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長州藩は、天災による米の不作、藩商品の販売不振などにより収入が減少し、財政赤字に陥っていた。重就は藩主就任と同時に[[坂時存]]、[[長沼正勝]]ら3家老を招集し、改革案の提出を要請する。宝暦3年︵[[1753年]]︶﹁三老上書﹂が提出される。内容は、経費の削減などから[[新田|新田開発]]、荒廃田の復旧、築港による流通整備などが掲げられていた。
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長州藩は、天災による米の不作、藩商品の販売不振などにより収入が減少し、財政赤字に陥っていた。重就は藩主就任と同時に[[坂時存]]、[[長沼正勝]]ら3家老を招集し、改革案の提出を要請する。宝暦3年︵[[1753年]]︶﹁三老上書﹂が提出される。内容は、経費の削減などから[[新田|新田開発]]、荒廃田の復旧、築港による流通整備などが掲げられていた。
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重就はまず検地を行い、8年後には新たに4万石分の収入を得ることに成功した。この収入を藩財政には組み込まず[[撫育方]]を設立させ、こちらの資金として充てる。撫育方はこの資金を元手に[[明和]]元年︵[[1764年]]︶、鶴浜を開作、伊崎を埋め立て今浦港を築港、4年後には室積・中関︵[[三田尻]]︶の港整備を行う。
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港の改良により[[廻船|回船]]の寄港地として発展させると同時に、藩物品の販売、回船業者への資金貸し付け、倉庫貸出などを行い、利益を得る。撫育方がほぼ全てにあたった。
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港の改良により[[廻船|回船]]の寄港地として発展させると同時に、藩物品の販売、回船業者への資金貸し付け、倉庫貸出などを行い、利益を得る。撫育方がほぼ全てにあたった。
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2015年5月4日 (月) 09:45時点における版
毛利 重就 | |
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天神山公園にある毛利重就像 | |
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
生誕 | 享保10年9月10日(1725年10月15日) |
死没 | 寛政元年10月7日(1789年11月23日) |
改名 |
岩之丞(幼名) → 諱:元房→匡敬(まさたか) → 重就(しげなり→しげたか) |
諡号 | 英雲公 |
戒名 | 英雲院殿前二州太守四品吏部大郷羽林次将祐山如靖 |
墓所 | 山口県萩市の東光寺 |
官位 |
従五位下、甲斐守、従四位下、侍従、 大膳大夫、左近衛少将、式部大輔、 贈従三位(明治41年) |
藩 | 長門長州藩主 |
氏族 | 毛利氏 |
父母 |
父:毛利匡広、母:性善院(飯田氏) 養父:毛利宗広 |
兄弟 |
演暢院(有馬一準室)、師就、政苗、広定、 重就、増山正贇 |
妻 |
正室:登代(立花貞俶の娘・瑞泰院) 側室:利尾(家臣飯田存直の娘) 側室:留楚(佐竹氏家臣武藤群次の妹) 側室:種織(家臣河野通貞の娘) |
子 |
匡満、治親、匡芳、親著(六男)、 友(山内豊雍正室)、勢代(有馬頼貴正室)、 好(藤井松平信亨正室)、 佐代(鷹司輔平室)、 澄(奥平松平忠啓正室)、 長(毛利匡邦正室のち前田利謙正室、顕徳院)、 娘(内藤信旭正室)、列(井伊豊吉婚約者)、 多鶴(近衛経熙婚約者)、 養子:毛利重広、養女:誠(保科松平容頌継室 |
経歴
享保10年︵1725年︶、長州藩の支藩である長府藩主毛利匡広の十男として生まれる。しかし兄が次々と早逝し、享保20年︵1735年︶に長府藩第7代藩主である兄師就が死去した際に、師就の実子・多賀之丞︵毛利教逵︶は出生が幕府に未届けで相続が認められず、師就の弟の政苗、広定は、それぞれ清末藩主、右田毛利家を継いでいたため、仮養子として届けられていた岩之丞︵重就︶が第8代藩主として家督を相続することになった。また、宝暦元年︵1751年︶には本家にあたる長州藩第6代藩主・毛利宗広が早逝し、世嗣がないことなどで、末期養子として第7代藩主として家督を相続する。
長州藩は、天災による米の不作、藩商品の販売不振などにより収入が減少し、財政赤字に陥っていた。重就は藩主就任と同時に坂時存、長沼正勝ら3家老を招集し、改革案の提出を要請する。宝暦3年︵1753年︶﹁三老上書﹂が提出される。内容は、経費の削減などから新田開発、荒廃田の復旧、築港による流通整備などが掲げられていた。
重就はまず検地を行い、8年後には新たに4万石分の収入を得ることに成功した。この収入を藩財政には組み込まず撫育方を設立させ、こちらの資金として充てる。撫育方はこの資金を元手に明和元年︵1764年︶、鶴浜を開作、伊崎を埋め立て今浦港を築港、4年後には室積・中関︵三田尻︶の港整備を行う。
港の改良により回船の寄港地として発展させると同時に、藩物品の販売、回船業者への資金貸し付け、倉庫貸出などを行い、利益を得る。撫育方がほぼ全てにあたった。
また、塩田開発も進め、明和年間には21万石に上がる収益を得たと言われている。この他にも製紙、製蝋、製糖などにも力を入れた。一方で、過度な年貢取り立てなどの政策は一揆に悩まされることにもなった。
天明元年︵1781年︶、徳川家治の嗣子に一橋家の男子の豊千代が決定し、徳川家斉と改名すると、“しげなり”の“なり”が将軍嗣子の本名と同じ︵﹁就﹂が﹁斉﹂と同じ読みである︶ため、読みを“しげなり”から“しげたか”に改める[1]。
天明2年︵1782年︶に家督を四男・治親に譲って隠居し、自身は三田尻の三田尻御茶屋に住んだ。7年後の寛政元年︵1789年︶死去した。享年64。
墓所は山口県萩市の東光寺。
家系
参考は﹁萩市史・第一巻﹂など
●父‥毛利匡広
●母‥側室︵飯田氏︶
●兄弟姉妹
●毛利師就
●毛利政直
●演暢院︵丸岡藩主有馬一準室︶
●養子
●毛利重広︵演暢院の子で重就の甥にあたる︶
ほか
●正室‥登代︵柳川藩主立花貞俶の次女・寛延元年︵1748年︶入輿、明和6年︵1769年︶死去︶
●毛利治親︵四男、長州藩継嗣︶
●友子︵三女・土佐藩主山内豊雍正室︶
●勢代子︵四女・久留米藩主有馬頼貴正室︶
●艶子︵五女・夭折︶
●側室‥利尾︵家臣飯田存直の娘・享和3年8月2日死去。︶
●毛利匡満︵長男、長府藩継嗣︶
●好子︵長女・上山藩主藤井松平信亨正室︶
●佐代子︵次女・関白鷹司輔平室︶
●永丸︵三男・夭折︶
●澄子︵六女・桑名藩主松平忠啓正室︶
●側室‥留楚︵佐竹氏家臣武藤群次の妹・文化7年7月22日死去︶
●毛利匡芳︵五男︶
●列子︵七女・彦根藩井伊直幸の嗣子、井伊直富と婚約中に夭折。︶
●毛利親著︵六男︶
●側室‥田中氏︵文化12年9月17日死去︶
●多鶴子︵八女・権大納言の近衛師久と婚約中に夭折。︶
●側室‥種織︵家臣河野通貞の娘。寛政2年8月25日死去。︶
●長子︵初め雅子。清末藩主毛利匡邦正室。富山藩主前田利謙正室。︶
主要家臣
「大武鑑・中巻」掲載の宝暦5年(1755年)の主要家臣は以下の通り
【一門八家】
【家老】
【毛利重広附】
- 井原孫左衛門、児玉縫殿
【用人】
- 三戸是令、小川貞右衛門、赤川仁右衛門、桂五郎左衛門
【毛利重広附用人】
- 三浦内左衛門、中井定右衛門
【城使】
- 周布与三右衛門、嶋尾五郎右衛門、有福庄右衛門、都筑弥右衛門
偏諱を与えた人物
匡敬時代
●毛利匡満︵長男、長府藩第9代藩主︶
●毛利匡豊︵匡芳︶︵五男、長府藩第10代藩主︶
重就時代
︵※前述した通り、﹁就﹂の読みは初め﹁なり﹂、天明元年︵1781年︶以降は﹁たか﹂と読まれる。1781年~︵重就が隠居した︶天明2年︵1782年︶に授与された者は初めから読みは﹁たか﹂である。︶
●毛利就任︵甥︵兄・広定の子︶、右田毛利家当主︶
●毛利就兼︵同上、就任の実弟、吉敷毛利家第8代当主︶
●毛利就宣︵同上、就任・就兼の実弟、厚狭毛利家第8代当主︶
●毛利就将︵吉敷毛利家第7代当主、就兼の養父︶
●毛利就盈︵厚狭毛利家第7代当主、就宣の養父︶
●毛利就馴︵就友︶︵徳山藩︵就隆系︶毛利家︶
●毛利就禎︵阿川毛利家第8代当主︶
●井原就正︵安芸熊谷氏・熊谷元貞︵宍戸広隆の弟︶の子で宍戸広周の実弟。毛利敬親期の家臣・井原親章︵主計︶は子孫とみられる。︶︶
●浦就尹︵通称:浦兵介、宍道外記︵宍道広慶︶の次男、浦主計︵浦元伴︶の養子となり浦氏を継承︶
●国司就孝︵国司氏、次男に浦就尹の子・房伴の養子となった浦元襄、三男に熊谷直行がいる。︶
●熊谷就直︵就正の養父と思われる井原広似の次男で熊谷元貞の養子︶
●佐佐木就清︵尼子氏末裔・佐佐木氏︶
●宍戸就年︵宍戸氏、宍戸出雲の子︶
●宍道就益︵宍道氏、益田就高の孫︶
●志道就久︵熊谷元貞の子で宍戸広周・井原就正の実弟、志道氏を継ぐ︶
●椙杜就為︵椙杜氏分家、椙杜元縁の曾孫︶
●繁沢就貞︵はじめ繁沢利充の養子、のち実家の阿川毛利家に戻ってその第11代当主となる︶
●福原就清︵宇部領主福原家︶
●益田就祥︵須佐領主益田家︶
●益田就恭︵就祥の子、母は重就の兄・広定の養女︶
●益田就白︵問田益田家︶
●村上就庸︵むらかみ なりつね/たかつね、藩士・能島村上氏当主、佐佐木就清の子を養子に迎える。︶
伝記
- 小川国治『毛利重就』(吉川弘文館人物叢書、2003年) ISBN 4-642-05226-7
関連項目
脚注
- ^ 小川国治『毛利重就』及び『萩市史・第一巻』参照
外部リンク
- 防府と毛利重就 - 防府Web歴史館(防府市教育委員会文化財課)
- 萩藩改革の足がかりをつくった毛利重就と撫育方 - 山口ブランドストーリー(山口県観光振興課)
- 毛利重就 - 茶室辞典(株式会社山中工務店)