル]])

*[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]:[[チェロ協奏曲 (ドヴォルザーク)|チェロ協奏曲]]([[パブロ・カザルス]]、[[チェコ・フィルハーモニー管弦楽団|チェコ・フィル]])

*[[エドゥアール・ラロ|ラロ]]:「[[スペイン交響曲]]」:([[ブロニスフ・フーベルマン]]、ウィーン・フィル)

*[[エドゥアール・ラロ|ラロ]]:「[[スペイン交響曲]]」:([[ブロニスフ・フーベルマン]]、ウィーン・フィル)

*ドヴォルザーク:[[交響曲第9番 (ドヴォルザーク)|交響曲第9番「新世界」]](チェコ・フィル)

*ドヴォルザーク:[[交響曲第9番 (ドヴォルザーク)|交響曲第9番「新世界」]](チェコ・フィル)

しかし、戦前期においては往年の巨匠がひしめき合っており、新進の若手であったセルの評価は必ずしも高くはなかった。「新世界」については、雑誌『ディスク』昭和14年(1939年)1月号で次のように評価されている。

しかし、戦前期においては往年の巨匠がひしめき合っており、新進の若手であったセルの評価は必ずしも高くはなかった。「新世界」については、雑誌『ディスク』昭和14年(1939年)1月号で次のように評価されている。

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=== ライヴ録音 ===

=== ライヴ録音 ===


[[]]CD[[1954]][[617]][[1958]][[88]][[|]]

[[]][[ ()|]]CD[[1954]][[617]][[1958]][[88]][[|]]


== 主要な録音 ==

== 主要な録音 ==

特記なき場合はクリーヴランド管弦楽団<ref>ロベール・カサドシュと共演したモーツァルトのピアノ協奏曲のオーケストラが「[[覆面オーケストラ|コロンビア交響楽団]]」となっているが、これは契約上の都合によるものであり、オーケストラの実態はクリーヴランド管弦楽団である。</ref>、ステレオ録音

特記なき場合はクリーヴランド管弦楽団、ステレオ録音

*[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]:

*ハイドン︰交響曲第92番「オックスフォード」(1961)、交響曲第94番「驚愕」(1967)、交響曲第96番「奇跡」(1968)

*:[[交響曲第92番 (ハイドン)|交響曲第92番「オックスフォード」]](1961)、[[交響曲第94番 (ハイドン)|交響曲第94番「驚愕」]](1967)、[[交響曲第96番 (ハイドン)|交響曲第96番「奇跡」]](1968)

*モーツァルト︰交響曲第28番(1965)、交響曲第33番(1962)、交響曲第34番(アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、1966)、交響曲第35番「ハフナー」(1960)、交響曲第39番(1960)、交響曲第40番(北ドイツ放送交響楽団、1959)、同(1967)、同(1970〈東京ライヴ〉)、交響曲第41番「ジュピター」(1963)、「フィガロの結婚」序曲(1957)、アイネ・クライネ・ナハトムジーク(1968)、、エクスルターテ・ユビラーテ(ジュディス・ラスキン、1964)、ポストホルン(1969)、ピアノ協奏曲第15番(ロベール・カサドシュ、1968)、ピアノ協奏曲第17番(カサドシュ、1968)、ピアノ協奏曲第21番(カサドシュ、1961)、ピアノ協奏曲第22番(コロンビア交響楽団、カサドシュ、1959)、ピアノ協奏曲第23番(ウィーン・フィル、クリフォード・カーゾン、1964)、同(コロンビア交響楽団、カサドシュ、1969)、ピアノ協奏曲第24番(カサドシュ、1961)、ピアノ協奏曲第25番(フライシャー、1959)、ピアノ協奏曲第26番(コロンビア交響楽団、カサドシュ、1962)、ピアノ協奏曲第27番(コロンビア交響楽団、カサドシュ、1962)、同(ウィーン・フィル、カーゾン、1964)、クラリネット協奏曲(ロバート・マーセラス、1961)、協奏交響曲K.364(ラファエル・ドルイアン、エイブラハム・スカーニック、1963)、歌劇「魔笛」全曲(ウィーン・フィル、レオポルト・シモノー、リザ・デラ・カーザ、クルト・ベーメ、1959)

*[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]:

*ベートーヴェン︰交響曲第1番(1964)、交響曲第2番(1964)、交響曲第3番「英雄」(1957)、交響曲第4番(1963)、交響曲第5番「運命」(1963)、同(アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、1964)、同(ウィーン・フィル、1969)、交響曲第6番「田園」(1962)、交響曲第7番(1959)、交響曲第8番(1961)、交響曲第9番「合唱」(1961)、劇音楽「エグモント」(ウィーン・フィル、1969)、「エグモント」序曲(1966)、同(ウィーン・フィル、1969)、「シュテファン王」序曲(1966)、「フィデリオ」序曲(1967)、ピアノ協奏曲第1番(エミール・ギレリス、1968)、ピアノ協奏曲第2番(ギレリス、1968)、ピアノ協奏曲第3番(レオン・フライシャー、1961)、同(エミール・ギレリス、1968)、同(ウィーン・フィル、ギレリス、1969)、ピアノ協奏曲第4番(フライシャー、1959)、同(ギレリス、1968)、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」(フライシャー、1961)、同(ギレリス、1968)

*:[[交響曲第28番 (モーツァルト)|交響曲第28番]](1965)、[[交響曲第33番 (モーツァルト)|交響曲第33番]](1962)、[[交響曲第34番 (モーツァルト)|交響曲第34番]](アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、1966)、[[交響曲第35番 (モーツァルト)|交響曲第35番「ハフナー」]](1960)、[[交響曲第39番 (モーツァルト)|交響曲第39番]](1960)、[[交響曲第40番 (モーツァルト)|交響曲第40番]](北ドイツ放送交響楽団、1959)、同(1967)、同(1970〈東京ライヴ〉)、[[交響曲第41番 (モーツァルト)|交響曲第41番「ジュピター」]](1963)、「[[フィガロの結婚]]」序曲(1957)、[[アイネ・クライネ・ナハトムジーク]](1968)、[[エクスルターテ・ユビラーテ]](ジュディス・ラスキン、1964)、[[ポストホルン]](1969)、[[ピアノ協奏曲第15番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第15番]](ロベール・カサドシュ、1968)、[[ピアノ協奏曲第17番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第17番]](カサドシュ、1968)、[[ピアノ協奏曲第21番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第21番]](カサドシュ、1961)、[[ピアノ協奏曲第22番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第22番]](コロンビア交響楽団、カサドシュ、1959)、[[ピアノ協奏曲第23番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第23番]](ウィーン・フィル、クリフォード・カーゾン、1964)、同(コロンビア交響楽団、カサドシュ、1969)、[[ピアノ協奏曲第24番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第24番]](カサドシュ、1961)、[[ピアノ協奏曲第25番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第25番]](フライシャー、1959)、[[ピアノ協奏曲第26番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第26番]](コロンビア交響楽団、カサドシュ、1962)、[[ピアノ協奏曲第27番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第27番]](コロンビア交響楽団、カサドシュ、1962)、同(ウィーン・フィル、カーゾン、1964)、[[クラリネット協奏曲 (モーツァルト)|クラリネット協奏曲]](ロバート・マーセラス、1961)、[[ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 (モーツァルト)|協奏交響曲K.364]](ラファエル・ドルイアン、エイブラハム・スカーニック、1963)、歌劇「[[魔笛]]」全曲(ウィーン・フィル、レオポルト・シモノー、リザ・デラ・カーザ、クルト・ベーメ、1959)

*ベルリオーズ︰ラコッツィ行進曲(1970〈東京ライヴ〉)

*[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]:

*ウェーバー︰歌劇「オベロン」序曲(1970〈東京ライヴ〉)

*:[[交響曲第1番 (ベートーヴェン)|交響曲第1番]](1964)、[[交響曲第2番 (ベートーヴェン)|交響曲第2番]](1964)、[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番「英雄」]](1957)、[[交響曲第4番 (ベートーヴェン)|交響曲第4番]](1963)、[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|交響曲第5番「運命」]](1963)、同(アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、1964)、同(ウィーン・フィル、1969)、[[交響曲第6番 (ベートーヴェン)|交響曲第6番「田園」]](1962)、[[交響曲第7番 (ベートーヴェン)|交響曲第7番]](1959)、[[交響曲第8番 (ベートーヴェン)|交響曲第8番]](1961)、[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番「合唱」]](1961)、劇音楽「[[エグモント (劇音楽)|エグモント]]」(ウィーン・フィル、1969)、「エグモント」序曲(1966)、同(ウィーン・フィル、1969)、「シュテファン王」序曲(1966)、「[[フィデリオ]]」序曲(1967)、[[ピアノ協奏曲第1番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第1番]](エミール・ギレリス、1968)、[[ピアノ協奏曲第2番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第2番]](ギレリス、1968)、[[ピアノ協奏曲第3番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第3番]](レオン・フライシャー、1961)、同(エミール・ギレリス、1968)、同(ウィーン・フィル、ギレリス、1969)、[[ピアノ協奏曲第4番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第4番]](フライシャー、1959)、同(ギレリス、1968)、[[ピアノ協奏曲第5番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第5番「皇帝」]](フライシャー、1961)、同(ギレリス、1968)

*ウォルトン︰オーケストラのためのパルティータ(1959)

*[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]:

*オーベール︰「フラ・ディアヴォロ」序曲(1957)

*:[[ラーコーツィ行進曲]](1970〈東京ライヴ〉)

*シューベルト︰交響曲第8番「未完成」(1960)、交響曲第9番「グレイト」(1957)、同(1970)、劇音楽「ロザムンデ」抜粋(アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、1957)

*[[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]]:

*シューマン︰交響曲第1番「春」(1958)、交響曲第2番(1960)、交響曲第3番「ライン」(1960)、交響曲第4番(1960)、ピアノ協奏曲(レオン・フライシャー、1960)

*:歌劇「[[オベロン (オペラ)|オベロン]]」序曲(1970〈東京ライヴ〉)

*メンデルスゾーン︰交響曲第4番「イタリア」(1961)、「真夏の夜の夢」抜粋(アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、1966)、同(1967)、フィンガルの洞窟(1957)

*[[ウィリアム・ウォルトン|ウォルトン]]:

*ワーグナー︰管弦楽曲集(1962、1968)

*:オーケストラのためのパルティータ(1959)

*ヨゼフ・シュトラウス︰ワルツ「うわごと」(1962)

*[[ダニエル=フランソワ=エスプリ・オベール|オベール]]:

*ブラームス︰交響曲第1番(1968)、交響曲第2番(1967)、交響曲第3番(アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、1951、モノラル)、同(1964)、交響曲第4番(1966)、同(北ドイツ放送交響楽団、1959)、大学祝典序曲(1966)、ハイドンの主題による変奏曲(1964)、悲劇的序曲(1966)、ピアノ協奏曲第1番(レオン・フライシャー、1958)、同(ロンドン交響楽団、クリフォード・カーゾン、1962)、同(ルドルフ・ゼルキン、1968)、ピアノ協奏曲第2番(レオン・フライシャー、1962)、同(ルドルフ・ゼルキン、1966)、ヴァイオリン協奏曲(ダヴィッド・オイストラフ、1969)、二重協奏曲(オイストラフ、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、1969)

*:「[[フラ・ディアヴォロ]]」序曲(1957)

*ブルックナー︰交響曲第3番(1966)、交響曲第7番(ウィーン・フィル、1968)、交響曲第8番(1969)

*[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]:

*ロッシーニ︰「アルジェのイタリア女」序曲(1967)

*:[[交響曲第7番 (シューベルト)|交響曲第8番「未完成」]](1960)、[[交響曲第8番 (シューベルト)|交響曲第9番「グレイト」]](1957)、同(1970)、劇音楽「[[キプロスの女王ロザムンデ|ロザムンデ]]」抜粋(アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、1957)

*チャイコフスキー︰交響曲第4番(ロンドン交響楽団、1962)、交響曲第5番(ケルン放送交響楽団、1966)、ピアノ協奏曲第1番(ガリー・グラフマン、1969)

*[[ロベルト・シューマン|シューマン]]:

*ドヴォルザーク︰交響曲第7番(1960)、交響曲第8番(アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、1951、モノラル)、同(1958)、同(1970)、交響曲第9番「新世界より」(1959)、「謝肉祭」序曲(1963)、スラヴ舞曲集(1970)、チェロ協奏曲(チェコ・フィル、パブロ・カザルス、モノラル)、同(ベルリン・フィル、ピエール・フルニエ、1962)

*:[[交響曲第1番 (シューマン)|交響曲第1番「春」]](1958)、[[交響曲第2番 (シューマン)|交響曲第2番]](1960)、[[交響曲第1番 (シューマン)|交響曲第3番「ライン」]](1960)、[[交響曲第4番 (シューマン)|交響曲第4番]](1960)、[[ピアノ協奏曲 (シューマン)|ピアノ協奏曲]](レオン・フライシャー、1960)

*スメタナ︰「モルダウ」(1963)、「売られた花嫁」序曲(1958)・3つの舞曲(1962)

*[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]:

*ドビュッシー︰「海」(ケルン放送交響楽団、1962)

*:[[交響曲第4番 (メンデルスゾーン)|交響曲第4番「イタリア」]](1961)、「[[夏の夜の夢 (メンデルスゾーン)|真夏の夜の夢]]」抜粋(アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、1966)、同(1967)、[[フィンガルの洞窟 (メンデルスゾーン)|フィンガルの洞窟]](1957)

*マーラー︰交響曲第10番よりアダージョ(1958)、子供の不思議な角笛(ロンドン交響楽団、シュヴァルツコップ、ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ、1968)

*[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]:

*ヤナーチェク︰シンフォニエッタ(1965)

*:管弦楽曲集(1962、1968)

*グリーグ︰ピアノ協奏曲(レオン・フライシャー、1960)

*[[ヨーゼフ・シュトラウス|ヨゼフ・シュトラウス]]:

*シベリウス︰交響曲第2番(アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、1964)、同(1970〈東京ライヴ〉)

*:ワルツ「[[うわごと]]」(1962)

*プロコフィエフ︰交響曲第5番(1959)

*[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]:

*R・シュトラウス︰4つの最後の歌、他5歌曲(ベルリン放送交響楽団、エリーザベト・シュヴァルツコップ、1965、ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら(1957)、ドン・キホーテ(1960)、ドン・ファン(1957)、家庭交響曲(1964)、歌曲7曲(ロンドン交響楽団、シュヴァルツコップ、1968)、死と変容(1957)

*:[[交響曲第1番 (ブラームス)|交響曲第1番]](1968)、[[交響曲第2番 (ブラームス)|交響曲第2番]](1967)、[[交響曲第3番 (ブラームス)|交響曲第3番]](アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、1951、モノラル)、同(1964)、[[交響曲第4番 (ブラームス)|交響曲第4番]](1966)、同(北ドイツ放送交響楽団、1959)、[[大学祝典序曲]](1966)、[[ハイドンの主題による変奏曲]](1964)、[[悲劇的序曲]](1966)、[[ピアノ協奏曲第1番 (ブラームス)|ピアノ協奏曲第1番]](レオン・フライシャー、1958)、同(ロンドン交響楽団、クリフォード・カーゾン、1962)、同(ルドルフ・ゼルキン、1968)、[[ピアノ協奏曲第2番 (ブラームス)|ピアノ協奏曲第2番]](レオン・フライシャー、1962)、同(ルドルフ・ゼルキン、1966)、[[ヴァイオリン協奏曲 (ブラームス)|ヴァイオリン協奏曲]](ダヴィッド・オイストラフ、1969)、[[ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 (ブラームス)|二重協奏曲]](オイストラフ、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、1969)

*バルトーク︰管弦楽のための協奏曲(1965)

*[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]:

*ストラヴィンスキー︰「火の鳥(1919年版)」(1961)

*:[[交響曲第3番 (ブルックナー)|交響曲第3番]](1966)、[[交響曲第7番 (ブルックナー)|交響曲第7番]](ウィーン・フィル、1968)、[[交響曲第8番 (ブルックナー)|交響曲第8番]](1969)

*[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]:

*:「[[アルジェのイタリア女]]」序曲(1967)

*[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]:

*:[[交響曲第4番 (チャイコフスキー)|交響曲第4番]](ロンドン交響楽団、1962)、[[交響曲第5番 (チャイコフスキー)|交響曲第5番]](ケルン放送交響楽団、1966)、[[ピアノ協奏曲第1番 (チャイコフスキー)|ピアノ協奏曲第1番]](ガリー・グラフマン、1969)

*[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]:

*:[[交響曲第7番 (ドヴォルザーク)|交響曲第7番]](1960)、[[交響曲第8番 (ドヴォルザーク)|交響曲第8番]](アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、1951、モノラル)、同(1958)、同(1970)、[[交響曲第9番 (ドヴォルザーク)|交響曲第9番「新世界より」]](1959)、「[[自然と人生と愛|謝肉祭]]」序曲(1963)、[[スラヴ舞曲|スラヴ舞曲集]](1970)、[[チェロ協奏曲 (ドヴォルザーク)|チェロ協奏曲]](チェコ・フィル、パブロ・カザルス、モノラル)、同(ベルリン・フィル、ピエール・フルニエ、1962)

*[[ベドルジハ・スメタナ|スメタナ]]:

*:「[[わが祖国 (スメタナ)|モルダウ]]」(1963)、「[[売られた花嫁]]」序曲(1958)・3つの舞曲(1962)

*[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]:

*:「[[海 (ドビュッシー)|海]]」(ケルン放送交響楽団、1962)

*[[グスタフ・マーラー|マーラー]]:

*:[[交響曲第10番 (マーラー)#クルシェネク版|交響曲第10番(クルシェネク版)]]より第1楽章アダージョ、第3楽章プルガトリオ(1958)、[[少年の魔法の角笛 (マーラー)|子供の不思議な角笛]](ロンドン交響楽団、シュヴァルツコップ、ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ、1968)

*[[レオシュ・ヤナーチェク|ヤナーチェク]]:

*:[[シンフォニエッタ (ヤナーチェク)|シンフォニエッタ]](1965)

*[[エドヴァルド・グリーグ|グリーグ]]:

*:[[ピアノ協奏曲 (グリーグ)|ピアノ協奏曲]](レオン・フライシャー、1960)

*[[ジャン・シベリウス|シベリウス]]:

*:[[交響曲第2番 (シベリウス)|交響曲第2番]](アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、1964)、同(1970〈東京ライヴ〉)

*[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]:

*:[[交響曲第5番 (プロコフィエフ)|交響曲第5番]](1959)

*[[リヒャルト・シュトラウス|R・シュトラウス]]:

*:[[4つの最後の歌 (リヒャルト・シュトラウス)|4つの最後の歌]]、他5歌曲(ベルリン放送交響楽団、エリーザベト・シュヴァルツコップ、1965、[[ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら]](1957)、[[ドン・キホーテ (交響詩)|ドン・キホーテ]](1960)、[[ドン・ファン (交響詩)|ドン・ファン]](1957)、[[家庭交響曲]](1964)、歌曲7曲(ロンドン交響楽団、シュヴァルツコップ、1968)、[[死と変容]](1957)

*[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]:

*:[[管弦楽のための協奏曲 (バルトーク)|管弦楽のための協奏曲]](1965)

*[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]:

*:「[[火の鳥 (ストラヴィンスキー)|火の鳥]](1919年版)」(1961)



== ザルツブルク音楽祭とセル ==

== ザルツブルク音楽祭とセル ==

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なお、ザルツブルク音楽祭での一連のオペラ指揮が、セルにとってオペラを指揮する最後となった。

なお、ザルツブルク音楽祭での一連のオペラ指揮が、セルにとってオペラを指揮する最後となった。



;ザルツブルク音楽祭でのセルの演奏曲目

;ザルツブルク音楽祭でのセルの演奏曲目<ref>1995年発売のCD『ザルツブルク音楽祭のセル』などに基づく。</ref>

:(1995年発売のCD『ザルツブルク音楽祭のセル』などに基づく)

*1949年

*1949年

*:リヒャルト・シュトラウス:「ばらの騎士」

*:リヒャルト・シュトラウス:「ばらの騎士」

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== 逸話 ==

== 逸話 ==


*12/3

* セルはトスカニーニ同様、オーケストラにとっては厳しい注文をつけることで恐れられた。クリーヴランド管弦楽団就任後の1シーズンで楽員の2/3が入れ替わったという。ある者は彼が馘首し、別の者は自ら去ったのである。

** たとえば、相手が[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]のような世界トップ・ランクのオーケストラの首席奏者であったとしても、自分の要求に満たないと考えた場合には「君の音は外れている。直したまえ!」といった辛辣かつ直截な言葉を投げつけた。

** しかし、セルとトスカニーニとでは注文の仕方が全く異なった。トスカニーニ自身は、セルのリハーサルを辛気臭いものと考えていたし、実際にセルのリハーサルに立ち会った際にはあまりの辛気臭さに耐え切れず、たまらずセルを叱り付けている。また、トスカニーニの有名な怒りは一時の嵐のようなものであったが、セルは執拗であったという。しかし「セルは執拗に楽員を締め上げている。格が悪い」という陰口を聞きつけたトスカニーニは「格は悪いのだが…」と自身を引き合いに出してセルを擁護している。

* 、演奏会中に大失敗をしてしまいショックで落ち込楽員をの医者に診せ立ち直らせたということもあった。クリーヴランド管の楽員曰く、「セルはハートを持っているが、いつもはそれを隠しているのです」(以上、レヴァント『健忘症患者の回想録』)。


*[[NBC]]!

* [[NBC]]!

*[[リヒャルト・シュトラウス]]の曲の録音に際して、作曲者が遅刻したためセルが替わりに指揮した。後半部にシュトラウスが来て振ったが、できあがった音は全くの破綻がなく、シュトラウスは「このままでよい」と感心した。

* [[リヒャルト・シュトラウス]]の曲の録音に際して、作曲者が遅刻したためセルが替わりに指揮した。後半部にシュトラウスが来て振ったが、できあがった音は全くの破綻がなく、シュトラウスは「このままでよい」と感心した。

*セルの厳しいトレーニングはプラハ時代から行われていて、名歌手[[キルステン・フラグスタート]]は来演の際、あまりのスパルタぶりに舞台に上がるのが怖くなったという。

* セルの厳しいトレーニングはプラハ時代から行われていて、名歌手[[キルステン・フラグスタート]]は来演の際、あまりのスパルタぶりに舞台に上がるのが怖くなったという。

*来日公演には作曲家の[[ピエール・ブーレーズ]]が同行し、3回公演を受け持った。病状の進行を知っていた(とされる)セルも同意して、いざとなれば代役も務めるつもりであった可能性もある。ブーレーズはクリーヴランドで[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]の『[[春の祭典]]』などの録音を行っており、馴染みの指揮者であったばかりか、完璧主義者という点でも価値観をともにしていたという。

* 来日公演には作曲家の[[ピエール・ブーレーズ]]が同行し、3回公演を受け持った。病状の進行を知っていた(とされる)セルも同意して、いざとなれば代役も務めるつもりであった可能性もある。ブーレーズはクリーヴランドで[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]の『[[春の祭典]]』などの録音を行っており、馴染みの指揮者であったばかりか、完璧主義者という点でも価値観をともにしていたという。

*セルはピアニストの[[ルドルフ・ゼルキン]]と音楽院時代の学友で、クリーヴランド時代も何度か共演を行った。レコードでもブラームスの2曲のピアノ協奏曲の録音がある。しかし、[[1968年]]に行われたブラームスの[[ピアノ協奏曲第1番 (ブラームス)|協奏曲第1番]]のレコーディングでは意見が合わず、そのレコーディングが2人の最後の顔合わせとなった。

* セルはピアニストの[[ルドルフ・ゼルキン]]と音楽院時代の学友で、クリーヴランド時代も何度か共演を行った。レコードでもブラームスの2曲のピアノ協奏曲の録音がある。しかし、[[1968年]]に行われたブラームスの[[ピアノ協奏曲第1番 (ブラームス)|協奏曲第1番]]のレコーディングでは意見が合わず、そのレコーディングが2人の最後の顔合わせとなった。

*セル自身優れたピアニストでもあり、[[ブダペスト弦楽四重奏団]]員(ヴァイオリン:ジョゼフ・ロイスマン、ヴィオラ:ボリス・クロイト、チェロ:ミッシャ・シュナイダー)とモーツァルトの[[ピアノ四重奏曲]]2曲([[ピアノ四重奏曲第1番 (モーツァルト)|K.478]]、[[ピアノ四重奏曲第1番 (モーツァルト)|K.493]])の録音があった。その演奏は彼の指揮スタイルを彷彿とさせるものだった。

* セル自身優れたピアニストでもあり、[[ブダペスト弦楽四重奏団]]員(ヴァイオリン:ジョゼフ・ロイスマン、ヴィオラ:ボリス・クロイト、チェロ:ミッシャ・シュナイダー)とモーツァルトの[[ピアノ四重奏曲]]2曲([[ピアノ四重奏曲第1番 (モーツァルト)|K.478]]、[[ピアノ四重奏曲第1番 (モーツァルト)|K.493]])の録音があ。その演奏は彼の指揮スタイルを彷彿とさせるものだった。

*[[ヘルベルト・フォン・カラヤン|カラヤン]]はセルを非常に尊敬していた。しかし実際に顔をあわせると、身長の差(セルは10cm以上身長が高く182cmあった)もあって緊張し、セルがカラヤンに意見を求めても、カラヤンは「はい、マエストロ」と小声で言うのが精一杯だったという。また、1967年のザルツブルク音楽祭にクリーヴランド管を引き連れて出演した際、カラヤンにもクリーヴランド管を指揮させている(この組み合わせは、同年の[[ルツェルン音楽祭]]でも公演している)。

* [[ヘルベルト・フォン・カラヤン|カラヤン]]はセルを非常に尊敬していた。しかし実際に顔をあわせると、身長の差(セルはカラヤンよりも10cm以上身長が高く182cmあった)もあって緊張し、セルがカラヤンに意見を求めても、カラヤンは「はい、マエストロ」と小声で言うのが精一杯だったという。また、1967年のザルツブルク音楽祭にクリーヴランド管を引き連れて出演した際、カラヤンにもクリーヴランド管を指揮させている(この組み合わせは、同年の[[ルツェルン音楽祭]]でも公演している)。

*相当なでもあり、特に[[ワイン]]に関する知識については[[ウィリアム・ウォルトン]]が舌を巻くほどだったという。

* 相当な[[通]]でもあり、特に[[ワイン]]に関する知識については[[ウィリアム・ウォルトン]]が舌を巻くほどだったという。

*ニューヨークの[[マネス音楽大学]]で教鞭を執ったこともある。教え子には[[ジョージ・ロックバーグ]]、[[ジェームズ・レヴァイン]]、マイケル・チャリーなどがいる。

* ニューヨークの[[マネス音楽大学]]で教鞭を執ったこともある。教え子には[[ジョージ・ロックバーグ]]、[[ジェームズ・レヴァイン]]、マイケル・チャリーなどがいる。


*[[|]]1958使

* [[|]]1958使


== 脚注 ==

== 脚注 ==

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=== 注釈・出典 ===

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== 参考文献 ==

== 参考文献 ==

*[[三浦淳史]]「ジョージ・セル 完全主義者であり無用の装飾をかなぐり捨てた古典主義者」『クラシック 不滅の巨匠たち』音楽之友社、1993年

*[[三浦淳史]]「ジョージ・セル 完全主義者であり無用の装飾をかなぐり捨てた古典主義者」『クラシック 不滅の巨匠たち』[[音楽之友社]]、1993年

*[[浅里公三]]「ザルツブルク音楽祭のジョージ・セル」『モーツァルト:交響曲第35番「ハフナー」他 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年

*[[浅里公三]]「ザルツブルク音楽祭のジョージ・セル」『モーツァルト:交響曲第35番「ハフナー」他 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年

*[[藤田由之]]「このディスクによせて」『ブルックナー:交響曲第3番ニ短調 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年

*[[藤田由之]]「このディスクによせて」『ブルックナー:交響曲第3番ニ短調 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年

*[[吉井亜彦]]「セルのモーツァルトについて」『モーツァルト:交響曲第41番「ジュピター」他 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年

*[[吉井亜彦]]「セルのモーツァルトについて」『モーツァルト:交響曲第41番「ジュピター」他 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年

*[[柴田龍一]]「このアルバムのこと」『ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」他 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年

*[[柴田龍一]]「このアルバムのこと」『ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」他 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年

*[[歌崎和彦]]『証言/日本洋楽レコード史(戦前編)』音楽之友社、1998年

*[[歌崎和彦]]『証言/日本洋楽レコード史(戦前編)』音楽之友社、1998年

*[[満津岡信育]]「海外盤試聴記 比類のないバランス感覚 セルのザルツブルク音楽祭ライヴ」『レコード芸術』2007年12月号 音楽之友社、2007年

*[[満津岡信育]]「海外盤試聴記 比類のないバランス感覚 セルのザルツブルク音楽祭ライヴ」『レコード芸術』2007年12月号 音楽之友社、2007年

*山田真一オーケストラ大国アメリカ集英社文庫0589F 集英社 2011年

*山田真一オーケストラ大国アメリカ集英社文庫0589F [[集英社]] 2011年

*マイケル・チャーリー(伊藤氏貴 訳)『ジョージ・セル─音楽の生涯─』鳥影社、2022年



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[[Category:東欧ユダヤ系アメリカ人]]

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[[Category:1897年生]]

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ジョージ・セル
George Szell
1965年
基本情報
生誕 (1897-06-07) 1897年6月7日
出身地 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
ブダペスト
死没 (1970-07-30) 1970年7月30日(73歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
クリーヴランド
学歴 ウィーン音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者・ピアニスト
担当楽器 指揮・ピアノ
活動期間 1913年 - 1970年
レーベル EPICCOLOMBIAEMI

George Szell189767 - 1970730Széll GyörgyGyörgy Endre SzélGeorg Szell

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331023161917192411939NBC

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2





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EMI8調R.44

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402341

1957


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1958
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885

1959


8335592

1961
55

1963
8433

1964
81027R

1965
82431889稿[4]

1966
246

1967
R3

2402

1968
93298

82157

1969
82435

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2196812

:::2K.478K.493彿

10cm182cm1967





1958使

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注釈・出典[編集]

  1. ^ 他の4楽団は、ニューヨーク・フィルハーモニックレナード・バーンスタイン)、フィラデルフィア管弦楽団ユージン・オーマンディ)、ボストン交響楽団シャルル・ミュンシュおよびラインスドルフ)、そしてシカゴ交響楽団フリッツ・ライナーおよびジャン・マルティノンゲオルク・ショルティ)である(括弧内は1960年代の常任指揮者)。
  2. ^ ロベール・カサドシュと共演したモーツァルトのピアノ協奏曲のオーケストラが「コロンビア交響楽団」となっているが、これは契約上の都合によるものであり、オーケストラの実態はクリーヴランド管弦楽団である。
  3. ^ 1995年発売のCD『ザルツブルク音楽祭のセル』などに基づく。
  4. ^ セルはこの演奏では基本的に1889年稿に基づいた楽譜を使用しているが、藤田由之の指摘では「エーザー版からも示唆を得、さらにまた、一部で独自のオーケストラ処理も見せている」としている。

参考文献[編集]

  • 三浦淳史「ジョージ・セル 完全主義者であり無用の装飾をかなぐり捨てた古典主義者」『クラシック 不滅の巨匠たち』音楽之友社、1993年
  • 浅里公三「ザルツブルク音楽祭のジョージ・セル」『モーツァルト:交響曲第35番「ハフナー」他 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年
  • 藤田由之「このディスクによせて」『ブルックナー:交響曲第3番ニ短調 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年
  • 吉井亜彦「セルのモーツァルトについて」『モーツァルト:交響曲第41番「ジュピター」他 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年
  • 柴田龍一「このアルバムのこと」『ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」他 ライナーノーツ』ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年
  • 歌崎和彦『証言/日本洋楽レコード史(戦前編)』音楽之友社、1998年
  • 満津岡信育「海外盤試聴記 比類のないバランス感覚 セルのザルツブルク音楽祭ライヴ」『レコード芸術』2007年12月号 音楽之友社、2007年
  • 山田真一『オーケストラ大国アメリカ』集英社文庫0589F 集英社 2011年
  • マイケル・チャーリー(伊藤氏貴 訳)『ジョージ・セル─音楽の生涯─』鳥影社、2022年