「良成親王」の版間の差分
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{{基礎情報 皇族・貴族 |
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| 人名 = 良成親王 |
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| 各国語表記 = |
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| 家名・爵位 = |
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| 画像 = Prince Yoshinari Relief.jpg |
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| 画像サイズ = 280px |
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| 画像説明 = [[託麻原の合戦]]で奮戦する良成親王 |
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| 続柄 = [[後村上天皇]]第七皇子 |
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| 称号 = 後征西将軍宮 |
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| 身位 = [[親王]] |
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| 出生日 = 年月日不詳 |
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| 生地 = [[摂津国]][[住吉行宮]]? |
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| 死亡日 = [[応永]]2年([[1395年]])? |
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| 没地 = [[筑後国]]矢部大杣 |
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| 埋葬日 = 年月日不詳 |
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| 埋葬地 = 筑後国矢部大杣 |
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| 子女 = |
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| 父親 = [[後村上天皇]] |
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| 母親 = |
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| 役職 = [[征西将軍]]、[[兵部卿]] |
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近世の南朝系図によると、[[後村上天皇]]の第七皇子で、母は越智家栄の女・冷泉局︵新待賢門院冷泉︶とされるが、同時代史料には名が見えないため、親王の実在自体を疑う説は少なくない。だが、[[征西将軍]][[懐良親王]]︵[[後醍醐天皇]]皇子︶の跡を継承して九州南軍を指揮した'''後征西将軍宮'''︵のちのせいせいしょうぐんのみや︶とは、良成親王に比定されるのが旧来の[[通説]]であり<ref name="a">征西将軍良成親王について、[[宮内省]][[図書寮]]編﹃後村上天皇実録﹄︵﹃天皇皇族実録75﹄所収︶の按文には、﹁親王ノ名、他ニ所見ナキモ、懐良親王ノ後ヲ受ケテ九州ニ号令セル将軍宮ハ蓋シ此親王ナルベケレバ、今姑ク南朝事跡抄所引ノ古本帝王系図、古物屋本[[皇胤紹運録]]ニ拠リ掲記ス、﹂とあり、また、﹃[[大日本史料]]﹄︵6編41冊、文中3年12月25日条︶の按文には、﹁征西将軍宮ノ御諱、泰成・[[師成親王|師成]]等ノ異説アリテ一定シ難キモ、今姑ク通説ニ従フ、﹂とある。</ref>、他に有力な異説も見当たらないため︵後述︶、本項では後征西将軍宮の事績を親王のそれとして記述する。
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近世の南朝系図によ |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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[[正平 (日本)|正平]]21年/[[貞治]]5年︵[[1366年]]︶頃わずか数歳で九州[[征西将軍府|征西府]]︵[[大宰府]]︶へ下向 |
[[正平 (日本)|正平]]21年/[[貞治]]5年︵[[1366年]]︶頃にわずか数歳で九州[[征西将軍府|征西府]]︵[[大宰府]]︶へ下向。[[親王宣下]]を受けた後、正平24年/[[応安]]2年︵[[1369年]]︶12月[[伊予国|伊予]]の[[河野通堯|河野通直]]の許に派遣され、しばらく所領訴訟の処理などの領国経営に当たる。この征討行は、四国[[管領]][[細川頼之]]の上洛︵[[1367年]]︶後に通直が勢力拡大しつつあるのに乗じ、征西府が[[瀬戸内海]]の東上路を確保するため企図したものという。[[文中]]3年/応安7年︵[[1374年]]︶冬には征西府︵[[隈部城]]︶へ戻り、叔父・懐良親王から[[征西将軍]]職を譲られた。
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[[File:Takumabaru Historic Battlefield.jpg|thumb|235px|託麻原古戦場(熊本市)]] |
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=== 託麻原での奮戦 === |
=== 託麻原での奮戦 === |
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[[天授 (日本)|天授]]2年/[[永和 (日本)|永和]]2年︵[[1376年]]︶夏に親王は[[菊池武朝|菊池賀々丸]]︵後に武興・武朝︶に奉じられて[[肥前国府]]︵[[佐賀市]]︶へ出陣。[[室町幕府|幕府]]方の[[今川了俊]]の軍と対陣するが交戦には至らず、この間[[阿蘇氏]]に[[令旨]]を発給して危急に備えている。両軍はそのまま年を越し、天授3年/永和3年︵[[1377年]]︶1月国府近くの千布・蜷打で一戦を交えた︵[[肥前蜷打の戦い]]︶。親王を奉じる菊池軍は一族を率いて奮闘するが、結局大敗を喫して多数の戦死者を出すに終わり、征西府の退勢がいよいよ明らかとなった。戦禍を免れた親王と賀々丸は[[筑後国|筑後]]を経て[[隈部城]]に退却したが、今川軍はこれを追撃して[[肥後国|肥後]]に侵入、さらに8月の[[鎮西合戦]]勝利に乗じて城の攻略を画策した。天授4年/永和4年︵[[1378年]]︶9月親王は武興に奉じられて託麻原︵[[熊本市]]東部︶で再び今川軍と一戦を交える︵[[託麻原の合戦]]︶。菊池軍は一時苦戦して武興も負傷する程であったが、親王自ら陣頭に立って敵陣に奮闘した結果、遂に今川軍を敗走させることに成功した。もっともこれは南朝方が勝利を収めた最後の大戦となり、征西府の威勢も長くは続かなかった。
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[[天授 (日本)|天授]]2年/[[永和 (日本)|永和]]2年︵[[1376年]]︶夏に親王は[[菊池武朝|菊池賀々丸]]︵後に武興・武朝︶に奉じられて[[肥前国府]]︵[[佐賀市]]︶へ出陣。[[室町幕府|幕府]]方の[[今川了俊]]の軍と対陣するが交戦には至らず、この間[[阿蘇氏]]に[[令旨]]を発給して危急に備えている。両軍はそのまま年を越し、天授3年/永和3年︵[[1377年]]︶1月国府近くの千布・蜷打で一戦を交えた︵[[肥前蜷打の戦い]]︶。親王を奉じる菊池軍は一族を率いて奮闘するが、結局大敗を喫して多数の戦死者を出すに終わり、征西府の退勢がいよいよ明らかとなった。戦禍を免れた親王と賀々丸は[[筑後国|筑後]]を経て[[隈部城]]に退却したが、今川軍はこれを追撃して[[肥後国|肥後]]に侵入、さらに8月の[[鎮西合戦]]勝利に乗じて城の攻略を画策した。天授4年/永和4年︵[[1378年]]︶9月親王は武興に奉じられて託麻原︵[[熊本市]]東部︶で再び今川軍と一戦を交える︵[[託麻原の合戦]]︶。菊池軍は一時苦戦して武興も負傷する程であったが、親王自ら陣頭に立って敵陣に奮闘した結果、遂に今川軍を敗走させることに成功した。もっともこれは南朝方が勝利を収めた最後の大戦となり、征西府の威勢も長くは続かなかった。
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=== 移ろう征西将軍府 === |
=== 移ろう征西将軍府 === |
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[[File:Utojyoushi.jpg|thumb|235px|宇土城跡([[熊本県]][[宇土市]])]] |
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託麻原で敗戦した[[今川仲秋]]は |
託麻原で敗戦した[[今川仲秋]]は[[天授 (日本)|天授]]5年/[[康暦]]元年︵[[1379年]]︶6月以降しばしば[[肥後国|肥後]]に侵入しては諸城を攻撃し、天授6年/康暦2年︵[[1380年]]︶からは[[菊池十八外城]]への通路を塞いで[[兵糧]]の搬入を閉ざし、遠方より包囲する戦法に出る。このため親王を奉じる菊池氏は[[隈部城]]に籠城を続けたが、[[弘和]]元年/[[永徳]]元年︵[[1381年]]︶6月仲秋による夜襲を受けて、[[菊池武朝|武興]]の本拠隈部城と親王の在所[[染土城]]はともに陥落。親王は武興を率いて[[金峰山 (熊本県)|金峰山]]中の﹁たけ﹂︵[[熊本市]]河内町岳︶に征西府を移した。当時の南朝方はもはや衰亡の色を隠せず、当面﹁たけ﹂に潜んで幕府方の攻撃を避けざるを得ない悲運の中、懐良と良成との間、また菊池氏の間においても内訌が生じるという末期的様相を呈していた。ところが、弘和3年/永徳3年︵[[1383年]]︶4月今川方の[[相良前頼]]が帰順すると、南肥後の南軍がにわかに活気付いて勢力を強め、[[元中]]元年/[[至徳 (日本)|至徳]]元年︵[[1384年]]︶頃には[[宇土氏]]と[[河尻氏]]の援助で宇土︵熊本県[[宇土市]]内︶に征西府を移すに至る。さらに元中2年/至徳2年︵[[1385年]]︶には、前頼が[[島津氏]]と和睦した他、[[大隅国|大隅]]の[[禰寝氏]]も帰順して、南九州の諸氏族が立て続けに今川方から離反する事態に発展した。なお、親王は同年2月に前頼の軍功を賞し、彼を[[肥前国|肥前]][[守護]]職に補している。
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[[File:Yatsushiro Seiseifu government.jpg|thumb|235px|高田御所跡(熊本県[[八代市]])]] |
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=== 宇土・八代の陥落 === |
=== 宇土・八代の陥落 === |
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[[今川了俊|了俊]]はこれに怯まず、[[元中]]3年/[[至徳 (日本)|至徳]]3年︵[[1386年]]︶夏より[[宇土城|宇土]]・[[河尻城 (肥後国)|河尻]]両城への攻撃を敢行した。了俊が[[隈庄城|隈牟田]]・赤山など諸城を攻めている最中、前頼は球磨から反撃を加えて征西府の危急を救ったので、元中4年/至徳4年︵[[1387年]]︶7月親王︵[[兵部卿]]親王<ref>この﹁兵部卿親王﹂の比定をめぐっても、泰成親王や師成親王とする説があるが、本項では藤田の推定に従い、﹁将軍宮︵良成親王︶﹂と同一人と見ておく。</ref>︶はその軍功を賞している。これより数年は両軍ともに動かず、征西府はしばしの小康を迎えたが、その間には[[阿蘇氏]]・[[名和氏]]との連合を強めつつ、遠く[[筑後国|筑後]]の[[五条氏]]に通じて再興の機会を窺っていたのであろう。しかし、[[今川貞臣]]が父・了俊の命で専ら南朝方攻略に従事するようになり、元中7年/[[明徳]]元年︵[[1390年]]︶9月[[肥前国|肥前]][[深堀氏]]らの援軍を率いて宇土・河尻両城を陥落する。親王は武朝とともに[[名和顕興]]を頼って八代に逃れ、 |
[[今川了俊|了俊]]はこれに怯まず、[[元中]]3年/[[至徳 (日本)|至徳]]3年︵[[1386年]]︶夏より[[宇土城|宇土]]・[[河尻城 (肥後国)|河尻]]両城への攻撃を敢行した。了俊が[[隈庄城|隈牟田]]・赤山など諸城を攻めている最中、前頼は球磨から反撃を加えて征西府の危急を救ったので、元中4年/至徳4年︵[[1387年]]︶7月親王︵[[兵部卿]]親王<ref>この﹁兵部卿親王﹂の比定をめぐっても、泰成親王や師成親王とする説があるが、本項では藤田の推定に従い、﹁将軍宮︵良成親王︶﹂と同一人と見ておく。</ref>︶はその軍功を賞している。これより数年は両軍ともに動かず、征西府はしばしの小康を迎えたが、その間には[[阿蘇氏]]・[[名和氏]]との連合を強めつつ、遠く[[筑後国|筑後]]の[[五条氏]]に通じて再興の機会を窺っていたのであろう。しかし、[[今川貞臣]]が父・了俊の命で専ら南朝方攻略に従事するようになり、元中7年/[[明徳]]元年︵[[1390年]]︶9月[[肥前国|肥前]][[深堀氏]]らの援軍を率いて宇土・河尻両城を陥落する。親王は武朝とともに[[名和顕興]]を頼って八代に逃れ、高田︵熊本県[[八代市]]奈良木町宮園︶に征西府を移した。ところが、元中8年/明徳2年︵[[1391年]]︶貞臣はこれを追撃して南進し、八代諸城を攻略し始める。顕興はこれを防がんと転戦するも戦況不利にして敵わず、9月に親王はやむなく今川軍との和睦を結んで[[八代城]]も陥落に至った。この際、武朝は行方を晦ましている。
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=== 南北朝合一と終焉 === |
=== 南北朝合一と終焉 === |
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[[File:Tomb of Prince Yoshinari.jpg|thumb|250px|良成親王墓([[福岡県]][[八女市]])]] |
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八代陥落後、残る南朝方の根拠地はわずかに矢部︵[[福岡県]][[八女市]][[矢部村]]︶のみとなった。同年10月[[筑後国|筑後]][[守護]][[大友親世]]らが了俊の命を受けて矢部に来襲したものの、[[五条頼治]]が防戦してこれを見事に退却させたので、親王はその軍功を賞している。一方中央では、[[元中]]9年/[[明徳]]3年︵[[1392年]]︶10月[[南北朝合一]]の和議︵[[明徳の和約]]︶が成立し、[[後亀山天皇]]は[[北朝 (日本)|北朝]]・[[後小松天皇]]に[[三種の神器|神器]]を譲渡して、57年に及ぶ[[南朝 (日本)|南朝]]の歴史に幕を下ろしたのであった。この報がいつ九州にもたらされたかは知る由もないが<ref>林嘉三郎の﹃南朝遺史﹄︵芳文堂、1892年︶には、[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]が九州に僧を派遣して和睦を講じさせ、親王はこれに応じなかったとあるが、真偽不詳である。</ref>、親王が矢部大杣に隠棲しつつ、なおも征西府の再興を期していたことは、[[令旨]]に南朝[[元号]]である﹁[[元中]]﹂を継続使用していることからも察せられよう。具体的には、元中10年/明徳4年︵[[1393年]]︶2月[[阿蘇惟政]]に挙兵を促して、[[日向国|日向]]・[[豊後国|豊後]]両守護職並びに[[肥後国|肥後]]八代・豊田両荘を賞として与えることを約束し、元中11年/[[応永]]元年︵[[1394年]]︶12月頼治の子に[[五条良量|良量]]の名を賜って[[筑前国|筑前]]阿蘇一族の跡を宛行い、五条氏を激励した事実がある。元中12年/応永2年︵[[1395年]]︶10月[[大友氏]]一族という道徹なる者が矢部に侵入するも、頼治 |
八代陥落後、残る南朝方の根拠地はわずかに矢部︵[[福岡県]][[八女市]][[矢部村]]︶のみとなった。同年10月[[筑後国|筑後]][[守護]][[大友親世]]らが了俊の命を受けて矢部に来襲したものの、[[五条頼治]]が防戦してこれを見事に退却させたので、親王はその軍功を賞している。一方中央では、[[元中]]9年/[[明徳]]3年︵[[1392年]]︶10月[[南北朝合一]]の和議︵[[明徳の和約]]︶が成立し、[[後亀山天皇]]は[[北朝 (日本)|北朝]]・[[後小松天皇]]に[[三種の神器|神器]]を譲渡して、57年に及ぶ[[南朝 (日本)|南朝]]の歴史に幕を下ろしたのであった。この報がいつ九州にもたらされたかは知る由もないが<ref>林嘉三郎の﹃南朝遺史﹄︵芳文堂、1892年︶には、[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]が九州に僧を派遣して和睦を講じさせ、親王はこれに応じなかったとあるが、真偽不詳である。</ref>、親王が矢部大杣に隠棲しつつ、なおも征西府の再興を期していたことは、[[令旨]]に南朝[[元号]]である﹁[[元中]]﹂を継続使用していることからも察せられよう。具体的には、元中10年/明徳4年︵[[1393年]]︶2月[[阿蘇惟政]]に挙兵を促して、[[日向国|日向]]・[[豊後国|豊後]]両守護職並びに[[肥後国|肥後]]八代・豊田両荘を賞として与えることを約束し、元中11年/[[応永]]元年︵[[1394年]]︶12月頼治の子に[[五条良量|良量]]の名を賜って[[筑前国|筑前]]阿蘇一族の跡を宛行い、五条氏を激励した事実がある。元中12年/応永2年︵[[1395年]]︶10月[[大友氏]]一族という道徹なる者が矢部に侵入するも、頼治・[[菊池氏]]が活躍して早々にこれを撃退した。親王は同月20日付でその軍功を賞して良量宛に自筆の[[感状]]を与えている。感状上の別筆の追記から、親王がこの時点でなお矢部に隠棲していたことは確実である。しかし、これが親王の消息を知り得る最後の史料となり、間もなく親王は30代半ばで[[薨去]]したものと推測される。
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墓所は、[[八女市]]矢部村北矢部字御側の |
墓所は、[[八女市]]矢部村北矢部字御側の御霊舎跡とする伝承があり、[[1878年]]︵[[明治]]11年︶5月[[宮内省]]によって正式に治定された。御側︵おそば︶は大杣の転訛とされ、今なお龍顔峰・三倉・王谷尻・公卿坂・見参平などの[[小字]]が残るという。[[忌日]]とされる毎年[[10月8日]]には墓前で公卿唄︵くげうた︶や[[浦安の舞]]が奉納される。
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== 後征西将軍宮の比定 == |
== 後征西将軍宮の比定 == |
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一般的に良成親王に比定されている後征西将軍宮だが、同時代史料には「将軍宮」と呼ばれているため、[[諱]]を明記した確実な史料は存在しない。 |
一般的に良成親王に比定されている後征西将軍宮だが、同時代史料には「将軍宮」と呼ばれているため、[[諱]]を明記した確実な史料は存在しない。 |
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⚫ | [[ファイル:Prince Yoshinari Signature.png|thumb|140px|良成親王の[[花押]]]] |
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後征西将軍宮の比定をめぐって、近世には[[泰成親王]]︵[[後村上天皇]]第四皇子、良成の兄︶とする説がむしろ主流であり、[[井沢長秀]]︵﹃[[菊池伝記]]﹄︶を筆頭に[[八木田政名]]︵﹃新撰事蹟通考﹄︶・[[船曳鉄門]]・[[樋口真幸]]︵﹃後征西大将軍考﹄︶など、およそ九州の学者らはこの説を踏襲していた。これに対して良成親王とする説を強く主張したのが肥後[[熊本藩]]医の[[田中元勝]]であり、その著﹃征西大将軍宮譜﹄︵﹃肥後文献叢書6﹄所収︶によれば、泰成親王との説は親王が[[大宰帥]]であることから推測した妄説に過ぎず、﹃古本帝王系図﹄に﹁鎮西宮﹂として見える良成親王こそが将軍宮であろうとした。この説は[[菅政友]]の﹃南山皇胤譜﹄や[[藤田明 (歴史研究家)|藤田明]]の﹃征西将軍宮﹄において確定的に継承され、今日の通説化に至ったようである。
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もっとも[[八代国治]]に従えば、﹃古本帝王系図﹄は[[元禄]]頃の偽作で信頼に値しないといい<ref>八代 ﹃長慶天皇御即位の研究﹄ 明治書院、1920年。</ref>、また[[中村直勝]]のように、良成を後村上の皇子とせず、[[懐良親王]]の嫡子と推定する見解<ref>中村 ﹃南朝の研究﹄ 星野書店、1927年。1978年復刊</ref>もない訳ではないが、[[元中]]元年︵[[1384年]]︶の﹃[[菊池武朝]]申状﹄に﹁将軍宮御事、被受[[正平 (日本)|正平]]之勅裁、為故[[懐良親王|大王]]御代官﹂とある文言から、将軍宮が後村上の皇子であることは認めてよかろう。ただ、その諱は前述のとおり史料がなく、かつ泰成以下の諸皇子においても九州に下向した形跡が確認できないため、[[消去法]]的に旧来の良成親王説を通説として採用しているのが現状<ref name="a"></ref>である。
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* [[藤田明 (歴史研究家)|藤田明]]編著 『征西将軍宮』 東京宝文館、1915年(1976年複製)、{{ |
* [[藤田明 (歴史研究家)|藤田明]]編著 『征西将軍宮』 東京宝文館、1915年(1976年複製)、{{NDLJP|950877}} |
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* [[村田正志]] 「南朝関係 五条家文書の研究」(『国士舘大学人文学会紀要』第1号 国士舘大学文学部人文学会、1969年3月) |
* 『征西将軍宮と五条氏』 福岡県教育会、1936年、{{NDLJP|1230499}} |
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* [[村田正志]] 「南朝関係 五条家文書の研究」(『国士舘大学人文学会紀要』第1号 国士舘大学文学部人文学会、1969年3月、{{NCID|AN00089497}}) |
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* [[蓑田田鶴男]] 「征西府時代と八代」(『八代市史 第2巻』 八代市教育委員会、1970年、{{NCID|BN08078914}}) |
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* [[川添昭二]] 「後征西将軍宮発給文書考」(『古文書研究』第19号 吉川弘文館、1982年、ISBN 9784642087179) |
* [[川添昭二]] 「後征西将軍宮発給文書考」(『古文書研究』第19号 吉川弘文館、1982年、ISBN 9784642087179) |
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* 江上敏勝 『征西大将軍と八代 <small>―懐良親王・良成親王―</small>』 八代史談会、1991年 |
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* [[藤井譲治]]・[[吉岡真之]]監修 『天皇皇族実録75』 ゆまに書房、2009年、ISBN 9784843320099 |
* [[藤井譲治]]・[[吉岡真之]]監修 『天皇皇族実録75』 ゆまに書房、2009年、ISBN 9784843320099 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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[[File:Japanese_wisteria_Yame_Kuroki.JPG|thumb|240px|黒木の大藤(福岡県八女市)]] |
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* [[長慶天皇]] |
* [[長慶天皇]] |
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* [[阿蘇惟武]] |
* [[阿蘇惟武]] |
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* [[大友氏継]] |
* [[大友氏継]] |
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* [[後南朝]] |
* [[後南朝]] |
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* [[阿蘇文書]]・[[五条家文書]]・[[相良家文書]] - 親王の令旨・書状などが含まれる |
* [[阿蘇文書]]・[[五条家文書]]・[[相良家文書]] - 親王の令旨・書状などが含まれる |
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* [[八代宮]] - 旧[[官幣中社]]。懐良親王を主祭神とし、良成親王を配祀する |
* [[八代宮]] - 旧[[官幣中社]]。懐良親王を主祭神とし、良成親王を配祀する |
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* [[宮ノ陣神社]] |
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* [[黒木の大藤]] - 国の[[天然記念物]](植物)。親王の手植えと伝えられる |
* [[黒木の大藤]] - 国の[[天然記念物]](植物)。親王の手植えと伝えられる |
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[[Category:日本の神 (人物神 建武中興)]] |
[[Category:日本の神 (人物神 建武中興)]] |
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[[Category:九州地方の歴史]] |
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[[Category:1390年代没]] |
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2015年5月17日 (日) 14:01時点における版
良成親王 | |
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託麻原の合戦で奮戦する良成親王 | |
続柄 | 後村上天皇第七皇子 |
称号 | 後征西将軍宮 |
身位 | 親王 |
出生 |
年月日不詳 摂津国住吉行宮? |
死去 |
応永2年(1395年)? 筑後国矢部大杣 |
埋葬 |
年月日不詳 筑後国矢部大杣 |
父親 | 後村上天皇 |
役職 | 征西将軍、兵部卿 |