若槻幾斎
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人物情報 | |
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別名 | 義敬・敬[1](名)、子寅(字)、元三郎[2]・源三郎[3][4]・玄三郎[5](通称)、畏庵・寛堂・尊朱堂[6]・楮園[1](号) |
生誕 |
森誠 延享3年12月(1747年1月頃) 摂津国大坂または紀伊国田辺 |
死没 |
文政9年11月26日(1826年12月24日) 山城国愛宕郡聖護院村(京都府京都市左京区) |
配偶者 | 平氏 |
両親 | 森義敏、芝山持豊娘 |
子供 | 若槻整斎 |
学問 | |
時代 | 江戸時代後期 |
活動地域 | 大坂、京都 |
学派 | 崎門学派 |
研究分野 | 儒学 |
研究機関 | 尊朱学舎 |
指導教員 | 西依成斎、芝山持豊 |
主な指導学生 | 摩島松南、井上学圃 |
主要な作品 | 『承応遺事』『畏庵随筆』『四書集註翼』 |
影響を受けた人物 | 陸隴其 |
影響を与えた人物 | 尾藤二洲、頼春水、高山彦九郎、蒲生君平 |
若槻 幾斎︵わかつき きさい[8]︶は江戸時代後期の儒学者、歌人。崎門学派。京都聖護院村に尊朱学舎を構え、尾藤二洲・頼春水・高山彦九郎等と交流した。
生涯[ソースを編集]
大坂[ソースを編集]
延享3年12月︵1747年1月頃︶大坂に生まれたが、紀伊国田辺出身ともされる[9]。大坂時代には森誠と称した[10]。幼くして読書を好み、父の下で四書の注釈書等を学んだ[9]。父と死別後、良師を探したが見つからず[11]、独学して崎門学に私淑した[7]。有賀長因に和歌を学んだ[12]。 安永年間江戸に出て、田沼意次に仕官を求めたが、意次失脚により頓挫した[4]。京都[ソースを編集]
天明5年︵1785年︶京都に移り[4]、聖護院村字中御門に家を構えた[10]。上京後は清和源氏若槻氏を称し、近所の堺町通望楠軒で西依成斎に崎門学を学んだ[13]。 天明8年︵1788年︶1月天明の大火により聖護院が光格天皇行宮となり、自宅も行在所御用局として接収され、白川村に退いた[4]。自宅は禁裏付建部広般役宅となった後、局方・大輔・新輔・宰相局・勾当内侍・勧修寺頭弁等に利用され、遷幸時は京都所司代太田資愛が入居していた[4]。2年後遷幸により聖護院村に戻り、聖護院宮から白銀10枚を賜った[4]。 角倉家属吏だったが、後に退職して儒学を教えた[14]。寛政3年︵1791年︶3月15日高山彦九郎に従って芝山持豊に面会し[15]、以降和歌会や﹃源氏物語﹄講釈に参加し、経書講義や門人和歌の添削を行った[16]。同年春、自宅を﹁朱子の学を尊ぶ﹂の意で尊朱学舎と号し、伏原宣条に扁額を賜り、自身は幾斎と号した[17]。 文化・文政期には[17]青蓮院宮・近衛家・鷹司家・九条家・西洞院家・中山家・六条家・風早家・西大路家・富小路家・桜井家等へ出講し[18]、内藤正範にも﹃中庸﹄﹃論語﹄を講義している[19]。文化9年︵1812年︶4月2日京都西町奉行三橋成方から学業勉励により銀15枚を賜った[20]。文化14年︵1817年︶9月仁孝天皇が即位した際、12月詔に応じて[14]代始能に開口謡を献上し[21]、金200疋を賜った[22]。 上京当初は経済的余裕があったが、晩年は困窮し、学舎の壁・畳・板張り等がボロボロになっていた[23]。文政9年︵1826年︶11月26日81歳で死去した[6]。鳥辺山旧延年寺墓地に﹁若槻寛堂先生之墓﹂があったが、近年撤去された[22]。著書[ソースを編集]
●﹃入学初則﹄ - 天明元年︵1781年︶4月序、10月刊。程朱学・崎門学を勧め、陸王学・古学・古文辞学を非難する。初学書として三礼の注疏を勧める[7]。 ●﹃ 承応遺事﹄ - 後光明天皇の事跡。奥八兵衛による火葬停止の記事等を収める[24]。﹃史籍集覧﹄第5冊収録。 ●﹃正保遺事﹄ - 寛政8年︵1796年︶萩原員衡・鈴木潤斎・幾斎跋。﹃承応遺事﹄の再編[24]。 ●﹃畏庵随筆﹄ - 文化4年︵1807年︶1月自序。仮名随筆[25]。﹃日本随筆大成﹄第1期旧版第7巻・新装版第14巻収録。 ●歳時章[25] ●教学章 - 四書は﹃大学﹄﹃論語﹄﹃孟子﹄﹃中庸﹄、五経は﹃詩経﹄﹃書経﹄﹃易経﹄﹃春秋﹄﹃礼記﹄の順に句読を行うこと、﹃近思録﹄を熟読してから周敦頤・程頤・張載・朱熹の著書に進むことなどを説く[26]。 ●摂養章 – ﹃素問﹄﹃難経﹄﹃傷寒論﹄﹃脈経﹄﹃鍼灸甲乙経﹄等について解説する[2]。 ●国籍章 – 六国史のみを正統として他書を排し、神武天皇から清和天皇までの歴史を概観する[2]。 ●古紀章 – 宝暦末年大坂の書店で見かけた﹃日本書紀﹄異本を活版本・下御霊社版と比較する。仲哀天皇の諡号は本来﹁㐰衷﹂︵しんちゅう︶だったとし、大友皇子即位説を主張する[27]。 ●風詠章[25] ●﹃音韺﹄ - 文化11年︵1814年︶立春序、文化14年︵1817年︶3月刊。﹃礼部韻略﹄107韻に基づく韻図47図を収める[28]。 ●﹃四書集註翼﹄ - 文政2年︵1819年︶6月18日成稿[29]、11月自序[30]。 朱熹﹃四書章句集註﹄の注釈[31]。国立国会図書館が﹃大学﹄﹃中庸﹄版本、無窮会平沼文庫が﹁孟子翼﹂﹁論語翼﹂稿本の一部を所蔵する[29]。陸隴其﹃因勉録﹄から多く引用する[32]。 ●﹃大学章句小解﹄ - 文政3年︵1820年︶自引。﹃四書集註翼﹄の解説書。無窮会平沼文庫所蔵[33]。 ●﹃示肄﹄ - 儒学の要語集。﹃若槻幾斎関係資料﹄13。虫損により閲読不能[34]。 ●﹃読書余録﹄ - 漢文随筆[14]。 ●﹃読書録抄﹄ - 漢文随筆[31]。 ●﹃千首和歌﹄[35]和歌・漢詩[ソースを編集]
それ久堅の 天照す おほん神より 伝へます 天津日嗣は 弥増に 栄まし〳〵 天地と ともに尽くせす 光そふ 聖の道も 明らけく いく万歳 動きなき やまともろ人 なす業も 安く楽しく 所得て 愛たかりける 御代とかや — ﹃若槻幾斎関係資料﹄21﹁禁裏御所御代始御能御用開口作文﹂[22] おほけなく道をとなへてふる鈴のなるもならずも天のまに〳〵 — 寛政3年︵1791年︶7月18日[36]九州に下る高山彦九郎に贈った送別歌[37]。 邪説 世を惑はすと雖も 聖道 尚猶存して 昭々 日月に比し 浩々 乾坤に準ず 因りて充ちて一心豁けば 乃ち万理の元を闡き 能く礼義の実を履めば 自ら徳性の尊きを見る 来らんと欲す 鳳凰の和 当に鴟鴞の喧しきを避くべし — ﹃与楽園叢書﹄﹁若槻父子詩抄﹂の内﹁述志詩﹂[38]絵画[ソースを編集]
●幽霊図 – 絹本墨画淡彩、1幅、95.6cmx32.3cm、福岡市博物館所蔵旧吉川観方コレクション[39]。交友[ソースを編集]
●尾藤二洲 – 明和7年︵1770年︶来坂後に知り合った[10]。精里・春水が大坂を離れた後は唯一の交友となった[7]。 ●古賀精里 – 安永4年︵1775年︶来坂後、二洲を通じて知り合った[10]。天明の大火の時、精里門人2名が幾斎宅に仮寓していた[40]。 ●頼春水 – 二洲を通じて知り合った[10]。天明元年︵1781年︶広島藩に登用された後も交流は続いた[41]。 ●頼杏坪 – 春水の弟。幾斎が杏坪の和歌を添削している[42]。 ●頼梅颸 - 春水の妻。上京した際には幾斎宅を訪れた[42]。 ●頼山陽 – 春水の子。上京した際には幾斎宅を訪れ、文政7年︵1824年︶6月6日売家の件について幾斎に相談している[42]。 ●西依墨山 – 師成斎の姪。天明8年︵1788年︶2月成斎を小浜に連れ帰ることに失敗し、幾斎に世話を頼んでいる[43]。 ●高山彦九郎 – 尊号一件において宣下実現に尽力し、幾斎も協力した[40]。寛政期に盛んに交流し、寛政3年︵1791年︶5月24日幾斎から2両を借りている[44]。 ●柴野栗山 – 尊号一件において彦九郎が栗山を敵視し、幾斎が間に入った[40]。 ●西山拙斎 - 上京の度に幾斎宅を訪れた[14]。 ●橘南渓 – 寛政3年︵1791年︶2月幾斎・拙斎等が伏見に旅行した途中、南渓宅に立ち寄っている[45]。 ●広瀬蒙斎 – 寛政8年︵1796年︶6月22日幾斎宅を訪問している[7]。 ●菅茶山 – 上京の度に幾斎宅を訪れた[14]。 ●佐々木長秀 – 聖護院諸大夫[46]。 ●中島道閑[37] ●小沢蘆庵 – 道閑の紹介で知り合った。寛政11年︵1799年︶春、幾斎に﹃布留の中道﹄草稿の添削を依頼している[37]。 ●蒲生君平 – 蘆庵を通じて知り合った[47]。幾斎を﹁同志﹂と認定している[48]。 ●唐崎士愛 - 幾斎宅で彦九郎と知り合った[48]。 ●中村新斎 – 文化8年︵1825年︶刊﹃父子訓﹄に幾斎が序を寄せた[48]。 ●大熊言足 – 文政6年︵1823年︶4月22日幾斎宅を訪問している[9]。 ●鈴木遺音 – 成斎の門人鈴木潤斎の子。晩年交流した[17]。 ●川島栗斎 – 成斎の門人。晩年交流した[17]。 ●足利栖竜[49] ●松崎慊堂[49] ●藤貞幹[49] ●赤松滄洲[49] ●六如[49] ●蠣崎波響[49]弟子[ソースを編集]
●若槻整斎[50] ●摩島松南 – 文化年間の日記に登場する[49]。 ●井上学圃 - 福岡藩士。文化5年︵1808年︶上京して幾斎に学んだ[49]。 ●月形鷦窠 – 福岡藩士。成斎にも学んだ[49]。 ●竹田復斎 – 福岡藩士。寛政年間上京して幾斎に学んだ[49]。 ●竹田梧亭 – 福岡藩士。復斎の弟。﹃四書集註翼﹄刊行を援助した[51]。 ●井上静軒 – 出石藩士。茶山の紹介で入門した[40]。 ●山本亡羊 – 文政頃から日記に登場する[51]。 ●中林竹洞 – 画家。幾斎に経義を学んだ[51]。親族[ソースを編集]
若槻頼隆19世孫を称する[9]。12代式部大輔義里は永禄元年︵1558年︶室町幕府を致仕、元亀元年︵1570年︶死去し、以降官仕が途絶えたという[1]。
●父‥森義敏[1] - 名は俊[要出典]、字は子睿[9]。宝暦9年︵1759年︶7月没[9]。
●母 – 芝山持豊娘[1]。
●妻 – 平氏[9]。明和3年︵1766年︶結婚[9]。
●養子‥若槻整斎 – 名は皜・邦貞、字は子光・見良、通称は菊太郎・延蔵[52]。明和7年︵1770年︶1月生[9]、天保7年︵1836年︶5月13日没[50]。﹃与楽園叢書﹄巻之25﹁若槻父子詩抄﹂に和歌・漢詩が収められる[12]。
●養孫‥若槻義信 - 初名は皞。寛政7年︵1795年︶8月生[14]。
●養曾孫‥若槻周斎 - 義信の甥[14]。建仁寺寺務所書記[14]。
幾斎の遺稿類は周斎を経て[53]建仁寺塔頭両足院に渡り[21]、京都府立総合資料館に﹃若槻幾斎関係資料﹄として所蔵される[54]。
脚注[ソースを編集]
(一)^ abcde松本 2013, p. 58.
(二)^ abc近藤 1943, p. 41.
(三)^ 阿部 2007, pp. 114–115.
(四)^ abcdef松本 2013, p. 62.
(五)^ 阿部 2007, p. 107.
(六)^ ab近藤 1943, p. 38.
(七)^ abcde松本 2013, p. 61.
(八)^ 広瀬蒙斎が﹁毅斎﹂と誤記している[7]。
(九)^ abcdefghi近藤 1940, p. 1.
(十)^ abcde松本 2013, p. 60.
(11)^ 松本 2013, p. 59.
(12)^ ab松本 2013, p. 73.
(13)^ 松本 2013, pp. 62–63.
(14)^ abcdefgh近藤 1940, p. 2.
(15)^ 阿部 2007, p. 114.
(16)^ 松本 2013, p. 74.
(17)^ abcd松本 2013, p. 64.
(18)^ 松本 2013, pp. 73–74.
(19)^ 松本 2013, pp. 64–65.
(20)^ 松本 2013, p. 65.
(21)^ ab湯本 1908, p. 60.
(22)^ abc松本 2013, p. 66.
(23)^ 松本 2013, p. 83.
(24)^ ab松本 2013, pp. 70–71.
(25)^ abc近藤 1943, p. 40.
(26)^ 近藤 1943, pp. 40–41.
(27)^ 松本 2013, pp. 71–72.
(28)^ “音韺”. 古典籍書誌データベース. 西尾市岩瀬文庫. 2018年12月8日閲覧。
(29)^ ab松本 2013, p. 68.
(30)^ 松本 2013, p. 67.
(31)^ ab近藤 1943, p. 39.
(32)^ 松本 2013, p. 82.
(33)^ 松本 2013, p. 69.
(34)^ 松本 2013, p. 70.
(35)^ 阿部 2007, p. 108.
(36)^ 阿部 2007, p. 116.
(37)^ abc松本 2013, p. 78.
(38)^ 松本 2013, p. 84.
(39)^ ﹃出品リスト 幽霊と妖怪の世界―福岡市博物館所蔵旧吉川観方コレクション―﹄八代市立博物館・未来の森ミュージアム、2004年。
(40)^ abcd松本 2013, p. 77.
(41)^ 松本 2013, pp. 74–75.
(42)^ abc松本 2013, p. 75.
(43)^ 松本 2013, p. 63.
(44)^ 阿部 2007, pp. 114–116.
(45)^ 松本 2013, p. 76.
(46)^ 阿部 2007, pp. 114–117.
(47)^ 阿部 2007, p. 117.
(48)^ abc松本 2013, p. 79.
(49)^ abcdefghij松本 2013, p. 80.
(50)^ ab岡 1940, p. 17オ.
(51)^ abc松本 2013, p. 81.
(52)^ 高山彦九郎記念館.
(53)^ 松本 2013, p. 85.
(54)^ “古文書解題 ﹁わ﹂から始まる文書”. 京都府の歴史 [総合資料館]. 京都府 (2007年11月30日). 2018年12月8日閲覧。