日本 (新聞)
(日本新聞社から転送)
日本 | |
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種類 | 日刊紙 |
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事業者 | 日本新聞社 |
本社 |
(東京府東京市日本橋区蛎殻町→) 東京府東京市神田区雉子町32番地 (現・東京都千代田区神田司町2-6) |
創刊 | 1889年(明治22年)2月11日 |
廃刊 | 1914年(大正3年)12月31日 |
前身 |
商業電報 (1886年-1888年4月) 東京電報 (1888年4月9日-1889年2月9日) |
言語 | 日本語 |
﹃日本﹄︵にっぽん︶は、1889年︵明治22年︶2月11日から、1914年︵大正3年︶12月31日まであった日刊新聞。その後、1925年︵大正14年︶に小川平吉の手により﹃日本新聞﹄として再創刊、1935年まで10年にわたり、日本主義を主張する新聞として出版された。
歴史[編集]
陸羯南の初代紙[編集]
1888年︵明治21年︶創刊の日刊紙﹃東京電報﹄の後身として、日本新聞社から発行された。 創立の連判状には、杉浦重剛を筆頭に、伊藤新六郎、巌谷立太郎、河上謹一、国府寺新作、小村寿太郎、千頭清臣、高橋健三、高橋茂、谷口直貞、手島精一、中谷源六、西村貞、長谷川芳之助、平賀義美、福富孝季、宮崎道正、谷田部梅吉の18人が名を連ね、9ヶ月かけて六千円を分担して、フランスの輪転機を輸入した。しかし、発行部数が伸びず、その稼働率は低かった[1]。 社屋は初め蛎殻町、のち雉子町32番地︵現・東京都千代田区神田司町二丁目[注 1]︶に移った。そこは二階建て洋館で、二階には政教社の雑誌﹃日本人﹄の編集室もあった。
社長兼主筆としては陸羯南が就任し、編集長は先ず古島一雄、そして浅水南八・五百木瓢亭・古島と代わった。初代編集部には、末永純一郎︵鉄巌︶・国友重章・福本日南・九島惇徳・国分青厓・桜田文吾︵大我︶・山田烈盛・三浦徳三郎・佐藤宏[要曖昧さ回避]が就任し、続けて三宅雪嶺・池辺三山が入社した。資金は第3代貴族院議長公爵近衛篤麿、十五銀行︵現・三井住友銀行︶頭取侯爵浅野長勲、学習院第2代院長子爵谷干城、子爵鳥尾小弥太らが援助していた。
陸は過度な欧化主義を嫌い国権の伸張を唱える国民主義者で、同紙は﹃新聞停止法﹄により頻繁に咎められ、1888年︵明治21年︶から 1897年までに22回、延べ131日間の発行停止処分を受け、さらに、1903年にも要人への諷刺で発売禁止にされた[2]。論調は反官僚、反藩閥、国粋保存、対外硬、中国大陸発展で、日清戦争では開戦を主張した。
「国体#日清戦争後の国体論」および「日清戦争#両国の戦争指導と軍事戦略」も参照
条約改正問題発生後には、従業員及び関係者が一気に増えた。一覧は関係人物の項で列記するが、子規こと正岡常規を筆頭に短詩に秀でたメンバーが入社、近代日本における短詩文学の隆盛を築いた。ほか、社員として営業部所属で今外三郎、沢村則辰、遠山英一、宮崎道正の各人、また赤石定蔵、井上秋剣︵川柳選者︶、梶井盛、本田種竹︵漢詩選者︶、古壮毅︵電報翻訳係︶、三浦勝太郎︵経済面︶などの名が残っている。
文学欄[編集]
国家主義、国粋主義的な論調とともに、特徴的な文学も同紙の売りの一つだった。 国分が漢詩の時評﹃評林﹄を連載し、1892年︵明治25年︶入社の正岡常規は最初は短歌、後に俳句も手掛け、同僚の碧梧桐こと河東、虚子こと高浜清らが投句していた。1898年︵明治31年︶には正岡が﹃歌よみに与ふる書﹄を連載、根岸短歌会を経て短歌のアララギ系や俳句のホトトギス派が隆盛となる基礎を作った。正岡が肺結核に倒れて出勤できなくなった後は、陸の次女と結婚した鈴木虎雄が短歌、碧梧桐が俳句の選者を務めた。この影響で、小説は初期には全く扱われなかった。「アララギ#アララギ派・アララギ系」および「河東碧梧桐#経歴」も参照
1908年(明治41年)、高浜が競合紙の『國民新聞』に移籍し、ここでも同様の文学欄を設けるに至るなど、競合他紙にも大きな影響を与えた。
詳細は「國民新聞#国民文学欄」を参照
伊藤欽亮の時代[編集]
1906年︵明治39年︶、陸が病んで、時事新報から日本銀行への職歴を持つ伊藤欽亮に社を譲った。この人事で13人が退社し、12人が政教社へ移った。伊藤が社長に就任すると、新聞﹃日本﹄は性格を変え、立憲政友会からの支援を受けた保守系新聞となる。一方、分離した政教社の雑誌﹃日本人﹄を主宰する立場になった三宅は、﹃日本人﹄誌が﹃日本﹄紙の伝統も受け継ぐとして、﹃日本及日本人﹄と改題。﹃日本新聞社﹄が﹃日本﹄紙を発行し、政教社が﹃日本及日本人﹄誌を刊行する形になった。
1914年︵大正3年︶末、東京・神田雉子町の日本新聞社社屋が火事で焼失。事業継続が不可能になって初代﹃日本﹄紙は廃刊した。発行部数は、発足時に8500、日清戦争当時が最高で約20000。経営は苦しかった。なおこの頃には政教社の事務所は独立しており、﹃日本及日本人﹄誌は発行を続けた︵後述︶。
大正後期以降から休刊まで[編集]
日本新聞 | |
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種類 | 日刊紙 |
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事業者 | 日本新聞社 |
本社 | 東京府東京市麹町区有楽町2-4[注 2] |
創刊 | 1925年(大正14年)2月11日 |
廃刊 | 1935年(昭和10年)7月13日 |
言語 | 日本語 |
その後は、司法大臣として治安維持法の制定にも深くかかわった、小川平吉らが後援して﹁日本新聞﹂の名前を残しながら日本主義を主張する新聞は続いた。小川の後援は再創刊ともいえるもので、いずれも後に内閣総理大臣になる近衛文麿、東条英機、平沼騏一郎などが賛同者に名を連ねていた。
1927年︵昭和2年︶、小川が鉄道大臣に就任するため言論の表舞台から退く。後任として慶應義塾大学教授若宮卯之助が編集顧問兼主筆に就任すると、原理日本社と持ちつ持たれつの関係となり、超国家主義を主張するようになった。そして、超国家主義に反する自由主義的な思想や政治家を紙面で攻撃していた。天皇機関説を攻撃した蓑田胸喜の主張も同紙上で展開された。右派過激派や、右派運動に隠然たる影響を持ち、2019年︵令和元年︶8月12日放送のNHK G﹃NHKスペシャル かくて“自由”は死せり ある戦争と新聞への道﹄によると、本紙で社説を担当していた中谷武世は、第27代内閣総理大臣濱口雄幸を狙撃した佐郷屋留雄から、事前に浜口狙撃のテロの相談を受けていたと肉声で語っている。
詳細は「原理日本社#三井甲之らの参加とその後」および「濱口雄幸#濱口首相遭難事件」を参照
「小川平吉#鉄道大臣」および「蓑田胸喜#右翼の理論家」も参照
同紙は1935年︵昭和10年︶7月13日限りで日刊での発行を取りやめ、週刊紙﹃日本﹄に移行した[3][4]。した。小川は休刊の辞で﹃本紙の10年は、﹁日本転向の十年﹂として、国民の思想を変えさせたことに手ごたえを感じた﹄と振り返っている。
「国粋主義#日本における国粋主義」および「国体#昭和戦前期の国体論」も参照
﹃日本及日本人﹄の版元となった政教社も、1923年︵大正12年︶の関東大震災で社屋を焼失するが、3ヶ月停刊しただけで1924年︵大正13年︶1月には再開。1944年︵昭和19年︶12月に大東亜戦争︵太平洋戦争・第二次世界大戦︶の戦局悪化を理由に停刊するまで、50年以上続いた。だが1945年︵昭和20年︶5月25日、山手大空襲で3度目となる社屋焼失の憂き目に遭い、再び事業継続不可能となる。しかし同紙は戦後に復活を果たし、2004年︵平成16年︶に終刊するまで100年以上に渡り、通巻1650号を発行した。
「東京大空襲#その後の空襲」および「日本及日本人#戦後の復刊」も参照
なお、平沼騏一郎の養子となった平沼赳夫は後に衆議院当選12回を重ねる大物国会議員となり、2010年(平成22年)、自民党から一時離党して保守強硬を掲げる新党『たちあがれ日本』を結党した。
詳細は「たちあがれ日本#党史」および「平沼赳夫#たちあがれ日本」を参照
関係人物[編集]
「Category:日本新聞社の人物」も参照