五畿七道
概要[編集]
律令時代からの七道[編集]
律令時代からの七道は、概ね地形的要件に基づいて区分されているが、西海道以外では道単位での行政機関は常置されなかった。西海道は大陸との外交・防衛上の重要性から大宰府が置かれて諸国を管轄した。七道の中でも最も重視されたのが山陽道であり、駅路では唯一の大路である[5]。次いで中路は東海道と東山道の二つである。 七道の各国の国府は、それぞれ同じ名の幹線官道︵駅路︶で結ばれていた。七道駅路は大路、中路、小路に分けられ[5]、原則として30里︵約16キロ︶ごとに駅︵駅家︶を置き、駅ごとに駅馬が常備された[2]。備える馬の数が異なっていた。駅周辺︵必ずしも周辺とは限らなかった︶に駅長や駅子を出す駅戸を置き、駅馬の育養にあたらせた。駅家には往来する人馬の休息・宿泊施設を置き、駅鈴を持っている官人や公文書を伝達する駅使が到着すると乗り継ぎの駅馬や案内の駅子を提供した。各道に派遣された官人は駅路で結ばれた国府を順に巡察した。 これら七道には、江戸時代の五街道などと重複する呼称がある。時代や成り立ちが異なるものの、ほぼ同じ道筋にはなっている。五畿八道[編集]
「道 (行政区画)#令制後」も参照
律令制以降、令制国などの細部の境界の移動を除き長らく変更はなかったが、後代明治維新後の1869年9月20日(明治2年8月15日)に、和人地および蝦夷地に新たに北海道が置かれたことにより、以後は五畿八道とも呼ばれる。
なお、蝦夷地の記録は古く斉明天皇の時代阿倍比羅夫の遠征まで遡り、鎌倉時代には和人が住み道南十二館の時代を経、江戸時代には松前藩領や天領となっていた地域に置かれた。
1871年(明治4年)の廃藩置県以降も五畿八道は廃止されておらず、令制国も併用されていたが、1885年(明治18年)以降は公的には殆ど使用されなくなり、社会的にも、現代に至るまでに年代と共に使われなくなっていった。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 古い行政区分である「四道」があり、神話上の四道将軍はその由来について解説するために創作されたとされる他、国造制から令制国への移行過程で過渡的に用いられたとする見解などがある(前田晴人『日本古代の道と衢』(吉川弘文館、1996年) ISBN 4642022929)。
出典[編集]
(一)^ 虎尾俊哉﹃律令国家の地方支配﹄吉川弘文館、1995年、121-122頁。ISBN 4642022880。
(二)^ abc浅井建爾 2001, p. 84.
(三)^ 武部健一 2015, p. 45、ただし、西海道だけは大宰府があったため、一定の行政権があった。
(四)^ 市大樹﹁律令制下の交通制度﹂館野和己・出田和久 編﹃日本古代の交通・流通・情報1制度と実態﹄︵吉川弘文館、2016年︶ ISBN 978-4-642-01728-2 P2-3
(五)^ ab浅井建爾 2001, p. 87.
(六)^ 鐘江宏之﹁七道制と日本の律令制国家運営﹂﹃律令制諸国支配の成立と展開﹄︵吉川弘文館、2023年︶ ISBN 978-4-642-04672-5 P186-189.