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「チャールズ・ダーウィン」の版間の差分

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1835年12月30日に[[ニュージーランド]]へ寄港し、[[1836年]]1月には[[オーストラリア]]の[[シドニー]]へ到着した。その後、[[インド洋]]を横断し、[[モーリシャス島]]に寄港した後6月に[[ケープタウン]]へ到着した。ここでは当時ケープタウンに住んでいた天文学者の[[ジョン・ハーシェル]]を訪ねている。またヘンズローからの手紙によって、イギリスでダーウィンの博学的名声が高まっていることを知らされた。[[セントヘレナ島]]では[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の墓所を散策している。8月に南米[[バイーア]]に再び立ち寄ったが天候の不良のため内陸部への再調査はかなわなかった。カーボヴェルデ、[[アゾレス諸島]]を経て1836年10月2日に[[ファルマス (コーンウォール)|ファルマス]]港に帰着した。航海は当初3年の予定だったが、ほぼ5年が経過していた。

1835年12月30日に[[ニュージーランド]]へ寄港し、[[1836年]]1月には[[オーストラリア]]の[[シドニー]]へ到着した。その後、[[インド洋]]を横断し、[[モーリシャス島]]に寄港した後6月に[[ケープタウン]]へ到着した。ここでは当時ケープタウンに住んでいた天文学者の[[ジョン・ハーシェル]]を訪ねている。またヘンズローからの手紙によって、イギリスでダーウィンの博学的名声が高まっていることを知らされた。[[セントヘレナ島]]では[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の墓所を散策している。8月に南米[[バイーア]]に再び立ち寄ったが天候の不良のため内陸部への再調査はかなわなかった。カーボヴェルデ、[[アゾレス諸島]]を経て1836年10月2日に[[ファルマス (コーンウォール)|ファルマス]]港に帰着した。航海は当初3年の予定だったが、ほぼ5年が経過していた。



後にダーウィンは自伝で、この航海で印象に残ったことを三つ書き残している。一つは南米沿岸を移動すると、生物が少しずつ近縁と思われる種に置き換えられていく様子に気づいたこと、二つめは南米で今は生き残っていない大型の[[哺乳類化石]]を発見したこと、三つ目はガラパゴス諸島の生物の多くが南米由来と考えざるを得ないほど南米のものに似ていることだった。つまりダーウィンはこの航海を通して、[[南半球]]各地の[[動物相]]や[[植物相]]の違いから、[[種 (分類学)|種]]が独立して創られ、それ以来不変の存在だとは考えられないと感じるようになった。またダーウィンは、航海中にライエルの『地質学原理』を読み、[[地層]]がわずかな作用を長い時間累積させて変化するように、動植物にもわずかな変化があり、長い時間によって蓄積されうるのではないか、また[[大陸]]の変化によって、新しい生息地ができて、生物がその変化に[[適応]]しうるのではないかという思想を抱くに至った。

後にダーウィンは自伝で、この航海で印象に残ったことを三つ書き残している。一つは南米沿岸を移動すると、生物が少しずつ近縁と思われる種に置き換えられていく様子に気づいたこと、二つめは南米で今は生き残っていない大型の[[哺乳類化石]]を発見したこと、三つ目はガラパゴス諸島の生物の多くが南米由来と考えざるを得ないほど南米のものに似ていることだった。つまりダーウィンはこの航海を通して、[[南半球]]各地の[[動物相]]や[[植物相]]の違いから、[[種 (分類学)|種]]が独立して創られ、それ以来不変の存在だとは考えられないと感じるようになった。またダーウィンは、航海中にライエルの『地質学原理』を読み、[[地層]]がわずかな作用を長い時間累積させて変化するように、動植物にもわずかな変化があり、長い時間によって蓄積されうるのではないか、また[[大陸]]の変化によって、新しい生息地ができて、生物がその変化に[[適応 (生物学)|適応]]しうるのではないかという思想を抱くに至った。



ダーウィンはこの航海のはじめには自分を博物学の素人と考えており、何かの役に立てるとは思っていなかった。しかし航海の途中で受け取ったヘンズローの手紙から、ロンドンの博物学者は自分の標本採集に期待していると知り自信を持った。サロウェイは、ダーウィンがこの航海で得た物は「進化の証拠」ではなく、「科学的探求の方法」だったと述べている。

ダーウィンはこの航海のはじめには自分を博物学の素人と考えており、何かの役に立てるとは思っていなかった。しかし航海の途中で受け取ったヘンズローの手紙から、ロンドンの博物学者は自分の標本採集に期待していると知り自信を持った。サロウェイは、ダーウィンがこの航海で得た物は「進化の証拠」ではなく、「科学的探求の方法」だったと述べている。

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ダーウィンの調査結果を議論するために行われた最初の会合で、グールドは異なる島から集められた[[ガラパゴスマネシツグミ]]が亜種ではなく別の種だったこと、フィンチのグループに[[ミソサザイ]]が含まれていたことを告げた。ダーウィンはどの標本をどの島から採集したか記録を付けていなかったが、フィッツロイを含む他の乗組員のメモから区別する事ができた。動物学者[[トーマス・ベル]]はガラパゴスゾウガメが島の原産であると述べた。3月中旬までにダーウィンは絶滅種と現生種の地理的分布の説明のために、「種が他の種に変わる」可能性を考え始めた。7月中旬に始まる「B」ノートでは変化について新しい考えを記している。彼はラマルクの「一つの系統がより高次な形態へと前進する」という考えを捨てた。そして生命を一つの[[系統樹|進化樹]]から分岐する系統だと見なし始めた。「一つの動物が他の動物よりも高等だと言うのは不合理である」と考えた。

ダーウィンの調査結果を議論するために行われた最初の会合で、グールドは異なる島から集められた[[ガラパゴスマネシツグミ]]が亜種ではなく別の種だったこと、フィンチのグループに[[ミソサザイ]]が含まれていたことを告げた。ダーウィンはどの標本をどの島から採集したか記録を付けていなかったが、フィッツロイを含む他の乗組員のメモから区別する事ができた。動物学者[[トーマス・ベル]]はガラパゴスゾウガメが島の原産であると述べた。3月中旬までにダーウィンは絶滅種と現生種の地理的分布の説明のために、「種が他の種に変わる」可能性を考え始めた。7月中旬に始まる「B」ノートでは変化について新しい考えを記している。彼はラマルクの「一つの系統がより高次な形態へと前進する」という考えを捨てた。そして生命を一つの[[系統樹|進化樹]]から分岐する系統だと見なし始めた。「一つの動物が他の動物よりも高等だと言うのは不合理である」と考えた。



種の変化に関する研究を発展させると同時に、研究の泥沼に入り込んでいった。まだ航海記を書き直しており、コレクションに関する専門家のレポートの編集も行っていた。ヘンズローの協力でビーグル号航海の動物記録の大著を完成させるための1000[[スターリング・ポンド|ポンド]]の資金援助を政府から引き出した。ダーウィンは南アメリカの地質に関する本を通してライエルの斉一説を支持する、気の遠くなるような長い時間が存在したことを認めた。[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]が即位したちょうどその日、[[1837年]]6月20日に航海記を書き終えたが修正のためにまだ出版できなかった。その頃ダーウィンは体の不調に苦しんでいた。9月20日に「心臓に不快な動悸」を覚えた。医者は全ての仕事を切り上げて2、3週間は[[田舎]]で療養するよう勧めた。ウェッジウッド家の親戚を訪ねるためにシュールズベリーを尋ねたが、ウェッジウッド家の人々は航海の土産話を聞きたがり休む暇を与えなかった。9ヶ月年上のいとこエマ・ウェッジウッドは病床の叔母を看護していた。ジョスおじ(ジョサイア・ウェッジウッド2世)は地面に沈み込んだ燃えがらを指して、[[ミミズ]]の働きであることを示唆した。11月にロンドン地質学会でこの話を発表したが、これは[[土壌]]の生成にミミズが果たす役割を実証的に指摘した最初のケースだった。

種の変化に関する研究を発展させると同時に、研究の泥沼に入り込んでいった。まだ航海記を書き直しており、コレクションに関する専門家のレポートの編集も行っていた。ヘンズローの協力でビーグル号航海の動物記録の大著を完成させるための1000[[スターリング・ポンド|ポンド]]の資金援助を政府から引き出した。ダーウィンは南アメリカの地質に関する本を通してライエルの斉一説を支持する、気の遠くなるような長い時間が存在したことを認めた。[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]が即位したちょうどその日、[[1837年]]6月20日に航海記を書き終えたが修正のためにまだ出版できなかった。その頃ダーウィンは体の不調に苦しんでいた。9月20日に「心臓に不快な動悸」を覚えた。医者は全ての仕事を切り上げて2、3週間は[[田舎]]で療養するよう勧めた。ウェッジウッド家の親戚を訪ねるためにシュールズベリーを尋ねたが、ウェッジウッド家の人々は航海の土産話を聞きたがり休む暇を与えなかった。1つ年上の従姉エマ・ウェッジウッドは病床の叔母を看護していた。ジョスおじ(ジョサイア・ウェッジウッド2世)は地面に沈み込んだ燃えがらを指して、[[ミミズ]]の働きであることを示唆した。11月にロンドン地質学会でこの話を発表したが、これは[[土壌]]の生成にミミズが果たす役割を実証的に指摘した最初のケースだった。



[[ウィリアム・ヒューウェル]]は地質学会の事務局長にダーウィンを推薦した。一度は辞退したが、[[1838年]]3月に引き受けた。ビーグル号の報告書の執筆と編集に苦しんでいたにもかかわらず、種の変化に関して注目に値する前進をした。プロの博物学者からはもちろん、習慣にとらわれずに農民やハトの育種家などからも実際の経験談を聞く機会を逃さなかった。親戚や[[召使い|使用人]]、隣人、入植者、元[[船員]]仲間などからも情報を引き出した。最初から人類を推論の中に含めており、1838年3月に動物園で[[オランウータン]]が初めて公開されたとき、その子どもに似た振る舞いに注目した。6月まで何日も胃炎、頭痛、心臓の不調で苦しんだ。残りの人生の間、胃痛、[[嘔吐]]、激しい[[尋常性痤瘡|吹き出物]]、[[動悸]]、震えなどの症状でしばしば何もすることができなくなった。この病気の原因は当時何も知られておらず、治癒の試みは成功しなかった。現在、[[シャーガス病]]、あるいはいくつかの[[精神疾患|心の病]]が示唆されているが、明らかになっていない。6月末には[[スコットランド]]に地質調査のために出かけた。平行な「道」が山の中腹に三本走っていることで有名な[[グレン・ロイ]]を観察した。後に、これは海岸線の痕だ、と発表したが、氷河期にせき止められてできた湖の痕だと指摘され自説を撤回することになった。この出来事は性急に結論に走ることへの戒めとなった。体調が完全に回復すると7月にシュールズベリーに戻った。

[[ウィリアム・ヒューウェル]]は地質学会の事務局長にダーウィンを推薦した。一度は辞退したが、[[1838年]]3月に引き受けた。ビーグル号の報告書の執筆と編集に苦しんでいたにもかかわらず、種の変化に関して注目に値する前進をした。プロの博物学者からはもちろん、習慣にとらわれずに農民やハトの育種家などからも実際の経験談を聞く機会を逃さなかった。親戚や[[召使い|使用人]]、隣人、入植者、元[[船員]]仲間などからも情報を引き出した。最初から人類を推論の中に含めており、1838年3月に動物園で[[オランウータン]]が初めて公開されたとき、その子どもに似た振る舞いに注目した。6月まで何日も胃炎、頭痛、心臓の不調で苦しんだ。残りの人生の間、胃痛、[[嘔吐]]、激しい[[尋常性痤瘡|吹き出物]]、[[動悸]]、震えなどの症状でしばしば何もすることができなくなった。この病気の原因は当時何も知られておらず、治癒の試みは成功しなかった。現在、[[シャーガス病]]、あるいはいくつかの[[精神疾患|心の病]]が示唆されているが、明らかになっていない。6月末には[[スコットランド]]に地質調査のために出かけた。平行な「道」が山の中腹に三本走っていることで有名な[[グレン・ロイ]]を観察した。後に、これは海岸線の痕だ、と発表したが、氷河期にせき止められてできた湖の痕だと指摘され自説を撤回することになった。この出来事は性急に結論に走ることへの戒めとなった。体調が完全に回復すると7月にシュールズベリーに戻った。

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結局ダーウィンは11月に[[プロポーズ]]し、[[1839年]]1月に結婚した。父から戒められていたにもかかわらずダーウィンは自分の非宗教的な考えを話した。エマは受け入れたが、[[愛情]]を伝えあう手紙のやりとりで、二人の差異を共有しあう率直さをほめると同時に、自分の[[ユニテリアン]]の強い信仰と夫の率直な疑念によって二人が来世で離ればなれにするかも知れないと懸念を打ち明けた。エマは信仰心が篤く「いくら追求しても答えが得られないこと、人が知る必要のないことにまで必要以上に科学的探求をもちこまないでほしい」とも書いている。ダーウィンがロンドンで家を探している間にも病気は続いた。エマは「もうこれ以上悪くならないで、愛しのチャーリー、私がいっしょにいてあなたを看病できるようになるまで」と手紙を書き、[[休日|休暇]]を取るよう訴えた。結局[[ガウアー通り]]に家を見つけ、[[クリスマス]]にはその「[[博物館]]」へ引っ越した。1839年1月24日にダーウィンはロンドン[[王立協会]]の会員に選出され<ref>{{FRS |code = NA8196 |title = Darwin; Charles Robert (1809 - 1882) |accessdate = 2011-12-11 }}</ref>、5日後の1月29日に[[メア]]の英国国教会でユニテリアン式にアレンジされた[[結婚式]]が行われた。式が終わると二人はすぐに鉄道でロンドンへ向かった。12月には長男ウィリアムが誕生した。

結局ダーウィンは11月に[[プロポーズ]]し、[[1839年]]1月に結婚した。父から戒められていたにもかかわらずダーウィンは自分の非宗教的な考えを話した。エマは受け入れたが、[[愛情]]を伝えあう手紙のやりとりで、二人の差異を共有しあう率直さをほめると同時に、自分の[[ユニテリアン]]の強い信仰と夫の率直な疑念によって二人が来世で離ればなれにするかも知れないと懸念を打ち明けた。エマは信仰心が篤く「いくら追求しても答えが得られないこと、人が知る必要のないことにまで必要以上に科学的探求をもちこまないでほしい」とも書いている。ダーウィンがロンドンで家を探している間にも病気は続いた。エマは「もうこれ以上悪くならないで、愛しのチャーリー、私がいっしょにいてあなたを看病できるようになるまで」と手紙を書き、[[休日|休暇]]を取るよう訴えた。結局[[ガウアー通り]]に家を見つけ、[[クリスマス]]にはその「[[博物館]]」へ引っ越した。1839年1月24日にダーウィンはロンドン[[王立協会]]の会員に選出され<ref>{{FRS |code = NA8196 |title = Darwin; Charles Robert (1809 - 1882) |accessdate = 2011-12-11 }}</ref>、5日後の1月29日に[[メア]]の英国国教会でユニテリアン式にアレンジされた[[結婚式]]が行われた。式が終わると二人はすぐに鉄道でロンドンへ向かった。12月には長男ウィリアムが誕生した。



[[ファイル:Darwin tree.png|right|thumb|200px|考察ノートのスケッチ(1837年)。生命の樹 ([[w:Tree of life|Tree of life]]) と呼ばれる。このノートは2001年に行方不明になったが2022年に発見された<ref>{{Cite web |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3398868?cx_part=top_topstory&cx_position=4 |title=消えたダーウィンの「進化論」ノート、匿名で返還 英ケンブリッジ大 |publisher=AFP |date=2022-04-06 |accessdate=2022-04-05}}</ref>]]

[[ファイル:Darwin tree.png|right|thumb|200px|考察ノートのスケッチ(1837年)。生命の樹 ([[w:Tree of life|Tree of life]]) と呼ばれる。このノートは2001年に行方不明になったが2022年に発見された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3398868?cx_part=top_topstory&cx_position=4 |title=消えたダーウィンの「進化論」ノート、匿名で返還 英ケンブリッジ大 |publisher=AFP |date=2022-04-06 |accessdate=2022-04-05}}</ref>]]

[[1839年]]には[[ビーグル (帆船)|ビーグル号]]航海の記録がフィッツロイ艦長の著作と合わせた三巻本の一冊として出版され好評を博した。これは[[1843年]]までに全五巻の『{{仮リンク|ビーグル号航海の動物学|en|Zoology of the Voyage of H.M.S. Beagle}}』として独立して出版され、その後も改題と改訂を繰り返した。続いて[[1842年]]から『[[ビーグル号航海の地質学]]』全三巻が出版された。

[[1839年]]には[[ビーグル (帆船)|ビーグル号]]航海の記録がフィッツロイ艦長の著作と合わせた三巻本の一冊として出版され好評を博した。これは[[1843年]]までに全五巻の『{{仮リンク|ビーグル号航海の動物学|en|Zoology of the Voyage of H.M.S. Beagle}}』として独立して出版され、その後も改題と改訂を繰り返した。続いて[[1842年]]から『[[ビーグル号航海の地質学]]』全三巻が出版された。



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====性選択に対する見解====

====性選択に対する見解====

自然選択を万能な物と見なしたウォレスはクジャクの羽やゴクラクチョウの長い尾羽など、一見生存の役に立ちそうもない性質にも[[適応]]的な意味があるのだろうと考えた。ダーウィンはその可能性を否定もしなかったが、多くの生物で雌がパートナー選びの主導権を握っていることに気づいており、生存に有利でない性質も雌の審美眼のようなもので発達することがあるのではないかと考えた。そして自然選択説とは別に'''[[性選択]]説'''を唱えた。さらに[[性比]](多くの生物で雄と雌の比率が1対1になるが、一部の生物では偏りがあること)や[[性的二形|性的二型]]の問題を初めて科学的に考察する価値があると考えた。特に性比に関しては生物進化の視点から説明できると考え、後に'''[[頻度依存選択]]'''(頻度依存淘汰、生存と繁殖可能性が自然環境に左右されるのではなく、グループ中のその性質の多寡に依存する、つまりある性質が「少数派である」ことだけで生存と繁殖に有利に働くこと)と呼ばれることになる概念を先取りしていた。しかし、これらの問題は複雑なので後世に残した方が安全だろうとのべ、明確な答えを残さなかった。

自然選択を万能な物と見なしたウォレスはクジャクの羽やゴクラクチョウの長い尾羽など、一見生存の役に立ちそうもない性質にも[[適応 (生物学)|適応]]的な意味があるのだろうと考えた。ダーウィンはその可能性を否定もしなかったが、多くの生物で雌がパートナー選びの主導権を握っていることに気づいており、生存に有利でない性質も雌の審美眼のようなもので発達することがあるのではないかと考えた。そして自然選択説とは別に'''[[性選択]]説'''を唱えた。さらに[[性比]](多くの生物で雄と雌の比率が1対1になるが、一部の生物では偏りがあること)や[[性的二形|性的二型]]の問題を初めて科学的に考察する価値があると考えた。特に性比に関しては生物進化の視点から説明できると考え、後に'''[[頻度依存選択]]'''(頻度依存淘汰、生存と繁殖可能性が自然環境に左右されるのではなく、グループ中のその性質の多寡に依存する、つまりある性質が「少数派である」ことだけで生存と繁殖に有利に働くこと)と呼ばれることになる概念を先取りしていた。しかし、これらの問題は複雑なので後世に残した方が安全だろうとのべ、明確な答えを残さなかった。



新たな種が形成されるメカニズムを[[種分化]]と呼んだが、どのようなメカニズムでそれが起きるのかは深く追求しなかった。そのため彼の死後、自然選択だけで種分化が起きるかどうかで議論が起こった。

新たな種が形成されるメカニズムを[[種分化]]と呼んだが、どのようなメカニズムでそれが起きるのかは深く追求しなかった。そのため彼の死後、自然選択だけで種分化が起きるかどうかで議論が起こった。

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== 家族と子孫 ==

== 家族と子孫 ==

[[ファイル:Charles and William Darwin.jpg|thumb|left|長男ウィリアムとの写真(1842年)。ウィリアムの[[幼児]]期の[[観察]]記録が、のちに『幼児の伝記的記述』として発表され、観察という研究法方法の[[古典]]として知られている。]]

[[ファイル:Charles and William Darwin.jpg|thumb|left|長男ウィリアムとの写真(1842年)。ウィリアムの[[幼児]]期の[[観察]]記録が、のちに『幼児の伝記的記述』として発表され、観察という研究法方法の[[古典]]として知られている。]]

ダーウィン家には、10人の子供がいた。ダーウィンは熱心な父で子供たちの面倒をよく見たが、そのうち2人は幼くして死亡。かねてより病弱だった長女[[アン・ダーウィン|アニー]]に(巷で)よく効くという水治療を受けさせるが治療の甲斐無く1851年に病に臥せったまま10歳で病死し、夫妻をひどく悲しませた。特にいとこを妻としていたので[[近親婚]]の弊害ではないかとひどくおそれ、最期の手段として水治療に縋った自分とその療法に落胆する。彼の息子のうちウィリアムは銀行家、[[ジョージ・ハワード・ダーウィン|ジョージ]]は天文学者、[[フランシス・ダーウィン|フランシス]]は数学者、医者となった。ホリスは土木技師、実業家、そして1896年から1897年まで[[ケンブリッジ]]市長を務めた。彼らはそれぞれ王立協会の会員もつとめた。レオナルドは兄たちと異なる道を選んだ。軍人、政治家で優生学者でもあり、また[[ロナルド・フィッシャー]]の親しい友人となった。ジョージの孫の孫に映画「[[ナルニア国物語]]」出演で有名な俳優の[[スキャンダー・ケインズ]]がいる。この世を去るまで夫婦仲も睦まじく、子供らに対しても父チャールズなりの愛情で甲斐甲斐しく可愛がられ育てられ、子の内の一人によると「邪魔臭く感じるくらいに子供全員を分け隔てなく溺愛し子としてどう対処すれば良いのか分からず父子の関係にしばしば難渋していた、子供心には愛情を家族へ熱心に注ぐ父は風変わりに映った」と回想している。

ダーウィン家には、10人の子供がいた。ダーウィンは熱心な父で子供たちの面倒をよく見たが、そのうち2人は幼くして死亡。かねてより病弱だった長女[[アン・ダーウィン|アニー]]に(巷で)よく効くという水治療を受けさせるが治療の甲斐無く1851年に病に臥せったまま10歳で病死し、夫妻をひどく悲しませた。特に従姉を妻としていたので[[近親婚]]の弊害ではないかとひどくおそれ、最期の手段として水治療に縋った自分とその療法に落胆する。彼の息子のうちウィリアムは銀行家、[[ジョージ・ハワード・ダーウィン|ジョージ]]は天文学者、[[フランシス・ダーウィン|フランシス]]は数学者、医者となった。ホリスは土木技師、実業家、そして1896年から1897年まで[[ケンブリッジ]]市長を務めた。彼らはそれぞれ王立協会の会員もつとめた。レオナルドは兄たちと異なる道を選んだ。軍人、政治家で優生学者でもあり、また[[ロナルド・フィッシャー]]の親しい友人となった。ジョージの孫の孫に映画「[[ナルニア国物語]]」出演で有名な俳優の[[スキャンダー・ケインズ]]がいる。この世を去るまで夫婦仲も睦まじく、子供らに対しても父チャールズなりの愛情で甲斐甲斐しく可愛がられ育てられ、子の内の一人によると「邪魔臭く感じるくらいに子供全員を分け隔てなく溺愛し子としてどう対処すれば良いのか分からず父子の関係にしばしば難渋していた、子供心には愛情を家族へ熱心に注ぐ父は風変わりに映った」と回想している。



== 社会思想 ==

== 社会思想 ==

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また「いわゆる人種を異なる種としてランク付けする」ことに反対し、被支配国の人々を虐待することに反対した。当時の作家は自然選択を[[自由放任主義]]の弱肉強食の資本主義、[[人種差別]]、戦争、[[植民地主義]]と[[帝国主義]]など様々なイデオロギーに用いた。しかしダーウィンの自然に対する全体論的な視点は「一つの存在の上に他が依存して存在する」であって、[[ピョートル・クロポトキン]]のような[[平和主義]]、[[社会主義]]、自由主義的な社会改革、[[無政府主義]]と協力の価値を協調した。ダーウィン自身は社会政策が単純に自然の中の選択と闘争の概念から導かれてはならないと主張した。「社会ダーウィニズム」と言う用語は1890年頃から使われ出したが、1940年代に[[リチャード・ホフスタッター]]が[[ウィリアム・グラハム・サムナー|ウィリアム・サムナー]]のような改革や社会主義に反対した自由放任の保守主義を攻撃するために使い出すと軽蔑的な意味合いを持つようになった。それ以来、彼らが進化から導き出される道徳的結論と考えることに対して用いられる罵倒語となった。

また「いわゆる人種を異なる種としてランク付けする」ことに反対し、被支配国の人々を虐待することに反対した。当時の作家は自然選択を[[自由放任主義]]の弱肉強食の資本主義、[[人種差別]]、戦争、[[植民地主義]]と[[帝国主義]]など様々なイデオロギーに用いた。しかしダーウィンの自然に対する全体論的な視点は「一つの存在の上に他が依存して存在する」であって、[[ピョートル・クロポトキン]]のような[[平和主義]]、[[社会主義]]、自由主義的な社会改革、[[無政府主義]]と協力の価値を協調した。ダーウィン自身は社会政策が単純に自然の中の選択と闘争の概念から導かれてはならないと主張した。「社会ダーウィニズム」と言う用語は1890年頃から使われ出したが、1940年代に[[リチャード・ホフスタッター]]が[[ウィリアム・グラハム・サムナー|ウィリアム・サムナー]]のような改革や社会主義に反対した自由放任の保守主義を攻撃するために使い出すと軽蔑的な意味合いを持つようになった。それ以来、彼らが進化から導き出される道徳的結論と考えることに対して用いられる罵倒語となった。



ダーウィンの言葉として「最も強い者が⽣き残るのではなく最も賢い者が⽣き延びるのでもない。 唯⼀⽣き残ることが出来るのは変化できる者である。」という言葉が紹介されることがあるが、ダーウィン自身の発言や『種の起源』に該当する言葉はなく、経営学者メギンソンの解釈が流布したものである<ref>{{Cite web|title=科学史|url=http://oasis.andrew.ac.jp/~matunaga/history.html|website=oasis.andrew.ac.jp|accessdate=2020-06-29}}</ref><ref>{{Cite web|title=The evolution of a misquotation|url=https://www.darwinproject.ac.uk/people/about-darwin/six-things-darwin-never-said/evolution-misquotation|website=Darwin Correspondence Project|date=2016-11-25|accessdate=2020-06-29|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.hbesj.org/wp/wp-content/uploads/2020/06/HBES-J_announcement_20200627.pdf|title=「ダーウィンの進化論」に関して流布する⾔説についての声明|publisher=日本人間行動進化学会|accessdate=2020-06-29}}</ref>。

ダーウィンの言葉として「最も強い者が⽣き残るのではなく最も賢い者が⽣き延びるのでもない。 唯⼀⽣き残ることが出来るのは変化できる者である。」という言葉が紹介されることがあるが、ダーウィン自身の発言や『種の起源』に該当する言葉はなく、経営学者メギンソンの解釈が流布したものである<ref>{{Cite web|和書|title=科学史|url=http://oasis.andrew.ac.jp/~matunaga/history.html|website=oasis.andrew.ac.jp|accessdate=2020-06-29}}</ref><ref>{{Cite web|title=The evolution of a misquotation|url=https://www.darwinproject.ac.uk/people/about-darwin/six-things-darwin-never-said/evolution-misquotation|website=Darwin Correspondence Project|date=2016-11-25|accessdate=2020-06-29|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hbesj.org/wp/wp-content/uploads/2020/06/HBES-J_announcement_20200627.pdf|title=「ダーウィンの進化論」に関して流布する⾔説についての声明|publisher=日本人間行動進化学会|accessdate=2020-06-29}}</ref>。



=== 優生学 ===

=== 優生学 ===

ダーウィンはいとこの[[フランシス・ゴルトン]]の1865年の議論に興味を覚えた。ゴルトンは遺伝の統計分析が道徳や精神的能力は遺伝することを明らかにし、動物の[[品種改良]]の原則は人間に応用できると主張した。『人間の由来』でダーウィンは弱い者が生きて家族を持つことは自然選択の利益を失うことになると指摘したが、弱者への援助を控えることはわれわれの同情の本能を危険にさらすと警告した。彼は人の共感能力や[[道徳|道徳心]]も自然選択によって形作られたと考え、現代でも道徳心が薄い人間は成功できないではないかと述べた。またダーウィンにとって教育はより重要だった。

ダーウィンは従弟の[[フランシス・ゴルトン]]の1865年の議論に興味を覚えた。ゴルトンは遺伝の統計分析が道徳や精神的能力は遺伝することを明らかにし、動物の[[品種改良]]の原則は人間に応用できると主張した。『人間の由来』でダーウィンは弱い者が生きて家族を持つことは自然選択の利益を失うことになると指摘したが、弱者への援助を控えることはわれわれの同情の本能を危険にさらすと警告した。彼は人の共感能力や[[道徳|道徳心]]も自然選択によって形作られたと考え、現代でも道徳心が薄い人間は成功できないではないかと述べた。またダーウィンにとって教育はより重要だった。



ゴルトンが研究を出版し、「生まれつき能力がある人」の中で近親婚を推奨したとき、ダーウィンは実際的な困難を予想して「唯一実現可能な人種の改善計画だが、まだ夢想的だと恐れる」と述べ、単に遺伝の重要性を公表して個人に決定を任せる方を好んだ。ダーウィンの死後1883年にゴルトンはこの考えを[[優生学]]と名付け、同時に[[生物測定学]]を発展させた。自然選択説が[[遺伝学|メンデル遺伝学]]によって一時的に失墜していたとき優生学運動は広範囲にひろがった。ベルギー、ブラジル、カナダ、スウェーデン、アメリカ合衆国を含むいくつかの国で[[断種法]]の強制となった。特に[[ナチス・ドイツ|ナチ]]の優生学はダーウィンのアイディアの信用を傷つけた。

ゴルトンが研究を出版し、「生まれつき能力がある人」の中で近親婚を推奨したとき、ダーウィンは実際的な困難を予想して「唯一実現可能な人種の改善計画だが、まだ夢想的だと恐れる」と述べ、単に遺伝の重要性を公表して個人に決定を任せる方を好んだ。ダーウィンの死後1883年にゴルトンはこの考えを[[優生学]]と名付け、同時に[[生物測定学]]を発展させた。自然選択説が[[遺伝学|メンデル遺伝学]]によって一時的に失墜していたとき優生学運動は広範囲にひろがった。ベルギー、ブラジル、カナダ、スウェーデン、アメリカ合衆国を含むいくつかの国で[[断種法]]の強制となった。特に[[ナチス・ドイツ|ナチ]]の優生学はダーウィンのアイディアの信用を傷つけた。

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[[Category:19世紀イングランドの動物学者]]

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[[Category:19世紀イングランドの博物学者]]

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[[Category:19世紀の地質学者]]

[[Category:イギリスの人類学者]]

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[[Category:イングランドの地質学者]]

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[[Category:ロンドン・リンネ協会フェロー]]

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[[Category:オランダ王立芸術科学アカデミー会員]]

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[[Category:バイエルン科学アカデミー会員]]

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チャールズ・ダーウィン
Charles Darwin
1881年のダーウィン
生誕 1809年2月12日
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドシュロップシャー州シュルーズベリー
死没 1882年4月19日(1882-04-19)(73歳没)
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドケント州ダウン英語版
居住 イギリスの旗 イギリス
国籍 イギリスの旗 イギリス
研究分野 博物学
自然科学
研究機関 ロンドン地理学協会
出身校 エディンバラ大学
ケンブリッジ大学
主な業績 種の起源
ビーグル号航海記
自然選択説
主な受賞歴 ロイヤル・メダル (1853)
ウォラストン・メダル (1859)
コプリ・メダル (1864)
署名

"Charles Darwin", with the surname underlined by a downward curve that mimics the curve of the initial "C"

プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示

Charles Robert Darwin ([tʃɑːlz 'dɑː.wɪn]), 1809212 - 1882419



1930[1][2]

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183918431842

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1853185411

ダーウィンの進化論[編集]

自然選択説[編集]



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(en:Gemmules)

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1863Geological Evidences of the Antiquity of Man1864113X

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1868



18421952調1851

 Angraecum sesquipedale 186227cm

1880The Power of movement in plants

188140[15]

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251839調191119471832 Cyttaria darwinii 

199216BBC2004調4200010189221908

2009[]


200150200200820092008

20097220089

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18291832. [Records of captured insects, in] Stephens, J. F., Illustrations of British entomology [21]

1835: Extracts from Letters to Henslow (read at a meeting of the Cambridge Philosophical Society on 16 November 1835, with comments by John Stevens Henslow and Adam Sedgwick, and printed for private distribution dated 1 December 1835.[22] Selected remarks had been read by Sedgwick to the Geological Society of London on 18 November 1835, and these were summarised in Proceedings of the Geological Society published in 1836.[23] Further extracts were published in the Entomological Magazine and, with a review, in the Magazine of natural history.[22] A reprint was issued in 1960, again for private distribution)

1836: A LETTER, Containing Remarks on the Moral State of TAHITI, NEW ZEALAND, &c.  BY CAPT. R. FITZROY AND C. DARWIN, ESQ. OF H.M.S. 'Beagle.'[24]

1838-43: Zoology of the Voyage of H.M.S. Beagle: published between 1839 and 1843 in five Parts (and nineteen numbers) by various authors, edited and superintended by Charles Darwin, who contributed sections to two of the Parts:
1838: Part 1 No. 1 Fossil Mammalia, by Richard Owen (Preface and Geological introduction by Darwin)

1838: Part 2 No. 1 Mammalia, by George R. Waterhouse (Geographical introduction and A notice of their habits and ranges by Darwin)

1839: Journal and Remarks (The Voyage of the Beagle︿)

1842: The Structure and Distribution of Coral Reefs

1844: Geological Observations on the Volcanic Islands visited during the voyage of H.M.S. Beagle

1846: Geological Observations on South America

1849: Geology from A Manual of scientific enquiry; prepared for the use of Her Majesty's Navy: and adapted for travellers in general., John F.W. Herschel ed.

1851: A Monograph of the Sub-class Cirripedia, with Figures of all the Species. The Lepadidae; or, Pedunculated Cirripedes.

1851: A Monograph on the Fossil Lepadidae, or, Pedunculated Cirripedes of Great Britain

1854: A Monograph of the Sub-class Cirripedia, with Figures of all the Species. The Balanidae (or Sessile Cirripedes); the Verrucidae, etc.

1854: A Monograph on the Fossil Balanidæ and Verrucidæ of Great Britain

1858: On the Tendency of Species to form Varieties; and on the Perpetuation of Varieties and Species by Natural Means of Selection (Extract from an unpublished Work on Species)

1859: On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life

1862: On the various contrivances by which British and foreign orchids are fertilised by insects|Fertilisation of Orchids|On the various contrivances by which British and foreign orchids are fertilised by insects

1865: The Movements and Habits of Climbing Plants (Linnean Society paper, published in book form in 1875)

1868: The Variation of Animals and Plants under Domestication

1871: The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex

1872: The Expression of Emotions in Man and Animals

1875: Insectivorous Plants

1876: en:The Effects of Cross and Self Fertilisation in the Vegetable Kingdom

1877: The Different Forms of Flowers on Plants of the Same Species

1879: "Preface and 'a preliminary notice'" in Ernst Krause's Erasmus Darwin

1880: The Power of Movement in Plants

1881: The Formation of Vegetable Mould through the Action of Worms



1887: Autobiography of Charles Darwin (Edited by his son Francis Darwin)

1958: Autobiography of Charles Darwin (Barlow, unexpurgated)



1887: Life and Letters of Charles Darwin, (ed. Francis Darwin)

1903: More Letters of Charles Darwin, (ed. Francis Darwin and A.C. Seward)

en:Correspondence of Charles Darwin

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︿1990
︿ISBN 4003391241 ︿ISBN 400339125X

  1997

 6 2009

︿ 20099-12

︿ 1959-1961
︿ISBN 4003391217 ︿ISBN 4003391225 ︿ISBN 4003391233

 
19792010 ISBN 4062919818

 ︿ 20136-7︿ISBN 4582541380 ︿ISBN 4582541399

 1994 ISBN 4582760562

 2020 ISBN 4334754287

  2000 ISBN 4480085580

12 1999-2000ISBN 4829901217ISBN 4829901225
 ︿20169-10

3  ISBN 4829901233

 19912009 ISBN 4627260792

 19311991ISBN 4003391276

︿121937 

脚注[編集]

注釈[編集]



(一)^ 18382010417

(二)^ 18251827

(三)^ 調 

(四)^ R[10][]1859[]

出典[編集]



(一)^ The Complete Works of Darwin Online - Biography. darwin-online.org.uk. Dobzhansky 1973

(二)^ van Wyhe, John (2008), Charles Darwin: gentleman naturalist: A biographical sketch

(三)^  ISBN 978-4000023962, P.207 40-  Trinder B. (1998) A History of Shropshire (West Sussex: Phillimore, 2nd) P.79.

(四)^   2004 211

(五)^   2004 213

(六)^  50201674ISBN 978-4-562-05333-9 

(七)^ Darwin, C. R. 'This is the Question Marry Not Marry' [Memorandum on marriage]. (7.1838) CUL-DAR210.8.2
 WIRED.jp Archives []

(八)^ "Darwin; Charles Robert (1809 - 1882)". Record (). The Royal Society. 20111211

(九)^  .  AFP (202246). 202245

(十)^ p.125

(11)^ Noguera-Solano R1, Ruiz-Gutiérrez R.NCBI Darwin and inheritance: the influence of Prosper Lucas.J Hist Biol. 2009 Winter;42(4):685-714.

(12)^ R. ,   ISBN 4003391241, P.12

(13)^ P.56

(14)^ C.  1997

(15)^ S.J."9 "  ISBN 4-15-050219-6

(16)^ http://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/bday/0212.html

(17)^ . oasis.andrew.ac.jp. 2020629

(18)^ The evolution of a misquotation (). Darwin Correspondence Project (20161125). 2020629

(19)^ .  . 2020629

(20)^ Browne, E. Janet (2002), Charles Darwin: vol. 2 The Power of Place, London: Jonathan Cape, ISBN 0-7126-6837-3  : 

(21)^ Darwin Online: Darwin's insects in Stephens' Illustrations of British entomology (1829-32)

(22)^ abExtracts from letters addressed to Professor Henslow. Cambridge: [privately printed]

(23)^ Proceedings of the Geological Society 2: 210-212

(24)^ South African Christian Recorder 2 (4) (Sept. 1836): 221-238

参考文献[編集]


1994

  20094

  2010 

J.    ︿1997ISBN 4022596716

  ︿1987

   ︿2009ISBN 402259957X  

   20129ISBN 4006022085

  -  西 2007 ISBN 978-4272440412

/  -   1999 ISBN 978-4875023166

  1997 ISBN 4-87502-275-1

 X 1990 ISBN 4-87502-275-1

  1998 ISBN 4-87502-296-4

P  1992 ISBN 4-87502-205-0

=  1993 ISBN 4-87502-217-4

  1982

  The Lying Stones of Marrakech2005

[]

外部リンク[編集]