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二本松の戦い

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二本松の戦い

戦争戊辰戦争
年月日
旧暦慶応4年7月29日
グレゴリオ暦1868年9月15日
場所陸奥国二本松(現在の福島県二本松市)
結果新政府軍の勝利
交戦勢力
新政府軍
奥羽先鋒総督府
奥羽越列藩同盟
旧幕府軍
指導者・指揮官
板垣退助(総督府参謀)
伊地知正治(総督府参謀)
Mon Niwa 丹羽長国
Mon Niwa 丹羽一学 
家老
Mon Niwa 丹羽丹波
(家老上席 軍事総裁)
Mon Niwa 大谷志摩 
(家老・広間番・詰番 遊撃隊隊長)
Mon Niwa 青山助之丞正誼 山岡栄治恵行 (大壇口のニ勇士 六番組組頭番頭大谷与兵衛隊大砲方銃士隊所属)など。
戦力
約1,700(長州藩兵約200余りを含む) 約2,000(本宮村戦闘時)
約1,500(二本松城防衛時)
損害
戦死者:
26名(本宮村の戦い)
17名(二本松の戦い)
重傷者:複数名
二本松城の陥落
戦死者:家老以下420
重傷者:不明
戊辰戦争

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参考文献[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 阿部正外は開明派の1人で、慶応元年(1865年)に日米和親条約の締結と交易の必要性を説く建白書を朝廷に奏上したため、攘夷思考の孝明天皇の不興を招き、勅令という形で白河城主を追放された。すでに幕府の権威は凋落しており、孝明天皇からの干渉は人事におよんでいた。
  2. ^ この時、二本松藩の兵士のみが白河城に留まっており、新政府軍と誤認した会津藩兵の砲撃を受けて2名の戦死者を出している
  3. ^ 5月30日の段階で朝廷に陳情書を提出して自らの立場を弁明していた
  4. ^ 守山藩も勤王派であり、思想的には新政府に同調していた
  5. ^ このうち備前藩には郡山から仙台藩が全兵力で救援に来た場合、反転して守山、三春を支援する役目を負っていた。
  6. ^ 20代の隊長と30代の副隊長の二名以外は15歳前後の少年たちで、最年少は12歳
  7. ^ 『丹羽家記』および『復古記』によれば、小川の奮戦に感じ入った薩摩藩兵らは、その武勇にあやかろうと其の肝を食した。当時としては、敬意の表し方の一つであり、異常な行動ではない。
  8. ^ 太田俊穂の著作は「陣地を制圧した際に民家から2名の藩士が抜刀して襲いかかり、薩摩藩兵数名を斬り伏せ、その部隊の指揮官である野津道貫も白兵戦で応じて負傷して後退し、ついに二本松藩士2名は周囲の兵士によって射殺された」というエピソードを紹介している。一方、戊辰役戦史の大山は「野津は格闘の末に、終に敵を倒した」として、その具体的な内容は明らかにしていない。しかし、野津は戦後、二人の冥福を祈る碑を立ててその武勇を嘆賞した。

出典[編集]



(一)^ 

(二)^ (1968:488)

(三)^ (1968:489)

(四)^ 

(五)^ (1968:472)

(六)^ 西(1980:249)

(七)^ (1968:473)

(八)^ ab(1980:248)

(九)^ (1968:475)

(十)^ (1968:477)

(11)^ (1980:249)

(12)^ (1998:68-69)

(13)^ ab(1968:490)

(14)^ (1998:68)

(15)^ abc(1998:70)

(16)^ ab(1968:492)

(17)^ 2627

(18)^ 調198156

(19)^ 

関連項目[編集]

戊辰戦争