毛利就直
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毛利 就直︵もうり なりなお、寛永13年︵1636年︶ - 宝永6年12月15日︵1710年1月17日︶︶は、長州藩一門家老である吉敷毛利家の4代。
父は一門右田毛利家の毛利元法。兄に毛利就信。養父は毛利元包。正室は元包の娘。継室は春日仲義の姉。継々室は北尾重三の娘。子は毛利広規、毛利就包︵はじめ村上武真︶、毛利広政、毛利広包、村上元敬室。幼名は萬吉。通称は外記、市正、主殿。
生涯[編集]
寛永13年︵1636年︶、一門家老・毛利元法の次男として生まれる。後に吉敷毛利元包の養子となり、寛文11年︵1671年︶に父の隠居により家督を相続する。藩主毛利綱広、吉就、吉広、吉元に仕え、当職︵国家老・執政︶を務めた。延宝8年︵1680年︶、徳佐八幡宮社殿を再建する。貞享3年︵1686年︶、責任者となって藩内の貞享検地を行う。貞享4年︵1687年︶より周防国平田の干潟の開作︵干拓事業︶を行い、元禄15年︵1702年︶に1057石の加増を受けた。 宝永6年︵1709年︶12月15日卒。享年74。 長男の毛利民部広規︵同名の阿川毛利氏・毛利宇右衛門広規とは別人︶は、元禄3年︵1690年︶に34歳で死去した。次男の毛利就包︵村上武真︶が、養子先の村上家から帰家して嫡男となるも、元禄8年︵1695年︶に33歳で死去した。最終的に家督は五男・毛利広包が相続した。四男の毛利広政は実家の右田毛利家を相続した。参考文献[編集]
- 石川卓美『防長歴史用語辞典』[要文献特定詳細情報]