出井伸之
表示
いでい のぶゆき 出井 伸之 | |
---|---|
『麻生内閣メールマガジン』 寄稿に際して公表された肖像写真 | |
生誕 |
1937年11月22日 日本・東京府東京市世田谷区成城[1] |
死没 |
2022年6月2日(84歳没) 日本・東京都 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 早稲田大学政治経済学部卒業 |
職業 | 実業家 |
親 | 出井盛之(父) |
署名 | |
出井 伸之︵いでい のぶゆき、1937年︿昭和12年﹀11月22日 - 2022年︿令和4年﹀6月2日︶は、日本の実業家、企業経営者。
ソニー株式会社社長、同社最高経営責任者などを歴任したのち、クオンタムリープ株式会社を創業、代表取締役会長を務めた。
﹃小泉内閣メールマガジン﹄寄稿に際して公表された肖像写真︵200 2年︶
1995年6月、前任社長の大賀典雄に抜擢され第6代ソニー代表取締役社長に就任。いわゆる﹁ヒラ﹂の取締役から14人抜きでの社長抜擢・就任となった[7][8][9]。折しも創業50周年を翌年に控え、ソニー始まって以来の新卒サラリーマン社長として、ソニーの原動力であるチームスピリットを鼓舞すべく、キャッチコピーの﹁It's a Sony﹂を棄て、﹁Re Generation﹂︵第二創業︶﹁Digital Dream Kids﹂というスローガンを打ち出した。
当時のソニーは企業買収を進めた結果、有利子負債が大きく、経営の技術的なプロとしての側面をもつ出井社長の提案により、ソニーはキャッシュフローバランスを重視するきっかけとなった。デジタル・ドリーム・キッズの先頭に立つ出井は、1980年代前半に8ビットコンピューター事業を手掛けた経験をもとに、パーソナルコンピューター事業への再参入を宣言。インテルのグローブ社長︵当時︶やマイクロソフトのビル・ゲイツ会長︵当時︶との連合を先導し、1996年にVAIO1号機をアメリカ合衆国で発表し、ソニーがAV企業からAV/IT企業に大きく発展する舵を切った。
また出井は、社長就任前からインターネットの可能性に注目しており、それをAV/IT機器とつなげる重要性を説き、1995年11月にはソニーコミュニケーションネットワーク株式会社︵現・ソネットエンタテインメント株式会社︶を設立。1997年度のビジネスウィーク誌が選ぶ﹁世界のトップビジネスマン﹂に選定された。その後2001年10月にスウェーデンの通信機器会社であるエリクソンとの合弁会社である、ソニーエリクソンモバイルコミュニケーションズ株式会社︵現・ソニーモバイルコミュニケーションズ株式会社︶を設立し、ネットワーク時代のソニーグループの礎を築いた。
さらに在任中、ソニーに執行役員制度を導入したり社外取締役の起用などを積極的に行い、コーポレート・ガバナンスの改革・強化に努め、日本的経営からの更なる脱却に努めた[9]。
2000年代には、早稲田大学の同窓生である小渕首相及びその遺志を継いだ森首相︵いずれも当時︶の要請により、2000年7月にはIT戦略会議議長に就任し、ブロードバンドのインフラストラクチャー普及を提唱し、日本のブロードバンドインターネット接続環境整備が、世界に先駆けて強力に推進されるきっかけを作った。
ソニーの経営戦略を、﹁ものづくり﹂から﹁コンテンツ重視﹂へと転換を図り、ネットワークを介したハードウェア︵AV/IT機器︶とコンテンツ︵音楽、映画、ゲーム等︶の融合を唱道し、上述のようなハードウェアの多角化のみならず、コンテンツ事業の拡充も推進︵2003年8月にBMGを買収してソニーBMGミュージックエンタテインメント(株)を設立、2005年4月にはMGMを買収︶。
2008年6月11日、伊藤穣一により撮影された出井の写真
2003年︵平成15年︶4月のソニーショックを受け、ウォークマンがApple ComputerのiPod・iTunesに負け、出井らが示した経営再建計画の達成が困難を増す中、ソニーの現職社員・OB、国内外の経済メディア、ソニー製品愛好者など、各方面から激しい退陣要求が噴出した。
2004年︵平成16年︶にはロボット事業から撤退する。インターネット事業に偏重し、2004年︵平成16年︶には、2017年に復活させることになる﹁AIBO﹂や﹁QRIO﹂などロボット事業からの撤退を命令していた[10]。また、2003年に﹁モノづくり﹂復活を掲げて発表された高価格帯路線の新ブランド﹁QUALIA﹂も業績の改善には結びつかず、逆にダブルブランドは経営や消費者に混乱を招くこととなった[11]。こうした経営方針は評価されず、2004年1月12日発売の米ビジネスウィーク誌で﹁世界最悪の経営者﹂に選定された[12]。
OB役員や社外取締役らが結束する形で勇退を勧告された[9]出井は、ソニーのビジネスモデルを理解し、経営できる後継人材の選定を急ぐ。その結果、英国人であり、1997年︵平成9年︶からSony Corporation of Americaの経営陣として、コンテンツ事業を中心にソニーグループの経営に貢献してきたハワード・ストリンガーが代表取締役会長に選ばれ、2005年︵平成17年︶6月、ソニーグループの業績悪化の責任を取る形で、安藤國威社長とともに辞任。皮肉にも、自身が導入したコーポレート・ガバナンスがこれで機能した形となった[9]。出井時代に大きく後退した、主力のエレクトロニクス事業を再建するには﹃遅きに失した退陣﹄と評価された[13]。
2012年︵平成24年︶6月にソニーアドバイザリーボード議長を退任し、ソニー株式会社から完全に退陣した。
概要[編集]
ソニーの社長を経て会長兼最高経営責任者に就任した。公職としては内閣に設置されたIT戦略会議にて議長を務め、日本銀行参与や日本経済団体連合会副会長としても活動した。また、ゼネラルモーターズ、ネスレ、エレクトロラックス等の社外取締役を歴任。2014年8月現在、アクセンチュア、百度、フリービット、レノボグループの社外取締役を務めている。会長兼最高経営責任者退任後は、ソニーの最高顧問・アドバイザリーボード議長も務めたのち、退任した。 その後は産業の活性化や新産業・新ビジネス創出を目指して、2008年、クオンタムリープ株式会社を設立し、自らその代表取締役に就任した。2009年には大和証券エスエムビーシーとともに投資ファンド﹁大和クオンタム・キャピタル﹂を起ち上げた[2]。また、特定目的会社﹁クオンタム・エンターテイメント﹂を設立し社長に就任、吉本興業に対する株式公開買い付けを実施し成立させた[3][4]。なお、2002年に早稲田大学から名誉博士︵法学︶の称号を贈られている。2022年6月2日に死去。経歴[編集]
ソニー入社[編集]
父は経済学博士で早稲田大学教授を務めた出井盛之︵いでい せいし、1892年︵明治25年︶7月28日 - 1975年︵昭和50年︶11月1日︶[5]。 東京府東京市︵現在の東京都︶世田谷区成城で生まれ育った[1]。成城小学校、成城学園中学校、早稲田大学高等学院を経て[1]、早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業後、1960年︵昭和35年︶にソニー入社[6]。外国部を経てジュネーブ国際・開発研究大学院へ留学し修士課程を修了する。ジュネーブ、パリ駐在を経験。10年近くにわたる欧州駐在から帰国後、非技術系ながら、オーディオ、コンピューター、VTRなどの事業部長を歴任。さらに90年代は広告・宣伝本部長としてソニーブランドのイメージアップに貢献した。ソニー取締役社長[編集]
退陣[編集]
退陣後[編集]
2006年に自ら設立したクオンタムリープ株式会社の代表取締役として、ソニー時代から培ってきた国内外の人的ネットワークを活用しながら、国内外の上場企業の社外役員やアドバイザーとして、公式・非公式に次世代ビジネスや若手リーダーの育成に努めていた。 2022年6月2日、肝不全のため東京都内の病院で死去[14][15]。84歳没。人物[編集]
10年間ソニーのトップに君臨したが、経営者としての才覚は﹁栄光の前半﹂と﹁失墜の後半﹂で明暗が分かれる、というのが一般的な評価である[16][17]。 趣味はゴルフ、読書、映画鑑賞[18]。心に残る本は、清水博著の﹃生命を捉えなおす-生きている状態とは何か﹄だという[18]。 成城学園中学時代には音楽部に属し、小澤征爾らとカルテットを組んでいた[19]。小澤はピアノ、出井はヴァイオリン担当であった[19]。以来、片や国際的電機メーカーのトップ、片や世界的指揮者となり、2人は仕事とプライベートの両面で生涯の友人となった[19]。 出井自身が生まれる前から長野県軽井沢町に出井家の別荘があり、幼少期から足繁く軽井沢に通っていたことから、この地を”第二の故郷””心の故郷”だと話していた[20]︵死去後2022年10月25日に行われたお別れの会では、軽井沢の風景をイメージした祭壇が設けられた[21]︶。また軽井沢以外に魅力を感じる場所として、京都を挙げていた[20]。 社長時代に当時の会長の大賀典雄とVAIOの販売方法で意見が割れ、出井はデスクトップ型︵アメリカ主導︶、大賀はノート型︵日本主導︶を推し対立していた[22]。結果としてノート型がヒットし、アメリカでの開発は撤退。略歴[編集]
●1937年11月 - 早稲田大学教授の出井盛之の次男として東京で生まれる。栃木県葛生町︵現佐野市︶出身。 ●1960年3月 - 早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。 ●1960年4月 - ソニー株式会社に入社。 ●1979年2月 - 音響事業本部オーディオ事業部長に就任。 ●1988年4月 - ホームビデオ事業本部長に就任。 ●1989年6月 - 取締役に就任。 ●1990年7月 - 広告宣伝本部長に就任。 ●1994年4月 - クリエイティブ・コミュニケーション部門長に就任。 ●1994年6月 - 常務取締役に就任。 ●1995年4月 - 代表取締役社長に就任。 ●1998年2月 - フランスよりレジオンドヌール勲章オフィシエを贈られる[23]。 ●1999年6月 - CEO︵最高経営責任者︶に就任。 ●2000年6月 - 代表取締役会長 兼CEOに就任。 ●2003年4月 - 代表取締役会長 兼グループCEOに就任。 ●2003年6月 - 取締役代表執行役会長 兼グループCEOに就任。 ●2005年6月 - 会長兼CEOを退任、最高顧問・アドバイザリーボード議長に就任。 ●2006年4月 - 株式会社クオンタムリープ設立、代表取締役に就任。 ●2007年6月 - 中国の検索エンジン最大手百度の社外取締役に就任。 ●2007年6月 - ソニー最高顧問を退任。アドバイザリーボード議長には留まった。 ●2008年4月 - 政権政党自民党の本部での党友組織自由国民会議の講演会で講師。 ●2010年6月 - 吉本興業株式会社の取締役に就任。 ●2010年11月 - アレックス株式会社のファウンダーの一人として創立を支援。 ●2011年9月 - レノボ 社外取締役に就任。[24] ●2012年6月 - ソニーアドバイザリーボード議長を退任。 ●2012年6月 - 特定非営利活動法人アジア・イノベーターズ・イニシアティブを設立。理事長に就任。 ●2015年9月 - 百度の社外取締役を退任。 ●2022年6月 - 東京都内の病院で死去。役職[編集]
●クオンタムリープ︵株︶ 代表取締役ファウンダー&CEO ●NPO法人アジア・イノベーターズ・イニシアティブ 理事長 ●アクセンチュア グローバルボード兼アドバイザリー名誉ボード ●Baidu, Inc. 社外取締役 ●フリービット株式会社 社外取締役 ●早稲田大学 評議員議長 ●清華大学 経済管理学院顧問委員[25] ●美しい森林づくり全国推進会議 代表 ●一般社団法人 日本取締役協会 理事 ●レノボグループ 社外取締役 ●IMCG株式会社 取締役会長 ●株式会社ドラゴンアイ 取締役 ●東京メトロポリタンテレビジョン︵TOKYO MX︶常務取締役 ●株式会社ディー・エヌ・エー︵DeNA︶アドバイザリーボード ●WillVii株式会社 顧問 ●マネックスグループ株式会社 社外取締役 ●モビルス株式会社 アドバイザー ●株式会社ストライプインターナショナル 社外取締役 ●株式会社アペルザ 顧問著書[編集]
●﹃日本大転換 -あなたから変わるこれからの10年﹄︵幻冬舎新書 (2009/9) ︶ ●﹃日本進化論 -二〇二〇年に向けて﹄︵幻冬舎新書 (2007/7) ︶ ●﹃迷いと決断 -ソニーと格闘した10年の記録﹄︵新潮新書 (2006/12) ︶ ●﹃非連続の時代﹄︵新潮文庫 (2003/8) ︶ ●﹃ONとOFF﹄︵新潮文庫 (2003/8) ︶ ●﹃混迷の時代に -ネットワーク社会の遠心力・求心力﹄︵ワック (2000/11) ︶脚注[編集]
(一)^ abc“﹁HISTORY of SQUARE 21﹂ - 出井 伸之氏 - ﹃組織の三要素、それは﹁ビジョン﹂﹁パワー﹂﹁ハーモニー﹂ ﹄ VOL.200より”. 2020年11月19日閲覧。
(二)^ 福井エドワード﹁出井伸之氏率いるクオンタムリープが大和証券系と挑む金融危機後の投資モデル﹂﹃出井伸之氏率いるクオンタムリープが 大和証券系と挑む金融危機後の投資モデル|福井エドワードのINSIDEグリーン革命|ダイヤモンド・オンライン﹄ダイヤモンド社、2009年6月3日。
(三)^ クオンタム・エンターテイメント﹃吉本興業株式会社の株式に対する公開買付けの結果に関するお知らせ﹄2009年10月30日、2頁。
(四)^ 植田憲尚﹁吉本興業‥TOBが成立――クオンタム社、88.52%取得﹂﹃吉本興業‥TOBが成立 クオンタム社、88.52%取得 - 毎日jp(毎日新聞)﹄毎日新聞社、2009年10月30日。
(五)^ ﹃人事興信録﹄︵人事興信所︶※第28版、第29版 より
(六)^ “ソニー元会長・出井伸之さんが死去 84歳、肝不全 現在のソニーの基盤築く”. 日刊スポーツ (2022年6月7日). 2022年6月7日閲覧。
(七)^ このままじゃあ終われない - NHK名作選︵動画・静止画︶ NHKアーカイブス
(八)^ ﹁このままじゃあ終われない﹁出井伸之と“やめソニー”たちの逆襲﹂ NHK BS1で2013年1月25日に放送︵本サイトはNHKネットクラブ上に掲載された番組紹介︶。
(九)^ abcd“14人抜き出井氏、ソニー黄金の10年 見誤った経営、皮肉な退陣劇”. 朝日新聞デジタル (2022年6月7日). 2022年6月7日閲覧。
(十)^ ソニー、ロボット撤退の舞台裏
(11)^ ﹃さよなら!僕らのソニー﹄立石泰則・著,文春新書,2011,ISBN 4166608320
(12)^ “The Best & Worst Managers Of The Year”. BusinessWeek Online. (2004年1月12日) 2011年2月16日閲覧。
(13)^ 出井退場、遅すぎたバトンタッチ
(14)^ ﹃訃報 元会長 兼 グループCEO 出井伸之﹄︵HTML︶︵プレスリリース︶ソニーグループ、2022年6月7日。2022年6月7日閲覧。
(15)^ “出井伸之氏死去、84歳 元ソニー社長、経営を多角化”. 時事ドットコム. 時事通信社. (2022年6月7日) 2022年6月7日閲覧。
(16)^ “<追悼>先見性ある﹁カリスマ﹂出井伸之氏でも見通せなかったアップルの台頭”. JB Press (2022年6月9日). 2022年6月7日閲覧。
(17)^ “ソニー元社長の出井伸之氏は本当に﹁世界最悪の経営者﹂だったのか”. JB Press (2022年6月9日). 2022年6月9日閲覧。
(18)^ ab“クオンタムリープ株式会社 代表取締役会長 ファウンダー 出井伸之”. LEADERS’ AWARD. 2022年6月9日閲覧。
(19)^ abc“︻話の肖像画︼出井伸之︵3︶中学時代、小澤征爾さんと奏でた音楽”. 産経新聞 (2021年10月3日). 2022年11月12日閲覧。
(20)^ ab“﹁オン﹂を充実させるオフとアウェイの過ごし方 出井伸之”. Forbes Japan (2018年1月18日). 2022年6月9日閲覧。
(21)^ “ソニー元社長の出井氏お別れの会、約2000人がしのぶ”. 日本経済新聞 (2022年10月25日). 2022年11月4日閲覧。
(22)^ Miyazawa, Kazumasa; 宮沢和正. (2018). Kakushite denshi manē kakumei wa sonī kara rakuten ni hikitsugareta : rakuten edi tanjō hiwa to kutō no rekishi SINCE 2001. Tōkyō: Infukyurionkādōēbuhenshūbu. ISBN 978-4-908090-06-6. OCLC 1048879858
(23)^ お知らせ ソニー 1998年2月23日
(24)^ ジム・カウルター氏に替わり、世界で最も急成長している大手PC企業の社外取締役に就任。レノボのニュースリリースを参照。
(25)^ “清华大学经济管理学院-顾问委员会名单”. 清華大学経済管理学院. 2017年11月24日閲覧。
外部リンク[編集]
- 第19回『私の哲学』出井伸之氏
- 出井伸之 略歴 - ウェイバックマシン(2002年11月8日アーカイブ分)
- クオンタムリープ株式会社
- 早稲田大学名誉博士学位贈呈者一覧
- 名誉・表彰-名誉博士号贈呈者 出井伸之 経歴
- 「対極を愉しむ 出井伸之」WEB GOETHE
- 「ソニー超える21世紀型ブランドに期待」インタビュー2007(1)出井伸之氏 ビジネス-最新ニュース:IT-PLUS
ビジネス | ||
---|---|---|
先代 大賀典雄 |
ソニー会長 2000年 - 2005年 |
次代 ハワード・ストリンガー |
先代 大賀典雄 |
ソニー最高経営責任者 1999年 - 2005年 |
次代 ハワード・ストリンガー |
先代 大賀典雄 |
ソニー社長 1995年 - 2000年 |
次代 安藤国威 |