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「ルネサンス建築」の版間の差分

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'''ルネサンス建築'''('''Renaissance Architecture''')は、一義的に[[イタリア]]の[[フィレンツェ]]で[[1420年]]に始まり、[[17世紀]]初頭まで続いた建築様式を指す。[[古典古代]]を理想とする[[ルネサンス]]の建築における表現といえる。

'''ルネサンス建築'''(ルネサンスけんちく)は、一義的に[[イタリア]]の[[フィレンツェ]]で[[1420年]]に始まり、[[17世紀]]初頭まで続いた[[建築様式]]を指す。[[古典古代]]を理想とする[[ルネサンス]]の建築における表現といえる。

[[人体]][[比例]]と[[ハーモニー|音楽調和]]を[[宇宙]]の[[原理|基本原理]]とし、[[ローマ建築]]の構成を[[古典主義建築]]として理論づけた。ルネサンス建築にはじまる古典主義建築の系譜は、後の[[バロック建築]]・[[新古典主義建築]]を通じて継承され、西欧建築の主流であったが、[[19世紀]]の[[歴史主義建築|歴史主義]]において相対化し、やがて解体した。

[[人体]][[比例]]と[[ハーモニー|音楽調和]]を[[宇宙]]の[[原理|基本原理]]とし、[[ローマ建築]]の構成を[[古典主義建築]]として理論づけた。ルネサンス建築にはじまる古典主義建築の系譜は、後の[[バロック建築]]・[[新古典主義建築]]を通じて継承され、西欧建築の主流であったが、[[19世紀]]の[[歴史主義建築|歴史主義]]において相対化し、やがて解体した。



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[[Image:TempipiettoSPiMROM.jpg|thumb|350px|right|サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会のテンピエット]]

[[ファイル:Tempietto di San Pietro in Montorio.jpg|サムネイル|528x528ピクセル|サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会のテンピエット]]



== 概説 ==

== 概説 ==

[[File:Wawel Krakow June 2006 002.jpg|thumb|250px|ルネサンス建築の回廊]]


{{ルネサンス}}

{{ルネサンス}}

ルネサンスはイタリアのフィレンツェに始まる文化的現象であり、[[西洋]]の[[歴史]]において最も光彩を放つ時代のひとつとして挙げられる。

ルネサンスはイタリアのフィレンツェに始まる文化的現象であり、[[西洋]]の[[歴史]]において最も光彩を放つ時代のつとして挙げられる。



14世紀中葉から15世紀初頭のフィレンツェは、周辺都市との戦争と[[ペスト]]の流行に悩まされており、市民社会の構成は複雑かつ流動的であったが、戦争により周辺都市を併合し、[[メディチ]]、ルチェッライ、ストロッツィ、ピッティ、アルビッツィといった都市貴族が[[毛織物]]の加工や[[交易]]、[[金融業]]を主導することで、ヨーロッパの5大都市に数えられるまでに発展していた<ref>ブラッカー(森田・松本、2011)第2章および第3章。</ref>。[[15世紀]]、[[ブルッヘ]]、[[ヘント]]などの[[フランドル]]の諸都市や、[[ロンドン]]などもフィレンツェにきわめて似た社会構造を有していたが、これらの都市が[[ゴシック建築]]の伝統を維持し続けたのに対し、フィレンツェではルネサンスという新しい芸術活動を創出した<ref>ペヴスナー(小林・山口・竹本、1989)p149-p150。</ref>。フィレンツェがルネサンスを生んだ理由はいくつか挙げられるが、建築に関わるものとして、[[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂]]や[[サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂]]、[[サンタ・クローチェ聖堂 (フィレンツェ)|サンタ・クローチェ聖堂]]にみられるような現実的かつ明快な[[トスカーナ]]固有の[[美|美意識]]、[[才能]]のある人間への賞賛、[[古代ローマ]]の芸術・文学の遺産が数多く残っていたことなどを挙げることができる。

14世紀半ばから15世紀初頭のフィレンツェは、周辺都市との戦争と[[ペスト]]の流行に悩まされており、市民社会の構成は複雑かつ流動的であったが、戦争により周辺都市を併合し、[[メディチ]]、ルチェッライ、ストロッツィ、ピッティ、アルビッツィといった都市貴族が[[毛織物]]の加工や[[交易]]、[[金融業]]を主導することで、ヨーロッパの5大都市に数えられるまでに発展していた<ref>ブラッカー(森田・松本、2011)第2章および第3章。</ref>。[[15世紀]]、[[ブルッヘ]]、[[ヘント]]などの[[フランドル]]の諸都市や、[[ロンドン]]などもフィレンツェにきわめて似た社会構造を有していたが、これらの都市が[[ゴシック建築]]の伝統を維持し続けたのに対し、フィレンツェではルネサンスという新しい芸術活動を創出した<ref>ペヴスナー(小林・山口・竹本、1989)p149-p150。</ref>。フィレンツェがルネサンスを生んだ理由はいくつか挙げられるが、建築に関わるものとして、[[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂]]や[[サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂]]、[[サンタ・クローチェ聖堂 (フィレンツェ)|サンタ・クローチェ聖堂]]にみられるような現実的かつ明快な[[トスカーナ]]固有の[[美|美意識]]、[[才能]]のある人間への賞賛、[[古代ローマ]]の芸術・文学の遺産が数多く残っていたことなどを挙げることができる。



やがて、ルネサンス建築はトスカーナから[[ミラノ|ミラーノ]]、[[ローマ]]に伝播し、建築家ブラマンテによって完成の域に達するが、イタリアにおけるルネサンス建築の絶頂期は必ずしも長くはなく、[[イタリア戦争]]([[フランス]]や[[神聖ローマ帝国]]によるイタリア国土の割譲)や[[宗教改革]]、[[ローマ教皇]]の権威失墜、といった動乱の時期を迎えた[[16世紀]]には、いわゆる[[マニエリスム]]と呼ばれる局面を迎える(一般に[[ローマ略奪]]がその画期とされる)。建築において、どの程度までマニエリスムを当てはめることができるのか、という点については、時代においても地域においても、そして建築家の分類においても議論がある状況だが、少なくとも[[ジュリオ・ロマーノ]]、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]、そして彼の追従者の建築については盛期ルネサンスからの逸脱が見られる。マニエリスムは社会的な安定を失ったルネサンスの衰退・退廃と認識されることもあれば、この時代に進んだ古代研究と建築家の個性が結実した独創的な建築運動と説明されることもあり、評価が分かれる。

やがて、ルネサンス建築はトスカーナから[[ミラノ|ミラーノ]]、[[ローマ]]に伝播し、建築家ブラマンテによって完成の域に達するが、イタリアにおけるルネサンス建築の絶頂期は必ずしも長くはなく、[[イタリア戦争]]([[フランス]]や[[神聖ローマ帝国]]によるイタリア国土の割譲)や[[宗教改革]]、[[ローマ教皇]]の権威失墜、といった動乱の時期を迎えた[[16世紀]]には、いわゆる[[マニエリスム]]と呼ばれる局面を迎える(一般に[[ローマ略奪]]がその画期とされる)。建築において、どの程度までマニエリスムを当てはめることができるのか、という点については、時代においても地域においても、そして建築家の分類においても議論がある状況だが、少なくとも[[ジュリオ・ロマーノ]]、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]、そして彼の追従者の建築については盛期ルネサンスからの逸脱が見られる。マニエリスムは社会的な安定を失ったルネサンスの衰退・退廃と認識されることもあれば、この時代に進んだ古代研究と建築家の個性が結実した独創的な建築運動と説明されることもあり、評価が分かれる。

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[[ウィトルウィウス]]の著作から、古典主義建築に必須の要素であるオーダーの比例理論を抽出し、これにはじめて論理的な説明を加えたのは、[[レオン・バッティスタ・アルベルティ]]である。

[[ウィトルウィウス]]の著作から、古典主義建築に必須の要素であるオーダーの比例理論を抽出し、これにはじめて論理的な説明を加えたのは、[[レオン・バッティスタ・アルベルティ]]である。



彼はあらゆる芸術と文学の教養を修めた人物であるが、それまで、彼のような学者<!--[[ディレッタント]]-->が建築に対して何らかの意味を見いだそうとすることはまれであった。しかし、アルベルティは[[1443年]]頃からウィトルウィウスの『建築について』に注目し、これに倣って『建築論』をまとめ、建築の本質が哲学、数学、考古学にあるとしてその重要性を提示した。彼が特に注目したのは人体比例と建築比例を同一のものとする文章で、あらゆる比例関係の基本が人体の形にあるという概念は、ルネサンス建築の根本原理となった。『建築論』は[[1452年]]までには一応完成したが、アルベルティは死に至るまで手を入れており、印刷されるのはようやく[[1485年]]になってからである。

彼はあらゆる芸術と文学の教養を修めた人物であるが、それまで、彼のような学者<!--[[ディレッタント]]-->が建築に対して何らかの意味を見いだそうとすることはまれであった。しかし、アルベルティは[[1443年]]頃からウィトルウィウスの『[[建築について]]』に注目し、これに倣って『建築論』をまとめ、建築の本質が哲学、数学、考古学にあるとしてその重要性を提示した。彼が特に注目したのは人体比例と建築比例を同一のものとする文章で、あらゆる比例関係の基本が人体の形にあるという概念は、ルネサンス建築の根本原理となった。『建築論』は[[1452年]]までには一応完成したが、アルベルティは死に至るまで手を入れており、印刷されるのはようやく[[1485年]]になってからである。



アルベルティは著作だけでなく建築の設計をも行い、三次元的に自身の理論を証明した。パッツォ・ルチェッライは、正面にローマの[[コロッセオ]]の構成を用い、付柱([[ピラスター]])によって鈍重な壁面を分節しているが、これはオーダーを全面的に使用した最初の試みである。同時期に、リミニのサント・フランチェスコ聖堂をテンピオ・マラテスティアーナに改装する設計では、正面にローマの[[凱旋門|コンスタンティヌス記念門]]とリミニの[[凱旋門|アウグストゥス記念門]]の構成を組み合わせ、古典主義による教会堂正面の計画に道を開いた。<br>


[[]][[]]使[[|]][[|]]<br>

しかし、アルベルティは盲目的にローマ建築を模倣したわけではなく、このような構成を用いて全体の調和を一致させることに美の本質があると考えた。彼の最後の作品となったサンタンドレア聖堂は、[[1470年]]頃に設計された最も影響力の大きな作品である。伝統的なラテン十字型平面を持つこの聖堂は、堂々としたトンネル・ヴォールトを持つ身廊を建造するためにブルネレスキが設計したバシリカ形式を採用しておらず、このため内部はより一層古典的な形態になった。正面は、テンピオ・マラテスティアーナと同じくローマの凱旋門をモティーフにしているが、その比例と構成は内部の身廊を囲む壁面にも繰り返されており、建築全体を一定の調和によって統一している。

しかし、アルベルティは盲目的にローマ建築を模倣したわけではなく、このような構成を用いて全体の調和を一致させることに美の本質があると考えた。彼の最後の作品となったサンタンドレア聖堂は、[[1470年]]頃に設計された最も影響力の大きな作品である。伝統的なラテン十字型平面を持つこの聖堂は、堂々としたトンネル・ヴォールトを持つ身廊を建造するためにブルネレスキが設計したバシリカ形式を採用しておらず、このため内部はより一層古典的な形態になった。正面は、テンピオ・マラテスティアーナと同じくローマの凱旋門をモティーフにしているが、その比例と構成は内部の身廊を囲む壁面にも繰り返されており、建築全体を一定の調和によって統一している。



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1450年以降、スフォルツァ家がフィレンツェと同盟関係を結んだことによって、それまでゴシック様式の段階に留まっていた都市には、まずミケロッツォ・ディ・バルトロメオ、[[アントニオ・フィラレーテ]]、[[ジョヴァンニ・アントニオ・アマーデオ]]らによってルネサンス建築が取り入れられた。当時のミラノにはまだ多くのローマ建築の遺構が遺っていたらしく、これらがルネサンス建築の発展に果たした役割は大きいと考えられている。しかし、これらの遺物があるにもかかわらず、初期のルネサンス導入にあたっては、職人たちの間にかなりの抵抗があり、彼らが設計したポルティナーリ礼拝堂、オスペダーレ・マッジョーレ、コッレオーニ礼拝堂などは、かなりの修正が加えられ、結果的にルネサンスとは言えない建築に改変された。

1450年以降、スフォルツァ家がフィレンツェと同盟関係を結んだことによって、それまでゴシック様式の段階に留まっていた都市には、まずミケロッツォ・ディ・バルトロメオ、[[アントニオ・フィラレーテ]]、[[ジョヴァンニ・アントニオ・アマーデオ]]らによってルネサンス建築が取り入れられた。当時のミラノにはまだ多くのローマ建築の遺構が遺っていたらしく、これらがルネサンス建築の発展に果たした役割は大きいと考えられている。しかし、これらの遺物があるにもかかわらず、初期のルネサンス導入にあたっては、職人たちの間にかなりの抵抗があり、彼らが設計したポルティナーリ礼拝堂、オスペダーレ・マッジョーレ、コッレオーニ礼拝堂などは、かなりの修正が加えられ、結果的にルネサンスとは言えない建築に改変された。



[[Image:leonardo'sdrawingdome.jpg|thumb|200px|right|レオナルドによる集中式教会のドローイング]]

<!-- [[Image:leonardo'sdrawingdome.jpg|thumb|200px|right|レオナルドによる集中式教会のドローイング]] -->

ルネサンス建築の本格的な導入は、[[1481年]]頃に、[[ドナト・ブラマンテ]]と[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]という二人の芸術家がこの街に滞在したことによって始まる。ブラマンテは[[1477年]]頃にサンタ・マリア・プレッソ・サン・サーティロ聖堂の建設で建築の仕事をはじめており、レオナルドは、スケッチなどから[[1480年]]代に建築に関心を持つようになったと考えられる。彼らは相互に影響を与えあい、[[1492年]]には、ブラマンテの設計によるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂東部が起工され、その食堂ではレオナルドが盛期ルネサンス最初の作品とされる『最後の晩餐』に着手した。<br>

ルネサンス建築の本格的な導入は、[[1481年]]頃に、[[ドナト・ブラマンテ]]と[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]という二人の芸術家がこの街に滞在したことによって始まる。ブラマンテは[[1477年]]頃にサンタ・マリア・プレッソ・サン・サーティロ聖堂の建設で建築の仕事をはじめており、レオナルドは、スケッチなどから[[1480年]]代に建築に関心を持つようになったと考えられる。彼らは相互に影響を与えあい、[[1492年]]には、ブラマンテの設計によるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂東部が起工され、その食堂ではレオナルドが盛期ルネサンス最初の作品とされる『最後の晩餐』に着手した。<br>

レオナルドは、人体解剖を行う際に用いた技術的な素描を建築分野に応用し、鳥瞰図などを用いた実用的な設計製図を導入することに寄与した。彼の関心は数学的比例あるいは工学的部分であって、美学的な要素や古代の遺構についてはほとんど興味を持たなかったようである。また、彼はブルネレスキやアルベルティの建築もあまり知ってはいなかったようである。しかし、ブラマンテの初期の設計方法が遠近法的観点(絵画の手法を応用したもの)であったこと、そして、その後のブラマンテの建築を思慮に入れると、レオナルドの機械的で思索的な概念は、ブラマンテの設計手法に大きな影響を与えたと考えられる。レオナルドの建築のスケッチには、ブラマンテのサン・ピエトロ大聖堂の平面を想起させるものもあり、レオナルドがブラマンテを通してルネサンス建築に与えた影響は、大きいと言える。

レオナルドは、人体解剖を行う際に用いた技術的な素描を建築分野に応用し、鳥瞰図などを用いた実用的な設計製図を導入することに寄与した。彼の関心は数学的比例あるいは工学的部分であって、美学的な要素や古代の遺構についてはほとんど興味を持たなかったようである。また、彼はブルネレスキやアルベルティの建築もあまり知ってはいなかったようである。しかし、ブラマンテの初期の設計方法が遠近法的観点(絵画の手法を応用したもの)であったこと、そして、その後のブラマンテの建築を思慮に入れると、レオナルドの機械的で思索的な概念は、ブラマンテの設計手法に大きな影響を与えたと考えられる。レオナルドの建築のスケッチには、ブラマンテのサン・ピエトロ大聖堂の平面を想起させるものもあり、レオナルドがブラマンテを通してルネサンス建築に与えた影響は、大きいと言える。



[[1499年]]、フランスに占領されたミラノからローマに避難したブラマンテは、教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]に召し抱えられた。彼は、ローマから[[カンパニア州|カンパーニア]]に渡って残る遺跡の実測を精力的に行い、これらの遺構と自らの想像力を駆使して、聖ペテロの殉教地(と伝えられる場所)に立つ[[サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会|サン・ピエトロ・イン・モントリオ聖堂]]の [[サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会#テンピエット|テンピエット]]を設計した。後世の多くの建築家は、この[[マルティリウム]]を古代ローマの偉大な建築と同等のものと見なした。彼はテヴェレ河畔にある[[ウェスタ]]神殿(本来はヘラクレス・ウィクトル神殿であるが)を拠り所としたのであるが、その単純な模倣ではなく、英雄的な神の神殿に用いられた[[ドーリア式]][[オーダー]]を使って使徒聖ペテロにふさわしい古典的な形態を与えた。つまり、ブラマンテはローマ建築をその想像力によって拡張させ、ルネサンス建築が古典建築の手法を完全に再生したと信じさせるにたる美学を確立したのである。


[[1499]][[2 ()|2]][[|]]使[[|]] [[#|]][[]][[]]殿殿殿[[]][[ ()|]]使使


ブラマンテの壮大さは[[インノケンティウス8世 (ローマ教皇)|インノケンティウス8世]]が建設したヴィッラ・ディ・ベルヴェデーレとヴァティカーノ宮殿を結ぶ宮殿の増築においても遺憾なく発揮された。ブラマンテはその中庭に[[パレストリーナ]]のフォルトナ・プリミゲニア神域のモティーフを取り入れ、壮大なファサードをデザインした。しかし、ブラマンテのデザインは、後世の増築などによって、今日ではほとんど分からなくなっている。邸宅については、もうひとつ主要な作品が伝えられる。[[1517年]]に[[ラファエロ・サンティ]]が購入した通称「ラファエロの家」ことパラッツォ・カプリーニである。こちらも現存はしていないが、文献と図版から知られるその構成は、1階を[[ルスティカ]]とし、2階の[[ピアノ・ノービレ]]を、[[ペディメント]]付きの開口部とオーダーで装飾したもので、以後の邸宅建築はほとんど全てこのデザインを模倣または下敷きにしていると言っても過言ではない。

ブラマンテの壮大さは[[インノケンティウス8世 (ローマ教皇)|インノケンティウス8世]]が建設したヴィッラ・ディ・ベルヴェデーレとヴァティカーノ宮殿を結ぶ宮殿の増築においても遺憾なく発揮された。ブラマンテはその中庭に[[パレストリーナ]]のフォルトナ・プリミゲニア神域のモティーフを取り入れ、壮大なファサードをデザインした。しかし、ブラマンテのデザインは、後世の増築などによって、今日ではほとんど分からなくなっている。邸宅については、もうひとつ主要な作品が伝えられる。[[1517年]]に[[ラファエロ・サンティ]]が購入した通称「ラファエロの家」ことパラッツォ・カプリーニである。こちらも現存はしていないが、文献と図版から知られるその構成は、1階を[[ルスティカ]]とし、2階の[[ピアノ・ノービレ]]を、[[ペディメント]]付きの開口部とオーダーで装飾したもので、以後の邸宅建築はほとんど全てこのデザインを模倣または下敷きにしていると言っても過言ではない。



[[Image:bramante'sdrawingsanpietro.jpg|thumb|200px|left|ブラマンテによるサン・ピエトロ大聖堂「羊皮紙プラン」]]

<!-- [[Image:bramante'sdrawingsanpietro.jpg|thumb|200px|left|ブラマンテによるサン・ピエトロ大聖堂「羊皮紙プラン」]] -->

ブラマンテがユリウス2世とともに[[サン・ピエトロ大聖堂]]の再建計画を練ったのは[[1505年]]頃から死に至る[[1514年]]までの間である。基石は[[1506年]]に置かれはしたが、旧聖堂はすでに1000年以上の歴史を持ち、それ自体が神聖視されていたため、再建行程は困難を極め、また慎重に行われた。ブラマンテの計画案は、ウフィッツィ美術館に収蔵されている、いわゆる「羊皮紙プラン」と呼ばれるもので、これは完全な[[ギリシャ十字|ギリシア十字]]平面であった可能性が高い(発見されたメダルの立面図からそのように推定されている)。工事はブラマンテによってドームを支える四本の主柱の位置とこれに架けるアーチが決定され、実行されたが、「羊皮紙プラン」の構造体では強度が全く足りなかった。さらにブラマンテの死去によって、建設は完全に混乱に陥り、ブラマンテの死後、作業は20年以上もほとんど進展しなかった。<br>

ブラマンテがユリウス2世とともに[[サン・ピエトロ大聖堂]]の再建計画を練ったのは[[1505年]]頃から死に至る[[1514年]]までの間である。基石は[[1506年]]に置かれはしたが、旧聖堂はすでに1000年以上の歴史を持ち、それ自体が神聖視されていたため、再建行程は困難を極め、また慎重に行われた。ブラマンテの計画案は、ウフィッツィ美術館に収蔵されている、いわゆる「羊皮紙プラン」と呼ばれるもので、これは完全な[[ギリシャ十字|ギリシア十字]]平面であった可能性が高い(発見されたメダルの立面図からそのように推定されている)。工事はブラマンテによってドームを支える四本の主柱の位置とこれに架けるアーチが決定され、実行されたが、「羊皮紙プラン」の構造体では強度が全く足りなかった。さらにブラマンテの死去によって、建設は完全に混乱に陥り、ブラマンテの死後、作業は20年以上もほとんど進展しなかった。<br>

ブラマンテの死後、サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家となったのは、彼の理念を継承した[[フラ・ジョコンド]]、[[ラファエロ・サンティ]] 、[[バルダッサーレ・ペルッツィ]]、[[アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネ]]である。ラファエロはブラマンテのもとで設計を行い、サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂やサンテリージョ・デッリ・オレーフィチ聖堂など、ブラマンテのものとされるいくつかの建築について、彼の名が結び付けられている。サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂のキージ家礼拝堂では、純粋な形態のなかに装飾の豊かさを見ることができ、盛期ルネサンスに女性的な繊細さと優雅さを与えたラファエロの嗜好が現れている。<br>

ブラマンテの死後、サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家となったのは、彼の理念を継承した[[フラ・ジョコンド]]、[[ラファエロ・サンティ]] 、[[バルダッサーレ・ペルッツィ]]、[[アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネ]]である。ラファエロはブラマンテのもとで設計を行い、サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂やサンテリージョ・デッリ・オレーフィチ聖堂など、ブラマンテのものとされるいくつかの建築について、彼の名が結び付けられている。サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂のキージ家礼拝堂では、純粋な形態のなかに装飾の豊かさを見ることができ、盛期ルネサンスに女性的な繊細さと優雅さを与えたラファエロの嗜好が現れている。<br>

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[[Image: Palazzo Te Mantova 1.jpg |thumb|right|250px|パラッツォ・デル・テの中庭側ファサード]]

[[Image: Palazzo Te Mantova 1.jpg |thumb|right|250px|パラッツォ・デル・テの中庭側ファサード]]


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ジュリオ・ロマーノは、[[1524年]]に[[マントヴァ]]の[[ゴンザーガ家]]に召還され、パラッツォ・デル・テの設計に携わった。正面ファサードと中庭側のファサード、そして庭園側のファサードは、それぞれ同一のリズムを刻みながら全く異なったモティーフでデザインされており、機知に富んでいる。また、「巨人の間」は、絵画と建築、彫刻を融合した劇場的なイリュージョンを演出しており、ジュリオ・ロマーノの芸術的な感性の高さを物語っている。こうした意匠はローマ建築をよく知る教養人のみを意識したものであり、主題にひねりを加える玄人受けする要素は、ブラマンテのような主題を明快かつ重々しく表現する手法とは正反対である。


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[[ローマ略奪]]<ref>詳しくはアンドレ・シャステル『ローマ劫掠』 訳書は[[筑摩書房]]、2004年</ref>の後、16世紀半ばにようやくローマの建築活動は息を吹き返し、アントニオ・ダ・サンガッロやジャコモ・デッラ・ポルタ、[[バルトロメオ・アンマナーティ]]、ジョルジョ・ヴァザーリといった芸術家が活動を再開した。ミケランジェロがあまりにも偉大であるため、彼ら、とりわけヴィニョーラは影の薄い存在になっているが、ヴィニョーラもまた、当時の建築活動の際最も大きな影響を与えた人物のひとりである。<br>

[[ローマ略奪]]<ref>詳しくはアンドレ・シャステル『ローマ劫掠』 訳書は[[筑摩書房]]、2004年</ref>の後、16世紀半ばにようやくローマの建築活動は息を吹き返し、アントニオ・ダ・サンガッロやジャコモ・デッラ・ポルタ、[[バルトロメオ・アンマナーティ]]、ジョルジョ・ヴァザーリといった芸術家が活動を再開した。ミケランジェロがあまりにも偉大であるため、彼ら、とりわけヴィニョーラは影の薄い存在になっているが、ヴィニョーラもまた、当時の建築活動の際最も大きな影響を与えた人物のひとりである。<br>


使<br>

使<br>

彼が後世に与えた最も大きな影響は、[[オーダー]]の標準的なテキストとなった著作『5つのオーダー』と、[[イエズス会]]の本部があった[[ジェズ教会]]のデザインである。ジェズ教会は、アルベルティのサンタンドレア教会のプランとサンタ・マリア・ノヴェッラ教会のファサードに由来するもので、その原案はミケランジェロの手による。現在に見るファサードは[[ジャコモ・デッラ・ポルタ]]により修正を受け、内部装飾は17世紀後期と19世紀に改修されて原案の通りではなが、平面はヴィニョーラの設計で、アルベルティのサンタンドレア聖堂と同じヴォールト天井を採用したラテン十字平面である。会衆に対する説教に合わせた大きさに設計されており、以後イエズス会の布教活動の発展とともに世界中で模倣された。

彼が後世に与えた最も大きな影響は、オーダーの標準的なテキストとなった著作『5つのオーダー』と、[[イエズス会]]の本部があった[[ジェズ教会]]のデザインである。ジェズ教会は、アルベルティのサンタンドレア教会のプランとサンタ・マリア・ノヴェッラ教会のファサードに由来するもので、その原案はミケランジェロの手による。現在に見るファサードは[[ジャコモ・デッラ・ポルタ]]により修正を受け、内部装飾は17世紀後期と19世紀に改修されて原案の通りではなが、平面はヴィニョーラの設計で、アルベルティのサンタンドレア聖堂と同じヴォールト天井を採用したラテン十字平面である。会衆に対する説教に合わせた大きさに設計されており、以後イエズス会の布教活動の発展とともに世界中で模倣された。



==== 北イタリアの後期ルネサンス建築 ====

==== 北イタリアの後期ルネサンス建築 ====


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ヴェローナの[[ミケーレ・サンミケーリ]]は傑出した軍事エンジニアであり、いくぶんマニエリスムの、特にパラッツォ・デル・テからの影響を受けている。それは年を負うごとに顕著になっていくようにみえるが、パラッツォ・ベヴィラックァのデザインはラファエロの家を規範としたものであるし、マドンナ・ディ・カンパーニャ聖堂のデザインは、テンピエットを基調としたものである。これらを考察するかぎり、彼は本質的には常にブラマンテの思想に忠実であった。

ヴェローナの[[ミケーレ・サンミケーリ]]は傑出した軍事エンジニアであり、いくぶんマニエリスムの、特にパラッツォ・デル・テからの影響を受けている。それは年を負うごとに顕著になっていくようにみえるが、パラッツォ・ベヴィラックァのデザインはラファエロの家を規範としたものであるし、マドンナ・ディ・カンパーニャ聖堂のデザインは、テンピエットを基調としたものである。これらを考察するかぎり、彼は本質的には常にブラマンテの思想に忠実であった。



[[アンドレア・パラーディオ]]もまた、一時的にはマニエリスム(特にミケランジェロ)に傾倒した。彼はブラマンテとの直接的なつながりは持たなかったが、ローマ建築とブラマンテの建築を独自に研究し、ウィトルウィウスの比例理論を再構築した。彼の建築手法は数学的調和を基調とし、対称性を重視するもので、その建築理論は『建築四書』に収められている。ヴィラ・ロトンダやバシリカ・パラディアーナは、彼の考古学的知識とルネサンスの伝統的様式が見事に混淆したものである。ヴェネツィアに建設された晩年の傑作、サン・ジョルジョ・マジョーレ聖堂とイル・レデントーレ聖堂は、光の取り入れ方や空間構成は簡素で優しい。マニエリスムの芝居がかった空間とは対照的である。彼の作風は、後にパラーディオ主義として、イギリスの建築に大きな影響を及ぼした。


[[]]調調[[]][[|]]


== 特徴 ==

== 特徴 ==

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*パラッツォ・マリーノ(ガレアッツォ・アレッシ ミラノ 1553年起工・1892年完成)

*パラッツォ・マリーノ(ガレアッツォ・アレッシ ミラノ 1553年起工・1892年完成)

*パラッツォ・ピッティ(バルトロメオ・アンマナーティ フィレンツェ 1558年起工・1640年完成)

*パラッツォ・ピッティ(バルトロメオ・アンマナーティ フィレンツェ 1558年起工・1640年完成)

*ヴィラ・ファルネーゼ(ジャコモ・パロッツィ・ダ・ヴィニョーラ [[カプラローラ]] 1559年起工・1573年完成)

*[[パッツォ・ファルネーゼ (カプラローラ)|パラッツォ・ファルネーゼ]](ジャコモ・パロッツィ・ダ・ヴィニョーラ [[カプラローラ]] 1559年起工・1573年完成)

*パラッツォ・ウフィッツィ(現[[ウフィッツィ美術館]] ジョルジョ・ヴァザーリ フィレンツェ 1560年起工)

*パラッツォ・ウフィッツィ(現[[ウフィッツィ美術館]] ジョルジョ・ヴァザーリ フィレンツェ 1560年起工)

*サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のスフォルツァ家礼拝堂(ミケランジェロ・ブオナローティ ローマ 1560年頃設計)

*サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のスフォルツァ家礼拝堂(ミケランジェロ・ブオナローティ ローマ 1560年頃設計)

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== 脚注 ==

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=== 注釈 ===

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==参考文献==

==参考文献==

*ピーター・マレー、桐敷真次郎訳『図説世界建築史 ルネサンス建築』([[本の友社]])ISBN 9784894391550

*ピーター・マレー、[[桐敷真次郎]]訳『図説世界建築史 ルネサンス建築』(本の友社)ISBN 9784894391550

*ピーター・マレー、長尾重武訳『イタリア・ルネッサンスの建築』(SDライブラリー・[[鹿島出版会]])ISBN 9784306061088

*ピーター・マレー、長尾重武訳『イタリア・ルネッサンスの建築』[[鹿島出版会]]「SDライブラリー」)ISBN 9784306061088

*ヴォルフガング・ロッツ、飛ケ谷潤一郎訳『イタリア・[[ルネサンス]]建築研究』([[中央公論美術出版]] 2008年)ISBN 978-4805505809

*ヴォルフガング・ロッツ、飛ケ谷潤一郎訳『イタリア・[[ルネサンス]]建築研究』([[中央公論美術出版]] 2008年)ISBN 978-4805505809

*ヴィトルト・リプチンスキ、渡辺真弓訳『完璧な家 パラーディオのヴィラをめぐる旅』([[白水社]] 2005年) ISBN 978-4560027028

*ヴィトルト・リプチンスキ、[[渡辺真弓 (建築史学者)|渡辺真弓]]訳『完璧な家 パラーディオのヴィラをめぐる旅』([[白水社]] 2005年) ISBN 978-4560027028

*[[コーリン・ロウ]]、レオン・ザトコウスキ、稲川直樹訳『イタリア十六世紀の建築』([[六耀社]] 2006年) ISBN 978-4897375540

*[[コーリン・ロウ]]、レオン・ザトコウスキ、稲川直樹訳『イタリア十六世紀の建築』([[六耀社]] 2006年) ISBN 978-4897375540

*[[ヤーコプ・ブルクハルト]]、瀧内槙雄訳『チチェローネ イタリア美術作品享受の案内 建築篇』([[中央公論美術出版]] 2004年)

*[[ヤーコプ・ブルクハルト]]、瀧内槙雄訳『チチェローネ イタリア美術作品享受の案内 建築篇』([[中央公論美術出版]] 2004年)

*アンドレ・シャステル 小島久和訳『ルネサンスの危機 1520-1600年』ISBN 978-4582238358

*[[アンドレ・シャステル]]、小島久和訳『ルネサンスの危機 1520-1600年』ISBN 978-4582238358

*パウル・フランクル、香山寿夫監訳『建築史の基礎概念 ルネサンスから新古典主義まで』([[SD選書]]:[[鹿島出版会]])

*パウル・フランクル、[[香山]]監訳『建築史の基礎概念 ルネサンスから新古典主義まで』([[鹿島出版会]]〈SD選書〉

*[[ルドルフ・ウィットコウアー]] 中森義宗訳『ヒューマニズム建築の源流』(彰国社)

*[[ルドルフ・ウィットコウアー]] [[中森義宗]]訳『ヒューマニズム建築の源流』(彰国社)

*[[レオン・バティスタ・アルベルティ]]、相川浩訳『建築論』(中央公論美術出版)ISBN 9784805500101

*[[レオン・バティスタ・アルベルティ]]、相川浩訳『建築論』(中央公論美術出版)ISBN 9784805500101

*ジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ 長尾重武編『建築の五つのオーダー』(中央公論美術出版 1984年)

*ジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ 長尾重武編『建築の五つのオーダー』(中央公論美術出版 1984年)

*ベルトッティ・スカモッツィ、桐敷真次郎訳『「アンドレア・パラーディオの建築と図面」解説』(本の友社 1998年)ISBN 978-4894391420

*ベルトッティ・スカモッツィ、桐敷真次郎訳『「アンドレア・パラーディオの建築と図面」解説』(本の友社 1998年)ISBN 978-4894391420

*[[ジョルジョ・ヴァザーリ]] [[森田義之]]監訳『ルネサンス彫刻家建築家列伝』(白水社 2003年) ISBN 9784560039304

*[[ジョルジョ・ヴァザーリ]] [[森田義之]]監訳『ルネサンス彫刻家建築家列伝』(白水社 2003年) ISBN 9784560039304

*アントーニオ・マネッティ 浅井朋子訳『ブルネッレスキ伝』(中央公論美術出版 1989年) ISBN 978-4805501870

*アントーニオ・マネッティ 浅井朋子訳『ブルネッレスキ伝』(中央公論美術出版 1989年) ISBN 978-4805501870

*ジュリオ・カルロ・アルガン 浅井朋子訳『ブルネッレスキ-ルネサンス建築の開花』(SD選書:鹿島出版会 1981年) ISBN 978-4306051706

*ジュリオ・カルロ・アルガン 浅井朋子訳『ブルネッレスキ-ルネサンス建築の開花』鹿島出版会〈[[SD選書]]〉 1981年) ISBN 978-4306051706

*福田晴虔 『イタリア・ルネサンス建築ノート1<1>ブルネッレスキ』(中央公論美術出版 2011年) ISBN 978-4805506677

*福田晴虔 『イタリア・ルネサンス建築ノート<1> ブルネッレスキ』(中央公論美術出版 2011年) ISBN 978-4805506677

*アルナルド・ブルスキ、稲川直樹訳『ブラマンテ ルネサンス建築の完成者』(中央公論美術出版) ISBN 978-4805504123

*アルナルド・ブルスキ、稲川直樹訳『ブラマンテ ルネサンス建築の完成者』(中央公論美術出版) ISBN 978-4805504123

*長尾重武 『パラディオへの招待』(SD選書:鹿島出版会)ISBN 978-4306052222

*長尾重武 『パラディオへの招待』鹿島出版会〈SD選書〉)ISBN 978-4306052222

*ジーン・A・ブラッカー 森田義之・松本典昭訳『ルネサンス都市フィレンツェ』(岩波書店 2011年) ISBN 978-4000024679

*ジーン・A・ブラッカー 森田義之・松本典昭訳『ルネサンス都市フィレンツェ』(岩波書店 2011年) ISBN 978-4000024679

*ニコラス・ペヴスナー他  鈴木博之監訳『世界建築辞典』(鹿島出版会)ISBN 9784306041615

*ニコラス・ペヴスナーほか編 『世界建築辞典』([[鈴木博之]]監訳、鹿島出版会)ISBN 9784306041615

*ニコラス・ペヴスナー 小林文次・山口廣・竹本碧訳『新版ヨーロッパ建築序説』([[彰国社]] 1989年) ISBN 978-4395050833

*[[ニコラウス・ペヴズナー|ニコラス・ペヴスナー]] 『ヨーロッパ建築序説』([[小林文次]]・山口廣・竹本碧訳[[彰国社]] 新版1989年) ISBN 978-4395050833




== 関連項目 ==

== 関連項目 ==

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De architectura libri decem141514

1432De re aedificatoria[17]調1485Trattato di Archiettura civile e militare1482

Trattato di Archietttura875  1425

151615371551LArchitettura5
5Regola delli Cinque Ordini dArchitettura1562

Quattro Libri dell Architettura1570殿[18]調
1615Lidea dell architettura universale

主要建築物[編集]

初期ルネサンス[編集]

  • サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドーム(フィリッポ・ブルネレスキ フィレンツェ 1418年設計・1436年完成)
  • サン・ロレンツォ聖堂と古聖器室(フィリッポ・ブルネレスキ フィレンツェ 1419年設計・1461年完成)
  • サンタ・クローチェ聖堂のパッツィ家礼拝堂(フィリッポ・ブルネレスキ フィレンツェ 1430年設計・1444年完成)
  • サント・スピリト聖堂(フィリッポ・ブルネレスキ フィレンツェ 1436年設計・1487年完成)
  • パラッツォ・メディチ・リッカルディ(ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ フィレンツェ 1444年起工・1464年完成)
  • パラッツォ・ルチェッライ(レオン・バッティスタ・アルベルティ フィレンツェ 1446年頃起工・1451年完成)
  • テンピオ・マラスティアーノ(レオン・バッティスタ・アルベルティ リミニ 1446年起工・1468年完成)
  • サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂正面(レオン・バティスタ・アルベルティ フィレンツェ 1448年起工・1470年完成)
  • オスペダーレ・マッジョーレ(アントニオ・フィラレーテ ミラノ 1456年起工・1465年完成)
  • パラッツォ・ピッコロミーニとピエンツァ大聖堂(ピウス2世およびベルナルド・ロッセリーノ ピエンツァ 1459年起工・1464年完成)
  • パラッツォ・ドゥカーレ(ルチアーノ・ラウラーナ ウルビーノ 1465年起工・1479年完成)
  • サンタンドレア聖堂(レオン・ティスタ・アルベルティ マントヴァ 1471年設計・1494年完成)
  • サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂のコレオーニ礼拝堂(ジョヴァンニ・アントニオ・アマーデオ ベルガモ 1473年起工・1499年完成)
  • ヴィラ・メディチ(ジュリアーノ・ダ・サンガッロ ポッジョ・ア・カイヤーノ 1480年起工・1485年完成)
  • サンタ・マリア・デッレ・カルチェッリ聖堂(ジュリアーノ・ダ・サンガッロ プラート 1484年起工・1491年完成)
  • サンタ・マリア・デル・カルチナイオ聖堂(フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ コルトーナ 1485年起工・1501年完成)
  • サント・スピリト聖堂の聖器室(ジュリアーノ・ダ・サンガッロ フィレンツェ 1489年起工・1495年完成)
  • パラッツォ・ストロッツィ(ベネデット・ダ・マイアーノおよびイル・クローナカ フィレンツェ 1489年起工・1539年完成)

盛期ルネサンス[編集]

  • サンタ・マリア・プレッソ・サン・サーティ教会(ドナト・ブラマンテ ミラノ 1478年起工・1486年完成)
  • サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ教会(グイニフォルテ・ソラーリおよびドナト・ブラマンテ ミラノ 1466年起工・1499年完成)
  • サンタンブロージョ教会のクロイスター(ドナト・ブラマンテおよびクリストフォロ・ソラーリ ミラノ 1497年起工・1513年完成)
  • サンタ・マリア・デッラ・パーチェ聖堂のクロイスター(ドナト・ブラマンテ ローマ 1500年起工・1504年完成)
  • サン・ピエトロ・イン・モントリオ聖堂のテンピエット(ドナト・ブラマンテ ローマ 1502年起工・1512年成)
  • ヴァティカーノ宮殿のベルヴェデーレの中庭(ドナト・ブラマンテ ローマ  1504年起工・1550年頃完成)
  • サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂のアプス(ドナト・ブラマンテ ローマ 1505年起工・1509年完成)
  • サン・ピエトロ大聖堂計画案(ドナト・ブラマンテ ローマ 1506年頃設計)
  • サンタ・マリア・デッラ・コンソラツィオーネ教会(コーラ・ダ・カプラローラ トーディ 1508年起工・1524年完成)
  • サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂のキージ家礼拝堂(ドナト・ブラマンテ ローマ 1513年頃起工)
  • パラッツォ・ファルネーゼ(アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネおよびミケランジェロ・ブオナローティ ローマ 1517年起工・1549年完成)
  • ヴィラ・マダマ(ラファエロ・サンティおよびジュリオ・ロマーノ ローマ 1518 年起工・1525年完成)
  • マドンナ・ディ・サン・ビアージョ聖堂(アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオ モンテプチャーノ 1518年起工・1545年完成)
  • パラッツォ・マッシモ・アッレ・コロンネ(バルダッサーレ・ペルッツィ ローマ 1532年起工・1536年完成)

後期ルネサンス[編集]

マニエリスム[編集]

  • サン・ロレンツォ聖堂の新聖器室(ミケランジェロ・ブオナローティ フィレンツェ 1520年起工・1534年完成)
  • パラッツォ・ドゥカーレのコルテ・ヌォヴァ(ジュリオ・ロマーノ マントヴァ 1524年起工・1546年完成)
  • ロレンツォ図書館(ミケランジェロ・ブオナローティ フィレンツェ 1524年頃起工・1559年完成)
  • パラッツォ・デル・テ(ジュリオ・ロマーノ マントヴァ 1526年起工・1535年完成)
  • カンピドリオ広場とパラッツォ・セナトリオおよびパラッツォ・ヌォヴォ(ミケランジェロ・ブオナローティおよびジャコモ・デッラ・ポルタ ローマ 1536年頃設計・1655年完成)
  • サント・スピリト・イン・サッシァ聖堂(アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネ ローマ 1540年起工)
  • ジュリオ・ロマーノ自邸(ジュリオ・ロマーノ マントヴァ 1544年起工・1546年完成)
  • サン・ピエトロ大聖堂(ミケランジェロ・ブオナローティ ローマ 1546年設計・1589年完成)
  • サンタ・マリア・ディ・カリニャーノ聖堂(ガレアッツォ・アレッシ ジェノヴァ 1549年設計・1603年完成)
  • サンタンドレア・ヴィア・フラミア聖堂(ジャコモ・パロッツィ・ダ・ヴィニョーラ ローマ 1550年起工・1554年完成)
  • ヴィラ・ジュリア(ジャコモ・パロッツィ・ダ・ヴィニョーラおよびバルトロメオ・アンマナーティ ローマ 1550年設計・1555年完成)
  • パラッツォ・マリーノ(ガレアッツォ・アレッシ ミラノ 1553年起工・1892年完成)
  • パラッツォ・ピッティ(バルトロメオ・アンマナーティ フィレンツェ 1558年起工・1640年完成)
  • パラッツォ・ファルネーゼ(ジャコモ・パロッツィ・ダ・ヴィニョーラ カプラローラ 1559年起工・1573年完成)
  • パラッツォ・ウフィッツィ(現ウフィッツィ美術館 ジョルジョ・ヴァザーリ フィレンツェ 1560年起工)
  • サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のスフォルツァ家礼拝堂(ミケランジェロ・ブオナローティ ローマ 1560年頃設計)
  • イル・ジェス聖堂(ジャコモ・パロッツィ・ダ・ヴィニョーラ ローマ 1568年着工・1577年完成)
  • パラッツォ・ラテラセンネ(ドメニコ・フォンターナ ローマ 1586年起工・1589年完成)
  • サンタ・トリニタ聖堂(ベルナルド・ブオンタレンティ フィレンツェ 1593年起工・1594年完成)

北イタリアの後期ルネサンス[編集]

  • パラッツォ・ポンペイ(ミケーレ・サンミケーリ ヴェローナ 1527年起工・1535年完成)
  • カ・グランデ(ヤーコポ・サンソヴィーノ ヴェネツィア 1533年起工・1556年完成)
  • 造幣局(ヤーコポ・サンソヴィーノ ヴェネツィア 1535年起工・1547年完成)
  • サンソヴィノ図書館とロジェッタ(ヤーコポ・サンソヴィーノ ヴェネツィア 1537年起工・1591年完成)
  • ポルタ・パーリオ(ミケーレ・サンミケーリ ヴェローナ 1548年起工・1559年完成)
  • バシリカ・パラディアーナ(アンドレーア・パッラーディオ ヴィチェンツァ 1549年着工・1617年完成)
  • パラッツォ・グリマーニ(ミケーレ・サンミケーリ ヴェネツィア 1556年起工・1575年完成)
  • ヴィッラ・バルバロ(アンドレーア・パッラーディオ マゼール 1557年起工・1558年完成)
  • マドンナ・ディ・カンパーニア聖堂(ミケーレ・サンミケーリ ヴェローナ 1559年起工・1561年完成)
  • サン・ジョルジョ・マッジョーレ修道院聖堂(アンドレーア・パッラーディオ ヴェネツィア 1564年起工・1589年完成)
  • ヴィラ・ロトンダ(アンドレーア・パッラーディオおよびヴィンチェンツォ・スカモッツィ ヴィチェンツァ 1565年起工・1569年完成)
  • イル・レデントーレ教会(アンドレーア・パッラーディオ ヴェネツィア 1577年起工・1592年完成)
  • テアトロ・オリンピコ(アンドレーア・パッラーディオ ヴィチェンツァ 1579年設計・1583年完成)

脚注[編集]

注釈[編集]



(一)^ [4][5]1420[6][7]

(二)^ [8][9][10]

(三)^ 1435

出典[編集]



(一)^ 201123

(二)^ 1989p149-p150

(三)^ 2011p91

(四)^ 1989pp116-117

(五)^ 2003p133

(六)^ 1989pp127-128

(七)^ 2003pp135-136 p144

(八)^ 1989pp81-85

(九)^ 2003pp111-112

(十)^ 1981p17

(11)^ 2003pp146-147

(12)^ 2011pp215-216

(13)^ 2011pp198-201

(14)^  2004

(15)^ p189

(16)^ p120-p1311979

(17)^  1988

(18)^ 19861994

参考文献[編集]

関連項目[編集]