「土佐日記」の版間の差分
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[[Image:Tosa nikki copied by Teika.JPG|thumb|right|250px|﹃土佐日記﹄ 尊経閣文庫所蔵。藤原定家臨書の部分。1235年書写。国宝]]
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[[Image:Tosa nikki copied by Teika.JPG|thumb|right|250px|﹃土佐日記﹄ 尊経閣文庫所蔵。藤原定家臨書の部分。1235年書写。国宝]]
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﹃'''土佐日記'''﹄︵とさにっき︶は、[[平安時代]]に成立した[[日記文学]]のひとつ。[[紀貫之]]が[[土佐国]]から[[京都|京]]に帰る最中に起きた出来事を |
﹃'''土佐日記'''﹄︵とさにっき︶は、[[平安時代]]に成立した日本最古の[[日記文学]]のひとつ。[[紀貫之]]が[[土佐国]]から[[京都|京]]に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが<ref name=":0">{{Cite book|和書 |author=日本古典文学大辞典編集委員会 |title=日本古典文学大辞典 第4巻 |publisher=岩波書店 |date=1984-07 |pages=464-465}}</ref>、[[承平 (日本)|承平]]5年︵[[934年]]︶後半といわれる<ref name=":0" />。古くは﹃'''土左日記'''﹄と表記され<ref name=":0" />{{Efn2|定家本や為家本を含む多くの古写本では題は﹁土左日記﹂となっている。さらに定家本の奥書には﹁有外題 土左日記 貫之筆﹂とあり、これによれば貫之の自筆で﹁土左日記﹂の外題があった事になる。}}、﹁とさの日記﹂と読んだ<ref name=":0" />。
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== 内容 == |
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日本文学史上、おそらく初めての日記文学である。[[紀行]]文に近い要素をもっており、その後の仮名による表現、特に[[女流文学]]の発達に大きな影響を与えている。﹃[[蜻蛉日記]]﹄、﹃[[和泉式部日記]]﹄、﹃[[紫式部日記]]﹄、﹃[[更級日記]]﹄などの作品にも影響を及ぼした可能性は高い。
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{{要出典範囲|日本文学史上、おそらく初めての日記文学である。[[紀行]]文に近い要素をもっており、その後の仮名による表現、特に[[女流文学]]の発達に大きな影響を与えている。﹃[[蜻蛉日記]]﹄、﹃[[和泉式部日記]]﹄、﹃[[紫式部日記]]﹄、﹃[[更級日記]]﹄などの作品にも影響を及ぼした可能性は高い。|date=2023-01}}
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[[延長 (元号)|延長]]8年︵[[930年]]︶から承平4年︵[[934年]]︶にかけての時期、貫之は[[土佐国]]に[[国司]]として赴任していた。その任期を終えて土佐から京へ帰る貫之ら一行の55日間の旅路とおぼしき話を、書き手を女性に仮託し、ほとんどを[[仮名 (文字)|仮名]]で日記風に綴った作品である。57首の[[和歌]]を含む内容は様々だが、中心となるのは土佐国で亡くなった愛娘を思う心情、そして行程の遅れによる帰京をはやる思いである。諧謔表現︵ジョーク、駄洒落などといったユーモア︶を多く用いていることも特筆される。
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[[延長 (元号)|延長]]8年︵[[930年]]︶から承平4年︵[[934年]]︶にかけての時期、貫之(つらゆき)は[[土佐国]]に[[国司]]として赴任していた<ref name=":0" />。その任期を終えて土佐から京へ帰る貫之ら一行の55日間の旅路とおぼしき話を、書き手を女性に[[:wikt:仮託|仮託]]し、ほとんどを[[仮名 (文字)|仮名]]で日記風に綴った作品である<ref name=":0" />。主題は単一ではなく<ref name=":0" />、親子の情・国司の望郷と孤独感・歌論・紀氏の士族意識などが指摘される<ref name=":0" />。女性に仮託した理由については、男性官人が仮名文で書いたため、諧謔風刺のための韜晦、公的身分を離れて私的感情を開陳するためなどの諸説がある<ref name=":0" />。{{独自研究範囲|57首の[[和歌]]を含む内容は様々だが、中心となるのは土佐国で亡くなった愛娘を思う心情、そして行程の遅れによる帰京をはやる思いである。諧謔表現︵ジョーク、駄洒落などといったユーモア︶を多く用いていることも特筆される。|date=2023-01}}
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成立の過程は不明である。貫之はおそらく帰京の途上で漢文の日記をつけ、土佐日記を執筆する際にはそれを参照したと考えられるが、土佐日記そのものは虚構を交えたものであり、また明らかに実録の日記そのものではなく文学作品である。
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成立の過程は不明である。{{独自研究範囲|貫之はおそらく帰京の途上で漢文の日記をつけ、土佐日記を執筆する際にはそれを参照したと考えられるが|date=2023-01}}、﹃土佐日記﹄そのものは虚構を交えたものであり、また明らかに実録の日記そのものではなく文学作品である。
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[[小松英雄]]は、この日記は女性に仮託したものではなく、冒頭の一節は﹁漢字ではなく、仮名文字で書いてみよう﹂という表明を、仮名の特性を活かした技法で巧みに表現したものだとしている<ref>小松英雄 |
[[小松英雄]]は、この日記は女性に仮託したものではなく、冒頭の一節は﹁漢字ではなく、仮名文字で書いてみよう﹂という表明を、仮名の特性を活かした技法で巧みに表現したものだとしている<ref>小松英雄﹃古典再入門‥﹃土左日記﹄を入りぐちにして﹄笠間書院、2006年</ref>{{疑問点|date=2012年10月}}。ただしこの説は広く受け入れられるには至っていない。
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[[田辺聖子]]は、娘を亡くした悲しみを書くにあたって、﹁男が日記を書く場合、普通は漢文です。しかし漢文では、﹁泣血︵きゅうけつ︶﹂のような固いことばでしか悲しみを表現できません。自分の悲しみ、細やかな心のひだ、そういうものでは書き尽くせない。そう思ったときにおそらく、貫之は仮名で書くことを思いついたのです﹂という見方である<ref>[[田辺聖子]]﹃古典まんだら﹄上︵[[新潮社]]︶p.60f。</ref>。
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== 旅程 == |
== 旅程 == |
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綴られる主な旅程は以下の通り。日付は原本に記す[[旧暦]]の日付である。 |
綴られる主な旅程は以下の通り。日付は原本に記す[[旧暦]]の日付である。全体は3部で構成されており、第1部は12月21日の出発から元日まで、第2部は1月2日から2月5日まで、第3部は2月6日から同月16日までと、内容的に区切ることができる<ref name=":0" />。
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|style="text-align:center"|12月21日 - 26日|| style="text-align:center" |大津||高知県[[高知市]]大津 |
|style="text-align:center"|12月21日 - 26日|| style="text-align:center" |大津||高知県[[高知市]]大津 |
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|style="text-align:center"|12月27日|| style="text-align:center" |浦戸||高知県高知市[[浦戸]] |
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|style="text-align:center"|12月29日|| style="text-align:center" |大湊||高知県南国市前浜 |
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|style="text-align:center"|1月29日|| style="text-align:center" |土佐の泊||[[徳島県]][[鳴門市]][[鳴門町土佐泊浦]] |
|style="text-align:center"|1月29日|| style="text-align:center" |土佐の泊||[[徳島県]][[鳴門市]][[鳴門町土佐泊浦]] |
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|style="text-align:center" |1月30日|| style="text-align:center" |阿波の水門||[[鳴門海峡]] |
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== 写本群 == |
== 写本群 == |
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{{出典の明記| section = 1| date = 2023-01}} |
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﹃土佐日記﹄はある時期まで貫之自筆のものが伝わっていた。[[鎌倉時代]]までは京都[[蓮華王院]]の宝蔵に納められていたものが、のちに歌人[[尭孝]]の手に渡り、さらにそれが[[足利義政]]に献上されてからは足利将軍家の所蔵となっていたらしいが、その後の消息については絶えている。
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﹃土佐日記﹄はある時期まで貫之自筆のものが伝わっていた。[[鎌倉時代]]までは京都[[蓮華王院]]の宝蔵に納められていたものが、のちに歌人[[尭孝]]の手に渡り、さらにそれが[[足利義政]]に献上されてからは足利将軍家の所蔵となっていたらしいが、その後の消息については絶えている。
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写本としては、自筆本から直接に[[藤原定家]]、[[藤原為家]]、[[松木宗綱]]、[[三条西実隆]]らにより筆写され、これら4系統の写本が伝わっている。中でも定家本と為家本は、貫之自
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写本としては、自筆本から直接に[[藤原定家]]、[[藤原為家]]、[[松木宗綱]]、[[三条西実隆]]らにより筆写され、これら4系統の写本が伝わっている<ref name=":0" />。中でも定家本と為家本は、貫之自筆本の再構成には重要である。
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定家本は巻末に見開き2頁を使って貫之自筆本の巻尾を[[書道#臨書|臨書]]しており、その臨書は原本が失われた今となっては唯一、貫之の筆跡を偲ぶことができる極めて貴重な存在である。一方で本文については原本に忠実ではなく、意図的に表現を書替えた箇所や、[[定家仮名遣]]に改めた箇所がある。わかりやすい例として冒頭が青谿書屋本では、
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定家本は巻末に見開き2頁を使って貫之自筆本の巻尾を[[書道#臨書|臨書]]しており、その臨書は原本が失われた今となっては唯一、貫之の筆跡を偲ぶことができる極めて貴重な存在である。一方で本文については原本に忠実ではなく、意図的に表現を書替えた箇所や、[[定家仮名遣]]に改めた箇所がある。わかりやすい例として冒頭が青谿書屋本では、
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以下に系統上主要な写本を示す。池田亀鑑が証本としたもの︵後述︶には※を付す<ref>池田: 48、52。<!-- ページ番号であろうか? --></ref>。
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以下に系統上主要な写本を示す。池田亀鑑が証本としたもの︵後述︶には※を付す<ref>池田: 48、52。<!-- ページ番号であろうか? --></ref>。
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*※定家筆本([[前田育徳会]][[尊経閣文庫]]蔵、[[国宝]]) |
*※定家筆本([[前田育徳会]][[尊経閣文庫]]蔵、[[国宝]])- [[文暦]]2年([[1235年]])書写<ref name=":0" />。 |
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**[[御物]]本 |
**[[御物]]本 |
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**[[玄陳]]筆本(現存せず) |
**[[玄陳]]筆本(現存せず) |
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*為家筆本([[大阪青山歴史文学博物館]]蔵、[[国宝]]) |
*為家筆本([[大阪青山歴史文学博物館]]蔵、[[国宝]])- [[嘉禎]]2年([[1236年]])書写<ref name=":0" />。長らく行方不明であったが、1984年に[[反町茂雄]]の古書店「弘文荘」に持ちこまれて為家本と確認され、7500万円で大学図書館に売却された<ref>[http://japanknowledge.com/contents/kobunsoabout.html 弘文荘について]ジャパンナレッジ</ref>。 |
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**※[[大島雅太郎]]旧蔵[[青谿書屋]]本([[東海大学]]附属図書館[[桃園文庫]]蔵) |
**※[[大島雅太郎]]旧蔵[[青谿書屋]]本([[東海大学]]附属図書館[[桃園文庫]]蔵)- 為家本が再発見されるまでは、最善本とされていた<ref name=":0" />。 |
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**[[烏丸光広]]筆本(現存せず) |
**[[烏丸光広]]筆本(現存せず)- 為家本系統だが、光広による私意が多く、忠実性という観点からは劣る。 |
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*宗綱筆本(現存せず) |
*宗綱筆本(現存せず)- [[延徳]]2年([[1490年]])書写<ref name=":0" />。 |
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**※[[近衛家]]本 |
**※[[近衛家]]本 |
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**[[八条宮]]本(現存せず) |
**[[八条宮]]本(現存せず) |
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***※[[宮内庁書陵部]]本 |
***※[[宮内庁書陵部]]本 |
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*実隆筆本(現存せず) |
*実隆筆本(現存せず)- [[明応]]元年([[1492年]])書写。 |
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**※[[三条西家]]本 |
**※[[三条西家]]本 |
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== 享受と研究 == |
== 享受と研究 == |
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{{出典の明記| section = 1| date = 2023-01}} |
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﹃土佐日記﹄はその成立から二、三十年ほどすると、その内容が注目され読まれていたらしく、﹃[[後撰和歌集]]﹄には﹃土佐日記﹄に記されたうちの和歌2首が、語句に異同はあるものの貫之の作として採られている。ちなみに﹃後撰和歌集﹄の撰者のひとりである[[紀時文]]は貫之の息子である。その時文と親交のあった[[恵慶法師]]の[[私家集]]﹃恵慶集﹄には、﹃土佐日記﹄を絵にしたものがあったことが記されている。
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﹃土佐日記﹄はその成立から二、三十年ほどすると、その内容が注目され読まれていたらしく、﹃[[後撰和歌集]]﹄には﹃土佐日記﹄に記されたうちの和歌2首が、語句に異同はあるものの貫之の作として採られている。ちなみに﹃後撰和歌集﹄の撰者のひとりである[[紀時文]]は貫之の息子である。その時文と親交のあった[[恵慶法師]]の[[私家集]]﹃恵慶集﹄には、﹃土佐日記﹄を絵にしたものがあったことが記されている。
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研究史においてもっとも古いものは、文暦2年の定家書写時の鑑定であろう。定家は原本である貫之自筆本について、その形態が[[巻子本]]だったこと、またその紙の寸法や枚数、紙質等を定家本の巻末に書き記している。三条西実隆は筆写の折、句読点や声点を施し、ほかにも校合が試みられている。 |
研究史においてもっとも古いものは、文暦2年([[1235年]])の定家書写時の鑑定であろう。定家は原本である貫之自筆本について、その形態が[[巻子本]]だったこと、またその紙の寸法や枚数、紙質等を定家本の巻末に書き記している。三条西実隆は筆写の折、句読点や声点を施し、ほかにも校合が試みられている。 |
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注釈的研究として最も古いものは、三条西実隆が句点・声点を施したり、講義をしたりしたものである<ref name=":0" />。その後、池田正式の講義が﹃土佐日記講註﹄︵慶安元年︵1648年︶成立︶として筆記されたほか<ref name=":0" />、慶安元年︵1648年︶5月に松永貞徳が行った講義は、[[加藤磐斎]]が﹃土佐日記見聞抄﹄︵明暦元年︵1655年︶成立︶として筆記された<ref name=":0" />。いずれも江戸時代の注釈的研究のさきがけとなったものであり<ref name=":0" />、[[万治]]4年︵[[1661年]]︶の跋がある[[人見卜幽]]﹃土佐日記附注﹄や[[北村季吟]]﹃土佐日記抄﹄などの研究が続いた<ref name=":0" />。[[元和 (日本)|元和]]・[[寛永]]のころになって注釈的研究が盛んになる。
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[[本居宣長]]は『土佐日記抄』には『土佐日記附注』の影響が見られるとするが、岸本由豆流は、両書で引用している古典籍の相違が説明できないと指摘している。[[寛永]]4年([[1627年]])5月に刊行された『土佐日記首書』は、ほとんど『土佐日記抄』のままである。[[加藤宇万伎]]は、[[契沖]]と[[賀茂真淵]]との説を併記した『土佐日記註』を書いた。また[[上田秋成]]は、真淵の説に自らの説を添えたものを刊行している。さらに真淵の説は、[[楫取魚彦]]によって別に書き記され、『土佐日記打聞』や『土佐日記聞書』となった。『土佐日記註』と『土佐日記打聞』とで説の相違があるのを、岸本は「魚彦がしるせるは県居翁の早くの説、宇万伎がしるせるは、後の説なるべし」としている。 |
[[本居宣長]]は『土佐日記抄』には『土佐日記附注』の影響が見られるとするが、岸本由豆流は、両書で引用している古典籍の相違が説明できないと指摘している。[[寛永]]4年([[1627年]])5月に刊行された『土佐日記首書』は、ほとんど『土佐日記抄』のままである。[[加藤宇万伎]]は、[[契沖]]と[[賀茂真淵]]との説を併記した『土佐日記註』を書いた。また[[上田秋成]]は、真淵の説に自らの説を添えたものを刊行している。さらに真淵の説は、[[楫取魚彦]]によって別に書き記され、『土佐日記打聞』や『土佐日記聞書』となった。『土佐日記註』と『土佐日記打聞』とで説の相違があるのを、岸本は「魚彦がしるせるは県居翁の早くの説、宇万伎がしるせるは、後の説なるべし」としている。 |
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岸本由豆流はのちに﹃土佐日記考証﹄︵[[文化 (元号)|文化]]12年︿[[1815年]]﹀ |
岸本由豆流はのちに﹃土佐日記考証﹄︵[[文化 (元号)|文化]]12年︿[[1815年]]﹀成立、文政2年︵1819年︶刊行︶を著し<ref name=":0" />、諸抄を取捨選択、綿密な考証を試み、[[富士谷御杖]]は﹃土佐日記灯﹄︵文化14年︵1817年︶成立︶を著した<ref name=":0" />。[[香川景樹]]も﹃土佐日記創見﹄︵[[文政]]6年︿[[1823年]]﹀︶を著し<ref name=":0" />、綿密な考証をなしている。この3著は研究史上、重要なものである。これらの研究は本文批評や諸本研究上高い成果をもたらしただけでなく、文体、動機などにまで論を推し進めている。
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明治になると前田家蔵の定家本や三条西家本が公開され、[[橘純一]]や[[山田孝雄]]などによって本文研究が進められた。為家筆本は |
明治や大正期にはそれほど大きな研究の進展は見られなかった<ref name=":0" />。しかし、昭和に入ると、前田家蔵の定家本や三条西家本が公開され、[[橘純一]]や[[山田孝雄]]などによって本文研究が進められた<ref name=":0" />。当時、為家筆本は所在が知られていなかったが、為家本を忠実に写したとされる[[青谿書屋]]本などをもとにして[[池田亀鑑]]がなした﹃[[古典の批判的処置に関する研究]]﹄︵[[1941年]]︶にいたって、本文研究はほとんど完成するに至った<ref name=":0" />。池田は諸本の研究の上、120種以上に及ぶ写本群から貫之自筆本再構のために証本を選んだ。
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為家筆本は1984年に再発見され、青谿書屋本における誤写が確認された。 |
為家筆本は1984年に再発見され、青谿書屋本における誤写が確認された。 |
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== その他 == |
== その他 == |
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2004年、ペルー・カトリカ大学(東洋文庫)から、日本語の原文から直接スペイン語に翻訳された初めての完訳本が出版された。日本語の原文がローマ字によって記載され、それに対応するスペイン語訳があてられているのが特徴である。 |
[[2004年]]、ペルー・カトリカ大学(東洋文庫)から、日本語の原文から直接スペイン語に翻訳された初めての完訳本が出版された。日本語の原文がローマ字によって記載され、それに対応するスペイン語訳があてられているのが特徴である。 |
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2023年11月、ペルー日系人協会出版基金より、Hiroko Izumi ShimonoとIvan Pinto Romanによる、日本の古典から直接スペイン語に翻訳した、El diario de Tosa︵土佐日記。ISBN:978-612-4397-20-2︶が出版された。2004年版の翻訳内容を見直し、最新版として出版されたものである。また、挿絵には、菊池容斎画﹁土佐日記﹂︵中野幸一早稲田大学名誉教授個人蔵︶などが用いられており、美しい本である。
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*[[Iván Pinto Román]]と[[Hiroko Izumi Shimono]][下野 泉]によるスペイン語全訳 ''Diario de Tosa'' - Fondo Editorial de la Pontificia Universidad de Católica del Perú (ISBN 9972-42-639-4) |
*[[Iván Pinto Román]]と[[Hiroko Izumi Shimono]][下野 泉]によるスペイン語全訳 ''Diario de Tosa'' - Fondo Editorial de la Pontificia Universidad de Católica del Perú (ISBN 9972-42-639-4) |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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* [[池田亀鑑]] |
* [[池田亀鑑]]『[[古典の批判的処置に関する研究]]』[[岩波書店]]、1941年 |
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* [[萩谷朴]]『土佐日記 紀貫之全集』 朝日新聞社 1950年(日本古典全書) |
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*鈴木知太郎ほか校注 |
* [[萩谷朴]]『土佐日記 紀貫之全集』 [[朝日新聞社]]、1950年(日本古典全書) |
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* [[鈴木知太郎]]ほか校注『土左日記 かげろふ日記 和泉式部日記 更級日記』〈『[[日本古典文学大系]]』20〉岩波書店、1960年 ※『土左日記』は鈴木知太郎が校注・解説を担当 |
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* 萩谷朴『土佐日記全注釈』[[角川書店]]、1967年(日本古典評釈・全注釈叢書) |
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*鈴木知太郎・伊坂裕次校注 |
* 鈴木知太郎・伊坂裕次校注『土左日記・おくのほそ道』[[笠間書院]]、1976年 ※「解説」鈴木知太郎 |
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*{{cite book |
* {{cite book|和書 |
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|title=土左日記 |
|title=土左日記 |
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|author=鈴木知太郎(校注) |
|author=鈴木知太郎(校注) |
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|year=1979 |
|year=1979 |
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|publisher=岩波書店 |
|publisher=岩波書店 |
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|series=岩波文庫}} (青谿書屋本を底本とする。仮名を漢字に改めたり、歴史的仮名遣いに直すなどはされていない。)<!-- 安価で、そのような本が他にもいくらでもあるならば、特に残す理由もないが、書いておく。 -->
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|series=[[岩波文庫]]}} (青谿書屋本を底本とする。仮名を漢字に改めたり、歴史的仮名遣いに直すなどはされていない。)<!-- 安価で、そのような本が他にもいくらでもあるならば、特に残す理由もないが、書いておく。 -->
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* [[木村正中]]『土佐日記 貫之集』 (新潮日本古典集成)1988年 |
* [[木村正中]]『土佐日記 [[貫之集]]』 ([[新潮日本古典集成]])1988年 |
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*長谷川政春ほか校注 『土佐日記 蜻蛉日記 紫式部日記 更級日記』〈『新日本古典文学大系』24〉 岩波書店、1989年 ※『土佐日記』は長谷川政春が校注・解説を担当 |
* [[長谷川政春]]ほか校注 『土佐日記 蜻蛉日記 紫式部日記 更級日記』〈『新日本古典文学大系』24〉 岩波書店、1989年 ※『土佐日記』は長谷川政春が校注・解説を担当 |
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<!-- * [[田村秀行|大伴茫人]] 『姫様と紀貫之のおしゃべりしながら土佐日記』 |
<!-- * [[田村秀行|大伴茫人]] 『姫様と紀貫之のおしゃべりしながら土佐日記』[[洋泉社]]、1999年。[[学習研究社]]〈『学研M文庫』〉、2002年 |
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* 西山秀人編 |
* 西山秀人編『土佐日記(全)』〈『角川文庫』〉角川書店、2007年 |
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入門書はいくらでもあるので、羅列は避けた。 |
入門書はいくらでもあるので、羅列は避けた。 |
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* {{青空文庫|000155|832|旧字旧仮名|土佐日記}} |
* {{青空文庫|000155|832|旧字旧仮名|土佐日記}} |
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{{Normdaten}} |
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{{DEFAULTSORT:とさにつき}} |
{{DEFAULTSORT:とさにつき}} |
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[[Category:平安時代の日記]] |
[[Category:平安時代の日記]] |
2024年6月4日 (火) 02:26時点における最新版
内容仮託[編集]
日本文学史上、おそらく初めての日記文学である。紀行文に近い要素をもっており、その後の仮名による表現、特に女流文学の発達に大きな影響を与えている。﹃蜻蛉日記﹄、﹃和泉式部日記﹄、﹃紫式部日記﹄、﹃更級日記﹄などの作品にも影響を及ぼした可能性は高い。[要出典] 延長8年︵930年︶から承平4年︵934年︶にかけての時期、貫之(つらゆき)は土佐国に国司として赴任していた[1]。その任期を終えて土佐から京へ帰る貫之ら一行の55日間の旅路とおぼしき話を、書き手を女性に仮託し、ほとんどを仮名で日記風に綴った作品である[1]。主題は単一ではなく[1]、親子の情・国司の望郷と孤独感・歌論・紀氏の士族意識などが指摘される[1]。女性に仮託した理由については、男性官人が仮名文で書いたため、諧謔風刺のための韜晦、公的身分を離れて私的感情を開陳するためなどの諸説がある[1]。57首の和歌を含む内容は様々だが、中心となるのは土佐国で亡くなった愛娘を思う心情、そして行程の遅れによる帰京をはやる思いである。諧謔表現︵ジョーク、駄洒落などといったユーモア︶を多く用いていることも特筆される。[独自研究?] 成立の過程は不明である。貫之はおそらく帰京の途上で漢文の日記をつけ、土佐日記を執筆する際にはそれを参照したと考えられるが[独自研究?]、﹃土佐日記﹄そのものは虚構を交えたものであり、また明らかに実録の日記そのものではなく文学作品である。 小松英雄は、この日記は女性に仮託したものではなく、冒頭の一節は﹁漢字ではなく、仮名文字で書いてみよう﹂という表明を、仮名の特性を活かした技法で巧みに表現したものだとしている[2][疑問点]。ただしこの説は広く受け入れられるには至っていない。 田辺聖子は、娘を亡くした悲しみを書くにあたって、﹁男が日記を書く場合、普通は漢文です。しかし漢文では、﹁泣血︵きゅうけつ︶﹂のような固いことばでしか悲しみを表現できません。自分の悲しみ、細やかな心のひだ、そういうものでは書き尽くせない。そう思ったときにおそらく、貫之は仮名で書くことを思いついたのです﹂という見方である[3]。 橋本治は仮名文字を使用した理由について、紀貫之が歌人であったことを挙げている[4]。当時の男性の日記は漢文であったが[注 2]、和歌は男女ともに仮名文字を用いていた。そのため和歌の専門家でもある貫之が自分の得意な文字である仮名文字を用いた、というものである。旅程[編集]
綴られる主な旅程は以下の通り。日付は原本に記す旧暦の日付である。全体は3部で構成されており、第1部は12月21日の出発から元日まで、第2部は1月2日から2月5日まで、第3部は2月6日から同月16日までと、内容的に区切ることができる[1]。日付 | 到着地(通過地) | 現在の地名 |
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12月21日 | 国府(発) | 高知県南国市比江周辺 |
12月21日 - 26日 | 大津 | 高知県高知市大津 |
12月27日 | 浦戸 | 高知県高知市浦戸 |
12月29日 | 大湊 | 高知県南国市前浜 |
1月9日 | 宇多の松原 | 高知県香南市岸本周辺 |
1月10日 | 奈半の泊 | 高知県安芸郡奈半利町 |
1月11日 | 羽根 | 高知県室戸市羽根町 |
1月12日 | 室津 | 高知県室戸市室津 |
1月29日 | 土佐の泊 | 徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦 |
1月30日 | 阿波の水門 | 鳴門海峡 |
〃 | 沼島 | 兵庫県南あわじ市沼島 |
〃 | 和泉の灘 | (大阪府南西部) |
2月1日 | 黒崎の松原 | 大阪府泉南郡岬町淡輪 |
〃 | 箱の浦 | 大阪府阪南市箱作 |
2月5日 | 石津 | 大阪府堺市浜寺 |
〃 | 住吉 | 大阪府大阪市住吉区 |
2月6日 | 難波 | 大阪府大阪市 |
2月8日 | 鳥飼の御牧 | 大阪府摂津市鳥飼 |
2月9日 | 渚の院 | 大阪府枚方市渚元町 |
〃 | 鵜殿 | 大阪府高槻市鵜殿 |
2月11日 | 八幡の宮 | 石清水八幡宮 |
〃 | 山崎 | 京都府乙訓郡大山崎町 |
2月16日 | 島坂 | 京都府向日市上植野町御塔道 |
〃 | 京(着) | 京都府京都市 |
写本群[編集]
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享受と研究[編集]
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その他[編集]
2004年、ペルー・カトリカ大学︵東洋文庫︶から、日本語の原文から直接スペイン語に翻訳された初めての完訳本が出版された。日本語の原文がローマ字によって記載され、それに対応するスペイン語訳があてられているのが特徴である。 2023年11月、ペルー日系人協会出版基金より、Hiroko Izumi ShimonoとIvan Pinto Romanによる、日本の古典から直接スペイン語に翻訳した、El diario de Tosa︵土佐日記。ISBN:978-612-4397-20-2︶が出版された。2004年版の翻訳内容を見直し、最新版として出版されたものである。また、挿絵には、菊池容斎画﹁土佐日記﹂︵中野幸一早稲田大学名誉教授個人蔵︶などが用いられており、美しい本である。- Iván Pinto RománとHiroko Izumi Shimono[下野 泉]によるスペイン語全訳 Diario de Tosa - Fondo Editorial de la Pontificia Universidad de Católica del Perú (ISBN 9972-42-639-4)
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
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