南信地方
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南信地方のデータ | ||
国 | 日本 | |
地方 | 中部地方、中央高地 | |
諏訪郡+上伊那郡+下伊那郡 | ||
面積 | 3,992.87km² | |
総人口 | 575,210人 (2006年3月31日) |
南信地方︵なんしんちほう︶とは、長野県︵信州︶を4分割した際の南の地域を指す。
範囲
●南信地方︵諏訪郡・上伊那郡・下伊那郡︶ 諏訪湖から伊那谷までの天竜川流域一帯を総めた範囲。一般的分類としての南信地方。県庁が地域区分をする時や、学校間のスポーツ大会にも用いられる。 ●伊那地方︵上伊那郡・下伊那郡︶ 自然地理としては伊那谷の一帯で、飯田線沿線。更に、飯田を中心とする下伊那郡を南信州︵みなみしんしゅう︶、﹁飯伊︵はんい︶地域﹂と呼ぶ事がある。 特に自然地理や交通では、中央本線・甲州街道・中山道の沿線に当たる諏訪郡を、むしろ伊那地方とは区別して、﹁松本諏訪地方﹂として、天気予報など﹁長野県中部﹂に区分する事もある。 ●木曽・伊那︵上伊那郡・下伊那郡・木曽郡︶ 木曽郡は天竜川流域ではないので、南信地方には含まれないが、糸魚川静岡構造線より西側に位置しているので、観光ガイドでは木曽・伊那として括られる事がある。天気予報も、木曽と伊那が一組で﹁長野県南部﹂に区分されている。概要
諏訪湖周辺および天竜川流域に位置し、西を木曽山脈に、東を赤石山脈︵中央構造線︶に挟まれた地方である。 長野県に属するが、日本海側である北信地方との繋がりは浅い。一方で、交通網の影響により、山梨県および愛知県・岐阜県とのつながりが深く、中央自動車道で接続する山梨県や岐阜県東濃地方、愛知県尾張地方、飯田線の接続する静岡県遠州地方や愛知県東三河地方と交流がある。遠州や東三河との間では、行政面の交流が活発であり、﹁三遠南信﹂という自治体間の交流ネットワークを形成している。また、根羽村や平谷村等の南端部に位置する自治体では、隣接する豊田市等の自治体との関わりが深い。自然地理
︵→伊那谷、木曽谷、諏訪盆地︶歴史
古代から平安時代まで
律令制度下で五畿七道が整備され、東山道伊那郡に属した。令制国では、伊那谷と諏訪盆地の一帯が諏方国として分立した時期もあったが、短い年月で信濃国に編入された。 又、平安時代の東山道は、東濃︵岐阜県南東部︶から伊那地方に入って北上するルートで、現在の中央自動車道がこのルートを継承している。幕府の時代
戦国時代になると、天竜川流域のうち、内陸側︵伊那地方と諏訪盆地︶は、武田信玄の支配圏に置かれた。対する遠州灘沿岸︵東三河と遠江国︶は、今川義元や徳川家康の支配圏に置かれた。武田信玄と徳川家康の抗争に由来する地名として、兵越峠がある。 江戸時代になると、現在の上伊那郡は高遠藩の領土となり、下伊那郡は飯田藩の領土となった。又、江戸時代から明治時代に渡って、伊那地方は日本でも有数の林業地帯となり、伊那地方産の木材は、天竜川の舟運を利用して、下流の遠州灘沿岸に運搬されていた。この伊那地方産の木材は、明治以降に浜松で楽器産業が興った要因にもなっている。東京政権の時代
明治維新期の廃藩置県では、伊那地方の幕府領は伊那県に、飯田藩は飯田県に、高遠藩は高遠県にそれぞれ再編されたが、1871年12月31日には全て筑摩県に編入された。そして、1876年8月21日に筑摩県が分割されると、長野県に編入された。 明治前期の鉄道建設からは漏れたものの、1927年には飯田線の全線が開通した︵飯田線各社の統合・国有化は、第二次大戦中の1943年︶。 戦後の高度経済成長期には、太平洋ベルトから漏れたために工業化には乗り遅れたが、中央自動車道の開通後は、日本の東西を結ぶ内陸ルートの一角として発展している。地域
※ 所属自治体は各地域のページを参照すること。
下伊那郡︵飯伊地域︶
●南信州広域連合を結成する。中心地は飯田。
●江戸時代には飯田藩の領土であった。
●山間の村落が多く、中にはバスが通らず、自家用車が唯一の交通手段となっている所もある。
上伊那郡︵上伊那地域︶
●上伊那広域連合を結成する。
●天気予報では、﹁長野県南部﹂に属する。
●江戸時代には高遠藩の領土であった。
諏訪郡︵諏訪地域︶
●諏訪広域連合を結成する。前述の通り、中央本線・甲州街道・中山道の沿線なので、長野県中部として扱われる場合もある。
交通
鉄道
●東日本旅客鉄道‥中央本線 ●東海旅客鉄道‥飯田線道路
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空港
松本空港(松本市・塩尻市)か中部国際空港(知多半島沖)が最寄りの空港である。
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