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連合軍軍政期 (ドイツ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドイツ
Deutschland (ドイツ語)
フレンスブルク政府
ドイツ国
1945年 - 1949年 西ドイツ
東ドイツ
ザール保護領
西ベルリン
東ベルリン
ドイツの国旗
国旗
国歌:
ソ連占領地域


アメリカ占領地域


イギリス占領地域


フランス占領地域
ドイツの位置
 分割占領されたドイツの地図
公用語 ドイツ語英語フランス語ロシア語
首都 ベルリン
軍政府
1945年5月 - 1955年5月 イギリス占領区
1945年5月 - 1955年5月フランス占領区
1945年5月 - 1955年5月アメリカ占領区
1945年5月 - 1955年9月ソ連占領区
変遷
無条件降伏 1945年5月8日
ベルリン宣言1945年6月5日
管理理事会設置英語版1945年7月5日
ザール分離1947年12月15日
西ドイツ成立1949年5月23日
東ドイツ成立1949年10月7日
現在ドイツの旗 ドイツ

ベルリン市の連合国各国の占領域

: Alliierte Besetzung Deutschlands: Allied-occupied Germany194565西19494194519904[1]

[2]

概要[編集]


465西4

19494西

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19431219431944912[3]19451[3][3]

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520姿523657582[4]

西側とソ連の対立[編集]


1945510JCS106710671947JCS1067

1948194711194825223[4]西328[5]

6西西69[6]618西西[7]19495西西

2つのドイツの誕生[編集]

1948年初頭、米英仏とベネルクス諸国はロンドンで会議を開き、ソ連占領地区を除いたトライゾーンのみで制憲会議を開き憲法を制定すること、新憲法下の新国家は占領下で成立した各州が強力な権限を持つ連邦国家となり中央集権制はとらないことなどを取り決めるロンドン勧告を採択した。1948年7月1日、フランクフルトに集められた各州首相に対して米英仏占領当局より憲法制定にかかわる「フランクフルト文書」が手交された。大筋では新憲法制定はこの方向で進んだものの、ドイツ各州と州民は占領当局によって示された方針には反発し、「基本法」という名の暫定憲法を制定するための「議会評議会」(Parlamentarischer Rat)を開くことで占領軍と妥結した。

各州代表からなる議会評議会は1948年9月1日に発足し、占領当局と激しく対立しながら基本法の案を固め、最終的には占領当局も早急に西ドイツ国家を発足させるためにこの案を認めた。新国家の暫定首都については、議会評議会の多数派や米軍占領当局は候補都市の中でもフランクフルトを好んだが、議会評議会の議長コンラート・アデナウアーは大都市であるフランクフルトを首都とすれば恒久的首都として定着してしまい、東西統一とベルリンへの政府移転の機運が失われるとして、断固としてボンを推薦し、結局これが通ることになった。

一方ソ連占領当局は、1947年12月よりドイツ社会主義統一党(SED)主導の下でベルリンに東西ドイツ各地からの代表を招いてドイツ人民会議(Deutscher Volkskongress)を開催し新ドイツ政府の発足への機運を高めようとした。米英による占領体制、トライゾーンでの憲法制定の動き、マーシャル・プランなどに反対する決議を行いドイツ統一へのキャンペーンを張ったが、ソ連とは独立した独自の社会主義体制づくりの方針は次第にソ連占領当局に否定されるようになった。1948年3月の第二回ドイツ人民会議ではドイツ人民評議会が形成され、SEDが1946年に示した憲法案に基づく東側独自の憲法の策定に入った。このドイツ民主共和国憲法案は1949年5月の第三回ドイツ人民会議で採択され、西とは違うドイツ国家の形成が進んだ。

1949年5月、西側3か国の占領区域にはドイツ連邦共和国(西ドイツ)が、またソ連占領区域にも西側諸国に倣い1949年10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)が、それぞれ設立された。西側においては1949年5月、連邦共和国創設時に軍政府長官が連合国高等弁務官と交代し、その権限は軍政府以上大使以下とされた。西ドイツが主権回復宣言を行った1955年5月5日、西側の占領は公式に終了、各国高等弁務官は各国大使に変更となった。

同様の状況は東ドイツ側にも発生した。10月10日ソ連軍政当局は「ソ連監督委員会」と交代し、1949年11月11日までは限定的統治権は与えられなかったものの、10月7日にドイツ民主共和国(東ドイツ)が設立された。1953年3月のヨシフ・スターリンの死後の5月28日、ソ連監督委員会は高等弁務官事務所に置き換えられた。1955年9月20日、東ドイツとソ連間で条約が結ばれると、高等弁務官事務所は撤廃され、主権全般が東ドイツに返された。また、1956年にはザールにおいて国民投票が行われて連邦共和国(西側)加入を選択、ザールは1957年1月1日にザールラント州として連邦共和国に加入することになった。

なお、1955年の両ドイツへの主権全般の返還にもかかわらず、1990年に統一ドイツが誕生するまで完全な主権回復はなされなかった。事実上の「ドイツ国」と連合国との講和条約に相当するドイツ最終規定条約(俗に「2+4条約」とも言われる)が1991年3月15日に全ての関係国によって批准・締結されて、はじめて完全な主権回復が成された。

また、西ベルリン市は正式には西ドイツ領ではなく、公式には1990年10月のドイツ統一まで連合国の軍政下にあった。初期に西側連合国が占領していた3区域は統合し西ベルリンとなり、ソ連占領区域は東ベルリンとされたが、ベルリン市の東部(東ベルリン)については、西側諸国がドイツ民主共和国を正式な国家として認めていない間にも、東ドイツの首都とされていた。

区域別の情勢[編集]

ベルリン都心のウンター・デン・リンデンに設置された指導者スターリンの肖像

ソ連占領区域[編集]


[8]SMAD西1,200200[9]

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 (OMGUS) IG

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193719461946[10]19461947

1947

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2

1946西19457[11]19471231 ()[12]

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1946813102044.6[14]

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占領下の問題[編集]

ドイツの歴史
ドイツの国章
東フランク王国
神聖ローマ帝国
プロイセン王国 ライン同盟諸国
ドイツ連邦
北ドイツ連邦 南部諸国
ドイツ帝国
ヴァイマル共和政
ナチス・ドイツ
連合軍軍政期
ドイツ民主共和国
(東ドイツ)
ドイツ連邦共和国
(西ドイツ)
ドイツ連邦共和国

非ナチ化[編集]

連合国管理理事会の任務の一つに戦争犯罪人の裁判(非ナチ化)があり、ナチ党指導部・親衛隊の成員が各地で逮捕された。1945年12月までに10万人以上のドイツ人が安全上の理由と国際軍事法廷で裁かれるために抑留された。

食糧問題[編集]

占領初期に実施されていた「JCS1067」(統合参謀本部命令1067号)がアメリカ占領軍当局からドイツ国民に対する一切の支援を禁じていたこともあり、占領下ドイツでの食料事情はかなり悪く、1946年春までアメリカ占領区域での1日あたり割り当て食料は公式には1,275キロカロリー(幾分かの地区は最低で700キロカロリーと考えられる)でしかなかった。このため、幾分かのアメリカ軍兵士がこの絶望的な状況で、「fra bait」(fraはフランクフルトのIATAコード、baitは餌のこと)として知られる軍から与えられる食料とタバコ(闇市では通貨として使用されていた)を使用して個人的利益を得た[15]。一部のアメリカ軍兵士の中にはこの状況を利用してドイツ人少女に肉体関係を要求するものも現れたが、その結果として生まれた子をかかえたドイツ人シングルマザーに対する手当ての支給は行われなかった。

私生児問題[編集]

1950-1955年の間に連合国管理理事会は子どもの認知およびその生活費の支払いを請求する訴訟を禁止した。その後、この方針は撤回されたが、西ドイツ法廷はアメリカ軍兵士を裁くことはほとんどできなかった。アメリカ兵士との間に生まれた子どものうち、約3パーセントがアフリカ系アメリカ兵との子どもであり、アメリカ軍兵士が責任を取るつもりのあった場合でも1948年までアメリカ軍内にあった異人種間婚姻禁止規則のために認められず、俗に「Negermischlinge」(黒人混血児)と呼ばれた子どもは特に悲惨であった。

また、初期には「敵を援助する」という観点からアメリカ軍兵士がそれらの子供たちを認知、手当てを支給することも許されなかった。後に1946年1月に白人アメリカ軍兵士とオーストリア女性間の結婚が認められ、1946年12月にはドイツ人女性との結婚が認められるようになった。

なお、イギリスにおいてはそこまで厳しくなく、フランス、ソ連についてはもっと緩やかであった。

難民問題[編集]


使

9045

1947719452525194612

19494(ZvD) -(BdV) 19499

19461029[16]
地区 面積 (km²) 人口 人口密度
(1 km²辺り)
ベルリン 890 3,199,938 3.595
アメリカ合衆国の旗 アメリカ占領地域 107,459 17,254.945 161
イギリスの旗 イギリス占領地域 97,722 22,305,027 228
フランスの旗 フランス占領地域 40,216 5,063,630 126
ソビエト連邦の旗 ソ連占領地域 107,173 17,313,734 162
ドイツの旗東ドイツの旗 ドイツ全体 353,460 65,137,274 184

[]

[]

[]


1945522 - 1946430

194651 - 19471031

1947111 - 1949921

[]


1949921 - 1950624

1950624 - 1953929

1953929 - 195555

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[]


19455 - 19457

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19457 - 1949921

[]


1949921 - 195555

[]

[]


19454 - 194569

[]


194569 - 1946410

1946410 - 1949329

1949329 - 19491010

[]


19491010 - 1953528

[]


1953528 - 1954716

1954716 - 1955920

[]

[]


194558 - 19451110D

19451111 - 19451125

19451126 - 194715T

194716 - 1949514D

1949515 - 194991R

[]


194992  195281J

195281  19521211J

19521211  1953210

1953210  195555B

[]


64(34)199261-86NAID 120001439990 

31(4)195867-117NAID 120001439780 

31(2)199351-63NAID 120001441671 

[]



(一)^ 西219491990

(二)^ 1990西

(三)^ abc 1992, pp. 68.

(四)^ ab 1992, pp. 57.

(五)^  1992, pp. 5758.

(六)^  1992, pp. 59.

(七)^  1992, pp. 58.

(八)^ 19461947

(九)^ Steffen Prauser and Arfon Rees (2004). The Expulsion of the 'German' Communities from Eastern Europe at the End of the Second World War. European University Institute. pp. 4. http://cadmus.eui.eu/bitstream/handle/1814/2599/HEC04-01.pdf;jsessionid=CB7A4416A14939AAFB89C5A53CFDC676?sequence=1 

(十)^ 

(11)^  1958, pp. 86.

(12)^  1958, pp. 95.

(13)^  1993, pp. 54.

(14)^  1993, pp. 56.

(15)^ 1945625

(16)^ Deutscher Städtetag: Statistisches Jahrbuch Deutscher Gemeinden. Alfons BürgerVerlag, Schwäbisch Gmünd 1949

関連項目[編集]

ドイツの被占領時代
外国の被占領時代
先代
ナチス・ドイツ
1933年-1945年
ドイツの歴史
分断時代のドイツ
連合軍軍政期
ドイツ民主共和国
西ドイツ
1945年-1990年
次代
ドイツ再統一
1990年-現在