ドイツの歌
Das Deutschlandlied | |
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和訳例:ドイツの歌 | |
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別名 |
Das Lied der Deutschen (ドイツ人の歌) Deutschland, Deutschland über alles (ドイツよ、ドイツよ、全てのものの上にあれ) |
作詞 | アウグスト・ハインリヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベン(1841年) |
作曲 | フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1797年) |
採用時期 | 1922年 |
試聴 | |
概要[編集]
この歌は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが1797年に神聖ローマ皇帝フランツ2世に捧げた﹃神よ、皇帝フランツを守り給え﹄︵後に弦楽四重奏曲﹃皇帝﹄第2楽章の主題に用いられる︶のメロディーに、1841年にアウグスト・ハインリヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベン (August Heinrich Hoffmann von Fallersleben) がヘルゴラント島︵当時はイギリス領︶で詠んだ詩を付けたものである[1]。なお、同じメロディーはオーストリア帝国、続くオーストリア=ハンガリー帝国でも国歌として使用したが、こちらの方がハプスブルク家の皇帝ともども元の﹃神よ、皇帝フランツを守り給え﹄を引き継いでいる。 この歌詞は、黒・赤・金の旗︵現在のドイツの国旗︶とともに、権威主義的な諸邦を倒して君主制下での自由主義的な統一ドイツをもたらそうとした1848年のドイツ3月革命のシンボルとなった。ドイツ帝国崩壊後のヴァイマル共和国時代に正式に国歌として採用された。 第二次世界大戦敗戦による連合軍のドイツ占領を経て、1949年に西ドイツに西側諸国の承認を得て設立されたドイツ連邦共和国では3番のみを公式なものとし、1990年11月にドイツ民主共和国を統合した際、3番のみを公式とすることを確定した[1][2][3]。 ただし、現在でもドイツでは国歌に関する正規な法律は制定されていない[1]。 なお、ドイツ国歌はハイドンのオリジナル版やそれに続くオーストリア=ハンガリー帝国のバージョンと比べ、曲を若干修正し、ト長調から変ホ長調に変えたバージョンを採用している。歌詞[編集]
Deutschlandlied(ドイツの歌) | |
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ドイツ語 | 日本語訳 |
1番 | |
Deutschland, Deutschland über alles, |
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2番 | |
Deutsche Frauen, deutsche Treue, |
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3番 (第二次世界大戦後に成立したドイツ連邦共和国では3番のみが公式なものとなっている) | |
Einigkeit und Recht und Freiheit |
統一と正義と自由を |
歴史[編集]
ホフマン・フォン・ファラースレーベン(左)とF.ハイドン(右) |
経緯[編集]
ドイツ帝国時代まで[編集]
この歌が初めて公開の場にて演奏されたのは、1841年10月5日のハンブルクで行われた松明行列に際してであり、公式の席で初めて歌われたのは、1890年にヘルゴラント島がヘルゴラント=ザンジバル条約によりドイツ領となった時であった。しかし、当時はまだ国歌となるまでには至らず、1871年のドイツ帝国成立時にはそれまで広く知れ渡っていた﹃ラインの守り﹄に代えて﹃皇帝陛下万歳﹄を非公式ながら国歌とし、1918年の帝政崩壊まで使用した[1]。 一方、この当時から既に1番の歌詞が行き過ぎであるとの批判が絶えなかった。これは、ドイツ帝国の時代でも、マース川流域は大半がフランスないしベルギー国内であり、エチュ川はオーストリア=ハンガリー帝国とイタリア王国を流れ、ベルト海峡はデンマークにあったことが理由である[1]。ワイマール共和国からナチス・ドイツまで[編集]
第一次世界大戦後、ワイマール共和国時代の1922年8月11日、社会民主党政権が正式な国歌として制定した。この時点では﹁国歌﹂という名称は使用されなかった[1]。これに対してフリードリヒ・エーベルト大統領は式典の挨拶で以下のように述べた[1]。 ﹁統一と正義と自由! ここで謳われているこの三つの言葉は、ドイツ内部の分裂と抑圧の時代に、ドイツ人全ての抱く切なる希望を表したものである。これらの言葉は、今後もより良き未来の構築に向け、困難な道のりを歩む我らの座右の銘となろう。﹂ また、ワイマール共和国時代には、一時期4番が作られたが、すぐに人々から忘れ去られた[1]。 その後、アドルフ・ヒトラーが政権を掌握してから僅か数週間後に、ナチス指導部はこの国歌をナチスの党歌﹃旗を高く掲げよ﹄と組み合わせ、2番と3番を演奏禁止にした上で、﹁最初に国歌1番を歌い、次に﹃旗を高く掲げよ﹄を歌う﹂を公式とし、ナチス・ドイツ時代ではこの2つの歌を連続して歌うことが実質的な国歌とされた[1]。この時、ナチスが1番をドイツ人の優越や領土拡大を目指した解釈に変更したため、第二次世界大戦後は、﹁歌詞が軍国主義的である[2]﹂﹁歌詞がナチス・ドイツの覇権を正当化するもので、覇権主義の野望が盛り込まれている﹂﹁戦後ドイツの領土ではなくなった地名が含まれており、外国を刺激する[3]﹂という批判を受ける原因になった。冷戦以降[編集]
第二次世界大戦後、連合国を始め他国の人々からは、﹃ドイツの歌﹄はナチスの狂信的人種差別と世界制覇の野望を強烈に表す象徴と見られており、連合軍は﹃ドイツの歌﹄を禁止にして処罰の対象とした。しかし、1948年にヴォルフスブルクでドイツ帝国党の集会の時に[要検証]、その禁を破ってこの歌が再び歌われた。 ドイツ連邦共和国︵西ドイツ︶の初代連邦大統領となったテオドール・ホイスは、﹁この歌に関しては、政治家も占領軍も、ドイツ人のこの歌に寄せる強い思いを恐らく過小評価していた﹂と、後に述べている。そのため、西ドイツ建国直後に、早くも複数の党の議員達が、﹃ドイツの歌﹄の1番から3番までを国歌とする議案を提出した[1]。 西ドイツではナチス・ドイツ時代に使用されたこの国歌を引き継ぐのに抵抗を感じ、全く新しい国歌を制定しようとする試みがあった。ホイス大統領は、民主的国家としてのドイツの新たな始まりを明らかにするために、新しい国歌が必要であると考えていた。 そのため、まずは1950年8月に﹃ドイツ人の歌﹄に代わり、﹃Ich hab mich ergeben︵我はこの身を故国に捧げり︶﹄を代用し、それと同時に、詩人のルドルフ・アレクサンダー・シュレーダーと作曲家のカール・オルフに新しい国歌の制作を依頼した。オルフが断ったために、代わってヘルマン・ロイターが新しい国歌﹃Land des Glaubens, deutsches Land︵信仰の国ドイツ︶﹄を作曲し、1950年の大晦日に初演されたが、国民からは全く反響がなく、受け入れられなかった。更に、1951年秋に実施した世論調査では、西ドイツ国民の3/4が﹃ドイツの歌﹄を再び国歌とすることに賛同し、また約1/3の国民が将来1番の代わりに3番を歌うことに賛成した。しかし、﹃ドイツの歌﹄そのものへの連合軍の禁止措置はなおも続いた[1]。 コンラート・アデナウアー首相は、既に国歌の問題の難しさを痛感しており、1950年4月に議会で自ら﹃ドイツの歌﹄をあからさまに歌い出し、議員の大半が感動して共に3番を歌った時には、同席していた連合軍幹部達は驚きと不快感を露にし、すぐに大きな政治問題となった。それでもアデナウアーは1951年初め、自身の75歳の誕生日の式典において、ボン市庁舎の外階段に居並ぶ人々に、一緒に﹃ドイツの歌﹄3番を歌うように促した。最初、楽団は予定になかった歌の演奏を拒否したが、アデナウアーは最後にはその意志を通して演奏が行われた。 これを契機に、1951年10月、キリスト教民主同盟カールスルーエ支部はホイス大統領に対して、﹁﹃ドイツの歌﹄の禁止処分を解き、3番だけでもドイツの伝統を汲んで国歌としての扱いを受けるべきである﹂と全会一致で要請した。その後も、連邦政府の公報において、アデナウアーは﹁この歌ほどドイツ国民の心に深く根ざしているものは他にない﹂と説き、ホイス大統領との書簡を往復させた後、アデナウアーは1952年5月にその意志を通した[1]。 このようにして、当時の流行歌を用いたり、ベートーヴェンの第九を代用したりしたこともあったが、どれもこれといったものが出てこなかった[3]。その後、西ドイツがオリンピックに復帰するに当たり、偶然にも3番の歌詞が東西に分断された祖国の統一を願う詩として最適と言うことになり、1952年に3番を歌詞として、再び正式に国歌と決められた[3]。 一方で、これにより国歌に昇格したのが、この歌の3番のみであったのか、この歌全体であったのかに関して、法律家が冷戦終了まで論争を繰り広げたが、結論がつかず、1990年3月に、連邦憲法裁判所が、3番のみが﹁刑法によって保護される﹂と判断して決着がついた[1]。 ﹃ドイツの歌﹄は、1990年の東西統一後も引き継がれ、1991年11月にリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領とヘルムート・コール首相との間で、40年前のホイス大統領とアデナウアー首相との歴史的往復書簡に準拠して、ドイツの歌3番を統一ドイツの国歌と宣言する旨の合意が書簡の往復でなされた[5]。しかし、ドイツ連邦共和国における国歌に関する正規の法律は未だに策定されていない[1]。歌詞への評価[編集]
1番[編集]
2番[編集]
当時またはそれまでのドイツの文化、歴史について書かれている。ドイツのワインは主にライン川流域で生産されているが、ナポレオンによるドイツ支配体制がしかれていた1807年当時では、ライン左岸地域はフランス帝国の直轄地であった[6]。ライン右岸地域においても、同盟を形成させ、フランスの管轄下に置かれていた[7]。ナポレオンの失脚後は、ウィーン会議を経て、ドイツ連邦内に組み込まれた[8]。歌詞の内容がもっぱら言葉遊びに終始していることや、女性差別と解されることから、正式に採用されていない。3番[編集]
ドイツ民族の統一に対しての展望が書かれている。歌詞中にあるフレーズ﹁Einigkeit und Recht und Freiheit; 統一︵団結︶と正義︵権利、法︶と自由﹂は、ドイツ連邦共和国︵西ドイツおよび統一ドイツ︶の標語となっている[要出典]。 1989年にベルリンの壁が崩壊した時、街の至る所で3番が歌われたという[2]。また、11月9日の西ドイツ連邦議会ではニュースの一報が入り各派の演説の後に議員らが自発的に3番を歌っている[9][10]。4番[編集]
Deutschlandlied(ドイツの歌) | |
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ドイツ語 | 日本語訳 |
幻の4番 | |
Deutschland, Deutschland über alles, |
ドイツよ、ドイツよ、すべてのものの上にあれ
艱難の時にこそ冠たるドイツよ。
艱難の時にのみ愛は
己が強さと清さの程を示さん。
かくて世代から世代へと
ドイツはこれぞと遍く報らすなり。
ドイツよ、ドイツよ、すべてのものの上にあれ
艱難の時にこそ冠たるドイツよ。
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論争[編集]
賛美歌との関係[編集]
その他[編集]
●イギリスのロック歌手ピート・ドハーティが、2009年11月28日にミュンヘンで生中継されていた音楽祭でドイツ国歌の1番を歌い、観客からやじを浴びせられ、さらに歌を止めに入った司会者にマイクを投げつける事件を起こした。その後、主催者側から謝罪を求められ、ドハーティは11月30日に謝罪した。また彼の広報担当者は、スカイニュースのウェブサイトで、﹁ドイツの国歌の問題を認識していなかった﹂﹁感情を害したとしたら、深く謝罪する﹂と述べた[12][13]。 ●2017年2月11日にアメリカのハワイで行われたフェドカップにて、アメリカ対ドイツの試合前の斉唱で、ドイツ国歌の1番が歌われるハプニングがあり、米テニス協会がドイツチームやファンに対して謝罪した[14][15]。脚注[編集]
関連項目[編集]
- 旗を高く掲げよ(ホルスト・ヴェッセルの歌) - ナチスの党歌。ナチス・ドイツ時代には実質的に第二国歌として扱われていた。
- 廃墟からの復活 - ドイツ民主共和国(東ドイツ)の国歌。
- 山岳の国、大河の国 - 現在のオーストリア共和国における国歌。
外部リンク[編集]
- Das Lied der Deutschen. All three stanzas. Sung by a women choir. Source: Ingeb.org
- ドイツ連邦共和国連邦政府サイト内ドイツ国歌のページ(ドイツ語) オーディオファイル付
- Former German National Anthem - YouTube(ドイツ語)