豊田佐吉
豊田 佐吉 | |
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豊田佐吉 | |
生誕 |
慶応3年2月14日(1867年3月19日) 日本 遠江国敷知郡山口村 (現在の静岡県湖西市) |
死没 |
1930年10月30日(63歳没) 名古屋市覚王山自邸 |
墓地 | 湖西市の妙立寺 (湖西市) |
職業 | 発明家・実業家 |
配偶者 |
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子供 |
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家族 |
経歴[編集]
幼少期[編集]
慶応3年2月14日︵1867年3月19日︶、遠江国敷知郡山口村︵現在の静岡県湖西市山口︶に生まれた[3]。父は豊田伊吉、母はゑいであり、佐吉は3男1女の長男だった[4]。山口村は三河吉田藩領であり、豊田家は伊吉が百姓のかたわら大工で生計を立てていた。 豊田家は裕福ではなかったが、とても貧しいということはなかった。幼い頃には坊瀬の妙源寺の寺子屋に通い、1875年︵明治8年︶には寺子屋から代わった川尻学校に入学した。佐吉は身体がやや弱かったが、在学中の1878年︵明治11年︶春、愛知県額田郡岡崎町の岩津天満宮に徒歩で参拝した[5]。まだ学校に行けない子供の方が多い時代だったが、佐吉の弟たちも小学校に通っている。豊田家では一人の子供も奉公に出ず、山口村ではやや生活に余裕のある家庭であった[6]。青年期[編集]
1878年︵明治11年︶12月には吉津村川尻小学校を卒業し、父のもとで大工の修業を始めた。だが18歳のころ、﹁教育も金もない自分は、発明で社会に役立とう﹂と決心し、手近な手機織機の改良を始めた[7]。1885年︵明治18年︶には二俣紡績︵遠州紡績会社︶への就職を希望したが、父の反対で断念した。1886年︵明治19年︶2月からは山口観音堂で青年らによる山口夜学会を主導した[8]。 ●1886年︵明治19年︶春 - 佐吉は朋輩の佐原五郎作と無断で東京方面へ出奔。 ●1887年︵明治20年︶春 - 徴兵検査を受けるが、抽選のがれで入隊できず。 ●1887年︵明治20年︶暮 - 豊橋中八丁の大工・岡田波平のもとで修行。 ●1889年︵明治22年︶正月 - 再度家を出る。神奈川県横須賀の佐原谷蔵宅に寄寓。 ●1889年︵明治22年︶春 - 愛知県知多郡岡田村へ織機の研究。 ●1890年︵明治23年︶4月 - 東京上野で開催の第3回内国勧業博覧会を見る。 ●1890年︵明治23年︶11月11日 - 豊田式木製人力織機を発明、特許申請。 ●1891年︵明治24年︶5月14日 - 豊田式木製人力織機の特許を得る。 ●1891年︵明治24年︶頃 - 織機研究のため盛んに尾張各地を訪れる。 ●1892年︵明治25年︶10月 - 東京浅草外千束に住む。 ●1892年︵明治25年︶ - 織機研究のため埼玉県北足立郡蕨町在住の高橋新五郎を訪ねる。 ●1893年︵明治26年︶3月26日 - 佐原豊作の三女たみと結婚︵初婚︶、東京で暮す。 ●1893年︵明治26年︶年末 - 東京を引き揚げ、妻たみと山口村へ帰る。 ●1894年︵明治27年︶正月 - 家出。豊橋曲尺手町の叔父・森重治郎宅へ。妻は取り残される。 ●1894年︵明治27年︶ - ﹁豊田代理店伊藤商店﹂で糸繰返機の販売︵名古屋市東区朝日町︶。 ●1894年︵明治27年︶6月11日 - 長男・喜一郎誕生︵母たみ︶。 ●1895年︵明治28年︶2月14日 - 糸繰返機の特許を取得。 ●1895年︵明治28年︶ - 豊田式木鉄混製力織機設計完成︵名古屋市東区宝町、豊田商店︶。 ●1895年︵明治28年︶ - 7代目石川藤八の援助により、愛知県知多郡乙川村︵現 半田市乙川高良町︶にて力織機の試験運転。 ●1896年︵明治29年︶11月15日 - 豊田式木鉄混製力織機の発明・完成。 ●1897年︵明治30年︶2月25日 - 豊田式木鉄混製力織機の特許出願。 ●1897年︵明治30年︶7月9日 - 同郷の林政吉の長女・浅子と郷里で結婚式を挙げる(再婚)。 ●1897年︵明治30年︶ - 名古屋市東区武平町の工場にて力織機を製作。 ●1897年︵明治30年︶秋 - 7代目石川藤八と豊田佐吉が共同で乙川綿布合資会社を設立。 ●1898年︵明治31年︶春 - 乙川綿布合資会社工場操業開始、初出荷。 ●1898年︵明治31年︶8月1日 - ﹁豊田式木鉄混製力織機﹂の特許を取得。 ●1899年︵明治32年︶4月13日 - 長女・愛子誕生。 ●1899年︵明治32年︶ - 大隈重信、井上馨ら明治の顕官が武平町工場を訪れる。 ●1899年︵明治32年︶12月 - 三井物産が井桁商会設立、佐吉は技師長。 ●1901年︵明治34年︶10月 - たて糸送り出し装置を発明。 ●1902年︵明治35年︶ - 井桁商会の技師長を辞任。 ●1902年︵明治35年︶ - 豊田商会を設立︵名古屋市東区武平町︶。 ●1904年︵明治37年︶11月 - 管換え式自動織機を発明。 ●1905年︵明治38年︶7月 - 島崎町工場設立。 ●1906年︵明治39年︶12月 - 豊田式織機株式会社︵現 豊和工業︶が設立される。佐吉は常務取締役。 ●1908年︵明治41年︶豊田織布工場設立︵菊井町︶。 ●1909年︵明治42年︶6月、自動杼換装置を発明。 ●1910年︵明治43年︶4月5日、豊田式織機株式会社の常務取締役を解任。 ●1910年︵明治43年︶5月8日、日本郵船の因幡丸で、西川秋次を伴い渡米する。 ●1910年︵明治43年︶10月1日、高峰譲吉博士にニューヨークで会う。 ●1911年︵明治44年︶1月1日、欧州を回った後、下関へ帰国。 ●1912年︵明治45年︶5月18日、藍綬褒章を受章。 ●1912年︵大正元年︶10月、豊田自働織布工場を設立︵現、名古屋市西区則武新町︶。 ●1913年︵大正2年︶11月、大正天皇御駐輩所名古屋離宮に御召出し︵陸軍特別大演習︶。 ●1914年︵大正3年︶1月、7代目石川藤八の葬儀に参列[9]。 ●1915年︵大正4年︶10月8日、児玉利三郎、長女愛子の婿養子となる。11月18日入籍。 ●1918年︵大正7年︶1月、豊田紡織株式会社に改組。 ●1918年︵大正7年︶10月、単身、上海に渡航。 ●1919年︵大正8年︶2月、西川秋次を伴い中国に渡航、上海に滞在。 ●1920年︵大正9年︶三井物産の支援で上海に建坪約1万坪の紡織工場完成。 ●1920年︵大正9年︶佐吉、上海に私邸︵旧ドイツ人住宅︶を購入。 ●1921年︵大正10年︶11月、豊田紡織廠に改組 ●1922年︵大正11年︶12月4日、長男喜一郎、︵飯田︶二十子と結婚。 ●1923年︵大正12年︶愛知県碧海郡刈谷町に豊田自動織機試験工場設置 ●1924年︵大正13年︶2月、2度目の藍綬褒章︵飾版︶を受章。 ●1925年︵大正14年︶8月10日、﹁無停止杼換式自動織機G型﹂を完成・特許取得[10]。 ●1925年︵大正14年︶10月、佐吉、帝国発明協会へ蓄電池の発明懸賞金100万円を寄附。 ●1926年︵大正15年︶11月、株式会社豊田自動織機製作所を設立。 ●1926年︵大正15年︶帝国発明協会から恩賜記念賞を受賞。 ●1927年︵昭和2年︶11月12日 勳三等瑞宝章を受章。 ●1927年︵昭和2年︶11月、陸軍特別大演習の折に、名古屋離宮で昭和天皇に単独拝謁。 ●1929年︵昭和4年︶12月、豊田・プラット協定︵自動織機の特許権譲渡契約締結10万ポンド︶[11]。 ●1930年︵昭和5年︶10月30日、覚王山の自邸にて死去、満63歳。死因は脳溢血からの急性肺炎。 ●1930年︵昭和5年︶11月4日、従五位に叙せられる。 ●1935年︵昭和10年︶10月30日、佐吉の六回忌の命日に、豊田綱領を発表。 ●1985年︵昭和60年︶4月18日、工業所有権制度100周年を記念し、﹁日本の偉大なる発明者10人﹂に選ばれ、政府から特別顕彰される。人物[編集]
放浪と発明[編集]
佐吉は生涯、発明という夢を追い続けた。そして、青年時代は放浪と出奔を繰り返した。19歳の時、佐吉は同じ大工見習いの佐原五郎作を誘い、家出をした。2人は徒歩で東京まで行った。しかし観光ではなく、佐吉は工場ばかりを見て回った[12]。23歳の時は上野で開催されていた第3回内国勧業博覧会を見るために上京した[13]。目的は外国製の機械と臥雲辰致の発明品を見たかったからである。この2回の家出をはじめ、青年期の佐吉は一ヶ所に長く留まることがなかった。彼はひたすら各地を回り続けた。 家を飛び出した若い佐吉が頼りにしたのが、豊橋の母方の叔父・森重治郎であった。その家には同年代の従弟・米治郎もいた。また、佐吉はふらっと尾張の企業地へ出掛けることもあった。木曽川町玉ノ井で1889年︵明治22年︶、佐吉が1年間ほど、艶嘉と田上の有力機屋に寄寓し、研究したことが町史に記載されている。また稲沢市愈々 ()織機の改良と云うことに目的を極めたが、然らば是を如何に改良するか、今日でこそ織機と云えば動力で動かすものと極まって居るが、明治の初年に於ては動力など云うことを考える人は、余程“はいから”の部類の人であった[15]。
特許[編集]
家族[編集]
佐吉の甥・豊田英二の﹃私の履歴書﹄によるとおやじの兄弟、つまり豊田佐吉、平吉、佐助は異常に仲が良かった。みんな酒好きだが、末っ子の佐助が一番強かった。うちのおやじも好きだが一番弱い。長男の佐吉は真ん中ぐらいだろう。おじいさんの伊吉は大工だった。大工は毎日仕事があるわけではないから、農業もやる。大工の仕事があると、それをやって現金収入を得ていたのであろう。佐吉も見よう見まねで大工仕事をやっていた。初めは伊吉が教えていたのだろうが、親はなかなか教えにくい。だから豊橋の大工の棟梁に弟子入りさせた。
息子喜一郎[編集]
佐吉と喜一郎の研究スタイルはかなり違っていた。佐吉は職人的な勘と努力で、喜一郎は科学的な分析から発明にたどり着こうとした。だが、この親子は発明という目的の前では、全く他のことは目に入らず、モノを作り出すことに最上の喜びを感じる人間であった。研究スタイルは違っていても、息子喜一郎は佐吉の遺伝子を色濃く受け継いだのである[20]。 喜一郎の小学生時代は全く目立たない子供であった。成績も良くなかった。佐吉はそのような息子を心配したり、将来を考えることもなく、妻の浅子に任せていた。実際、佐吉は息子が学校を下りたら、家の工場の仕事でもすれば良いと思っていた。喜一郎自身は父の佐吉をどのように思っていたかはわからないが、表面的には互いに無関心な親子のように見えたことは間違いないであろう[21]。 佐吉は数多くの織機を発明した。最後の最大の発明となったのが無停止杼換式自動織機である。通常G型織機と呼ばれているものである。この織機の最後の研究をし、完成させたのは喜一郎であった。また特許の申請も喜一郎が行った。それでは自動織機の発明者は喜一郎であるかというと、それは違う。佐吉が職人的な勘と努力で造り上げてきた自動織機の最後の問題点を、喜一郎が科学的な知識を使い完成させたのである。自動織機の発明者はやはり父の佐吉であろう。大きな研究はチームで行わなければ進まない。喜一郎は佐吉と違いチームで研究する知識と才能を持っていた。 佐吉が喜一郎に﹁俺は織機をやったから、お前は自動車をやれ﹂と言ったという話を聞くことがある。しかし、そのようなことを言ったという確かな資料はどこにも見当たらない。これは多額の資金とリスクを持つ自動車部門への進出において、社内を押さえるための喜一郎の智恵であろう[22]。2人の妻[編集]
[23]豊田佐吉は2度結婚をしている。1度目は佐原豊作の三女・たみ、2度目が林政吉の長女・浅子である。2人とも、佐吉の生家からわずかの距離にある集落に実家があった。 最初のたみとの結婚は、1893年︵明治26年︶3月であった。たみは佐吉と一緒に大工の修行をしていた佐原五郎作の妹でもあった。たみの実家の佐原家は、佐吉の家よりは裕福であったようである。たみの姉たちはそれぞれ、地元の有力な家へ嫁いでいた。佐吉とたみとの実質的な結婚生活は非常に短かった。一緒に住んだのは、東京でのわずか10ヶ月にも満たない期間であった。 たみは1894年︵明治27年︶6月11日に豊田家で、長男・喜一郎を産んだ。佐吉はその半年も前に出奔し、たみが出産した時は家には居なかった。佐吉はどこからかともなく戻って来たが、生まれた子供の名前をつけると、再びどこへともなく家を出て行った。たみは2ヵ月後の8月に、乳飲み子の喜一郎を置いて豊田家を去った。育児放棄をした悪い母親のように言われることもあるが、豊田家と佐原家双方の話し合いの結果であったと思われる。 その後、たみは地元の有力な家である土屋家の高吉と再婚した。高吉とは何年かの結婚生活を過ごした後に別れている。ちなみに土屋高吉の息子・高次郎は1945年︵昭和20年︶12月から1947年︵昭和22年︶3月まで、鷲津町長を務めている。たみは土屋高吉との離婚後は、横浜や神戸の外国人家庭の家政婦として働いた。晩年は湖西市へ戻ってきた[24]。 佐吉と浅子は1897年︵明治30年︶7月9日に、故郷で結婚式を挙げた[25]。だが、この結婚の経緯には不明な点が多い。どの資料にも、佐吉と林政吉の長女浅子が見合いをして結婚したと書かれている。しかし、浅子はこれ以前に名古屋市宝町の豊田商店ですでに働いていたし、すでに一緒に住み始めていた。豊田家、林家双方に、正式に見合いという手順を踏んだ後に祝言を挙げたいという思いがあったと推測される。 浅子は働き者で、また経理も得意であった。一方、佐吉は発明しか頭にない男であった。だが、浅子はそんな佐吉の足らない面を充分に補った。彼女は小さな工場の奥さんとして振舞うことも出来たし、大会社の社長夫人としても振舞うこともできた聡明な女性であった[26]。 浅子は佐吉没後、夫の偉大さを伝えることに心血を注いだ。現在、各所に残る佐吉の胸像やレリーフの多くが、浅子の手づくりである[27]。また、浅子は佐吉の事績をまとめた﹁豊田佐吉傳﹂を與良松三郎の協力を得て、社内の田中忠治に執筆させて出版をした。関係者[編集]
石川藤八[編集]
服部兼三郎[編集]
服部兼三郎は服部兼三郎商店︵現興和︶を創業し、佐吉の織機を大量購入し、また融資も行った。その後1920年の戦後恐慌の折に自殺した[36][37]。藤野亀之助[編集]
藤野亀之助は、佐吉の才能を高く評価し、融資などの支援を行った。また資金面を強化するため、事業の株式会社化を提案した。これを受け、谷口房蔵、田中市太郎、志方勢七、山辺丈夫、藤本清兵衛、岡谷惣助、伊藤伝七、斎藤恒らが発起人となり1906年に豊田式織機が設立された[38][39][40]。その後も支援を続け、1918年の豊田紡織設立時には、保有比率30%弱の大株主となった[41]。西川秋次[編集]
トヨタ︵豊田︶は大番頭というべき優秀な人物を多く輩出した。岡本藤次郎、石田退三、神谷正太郎そして奥田碩らである。だが、彼らより以前に佐吉を支え、佐吉の夢の実現に努力した大番頭と呼ぶにふさわしい人物がいた。それが西川秋次である。西川は1881年︵明治14年︶12月2日、愛知県渥美郡二川町三ツ家で西川重吉の二男として生まれた。浅子とは縁戚であった[42]。 秋次は師範学校卒業後2年間、奉公の教師生活を務めた。その後、佐吉の要望で蔵前にあった東京工業学校︵現 東京工業大学︶紡織科へ入学した。卒業後、佐吉に仕えた。だが、その直後から佐吉におとずれた大きなに試練に、秋次も一緒に巻き込まれた。佐吉は豊田式織機株式会社︵現 豊和工業︶の常務取締役を、事実上解任された。失意の中、佐吉はアメリカで永住する意思を持って渡米することになった。この渡米に唯一同行したのが秋次であった[43]。 佐吉はアメリカ滞在中、アメリカの織機より自分のつくった織機の方が優れていると確信した。また、ニューヨークで高峰譲吉博士に会い、アドバイスを貰うとより自信を深めた。彼は翻意し、帰国することにした。佐吉は帰路ヨーロッパを回り、8ヶ月程の外国滞在で下関へ船で帰ってきた。しかし、秋次はアメリカに残った。佐吉に特許や織機そして経済環境を調査するように言われ、2年5ヶ月にも及ぶアメリカ滞在となった。 秋次が帰国するや、佐吉と藤八で結婚話を決めた。相手は藤八の隣家、石川又四郎の娘・田津であった。秋次と田津の新婚生活は、佐吉の家族と同じ工場の中であった[44]。佐吉は田津を呼ぶ時、親しみを込めて﹁おたつさ﹂と呼んだ。その後、佐吉と秋次の活躍の舞台は上海へと移って行く。 秋次は国内での仕事が中心である佐吉に代わり、上海の豊田紡織廠での実質的な経営者として佐吉を支え続けた。1930年︵昭和5年︶に佐吉が亡くなった後は、佐吉の夢の実現を成功させようと、ひたすら頑張った。秋次は喜一郎が自動車製造に乗り出した時、﹁喜一郎さん、上海から出来る限りの支援をします﹂と言ったと伝えられている。彼は大大将・佐吉の夢、息子・喜一郎の夢を支え続けた[45]。佐吉と上海[編集]
1918年︵大正7年︶に佐吉は上海へ渡った。海外への進出は彼の長年の夢であった。すでに上海紡績、内外綿という大手の会社は上海で工場を操業させていた。しかし、社内からは強い反対があった。この年の1月に豊田紡織を株式会社に改組したばかりで、海外へ力を注ぐことを心配したのである。だが、佐吉は三井物産の支援もあり、進出を決断した。この時進出を渋る親族を説得する際に﹁障子を開けてみよ、外は広いぞ﹂と語った。翌1919年︵大正8年︶には秋次を伴い再び中国に渡航し、上海に滞在した。三井物産の古市勉の尽力もあり、上海での工場建設にこぎ着けた[46]。 1921年︵大正10年︶には豊田紡織廠として本格的に稼動を始めた。ようやく日本から進出した企業群、在華紡の一員となった。佐吉は中国での私邸として、ドイツ人の住宅を購入した。個人の家というより、城のような威容を誇る大邸宅であった。それは従業員を住まわせるという目的もあったが、立派な企業の社長であることを示す必要もあったからでもある。 しかし、順調な豊田紡織廠の操業に反し、上海では1924年︵大正13年︶に入ると反日運動や日貨排斥運動が激しくなった。一部、暴動にまで発展する工場も出てきた。ストライキを主導するグループと警察の間で衝突が起こり、死傷者も出た。在華紡最大の内外綿をはじめ、ほとんどの工場が休業に追い込まれた。唯一正常な操業を続けていた豊田紡織廠にも暴動が起こり、1名の死者と多数の負傷者を出した。この時、日本国内で軽い中風発作で静養していた佐吉は周囲の反対を押し切り、上海へ駆けつけた。 佐吉は1930年︵昭和5年︶に亡くなるが、中国での事業はその後も、利三郎、喜一郎の手により発展し、豊田紡織廠の第2工場、青島工場の建設をして増産を行った。また、国内で生産するようになった自動車の販売のために華中豊田自動車を設立した。海外への進出という佐吉の夢は、後継者によって着実に受け継がれた[47]。 佐吉は﹁日本人もまた中国人の心持ちの真相を理解することじゃ、その相互の理解が一致して提携となり、親善となり、唇歯輔車の関係が此処に出来上がるのじゃ﹂と述べたとされ、文化財に指定されている上海豊田紡織廠記念館は日中友好のシンボルとなってる[48]。思想[編集]
家族・親族[編集]
家族[編集]
●父 豊田伊吉 - 佐原佐平の次男、佐原姓を豊田姓に変えた。農業。腕の良い大工。 ●母 豊田ゑい - 白須賀宿出身、森次太郎の長女。 ●先妻 豊田たみ - 佐原豊作の三女。喜一郎を置いて豊田家を去る。後、土屋氏と結婚・離婚。 ●後妻 豊田浅子 - 林政吉の娘。本名あさ。愛子の母。佐吉没後、佐吉の胸像を制作。 ●長男 豊田喜一郎 - トヨタ自動車創業者、トヨタ自動車工業第2代社長。 ●長男妻 豊田親族[編集]
●弟 豊田平吉 - 初期の糸繰返機販売時から兄の佐吉を補佐、家族、従業員のまとめ役。 ●弟 豊田佐助 - 豊田発展において経営の才を生かす。旧豊田佐助邸は名古屋市主税町に現存。長男にアイシン精機︵現:アイシン︶社長などを務めた豊田稔[51]。 ●甥 豊田英二 - 喜一郎の下で活躍、工販合併に尽力。日本自動車工業会会長。 ●甥妻 豊田寿子 - 英二の妻。鈴木商店取締役の高橋半助の娘。 ●姪夫 伊奈輝三 - INAX中興の祖。元日本セラミックス協会会長[52]。閨閥[編集]
豊田家は皇室や有力政治家と結びつくような閨閥づくりはしてこなかった。佐吉は兄弟、子供たちの結婚はすべて妻の浅子にまかせていた[53]。そのため、初めの頃は佐吉と浅子の故郷の湖西地区から結婚相手が選ばれることが多かった。次第に会社が大きくなるにしたがい、企業同士の付き合いの中から決まることが多くなった。 佐吉の長女・愛子の夫の利三郎は、伊藤忠商事マニラ支店に勤めていたエリートサラリーマンであった。兄児玉一造と佐吉の個人的な親交から結婚話が決まった。当初、利三郎は乗り気でなかったが、愛子と見合いした際にその美貌に魅せられて成立したといわれる[54]。 佐吉の長男・喜一郎の妻は、京都髙島屋4代目飯田新七の三女・叙勲・栄誉[編集]
- 1912年(明治45年)5月18日 - 藍綬褒章受章[57]
- 1913年(大正2年)11月 - 陸軍特別大演習において大正天皇御駐輩所名古屋離宮に御召出し
- 1924年(大正13年)2月 - 藍綬褒章(飾版)受章
- 1926年(大正15年) - 帝国発明協会恩賜記念賞受賞
- 1927年(昭和2年)11月 - 陸軍特別大演習において昭和天皇に名古屋離宮にて単独拝謁
- 1927年(昭和2年)11月12日 - 勲三等瑞宝章受章
- 1930年(昭和5年)11月4日 - 従五位
系譜[編集]
- 豊田家
伊奈初之丞 |
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| 今井善衛 |
| 今井善一 |
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| 山下亀三郎 |
| 山下太郎 |
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| 節子 |
| 真理 |
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| 栄 |
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| 恒子 |
| 愉倫子 |
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| 北村七郎 |
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| 北村初雄 |
| 河本敏夫 |
| 河本三郎 |
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| 壽 |
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豊田伊吉 |
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| 児玉桂三 |
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| 豊田幸吉郎 |
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ゑい |
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| 児玉貞次郎 |
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| 児玉一造 |
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| 豊田大吉郎 |
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| 豊田利三郎 |
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| 豊田信吉郎 |
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| 浅子 |
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| 愛子 |
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| 豊田禎吉郎 |
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| 豊田佐吉 |
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| 清水満昭 |
| 紋子 |
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| 清水康雄 |
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| 豊田大輝 |
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| 絢子 |
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| 豊田達也 |
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| 豊田喜一郎 |
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| 豊田達郎 |
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| 由美子 |
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| 斉藤了英 |
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| たみ |
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| 斉藤滋与史 |
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| 二十子 |
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| 古川康中 |
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| 飯田新七 |
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| 和可子 |
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| 飯田新太郎 |
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| 啓子 |
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| 西田赫 |
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| 紀子 |
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| 百合子 |
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| 藤本進 |
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| 豊田章一郎 |
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| 三井高寛 |
| 三井高長 |
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| 厚子 |
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| 博子 |
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| 真由 |
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| 興子 |
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| 豊田章男 |
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| 三井高棟 |
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| 豊田大輔 |
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| 三井高公 |
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| 田淵守 |
| 裕子 |
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| 田淵実 |
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脚注[編集]
参考文献[編集]
外部リンク[編集]
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