武蔵坊弁慶
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武蔵坊弁慶︵むさしぼう べんけい 武藏坊辨慶、生年不詳 - 文治5年閏4月30日︵1189年6月15日︶︶は、平安時代末期の僧衆︵僧兵︶。源義経の郎党。
五条の大橋で義経と出会って以来、彼に最後まで仕えたとされる。講談などでは義経に仕える怪力無双の荒法師として名高い。﹃義経記﹄では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。なお、和歌山県田辺市は、弁慶の生誕地であると観光資料などに記している。
元は比叡山の僧で、武術を好み、義経に仕えたと言われるが、﹃吾妻鏡﹄には文治元年︵1185年︶11月3日に﹁辨慶法師已下相從﹂11月6日に﹁相從豫州之輩纔四人 所謂伊豆右衛門尉 堀弥太郎 武藏房辨慶﹂と記されているだけであり、﹃平家物語﹄では義経郎党として名があるのみで、その生涯についてはほとんど判らない。一時期は実在すら疑われたこともある。しかし、﹃義経記﹄を初めとした創作の世界では大活躍をしており、義経と並んで主役格の人気がある。
平泉町にある弁慶の墓
義経一行は、奥州にたどり着き、藤原秀衡のもとへ身を寄せる。だが、秀衡が死ぬと、子の藤原泰衡は頼朝の威を恐れて、父の遺言を破り、義経主従を衣川館に襲った。多数の敵勢を相手に弁慶は、義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって戦い、雨の様な敵の矢を受けて立ったまま死んだとされ、﹁弁慶の立往生﹂と後世に語り継がれた。岩手県平泉町に弁慶の墓と伝わるものがある。
なお、義経主従は衣川館では死なず、平泉を脱出して現在の青森県や北海道へ逃れたとする、いわゆる﹁義経北行伝説﹂にも、弁慶に関するエピソードは数多く登場する。
生涯
誕生
熊野別当湛増︵﹃義経記﹄では﹁弁しょう﹂、﹃弁慶物語﹄では弁心︶が、二位大納言の姫を強奪して生ませたとされる。母の胎内に18ヶ月︵﹃弁慶物語﹄では3年︶いて、生まれたときには2、3歳児の体つきで、髪は肩を隠すほど伸び、奥歯も前歯も生えそろっていたという。父はこれは鬼子だとして殺そうとしたが、叔母に引き取られて鬼若と命名され、京で育てられた。牛若との出会い
弁慶像 鬼若は比叡山に入れられるが、乱暴が過ぎて追い出されてしまう。鬼若は自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗る。その後、四国から播磨国へ行くが、そこでも乱暴を繰り返して、播磨の書写山圓教寺の堂塔を炎上させてしまう。 やがて、弁慶は京で千本の太刀を奪おうと悲願を立てる。弁慶は道行く人を襲い、通りかかった帯刀の武者と決闘して999本まで集めたが、あと一本ということころで、五条大橋︵﹃義経記﹄では清水観音境内︶で笛を吹きつつ通りすがる義経と出会う。弁慶は義経が腰に佩びた見事な太刀に目を止め、太刀をかけて挑みかかるが、欄干を飛び交う身軽な義経にかなわず、返り討ちに遭った。弁慶は降参してそれ以来義経の家来となった。しかしこの決闘は後世の伝説で、当時五条の大橋はまだなかったとされている。決闘の場所も、﹃義経記﹄では、五条の大橋ではなく、堀川小路から清水寺での出来事とされている。また現﹁松原通﹂が当時の﹁五条通り﹂であり、旧五条通西洞院に五条天神社が存在し、そこに架かる橋であったとも言われている。決闘の場所を五条の大橋とするのは、明治の伽噺作家の巌谷小波︵いわやさざなみ︶の書いた﹁日本昔噺﹂によるもので、﹃尋常小学唱歌﹄の﹁牛若丸﹂もこれにしたがっている[1]。義経の忠臣
その後、弁慶は義経の忠実な家来として活躍し、平家討伐に功名を立てる。兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちるのに同行。山伏に姿を変えた苦難の逃避行で、弁慶は智謀と怪力で義経一行を助ける。 一行は加賀国安宅の関で、富樫左衛門︵﹃義経記﹄では富樫介︶に見咎められる。弁慶は偽の勧進帳を読み上げ、疑われた義経を自らの金剛杖で打ち据える。富樫は弁慶の嘘を見破りながら、その心情を思ってあえて騙された振りをして義経一行は無事に関を越える。実像
以上は、﹃義経記﹄を中心とした後世の物語を基にしたもので、史実の弁慶については、﹃吾妻鏡﹄文治元年の条で都落ちした義経・行家一行の中に弁慶の名がある以外は、ほとんど明らかではない。史料である﹃吾妻鏡﹄や﹃玉葉﹄によると、都落ちの後、周辺に潜伏する義経を比叡山の悪僧︵僧兵︶らが庇護しており、その中の俊章︵しゅんしょう︶という僧は義経を奥州まで案内したとされる。また文治5年︵1189年︶1月13日には、義経が京都に還る意志を書いた手紙を持った比叡山の悪僧・千光房七郎が北条時定に捕縛されている。この千光房は前年8月に悪徒浪人を集めて悪行を働くというので、お尋ね者になっていた僧侶である。これら義経を庇護した複数の比叡山悪僧の所業が集められ、誇張されていって伝説上の武蔵坊弁慶が構成されたとみられる。能・歌舞伎
神社の弁慶像。これとは別に弁慶・義経・富樫の像が近くにある 弁慶は猿楽・能の﹃安宅﹄やそれを歌舞伎化した﹃勧進帳﹄でも主役を張っている。義経が頼朝と不仲になり、都落ちして奥州藤原氏のもとに身をよせることになった途上、義経一行は山伏に扮して安宅の関を越えようとした。ところが一行は関守の富樫に見咎められ、﹁勧進帳を出せ﹂と言われた。もとより一行はそのようなものを持っていなかったが、弁慶は機転を利かせ、もともと寺で修行経験もあったことも幸いして持ち合わせの巻物を広げ、朗朗と読み上げていく。この機転によって無事関を越えられそうにはなったのだが、﹁一行の中に常に傘で顔を覆っていて不自然な行動をする者が義経に非常に似ている﹂と富樫の部下が言い出したため、なおいっそう疑われてしまう。だが、そこでも弁慶は機転を利かせ今度は手に持っていた杖で﹁お前が義経に似ているために、あらぬ疑いをかけられてしまったではないか!﹂とののしりながら主君である義経を何度も何度も殴った。﹁いくらなんでも杖で主君をぶつ者はこの世にいるはずが無い﹂と関の者たちにそう思わせることに成功し、一行は無事に関を越えることが出来た。そして弁慶は、無事関を越えられた後、主を殴った事について義経に泣きながら謝った。という筋である。 義経の西国落ちの道程を扱った﹃船弁慶﹄という猿楽・能にもなっている。また、義経を主人公とした﹃義経千本桜﹄などの歌舞伎にも、主要人物の一人として登場する。ゆかりと伝えられるもの
藤沢市の弁慶塚
弁慶に因むことば
弁慶は古くから豪傑の代名詞として用いられており、それに因んだ様々なことばがある。弁慶に因む名前
弁慶蟹 海に近い河口域に住む小型のカニ。名前の由来は、甲羅の模様が弁慶の厳つい形相を連想させるからと言われる。戦に敗れ海に沈んだ平氏を連想させるヘイケガニに対抗してのものか。 弁慶縞 ﹁弁慶格子︵べんけいごうし︶﹂とも。紺色と茶色や浅葱色など、二色の色糸を格子状に碁盤の目のように織った文様。茶と紺のものを﹁茶弁慶﹂、紺と浅葱のものを﹁藍弁慶﹂という。縦横の縞が交差するところは色が重なって濃くなっている。名の由来は歌舞伎十八番﹁勧進帳﹂に出てくる、山伏姿の弁慶の舞台衣装にちなんだ名称と言われているが詳細は明らかではない。 弁慶草 別名イキクサ。分厚い葉と群をなす淡紅色の小花が特色の多年草。由来は、刈り取って放置してもなかなかしおれず、再び植えれば根を張るともいわれ、その生命力の強さを喩えたと思われる。 辨慶號 北海道の官営幌内鉄道で使用されたアメリカ製のテンダー型蒸気機関車の第2号機に付けられた愛称で、ほかにも﹁義経﹂︵1号機︶や﹁しづか﹂︵6号機︶などと歴史上の人物にちなんだ愛称が付けられた。国鉄7100形蒸気機関車として鉄道博物館に保存。 弁慶岬 北海道寿都町の寿都湾西口にある。衣川で死んだとされた弁慶は傷つきながらも命を取り留め、ようやくこの地に流れ着き再起の機会をうかがっていたという伝説が残る。弁慶を介した交流
弁慶の生誕地とされている和歌山県田辺市と死没地の岩手県平泉町は、昭和57年(1982年)に姉妹都市提携を締結。近年では世界遺産(紀伊山地の霊場と参詣道(田辺市)・平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―(平泉町))を抱える自治体としての交流も盛んになっている。
脚注
注釈
参照
- ^ “唱歌「牛若丸」のふしぎ”. 注文の多い山猫軒. 2008年10月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月14日閲覧。