浦安の舞
浦安の舞(うらやすのまい)は、神楽(巫女神楽)の一つ。近代に作られた神楽である。
概要[編集]
1940年︵昭和15年︶11月10日に開かれる﹁皇紀二千六百年奉祝会﹂に合わせ、全国の神社で奉祝臨時祭を行うに当たり、祭典中に奉奏する神楽舞を新たに作ることが立案され、当時の宮内省楽部の楽長である多忠朝が国風歌舞や全国神社に伝わる神楽舞を下地に作曲作舞した神楽舞である。
1933年︵昭和8年︶の昭和天皇御製
天地︵あめつち︶の神にぞ祈る朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を
が神楽の歌詞となっている。
皇紀二千六百年奉祝臨時祭に合わせて奉奏するために、日本全国で講習会が開かれ、海外鎮座の神社でも奉奏されるべく朝鮮・台湾などの外地へも講師が派遣された。奉祝会当日午前10時には全国一斉に奉奏された。以降、各神社で舞われるようになり、現在に至っている。
明治以降整備されてきた神社祭祀制度には、女性による奉仕に関する規定が無かったが、舞の制定により女性が神社に奉仕する機会が作られた。また、全国規模の講習会と奉奏の徹底は、神社における神楽舞の普及に大きく貢献した。
なお、浦安の舞などの近代に作られた神楽は、国風歌舞や舞楽、神楽舞を下地に創作されたものであり、広義では雅楽の延長としても捉えられているが、神社祭祀に特化した新たな創作神楽であることから、狭義では雅楽と明確に区分される。特に作曲・作舞した多忠朝は、日本神話を根拠とする神楽舞の重要性、日本文化に於ける神楽の独自性を主張している。
東京ディズニーリゾートの所在地として知られる千葉県浦安市舞浜地区の地名の由来にもなっている[1][2]。
二人舞
構成[編集]
浦安の舞は舞姫︵巫女︶によって一人舞、二人舞、四人舞で舞われる女舞である。正式は四人舞である。舞は前半の扇舞と後半の鈴舞とがある。﹁浦安﹂の語義[編集]
﹁うら﹂は心を指す古語であり、﹁うらやす﹂で心中の平穏を表す語であるとされる。また、﹃日本書紀﹄に﹁昔伊弉諾尊目此国曰。日本者浦安国。﹂とあり、他の文献にも日本国の別称として﹁浦安国﹂とあることから、神祇の安寧慰撫と国の平穏無事が、題名である﹁浦安﹂の語に込められている。楽器[編集]
使用する楽器は神楽笛、篳篥、箏、太鼓である。太鼓は雅楽用の物︵釣太鼓︶を用いるのが主とされるが、一般的な太鼓でも差し支えないとされる。太鼓は拍子を取るのに用いられるが、太鼓がない場合は笏拍子を用いる。使用する笛に関しては神楽笛を用いることが厳重に指導されており、龍笛、篠笛等の笛は用いてはならないとされる︵そもそも神楽笛以外の笛は音域が合わず、吹奏に適切ではない︶。また、弦楽器に関しては当初は和琴・楽箏両方の譜面が用意されたが、俗箏でも構わないとされたことから箏での演奏が普及し、現在に至っている。装束[編集]
装束は女房装束を下地に製作された、昭和15年に制定されたものが正式とされる︵あこめ装束または本装束と呼称する︶。単、衵︵あこめ︶、小忌衣︵おみごろも︶、裳︵も︶、緋袴で構成され、扇舞で用いる檜扇を採物として手に取る。特に青摺の小忌衣を着用する点が、この舞が神祇祭祀に特化されたものであることを物語っている。略装束[編集]
装束については、千早と緋袴を略の装束としている。千早の青摺模様は松鶴をあしらったものが多いが、浦安の舞の略装束として、菊の青摺模様をあしらった﹁浦安柄﹂と称する千早も用意されている。神社によっては檜扇の代りに、俗楽の舞踊の舞扇に檜扇と同様の飾り紐を付けたもので舞う場合もある。
なお、合繊の略装束は比較的安価で、比較的軽量であること、子供用も用意されていることから、年少者が舞う場合はほとんどが略装束となる。