永作芳也
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永作芳也 元五段(退会) | |
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名前 | 永作芳也 |
生年月日 | 1955年9月27日(68歳) |
プロ入り年月日 | 1979年10月3日(24歳) |
引退年月日 | 1988年3月31日(32歳、自己都合による退会[1]) |
棋士番号 | 139 |
出身地 | 茨城県行方郡麻生町 |
師匠 | 加藤恵三八段 |
段位 | 元五段(退会) |
永作 芳也︵ながさく よしなり、1955年9月27日[2]- ︶は、元・将棋棋士[注釈 1]。棋士時代は加藤恵三八段門下であり、棋士番号は139であった[4][注釈 2]。茨城県行方郡麻生町︵現・行方市︶出身[2][5]。
経歴[編集]
●将棋は小学校2,3年で覚えたが、プロを志したのは高校2年生になってからだった[4]。奨励会入会は18歳で6級と非常に遅いスタートであった[4][注釈 3]。1年余りで5級に昇級すると、その後2年で初段︵入品︶。初段・二段を半年あまりで通過して1977年11月に三段となる。三段では2年あまり指し、1979年10月3日に良い所取り13勝3敗で四段昇段を決めた[6]。 ●努力家で、いつも棋譜並べをしていたことから、奨励会の先輩からは半ば揶揄気味に﹁盤を耕す田吾作﹂と評されていた[4][7]。 ●四段昇段後の翌年の若獅子戦では、準決勝進出も大島映二に敗れる。順位戦C級2組では、1982年の41期に開幕から2連敗スタートながら8連勝し、10戦全勝の脇謙二と塚田泰明に次ぐ成績を上げるも、順位差で同星の児玉孝一に頭ハネを食らう。1位で開幕を迎えた42期は6勝4敗に終わり、1988年の引退まで順位戦C級2組の昇級に絡むことはなかった[8]。 ●1982年5月18日、オールスター勝ち抜き戦で谷川浩司と対局し、追い詰めるものの敗れる[9]︵谷川は6連勝で優勝︶。同年には師匠の加藤恵三八段が死去している[8][9]。 ●1986年5月9日、棋聖戦1次予選3回戦で森下卓に勝利し、勝数規定により五段昇段[10][9]。 ●1987年度NHK杯テレビ将棋トーナメントで本戦出場を果たし、1回戦で羽生善治と対戦。熱戦の末敗れる[4][9]。 ●1988年3月31日付で日本将棋連盟を退会し[1]、棋士の身分を放棄した[4][注釈 4]。なお、棋士番号制度が制定されて以来、日本将棋連盟を退会し、欠番となっていたのは長らく永作ただ一人であったが、2022年11月に橋本崇載が史上2人目の退会・欠番者となった。最終対局は小阪昇との順位戦C級2組の最終局で、これに勝利し3勝7敗で終えたが、順位差で降級点がつかず、降級点なしでの引退であった。当時は﹁名人になるため棋士となったが、自分の実力では名人になれないと悟ったので棋士を辞めた﹂と伝えられたが[15]、実際は理由はほかにもあり、将棋界以外にも興味があった旨を2017年の取材で答えている[5][9]。退会後、将棋界とは完全に連絡を絶ったため、奨励会同期でプロ入り後も親しくしていた小野修一が2008年に早逝していたことも2017年の取材で初めて知ったほどであった。 ●2017年現在は潮来市に住み、保険代理業を営んでいる[4]。2017年7月に、行方市内の公共施設で子供向けの将棋教室を開講した[16]。棋士を辞してから30年間、将棋と離れていたが、藤井聡太の活躍に触発されるところがあったためという[5][9]。2018年11月の時点では、行方市内の他に神栖市内などを加え、茨城県内の4か所で将棋教室を開いている[17]。 ●2018年11月1・2日に第31期竜王戦第3局が、永作の居住地からほど近い鹿島神宮で行われた際、2日目に関係者控室を訪れた[17]。対局前日︵10月31日︶の前夜祭にも顔を出し、旧知の仲である羽生︵竜王︶や中村修︵対局立会人︶らと久々に顔を合わせた[17]。昇段履歴[編集]
●1973年6級 = 奨励会入会[6]。 ●1979年10月3日 四段︵三段で13勝3敗︶ = プロ入り[6]。 ●1986年5月9日 五段︵勝数規定 = 通算100勝︶[18] ●1988年3月31日 引退・退会主な成績[編集]
在籍クラス[編集]
竜王戦と順位戦のクラスについては「将棋棋士の在籍クラス」を参照
開始 年度 |
順位戦 | 竜王戦 | ||||||||||||||||
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期 | 名人 | A級 | B級 | C級 | 期 | 竜王 | 1組 | 2組 | 3組 | 4組 | 5組 | 6組 | 決勝 T |
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1組 | 2組 | 1組 | 2組 | |||||||||||||||
1980 | 39 | C224 | ||||||||||||||||
1981 | 40 | C210 | ||||||||||||||||
1982 | 41 | C208 | ||||||||||||||||
1983 | 42 | C201 | ||||||||||||||||
1984 | 43 | C214 | ||||||||||||||||
1985 | 44 | C224 | ||||||||||||||||
1986 | 45 | C235 | ||||||||||||||||
1987 | 46 | C225 | 1 | 5組 | -- | |||||||||||||
順位戦、竜王戦の 枠表記 は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。 順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 ) 順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。 竜王戦の 太字 はランキング戦優勝、竜王戦の 組(添字) は棋士以外の枠での出場。 |
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 将棋の棋士・女流棋士は、現役を引退しても、通常は公式戦出場資格を失う以外は身分に変化がなく、依然として棋士・女流棋士である[3]。しかし、現役引退と同時、またはその後に日本将棋連盟などの所属団体を退会した場合に、棋士・女流棋士の身分を放棄することとなる。
(二)^ 永作の日本将棋連盟からの退会により、棋士番号139は欠番となっている[5]。
(三)^ 2017年現在、6級入会は15歳が年齢制限であり、18歳は3級以上でなければ受験できない。
(四)^ 2022年現在、棋士が日本将棋連盟を退会したのは、棋士番号の制定︵1977年︶以降では永作と橋本崇載のみ。この2名以外には間宮純一[11]、斎藤銀次郎[12]、長谷川清二郎[13]、市川伸[14]が退会しているが、この4名の退会時期はいずれも棋士番号制定以前である。女流棋士では、林葉直子、石橋幸緒、竹俣紅など現役引退にともなって所属団体を退会した例がある。
出典[編集]
(一)^ ab武者野勝巳﹁プロ棋界最前線﹂﹃近代将棋﹄第39巻第6号、近代将棋社、1988年6月、35頁。︵オンライン版当該ページ、国会図書館デジタルコレクション︶
(二)^ ab﹃現代日本人名録﹄1987年、中︵け-な︶ p1611
(三)^ 片上大輔 (2017年7月10日). “棋士に関するQ&A”. daichanの小部屋. 2022年1月24日閲覧。
(四)^ abcdefg松本博文 (2017年8月3日). “30年前に姿を消した﹃伝説の棋士﹄永作芳也の消息が明らかに。﹁相手を突き落としても...﹂勝負哲学を語る”. ハフポスト. 2019年1月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年8月3日閲覧。
(五)^ abcd“元プロ棋士、夢託す 藤井四段活躍に触発”. 茨城新聞. (2017年7月21日). オリジナルの2017年7月21日時点におけるアーカイブ。 2017年7月21日閲覧。
(六)^ abc近代将棋 1980年1月号 永作芳也記事より
(七)^ 盤を耕す - 日本将棋連盟飛騨支部
(八)^ ab近代将棋 1983年2月号 永作芳也記事より
(九)^ abcdef松本博文 (2017年8月3日). “藤井四段を目指す子供たちを育てたい...指導者として蘇った﹁伝説の棋士﹂永作芳也の棋士人生をたどる”. ハフポスト. 2019年1月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月21日閲覧。
(十)^ 週刊文春 1987年4月23日号 永作芳也記事より
(11)^ ﹁間宮純一六段が退会﹂﹃将棋世界﹄第23巻第8号、日本将棋連盟、1959年8月、124頁。︵オンライン版、国立国会図書館デジタルコレクション、館内限定公開︶﹁連盟会員六段間宮純一氏は六月一日付で退会されました﹂とある。
(12)^ 日本将棋連盟﹁お知らせ﹂﹃近代将棋﹄第17巻第10号、近代将棋社、1966年10月、35頁。︵オンライン版、国立国会図書館デジタルコレクション、デジタル化資料送信サービス限定公開︶﹁斉藤銀次郎八段は一身上の都合により八月二十日付をもって当連盟を退会しました﹂とある。
(13)^ “棋士系統図”. 日本将棋連盟. 2019年8月16日閲覧。︵図中で名前に▲印のある棋士が退会者。︶
(14)^ ﹁43年の引退棋士﹂﹃将棋年鑑 昭和43年版﹄日本将棋連盟、1968年、293頁。﹁五段 市川 伸……42年一身上の都合により退会﹂とある。
(15)^ 週刊将棋 1988年4月23日
(16)^ “こども将棋教室”. 行方市地域ポータル﹁なめがた日和﹂. 2017年7月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年7月21日閲覧。
(17)^ abc“永作芳也さん来訪”. 竜王戦中継ブログ︵日本将棋連盟︶. (2018年11月2日). オリジナルの2019年1月2日時点におけるアーカイブ。 2019年1月2日閲覧。
(18)^ 将棋世界 1986年7月号