饅頭
起源説等[編集]
マントウの起源については「饅頭 (中国)#起源説話」を参照
日本の饅頭の起源には2つの系統がある。ひとつは臨済宗の僧龍山徳見が1349年︵南朝‥正平4年、北朝‥貞和5年︶に帰朝した際、その俗弟子として随伴してきた林浄因が伝えたとするものである。当初林は禅宗のお茶と食べる菓子として饅頭を用いる事を考えたものの、従来の饅頭は肉を入れるため、代わりに小豆を入れた饅頭を考案されたと言われている。その後、奈良の漢國神社の近くに住居して塩瀬という店を立てたことから、漢國神社内の林神社と呼ばれる饅頭の神社で、菓祖神として祀られている[1]。
もうひとつの系統は、林が伝えたとされる年より100年ほど遡る1241年︵仁治2年︶に南宋に渡り学を修めた円爾が福岡の博多でその製法を伝えたと言われる。円爾は辻堂︵つじのどう=現・博多駅前一丁目︶に臨済宗・承天寺を創建し博多の西、荒津山一帯を托鉢に回っていた際、いつも親切にしてくれていた茶屋の主人に饅頭の作り方を伝授したと言われる。このときに茶屋の主人に書いて与えた﹁御饅頭所﹂という看板が、今では東京・赤坂の虎屋黒川にある。奈良に伝わった饅頭はふくらし粉[注 1]を使う﹁薬饅頭﹂で、博多の方は甘酒を使う﹁酒饅頭﹂とされる。
伝来当時は現在の饅頭につながる甘い饅頭と、主として野菜を餡とした菜饅頭の二種類が存在していた。後者は現在の肉まんに近い物と考えられているが、仏教の影響もあって、近在以前の日本ではもっぱら野菜が餡として用いられた。仏教寺院ではいわゆる点心の一種類とみなされ、軽食や夜食として用いられていた。しかし、米飯や麺類が主食として存在し、とくに麺類︵うどん、そば、素麺など︶が早くから軽食として存在した一般社会では、製法の煩雑さなどからほとんど定着せず、甘い饅頭や麺類のように菜饅頭を専門の業者が製造する事もなかった。ただ、寺院における食事の記録には記載されている事が多く、江戸時代に入っても﹃豆腐百珍﹄に﹁菜饅頭﹂として製法が記載されている事から、寺院等では軽食として長い間食べられていたようである。
いずれにしてもこれら中近世ごろまでに日本に定着した後、餡や皮の製法にさまざまな工夫が凝らされ種々の饅頭が作られるようになった。
またそれより後にも、江戸時代以降に南蛮菓子や中国菓子の製法として焼き菓子の製造技術が日本に伝播した。この技術が饅頭にも応用され、焼き饅頭と呼ばれる日本独特のジャンルが生まれた。日本風の焼いて作る饅頭は台湾でも﹁日式饅頭﹂、﹁日本饅頭﹂と称して製造されている。
近世以来、関東地方の家庭料理として練った小麦粉で豆や味噌や野菜の餡をくるんだものをお湯で茹でて作るゆで饅頭がある。ゆで饅頭の食感は饅頭というよりも団子に近く、その製法も現代の饅頭の定義からは外れるが、おやきの調理法を変化させることで本物の饅頭の代用として作られたものとも言われ[2]、ゆで饅頭が重曹の普及とともに炭酸饅頭や田舎饅頭といったふかし饅頭に発展したと考える研究もある[2]。
近代以後には大陸側との通行が活発化したことで、在日華人などを通じて当時の饅頭︵マントウ︶や包子︵パオズ︶の知見が再導入され、これらを基に厚めでふわっとした皮の中華まんが作られたとされる。現代のカレーまん、ピザまん、バナナまんなどは無論のこと餡まんも、近代以後の中国ではマントウは主に具無しのもので、包子にしても甘い豆餡はあまり一般的ではなく、基は日本の饅頭である。特殊な事例として愛媛県の労研饅頭があり、これもマントウを起源とするが︵同項参照︶、こちらは和菓子の分類に入れられる事が多い。
水饅頭
水饅頭
葛饅頭と似ているが、生地に適量のワラビ糊を混ぜて作る。岐阜県大垣市のものなどが知られるが、奈良県御所市でも初夏の祭りに合わせて販売される。
麩饅頭
小麦粉の皮の代わりに生麩で餡を包んだ生菓子。笹の葉で巻く事が多い。単に生麩とも。
味噌饅頭
小麦粉に味噌を練りこんで蒸したもの。餡の甘みと味噌の辛味がうまく合っている。静岡県浜松市の細江から引佐近辺では、黒糖を用いた小麦粉の皮で黒餡を包んだ茶饅頭の一種を、色が味噌に似ているため﹁みそまんじゅう﹂︵あるいは﹁みそまん﹂︶と呼ぶ。
その他
皮が非常に薄く餡が透けて見える破れ饅頭︵白く霞んだ視界に見立てて吹雪饅頭などとも︶、マシュマロ生地を用いた物︵福岡県の鶴乃子︶、ういろう生地の物︵大分県中津市のういろう饅頭など︶、湯で練った米粉生地を用いた物︵鹿児島県の伊集院饅頭、岩手県のぶちょうほう饅頭など︶、かるかん饅頭、落雁生地の物︵兵庫県赤穂市の塩味饅頭など︶、粟餅の生地の物︵福島県の粟饅頭︶、はったい粉生地の物︵天妃前饅頭︵ただし、はったい粉は餡に用いている︶、春華堂の﹁麦こがし﹂など︶などがある。
最中︵もなか︶
現在の最中は、江戸時代に煎餅の一種として存在していた最中を、皮として用いた﹁最中饅頭﹂が始まりとされる。
弔事で贈られる葬式饅頭︵春日饅頭、関東︶
●慶事‥紅白饅頭、酒饅頭など。福井県の嶺北地方では婚礼にまんじゅうまきが行われる[12]。北海道では中華まんじゅうを引き出物として活用する。
●弔事‥春日饅頭、青白饅頭︵関東︶、黄白饅頭、おぼろ饅頭︵近畿圏、中京圏︶、中華まんじゅう︵北海道︶など。葬式饅頭とも呼ばれる。
和菓子としての饅頭[編集]
生地の種類[編集]
茶饅頭 基本は小麦粉、黒砂糖、膨張剤を用いた生地に餡子を包んだ饅頭だが、各地にさまざまなバリエーションがある。利休饅頭︵大島饅頭︶、温泉饅頭、薄皮饅頭などとも呼ばれ、観光地︵特に温泉街︶でのおやつやお土産にも好んで用いられる。 薯蕷饅頭︵じょうよまんじゅう︶ すりおろした薯蕷︵漢語でナガイモをさす︶の粘りを利用して米粉︵薯蕷粉、上新粉︶を練り上げ、その生地で餡等を包んでしっとりと蒸し上げた饅頭。上用饅頭とも当て字され、十五世紀に日本に饅頭を伝えた林浄因からとられた名の訛りだとも伝わる[3]。茶席で使われる主菓子︵おもがし︶のひとつである。 ﹃守貞謾稿﹄に当時近年、京大阪で作られ始めたヤマノイモを皮に使った饅頭とある[4]。現代の商品もヤマノイモを使うと表示されるが、じっさい使われる薯蕷にはつくね芋︵京都地方︶、大和芋︵関東︶[5]、伊勢芋︵中部地方︶などの栽培種である。 林浄因の子孫が創業した﹁塩瀬饅頭﹂も現在﹁志ほせ﹂という薯蕷饅頭を売り物とするが[6]、江戸時代の塩瀬饅頭は、小麦粉に"ふくらし粉"を混ぜたものだとされている[7][注 1]。ただし塩瀬当家の家伝によれば、林浄因の孫の林紹絆が中国に渡来し薯蕷饅頭の製法を学んで持ち帰ったとしている[9]。織部饅頭は、大阪屋の十七代当主が考案したという薯蕷饅頭の一種[10]。紅白饅頭も薯蕷饅頭でこしらえるのが常とされる[要出典]。 酒饅頭 酒母︵酒種、麹に出芽酵母を繁殖させたもの︶を使って小麦粉の生地を発酵させ、中に餡を入れた饅頭。虎屋饅頭とも呼ばれる。﹁酒饅頭﹂は長野市、新潟県長岡市ではあんまんのようなものであり、富山県や福井県三国では形状は平たくなり焼き印を入れてあり、岐阜県大垣市のものは茶饅頭のようなものであるなど地域によって形状、味覚、製法が異なる。酒饅頭を氷水で浸したものを水饅頭と形容する場合もある (後述) 。あんパンのアイデアの基になった。 群馬県の焼きまんじゅうのように、菓子店ばかりでなく、軽食として一般家庭で作られる事もあった。 近年は、野菜の煮物や漬物などを餡として酒饅頭の生地で包んだ、かつての菜饅頭のような甘くないタイプの饅頭も登場している。 ソーダ饅頭 小麦粉に重曹︵炭酸水素ナトリウム︶を用いて膨らました饅頭。菓子店の製品では炭酸饅頭と呼ばれる事もある。酒饅頭に較べて製法や重曹の入手が簡易である事から、明治時代以降に主に家庭で作られる事が多かった。黒糖を用いた物は、茶饅頭やふくれ菓子に似た風味となる。 塩饅頭 焼饅頭 主にカステラ風の生地で餡を包んだ焼き菓子の一種。唐饅頭、もみじ饅頭、栗饅頭、千鳥饅頭︵福岡県︶、乳菓、中華饅頭、かすてら饅頭、カステラ饅頭などがこれにあたる。洋菓子や中華菓子︵月餅︶の影響を受けて明治時代以降に発達したとされる。カステラ生地の饅頭については、アンパンを考案した銀座の木村屋総本店の近所にあった毛利商店がアンパンの皮を変えて﹁ぱんじゅう﹂として売り出したのが最初と言われる[11]。オーブンで焼く物︵オーブン物︶、鉄板で焼く物︵平鍋物、平物︶などがある。さらにパイ皮やビスケット生地、スコーン生地を用いたより洋菓子に近い物︵宮崎県のチーズ饅頭など︶がある。また、長崎県の一口香や北海道のわかさいものように独特の製法の物もある。 栗饅頭 皮に卵黄を塗って焼き、栗の皮の色に似せたもの。中身は白あんだが甘味に栗の甘露煮で用いた蜜を使ったり、栗そのものを混ぜ込んだりしている。 葛饅頭 くず粉を用いて作った透明の生地で餡を包んだ夏季の生菓子。葛桜、水仙饅頭とも言う。そのまま器に盛って食べるのが一般的だが、冷水に浸して食べるものもある。行事で配るもの[編集]
具の種類[編集]
日本では特に甘い小豆餡が基本である。なお、元の中国語の餡とはとろみをつけたソースやそれを絡めた具材全般を指す。饅頭には、極端に汁の染み出しが多いようなものでなければ様々な種類の餡を中に詰め込んで作ることはできるが、もみじ饅頭など鉄板で焼くものについては手軽に中身を入れられることから特に種類が多い。種類[編集]
沖縄の饅頭[編集]
「のー饅頭」も参照
那覇等で販売。サンニン︵ゲットウ︶を使って香り付けする。本島では大小に関わらず、紅芋を使っていることが多い。一般的には和菓子の饅頭より大きい。
饅頭切手[編集]
1777年︵安永6年︶、大阪の菓子店﹁虎屋伊織﹂は、現在の商品券に相当する饅頭切手を発売[15]︵切手の項も参照のこと︶。酒や醤油、うなぎに至るまで、商品券の手法を広めるきっかけとなった。虎屋伊織は、饅頭切手で財を成したが、後年、饅頭切手の乱発がたたり経営に苦しんだという[16]。出典[編集]
脚注
(一)^ まんじゅうの杜 林神社漢國神社ホームページ
(二)^ ab横田雅博﹃おきりこみと焼き饅頭‥群馬の粉もの文化﹄ 農文協 2018年 ISBN 978-4-540-18156-6 pp.17-40.
(三)^ 又次宮本﹃関西と関東﹄井青蛙房、1966年、190頁。
(四)^ 喜田川季荘 著、室松岩雄 編﹃類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿﹄ 下、国学院大学出版部、1908年、444–446頁。
(五)^ 田附きつ﹁薯蕷饅頭の皮のレオロジー的性質﹂﹃家政学雑誌﹄第36巻、第2号、93–101頁、1985年。doi:10.11428/jhej1951.36.93。
(六)^ ﹃和菓子の辞典﹄ 1983年、179頁。
(七)^ 松尾夜城﹃和菓子物語﹄井上書房、1960年、104頁。
(八)^ 全浴連︵本書︶編纂委員会 編﹃公衆浴場史﹄全国公衆浴場業環境衛生同業組合連合会︵全浴連︶、1972年、78頁。
(九)^ 川島英子﹃まんじゅう屋繁盛記: 塩瀬の650年﹄岩波書店、2006年、13, 176頁。
(十)^ ﹃和菓子の辞典﹄ 1983年、187頁。
(11)^ ﹃商売打明話 : 家庭の経済知識﹄ 時事新報社経済部編、宝文館、1929年、70頁
(12)^ “ふくいミュージアムNo.53”. 福井県立歴史博物館. p. 2. 2022年4月20日閲覧。
(13)^ abc楠喜久枝﹃福岡県の郷土料理﹄︵第1版第2刷︶同文書院、東京都、1984年10月15日、112-113頁。 NCID BN06140416。
(14)^ 季刊そばの国だより Vol.36 日穀製粉株式会社
(15)^ 江後迪子﹃隠居大名の江戸暮らし﹄吉川弘文館、1999年、156頁。ISBN 4-642-05474-X。
(16)^ 菓子博物館﹁お菓子の話﹂︵山星屋ホームページ︶
参考文献
- 『和菓子の辞典』John Wiley & Sons、1983年 。
関連項目[編集]
- 饅頭 (中国)
- 中華まん
- あんパン
- 月餅
- 萩の月
- こっこ
- まんじゅうまき
- 和菓子
- 京菓子
- 落語『まんじゅうこわい』
- アイスまんじゅう
- イナまんじゅう
- 毒まんじゅう
- 諸葛亮(人頭の代替として饅頭を見立てたという話がある)
- ゆっくりしていってね!!!(「博麗霊夢」と、「霧雨魔理沙」の頭部を俗に「まんじゅう」と呼んでいる)
外部リンク[編集]
- “人の一生とお菓子”. お菓子なんでも情報館 (1991年7月1日). 2002年9月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2004年6月29日閲覧。