長岡山の戦い
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長岡山の戦い | |
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戦争:秋田戦争 | |
年月日:明治元年9月18日(1868年11月2日) | |
場所:出羽国(現在の山形県寒河江市長岡山) | |
結果:新政府軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
新政府軍 (奥羽鎮撫総督府) |
奥羽越列藩同盟 |
指導者・指揮官 | |
西郷隆盛(総督)
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立見鑑三郎 中村七郎右衛門 |
戦力 | |
2,500名 | 300名 |
損害 | |
戦死者10名 | 戦死者19名 負傷者19名(4名が後に死亡) |
長岡山の戦い︵ながおかやまのたたかい︶は、戊辰戦争のひとつ秋田戦争︵秋田庄内戊辰戦争︶で、庄内藩と桑名藩の連合に対し薩摩藩を主力とする新政府軍が長岡山︵山形県寒河江市︶にて衝突した戦いである。
9月19日に庄内藩はすべての前線を引き払って、本国への撤収命令を出していた。それに伴い寒河江の隊も撤退の準備を進めていたが、新潟を転戦してきた桑名・庄内軍に新政府軍が追いついたことにより起こった戦闘である。
臥竜橋
9月18日朝、米沢藩主・上杉茂憲が率いる米沢兵を先鋒として、西郷隆盛率いる新政府軍︵参謀黒田清隆︶が鶴岡城攻略のために出発した。9月20日払暁、寒河江に到達した。その日は、濃霧が町を覆って視界不良の状態であった。桑名兵と庄内兵は、朝食の最中に新政府軍に急襲された。
土地勘がある庄内兵は、すぐに西北の長岡山に引き上げた。桑名兵は立見鑑三郎の指揮で沼川沿いに陣を敷いたが、圧倒的な新政府軍の攻撃に損害が増加し、霧の中で唯一見える長岡山に兵を引きあげた。そして庄内隊と桑名隊が合流し、守備戦線を築く。霧が晴れると再び新政府軍の猛攻が始まり、防衛戦を展開するが、午後になると新政府軍に包囲された。庄内兵・桑名兵は包囲網を突破して、さらに北西の白岩︵寒河江市白岩︶方面に脱出した。
ここで、左沢にいた桑名藩の神風隊が援軍に到着して、寒河江川に架かる臥龍橋を挟んで、2時間ほど銃撃戦を展開した。しかし退路を断たれることを恐れて、銅山越の山道を通り、夜間行軍で肘折温泉︵最上郡大蔵村肘折︶に引き上げ、庄内藩の領内に逃れた。
慈恩寺本堂
20日夜、西郷と黒田は白岩に宿泊して、翌21日に慈恩寺を通って、谷地に出て宿泊し、22日谷地を出て西部街道を経て、新庄方面に向かった。西郷、黒田たちと分かれた米沢藩を主力とした別隊は、海味︵西川町海味︶に参謀局︵本部︶を置き、23日米沢藩・薩摩藩の隊が志津︵西川町志津︶に進軍して庄内軍と対峙したが、戦闘はなかった。米沢藩が庄内藩に和睦を勧める使者を出した。
23日、庄内藩の使者が米沢藩の先導で海味に来て、参謀局に降伏謝罪の嘆願書謄本を提出した。25日に古口︵最上郡戸沢村古口︶の鎮撫軍の本営で参謀黒田清隆に面会し、降伏を申し出た。西郷隆盛・黒田清隆ら鎮撫軍は鶴岡城に入る。
一方、鎮撫軍の先鋒を命じられていた米沢藩主・上杉茂憲は、23日に後衛を志津に残して本隊を引き上げた。
陽春院
戦後、桑名藩士の戦死体は野ざらしにされたが、戦場の近くの住職が陽春院︵寒河江市︶で荼毘に付した。陽春院の一角には桑名藩士20名が合祀された墓碑がある。