毛利房顕
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毛利 房顕︵もうり ふさあき、寛政6年︵1794年︶ - 天保13年11月5日︵1842年12月6日︶︶は、長州藩一門家老である右田毛利家の10代当主。
父は毛利就任。母は側室中村氏。兄は毛利房良、毛利房直。正室は益田親愛︵問田益田氏︶の娘。子に毛利元寿︵もとひさ︶、村上惟庸︵むらかみ これつね︶。養子に毛利元亮。通称は政之助、内匠。
生涯[編集]
寛政6年︵1794年︶、右田毛利就任の三男として生まれる。藩士児玉親忠︵こだま ちかただ、児玉氏︶の養子となっていたが、文化2年︵1805年︶9月に実家を相続していた兄房良が急死したため、その末期養子として実家に戻り右田毛利家当主となる。兄たち同様、当時の藩主である毛利斉房より偏諱を受けて房顕と名乗る。その後は当職︵国家老・執政︶として藩主毛利斉熙︵斉房の弟︶、斉元に仕えた。文政2年︵1819年︶、宇佐八幡宮の拝殿を再建する。文政10年︵1827年︶、当職を辞職する。 天保5年︵1834年︶、家臣が房顕と嫡男元寿の2派に分かれて対立し、家政の乱れを理由に加判役︵家老︶を免じられる。天保6年︵1835年︶、不仲であった嫡男の元寿を病弱を理由に廃嫡する。のち、房顕の正室の姉︵または妹︶を母とする毛利元亮︵元敬とも、吉敷毛利房謙の次男︶を養子として家督を譲り、隠居する。天保13年︵1842年︶11月5日没。享年49。 元敬︵元亮︶の跡は、房顕の実子で能島村上氏に養子入りしていた村上惟庸︵亀之助、兼助︶の子、毛利親信が継ぐこととなる。また、廃嫡された実子の元寿は明治4年︵1871年︶に分家し、明治15年︵1882年︶に68歳で没した。参考文献[編集]
- 『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月、[要ページ番号]頁。 NCID BN01905560。