毛利親頼
表示
毛利 親頼︵もうり ちかより、安永4年︵1775年︶ - 天保6年10月14日︵1835年12月3日︶︶は、長州藩一門家老である大野毛利家の7代。
父は毛利就言。母は世良五左衛門の娘。正室は益田就祥の娘。継室は権大納言綾小路俊資の娘。継々室は毛利親著の娘。子は毛利熈頼。幼名は安次郎、熊太郎。通称は伊賀。
生涯[編集]
安永4年︵1775年︶、長州藩一門家老毛利就言の長男として生まれる。安永5年︵1777年︶、就言の死去により家督を相続する。寛政4年︵1792年︶に萩中火防役、同年2月に御留守居︵家老︶、寛政11年︵1799年︶に江戸守居家老、享和2年︵1802年︶に江戸当役となる。親頼に偏諱︵﹁親﹂の字︶を与えた毛利治親から続けて斉房、斉熙、斉元、斉広の5代の藩主に家老として仕えた。文化11年︵1814年︶、家臣や子弟の教育のために郷校弘道館を設立する。文化12年︵1815年︶、藩主斉広と将軍徳川家斉の娘和姫の婚礼の総奉行を務めた。天保6年︵1835年︶10月14日没。享年61。参考文献[編集]
- 「吉見・浦・両村上略系譜」(東京大学史料編纂所)
- 「吉見系図」(東京大学史料編纂所)