「千代天山大八郎」の版間の差分
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幕下上位で苦労した時期もあったが、[[1997年]]1月場所では[[十両]]に昇進した。1999年1月場所に新入幕を果たし、その場所から3場所連続で[[三賞]]を受賞するという、大相撲史上初めての快挙を達成して周囲を驚かせた。そして同年7月場所で早々と小結への昇進を果たした。同場所は3勝12敗と大きく負け越し、三役経験は結局この1場所のみに終わっている。当時は[[雅山哲士|雅山]]とライバル関係にあった。
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幕下上位で苦労した時期もあったが、[[1997年]]1月場所では[[十両]]に昇進した。1999年1月場所に新入幕を果たし、その場所から3場所連続で[[三賞]]を受賞するという、大相撲史上初めての快挙を達成して周囲を驚かせた。そして同年7月場所で早々と小結への昇進を果たした。同場所は3勝12敗と大きく負け越し、三役経験は結局この1場所のみに終わっている。当時は[[雅山哲士|雅山]]とライバル関係にあった。
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しかし、[[2002年]]1月場所で左足の踵骨を骨折し、その影響からその後幕下にまで陥落した。一時は復調し[[2004年]]3月場所で再入幕を果たしたが幕内ではあまり活躍できず、今度は内臓疾患により十両下位に低迷し、2005年11月場所を最後に再び幕下に落ちた。以降は[[関取]]復帰を目指して土俵に上がり続けたが、幕下下位での勝ち越しがやっとの状態が続き、[[2007年]]5月場所では[[三段目]]にまで陥落してしまった。三役経験者がこの地位まで下がることは同部屋の先輩でもある[[巴富士俊英|巴富士]]︵元小結︶以来、[[出羽ヶ嶽文治郎|出羽ヶ嶽]]・[[大豊昌央|大豊]]・[[栃赤城雅男|栃赤城]]に次いで[[昭和]]以降5人目︵[[平成]]以降では3人目︶のこととなった。7月場所では西三段目16枚目で5勝2敗と勝ち越し、翌9月場所に幕下復帰を果たしたものの、その場所では1勝6敗と大敗を喫し、翌11月場所は西三段目27枚目まで番付を落としてしまった。そして[[2008年]]1月場所、初日の相撲を最後に31歳で引退した。[[年寄名跡]]を取得していないため、引退後は角界から離れ、理由は定かではないが[[引退相撲]]も開催されることはなかった。
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しかし、[[2002年]]1月場所で左足の踵骨を骨折し、その影響からその後幕下にまで陥落した。一時は復調し[[2004年]]3月場所で再入幕を果たしたが幕内ではあまり活躍できず、今度は内臓疾患により十両下位に低迷し、2005年11月場所を最後に再び幕下に落ちた。以降は[[関取]]復帰を目指して土俵に上がり続けたが、幕下下位での勝ち越しがやっとの状態が続き、[[2007年]]5月場所では[[三段目]]にまで陥落してしまった。三役経験者がこの地位まで下がることは同部屋の先輩でもある[[巴富士俊英|巴富士]]︵元小結︶以来、[[出羽ヶ嶽文治郎|出羽ヶ嶽]]・[[大豊昌央|大豊]]・[[栃赤城雅男|栃赤城]]に次いで[[昭和]]以降5人目︵[[平成]]以降では3人目︶のこととなった。7月場所では西三段目16枚目で5勝2敗と勝ち越し、翌9月場所に幕下復帰を果たしたものの、その場所では1勝6敗と大敗を喫し、翌11月場所は西三段目27枚目まで番付を落としてしまった。そして[[2008年]]1月場所、初日の相撲を最後に31歳で引退した。[[年寄名跡]]を取得していないため、引退後は角界から離れ、理由は定かではないが[[引退相撲]]も開催されることはなかった。<ref>引き際を巡って九重と対立したため﹁仮に引退相撲を開催しても部屋関係者は誰一人と出席しないだろう﹂と周囲から興業が赤字になる公算を出されて取りやめたという説もある。</ref>
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その後は、本人のブログによると[[2008年]]2月から[[錦糸町]]の飲食店で見習いを始めたということだが、同年9月から約半年ほどブログの更新が途絶えており、その間は[[若隼人幸治|若隼人]]のちゃんこ料理店でスタッフとして働いていた。これらの下積みを経た後、[[2009年]]6月に[[和歌山県]][[白浜町]]に自身の店﹁力士厨房 千代天山﹂を開業した。店は白浜の観光地からは離れているものの、地元住民を中心にした人気店となっている。
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その後は、本人のブログによると[[2008年]]2月から[[錦糸町]]の飲食店で見習いを始めたということだが、同年9月から約半年ほどブログの更新が途絶えており、その間は[[若隼人幸治|若隼人]]のちゃんこ料理店でスタッフとして働いていた。これらの下積みを経た後、[[2009年]]6月に[[和歌山県]][[白浜町]]に自身の店﹁力士厨房 千代天山﹂を開業した。店は白浜の観光地からは離れているものの、地元住民を中心にした人気店となっている。
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2014年2月25日 (火) 06:05時点における版
千代天山 大八郎︵ちよてんざん だいはちろう、1976年2月6日 - ︶は、大阪府大阪市東住吉区出身で九重部屋に所属した元大相撲力士。本名は角 大八郎︵すみ だいはちろう︶であり、大八郎は戸籍上の本名である。身長183cm、体重137kg。得意手は右四つ、寄り。最高位は西小結︵1999年7月場所︶。趣味は読書、愛称はハチ、血液型はO型、水瓶座、干支は辰年。
来歴
出生時は1380gの超未熟児で、1年半以上も保育器で育てられた。調理師を目指していたこともあったが、中学2年の頃に千代の富士に出会ったことで角界入りを決意し、中学卒業後九重部屋に入門。1991年3月場所、15歳で初土俵を踏んだ。同期には後の前頭・金開山、同・春日錦などがいる。以来順調に出世し、入門から3年で幕下に昇進した。 幕下上位で苦労した時期もあったが、1997年1月場所では十両に昇進した。1999年1月場所に新入幕を果たし、その場所から3場所連続で三賞を受賞するという、大相撲史上初めての快挙を達成して周囲を驚かせた。そして同年7月場所で早々と小結への昇進を果たした。同場所は3勝12敗と大きく負け越し、三役経験は結局この1場所のみに終わっている。当時は雅山とライバル関係にあった。 しかし、2002年1月場所で左足の踵骨を骨折し、その影響からその後幕下にまで陥落した。一時は復調し2004年3月場所で再入幕を果たしたが幕内ではあまり活躍できず、今度は内臓疾患により十両下位に低迷し、2005年11月場所を最後に再び幕下に落ちた。以降は関取復帰を目指して土俵に上がり続けたが、幕下下位での勝ち越しがやっとの状態が続き、2007年5月場所では三段目にまで陥落してしまった。三役経験者がこの地位まで下がることは同部屋の先輩でもある巴富士︵元小結︶以来、出羽ヶ嶽・大豊・栃赤城に次いで昭和以降5人目︵平成以降では3人目︶のこととなった。7月場所では西三段目16枚目で5勝2敗と勝ち越し、翌9月場所に幕下復帰を果たしたものの、その場所では1勝6敗と大敗を喫し、翌11月場所は西三段目27枚目まで番付を落としてしまった。そして2008年1月場所、初日の相撲を最後に31歳で引退した。年寄名跡を取得していないため、引退後は角界から離れ、理由は定かではないが引退相撲も開催されることはなかった。[1] その後は、本人のブログによると2008年2月から錦糸町の飲食店で見習いを始めたということだが、同年9月から約半年ほどブログの更新が途絶えており、その間は若隼人のちゃんこ料理店でスタッフとして働いていた。これらの下積みを経た後、2009年6月に和歌山県白浜町に自身の店﹁力士厨房 千代天山﹂を開業した。店は白浜の観光地からは離れているものの、地元住民を中心にした人気店となっている。エピソード
2002年9月には、付け人を裸にした上、エアガンで暴行を加えていたことなどが報道された。[2] 三役経験者として三段目に陥落して三段目の地位で土俵に上がったある場所に関取未経験者の力士と対戦して立合い変化で負けたことがあり、その際に同部屋の呼出が大爆笑したというエピソードが残っている。 夫人の影響でときめきメモリアルを始めて現在では﹁インターネットに頼らずどの彼女候補も攻略できる﹂程の腕前を有している。本人いわく夫人は﹁美樹原愛のように出会った頃から相当俺に執着していた。﹂とのこと。主な成績
- 通算成績:519勝541敗33休 勝率.490
- 幕内成績:144勝181敗20休 勝率.443
- 現役在位:102場所
- 幕内在位:23場所
- 三役在位:1場所 (小結1場所)
- 三賞:3回
- 殊勲賞:1回(1999年5月場所)
- 敢闘賞:2回(1999年1月場所・3月場所)
- 金星:3個(武蔵丸2個、若乃花1個)
- 各段優勝:十両優勝1回(1998年9月場所)
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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1991年 (平成3年) |
x | (前相撲) | 東序ノ口15枚目 4–3 |
東序二段115枚目 2–5 |
東序ノ口5枚目 3–4 |
西序ノ口8枚目 5–2 |
1992年 (平成4年) |
東序二段100枚目 5–2 |
西序二段52枚目 3–4 |
東序二段79枚目 3–4 |
東序二段101枚目 4–3 |
西序二段74枚目 0–1–6 |
東序二段145枚目 7–0 |
1993年 (平成5年) |
東三段目98枚目 5–2 |
西三段目67枚目 4–3 |
西三段目48枚目 1–3–3 |
東三段目78枚目 5–2 |
西三段目42枚目 5–2 |
東三段目16枚目 1–3–3 |
1994年 (平成6年) |
東三段目52枚目 6–1 |
東三段目6枚目 1–6 |
西三段目37枚目 4–3 |
西三段目24枚目 5–2 |
東幕下57枚目 5–2 |
西幕下36枚目 2–5 |
1995年 (平成7年) |
東幕下60枚目 5–2 |
西幕下36枚目 5–2 |
西幕下22枚目 4–3 |
西幕下18枚目 4–3 |
東幕下13枚目 3–4 |
東幕下18枚目 4–3 |
1996年 (平成8年) |
西幕下12枚目 4–3 |
東幕下9枚目 3–4 |
東幕下17枚目 3–4 |
西幕下22枚目 4–3 |
東幕下17枚目 6–1 |
西幕下4枚目 5–2 |
1997年 (平成9年) |
東十両12枚目 8–7 |
西十両9枚目 7–8 |
西十両10枚目 5–10 |
西幕下筆頭 5–2 |
西十両11枚目 9–6 |
東十両5枚目 6–9 |
1998年 (平成10年) |
東十両8枚目 8–7 |
東十両6枚目 8–7 |
東十両4枚目 7–8 |
西十両6枚目 7–8 |
東十両8枚目 優勝 12–3 |
東十両2枚目 9–6 |
1999年 (平成11年) |
東前頭14枚目 10–5 敢 |
東前頭9枚目 9–6 敢 |
東前頭3枚目 9–6 殊★ |
西小結 3–12 |
東前頭6枚目 6–9 |
西前頭8枚目 7–8 |
2000年 (平成12年) |
東前頭11枚目 9–6 |
西前頭5枚目 6–9 |
西前頭6枚目 6–9 |
東前頭9枚目 10–5 |
東前頭2枚目 6–9 |
西前頭3枚目 6–9 ★ |
2001年 (平成13年) |
西前頭6枚目 8–7 |
東前頭2枚目 7–8 ★ |
西前頭2枚目 4–11 |
西前頭8枚目 6–9 |
東前頭11枚目 8–7 |
西前頭8枚目 8–7 |
2002年 (平成14年) |
東前頭4枚目 3–7–5[3] |
西前頭10枚目 休場 0–0–15 |
西前頭10枚目 5–10 |
西前頭13枚目 5–10 |
東十両5枚目 8–7 |
東十両4枚目 3–12 |
2003年 (平成15年) |
西十両12枚目 4–11 |
西幕下6枚目 5–2 |
西幕下2枚目 5–2 |
西十両11枚目 9–6 |
東十両7枚目 8–7 |
東十両6枚目 8–7 |
2004年 (平成16年) |
西十両3枚目 11–4 |
西前頭13枚目 3–12 |
東十両5枚目 6–9 |
西十両6枚目 5–10 |
西十両11枚目 8–7 |
西十両10枚目 6–9 |
2005年 (平成17年) |
西十両13枚目 5–10 |
西幕下2枚目 5–2 |
西十両11枚目 7–8 |
東十両13枚目 6–9 |
東幕下2枚目 5–2 |
東十両10枚目 4–11 |
2006年 (平成18年) |
東幕下2枚目 2–5 |
西幕下8枚目 2–5 |
東幕下21枚目 3–4 |
東幕下28枚目 3–4 |
東幕下36枚目 4–3 |
東幕下29枚目 4–3 |
2007年 (平成19年) |
西幕下22枚目 2–5 |
東幕下41枚目 2–5 |
東三段目5枚目 3–4 |
西三段目16枚目 5–2 |
西幕下56枚目 1–5–1 |
西三段目27枚目 5–2 |
2008年 (平成20年) |
東三段目4枚目 引退 0–1–0 |
x | x | x | x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
改名歴
- 角 大八郎(すみ だいはちろう)1991年3月場所-1993年5月場所
- 千代天山 大八郎(ちよてんざん - )1993年7月場所-2008年1月場所
脚注
- ^ 引き際を巡って九重と対立したため「仮に引退相撲を開催しても部屋関係者は誰一人と出席しないだろう」と周囲から興業が赤字になる公算を出されて取りやめたという説もある。
- ^ 元力士が九重親方ら提訴 「先輩の暴行で苦痛」と 2002/09/06 【共同通信】
- ^ 左足踵骨骨折により10日目から途中休場