畝状竪堀
(連続竪堀から転送)
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畝状竪堀︵うねじょうたてぼり︶とは、戦国時代に築かれた城の防御設備。1959年に田中寅吉が初めて報告した[1]。
様々な呼び名があり[注 1]、畝形竪堀[3]、連続空堀群、連続竪堀群、畝状空堀群、畝状竪堀群、多重防御遺構、畝状阻塞、畝状阻障、特異施設など、複数の呼び名がある。この記事では、便宜的に畝状竪堀を使用する。
九州北部の畝状竪堀の分布[要出典]
国人領主の秋月氏が畝状竪堀を積極的に建設したので、九州北部︵筑前国中東部・豊前国西部・筑後国北部︶は、畝状竪堀がある城が密集する[7]。なかでも長野城︵豊前国︶・馬ヶ岳城・益富城・荒平城・蔦ヶ岳城は、畝状竪堀の堀数が100本を超えている。
秋月氏の本拠地である古処山城・荒平城・益富城や、秋月氏の同盟勢力である一万田系高橋氏・豊前長野氏・星野氏・城井氏と敵対する勢力との境目地域には、畝状竪堀の堀数が多い城がある。
構造と目的[編集]
畝状竪堀の構造は、土塁と竪堀︵空堀︶が交互に隣り合っている。 空堀と空堀の間には土塁があり、土塁と土塁の間には空堀がある[4][5]。 畝状竪堀の目的は、少人数で城を守れるようにするため。 土塁と竪堀を連続的に組み合わせると、寄せ手の進入路を堀底道だけに制限して曲輪の周りをキルゾーンにする効果がある。[要出典] 畝状竪堀は、係争地域の境目の城で、敵の進撃路に面する側に築かれることが多い。[要出典]呼称[編集]
斜面上に築かれると連続竪堀と呼ばれ、尾根・台地上に築かれると、連続堀切・連続空堀と呼ばれる[4]。江戸時代以前には、次の名称があった[6]。 ●竪堀‥ 諸国古城之図の長谷山城︵兵庫県たつの市・相生市︶ ●タツホリ‥ 古戦古城之図の古処山城︵福岡県朝倉市︶ ●立堀‥ 古戦古城之図の長尾城︵福岡県朝倉市︶ 現在でも、次の呼称が残っている[6]。 ●てくのぼり‥ 岩屋城 - 美作国︵現・岡山県津山市︶ ●臼の目堀‥ 篠脇城 - 美濃国︵現・岐阜県郡上市︶ ●ささぎ薙‥ 一乗谷城 - 越前国︵現・福井県福井市︶分布[編集]
九州北部[編集]
他の地域[編集]
東国においては、日本海側、特に新潟県・山形県・秋田県・長野県などの地域で畝状竪堀をもつ城が多い[5]。一方、東海地方・関東地方・東北地方の太平洋側・北海道地方には少ない[4][5]。また、織豊系城郭・アイヌのチャシは、畝状竪堀を積極的に築いていない。 各旧国内の城の総数に対する、畝状竪堀がある城の比率は、次表のとおりである。国名 | 割合 | 出典 |
---|---|---|
越後国(現・新潟県) | 12.0% | [8][9] |
筑前国(現・福岡県北西部) | 11.8% | [注 2] |
大和国(現・奈良県) | 約10% | [11] |
備後国(現・広島県東部) | 9.3% | [12] |
安芸国(現・広島県西部) | 8.5% | [12] |
土佐国(現・高知県) | 7.1% | [注 3] |
出羽国(現・秋田県、山形県) | 3.5% | [要出典] |
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ 田中1959
(二)^ 髙田2017b、293頁
(三)^ “柏崎市名所案内﹁北条城跡(きたじょうじょうせき)﹂(市指定文化財)”. 柏崎市 (2020年1月31日). 2020年3月13日閲覧。
(四)^ abc三島2016、181頁
(五)^ abc三島2017、297頁
(六)^ ab髙田2017b、295頁
(七)^ 岡寺2017、290頁
(八)^ 水澤2016、73頁
(九)^ 水澤2017、260頁
(十)^ 岡寺2016、140頁
(11)^ 目黒2017、310頁
(12)^ ab秋本2016、112頁
(13)^ 吉成2017、278頁
(14)^ 吉成2016、124頁
(15)^ 吉成2017、284頁
(16)^ 吉成2016、126頁