TEE
特徴[編集]
歴史[編集]
TEE以前の国際列車[編集]
TEEの構想[編集]
初期の列車[編集]
1956年の時刻表会議で翌1957年の運行開始が決まったTEEは以下の12往復である[22][23]。列車名 | 区間 | 沿線国 | 距離[注釈 4] | 車両担当 |
---|---|---|---|---|
アルバレート Arbalète |
パリ(東駅) - チューリッヒ | フランス、スイス | 615 km | フランス国鉄 |
エーデルヴァイス Edelweiss |
アムステルダム - チューリッヒ | オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランス、スイス | 1004 km | オランダ国鉄・スイス国鉄 |
エトワール・デュ・ノール Étoile du Nord |
パリ(北駅) - アムステルダム | フランス、ベルギー、オランダ | 542 km | オランダ国鉄・スイス国鉄 |
ヘルヴェティア Helvetia |
チューリッヒ - ハンブルク(アルトナ駅) | スイス、西ドイツ | 959 km | 西ドイツ国鉄 |
イル・ド・フランス Ile de France |
パリ(北駅) - アムステルダム | フランス、ベルギー、オランダ | 542 km | フランス国鉄 |
モン・スニ Mont Cenis |
リヨン - ミラノ | フランス、イタリア | 498 km | フランス国鉄 |
パリ・ルール Paris-Ruhr |
パリ(北駅) - ドルトムント | フランス、ベルギー、西ドイツ | 615 km | 西ドイツ国鉄 |
オワゾ・ブルー Oiseau Bleu |
パリ(北駅) - ブリュッセル | フランス、ベルギー | 312 km | オランダ国鉄・スイス国鉄 |
ライン・マイン Rhein-Main |
フランクフルト・アム・マイン - アムステルダム | 西ドイツ、オランダ | 499 km | 西ドイツ国鉄 |
サフィール Saphir |
ドルトムント - オーステンデ | 西ドイツ、ベルギー | 470 km | 西ドイツ国鉄 |
リーグレ Ligure |
ミラノ - マルセイユ | イタリア、フランス、モナコ[注釈 5] | 553 km | イタリア国鉄 |
メディオラヌム Mediolanum |
ミラノ - ミュンヘン | イタリア、オーストリア、西ドイツ | 579 km | イタリア国鉄 |
動力の変遷[編集]
国内列車としてのTEE[編集]
高速化[編集]
TEEの最高速度は1957年当時はすべて140 km/hであったが、電車や電気機関車を用いることにより1960年代には160 km/h程度まで向上した[33]。 1960年代後半には日本の新幹線の影響を受けてヨーロッパでも鉄道の高速化に関心が高まった。ヨーロッパ初の200 km/h運転は1965年に西ドイツ国鉄が試験的に行なったものであるが、恒久的に行なわれたものとしては1967年のル・キャピトール︵パリ - トゥールーズ︶からとなる。この列車は1970年にTEEに昇格した[50]。 1970年代にはフランスや西ドイツの多くの路線でTEEの最高速度が200 km/hに引き上げられた。中でもパリ - ボルドー間のTEEアキテーヌ、エタンダールは表定速度が151.5 kmに達し、TGV以前のヨーロッパでは最も速い列車であった[51][50]。ネットワークの拡大[編集]
1969年6月1日のTEEカタラン・タルゴ︵バルセロナ - ジュネーヴ︶の運行開始により、レンフェ︵スペイン国鉄︶が新たにTEEの運営に加わった[52]。また、1974年5月26日にはシュトゥットガルトとコペンハーゲンを渡り鳥コース経由で結ぶTEEメルクールが誕生し、デンマーク国鉄もTEEに加わった[53]。これによりTEEの走る国は11ヶ国︵モナコを含む︶となった。 なお、1971年5月23日からヨーロッパでの列車番号の付け方に関する規則が改められ、1から99までの2桁以下の番号はTEE専用となった[48]。また西ドイツを経由するTEEの中には、このとき列車番号が奇数の向きと偶数の向きが反転したものもある[54]。 TEEの列車数が最大に達したのは1974年 - 75年の冬ダイヤ期間である。この時期は45往復︵臨時列車を除く︶のTEEが運行されていた。うち30往復が国際列車、15往復がフランスとイタリアの国内列車であった[55][56]。インターシティの登場[編集]
一二等列車への転換[編集]
1970年代になると国際列車の利用者も大衆化し、二等車の需要が増えるのと引き替えに、一等車のみのTEEは利用が衰え始めた[57]。このため1975年のTEEゲーテ︵パリ - フランクフルト・アム・マイン︶の廃止[注釈 7]以降、廃止あるいは二等車を含む特急・急行に格下げされるTEEが現れた[48]。 西ドイツのインターシティも1976年以降一部の列車に二等車を連結するようになり、1979年5月27日から全てのインターシティが二等車を含むようになった。この影響でインターシティ網の一部を担っていたTEEの多くも、1978年から1979年にかけて二等車を連結してTEEでなくなった。一方で、少数ながら残った西ドイツ国内の一等車専用の優等列車が新たにTEEに加わり、7往復の西ドイツ国内TEE︵国際列車から国内列車に変更されたローラントを含む︶が生まれた[61][62]。これにより西ドイツ、フランス、イタリアの国内TEEの総数が国際TEEの数を上回るようになった[55]。ただし、西ドイツの国内TEEは数年以内に全て廃止、あるいは二等車を含むインターシティに変更された[63]。 1980年6月1日からは西ヨーロッパの国際列車に対してもインターシティという種別が用いられることになり、二等車を含むようになっていた元TEEの多くが国際インターシティとなった[64]。その後もTEEの廃止やインターシティへの変更は続いた[63]。 1978年のメルクールのインターシティ化によりデンマークに乗り入れるTEEがなくなり、1981年にはルクセンブルク、1982年にはスペインおよびモナコから、さらに1984年にはオーストリアからもTEEが姿を消した[61][63]。終焉[編集]
1987年5月31日、ヨーロッパの国際列車の新たな種別としてユーロシティが誕生し、元TEEであった国際インターシティの多くはユーロシティとなった[65]。この時のダイヤ改正でTEEラインゴルト︵アムステルダム - バーゼル︶が廃止され、TEEイル・ド・フランス、ルーベンス︵ともに パリ - ブリュッセル︶ はユーロシティに変更された[66]。なおユーロシティは二等車を含むのが原則であったが、イル・ド・フランスとルーベンスは1993年までTEE時代と同じ一等車のみの編成であった[67]。 また、イタリアの国内列車のTEEもこの時全てインターシティに置き換えられて廃止された。これによりTEEとして残っているのはゴッタルド︵チューリッヒ - ミラノ︶とフランス国内の4往復のみとなった[66]。 ゴッタルドは1988年9月25日のダイヤ改正をもってユーロシティに種別変更され、﹁一等車のみからなる国際列車﹂としてのTEEは消滅した。フランス国内のTEEも次々と二等車を含むコライユまたはTGVに置き換えられた[66]。 最後までTEEとして残ったのはパリとトゥールコワンをリール経由で結んでいた一往復︵トゥールコワン行がフェデルブ、パリ行がヴァトー︶であるが、これも1991年5月31日の運行を最後に廃止された[68]。 なお、1982年から1993年までフランクフルト空港とボン、ケルンおよびデュッセルドルフを結ぶルフトハンザ・エアポート・エクスプレスという列車が存在した。この列車はTEEとして承認されたものではなく、ルフトハンザドイツ航空の利用者専用であり、鉄道の時刻表にも掲載されていなかった。しかし、西ドイツ国鉄はこれにTEEとしての列車番号を付けて運行した[69]。使用した車両は一等車専用であった時代のインターシティ用電車、すなわちTEEと同等とされる設備を持ったものであり、2日のみではあるが正規のTEEに使用されたこともあった[70]。ノンストップ列車としての復活[編集]
TEEの功績と、21世紀のTEE[編集]
年表[編集]
個別の列車の新設、廃止、区間変更等については後の#TEE列車一覧節および各列車の記事を参照。 ●1953年10月30日 : オランダ国鉄のデン・ホランダー総裁が"Europa Express"の構想を発表。 ●1954年 : TEEの基本構想がまとまる。 ●1957年6月2日 : TEE10往復の運行を開始。当初はオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランス、西ドイツ、スイス、イタリアの7ヶ国で運行。 ●1958年10月15日 : オーストリアを経由するTEEが新設される。 ●1961年7月1日 : 電車によるTEEの運行を開始。 ●1963年9月1日 : 電気機関車牽引の客車によるTEEの運行を開始。 ●1965年5月30日 : 西ドイツとフランスで国内TEEの運行を開始。 ●1969年6月1日 : スペインにTEEが乗り入れる。 ●1971年5月23日 : 列車番号の付番規則改訂により、1-99はTEE専用となる。 ●1971年9月26日 : 西ドイツでインターシティの運行開始。西ドイツの国内TEEが消滅。 ●1973年6月3日 : イタリアで国内TEEの運行開始。 ●1974年5月26日 : デンマークにTEEが乗り入れる。気動車TEE全廃。 ●1974年9月28日 : TEEの列車数が最大︵45往復︶に達する。 ●1978年5月28日 : 西ドイツの国内TEEが復活。デンマークからTEEが消滅。 ●1979年5月27日 : 西ドイツのインターシティがすべて二等車を連結するようになる。 ●1981年5月31日 : ルクセンブルクを経由するTEEが消滅。 ●1982年5月23日 : スペインからTEEが消滅。 ●1983年5月28日 : 西ドイツの国内TEE全廃。 ●1984年6月3日 : オーストリアを経由するTEEが消滅。 ●1987年5月31日 : ユーロシティ創設。オランダ、ベルギー、西ドイツからTEE全廃。またイタリアの国内TEE全廃。 ●1988年9月25日 : 国際TEE全廃により、スイス、イタリアからTEEが消滅。 ●1991年6月1日 : フランスの国内TEE廃止により、TEEが一旦全て廃止される。 ●1993年5月23日 : パリ - ブリュッセル間で二等車を含むTEEの運行を開始。 ●1995年5月27日 : 最後のTEEが廃止される。 ●2020年9月21日:ドイツが﹁新世代のTEE﹂ - Trans Europe Express TEE2.0 ネットワークを提案[72][73]。 短期的に提案されるルートは以下の通り。 ●アムステルダム - パリ - バルセロナ ●ブリュッセル - ベルリン - ワルシャワ ●アムステルダム - フランクフルト - チューリッヒ - ローマ ●バルセロナ - フランクフルト - ベルリン ブレンナーベーストンネル︵オーストリア・イタリア間︶、フェーマルンリンク︵デンマーク・ドイツ間︶や、新しいドイツのシュトゥットガルト=ウルム高速線など、新しい路線の完成によって提案がなされている日中の高速TEE2.0の計画には以下のものが含まれる。- ストックホルム - ハンブルク - パリ
- ストックホルム - ベルリン - ミュンヘン
- ローマ - ヴェローナ - ミュンヘン - ベルリン
- パリ - ミュンヘン - ブダペスト
路線網の変遷[編集]
-
1957年夏
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1961年夏
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1965年夏
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1971-72年冬
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1974-75年冬
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1979年夏
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1984年夏
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1987年夏
TEEに使用された主な車両[編集]
内燃動車[編集]
VT11.5型→VT601型 (西ドイツ国鉄)[編集]
1957年のTEE運転開始時に製造された、液体式ディーゼル動車。7両編成、全長130.7mで両端の車両が動力車。出力は1,100PS×2 = 2,200PS。最高速度は140km/h。ボンネットスタイルが特徴。TEEには1973年まで使われ、一方1968年から1979年までは国内特急(F-Zug、インターシティ)に投入され、そして晩年は波動輸送用となる。インターシティでは160km/h運転を行うため、一部の動力車は2,200PSのガスタービンエンジンに換装されてVT602型となり、編成の片側の動力車に連結された(1982年廃車)。東西ドイツ統一直前の1990年8月から、わずか2ヶ月間ではあるが、ベルリンとハンブルクを結ぶインターシティ「マックス・リーバーマン」にも使用され、「フリーゲンダー・ハンブルガーの再来」とも言われた(運営は東ドイツ国鉄が実施。東ドイツ国鉄としては最初で最後のインターシティでもある)。現在はイベント用に保存。TEEでは「ライン・マイン」「サフィール」「ヘルヴェティア」「パリ-ルール」「パルジファル」「メディオラヌム」の各列車に使用された。
VT07.5型・VT08.5型 (西ドイツ国鉄)[編集]
1957年のTEE運転開始時には、前述のVT11.5型の落成が遅れ、必要編成数を確保できなかった。そのため、運転開始後の短期間ながら、1950年代に製造され、既に西ドイツ国内で運用されていた特急用気動車であるVT07.5型(1951年製)・VT08.5型(1952年製、後の608型)がTEEとして運用された。VT11.5型の増備に伴い順次置き換えられたが、過渡期にはVT11.5型とVT08.5型の併結もあった。
X2700型 (RGP 825(RGP1))(フランス国鉄)[編集]
1957年のTEE運転開始時に製造された、825PSの液体式ディーゼル動車で、最高速度は140km/h。X2700型そのものは、在来型の長距離列車用の気動車 (600PS:RGP2) であったが、その一部編成 (2771 - 2781) をTEE仕様として製造し、営業運転に備えた。この気動車は動力車(流線型)と制御車(半流線型)の2両編成でユニットとなり、このユニットを2つ連結して4両編成で運用される場合が多く、制御車の先頭部分には貫通幌が内蔵され、運転台周りは非常に凝った造作となっていた。また、各編成でヘッドライトの位置や形状にバラエティがある。現在はすでに引退、車体は更新されて近郊型の気動車に生まれ変わっている。TEEでは「モン・スニ」「アルバレート」「パルジファル」「イル=ド=フランス」「パリ・ルール」に使用された。このTEE用編成には厨房が設置され供食サービスは行われたものの、食堂車の連結はなく、座席も他国の専用車両に比較してやや見劣りがしたためか、1965年までと比較的使用期間は短かった。
DE4 (1000) 型 (オランダ国鉄) / RAm TEEI形 (スイス国鉄)[編集]
1957年のTEE運転開始時に製造された、電気式ディーゼル動車。4両編成の一端が動力車で、他端は客車に運転台を付けた制御車。2ヶ国の国鉄で共同開発され、動力車をオランダが、客車をスイスが製造し、両国鉄が同一仕様の車両を所有、運用した。運行開始当初は「エーデルヴァイス」「エトワール・デュ・ノール」「オワゾ・ブルー」に使用された。
なおこの形式は事故で1編成が廃車されている[注釈 8]。1974年までTEEに使われて引退した後、カナダのオンタリオ・ノースランド鉄道に譲渡されてトロント - コクレーン間の特急列車「ノースランダー」に1977年から1992年まで使用された。その後さまざまな曲折を経て、制御車2両と中間車3両の計5両が2006年にオランダに里帰りしている。
ALn442+ALn448(イタリア国鉄)[編集]
1957年のTEE運転開始時に製造された、機械式ディーゼル動車。2両編成ながら、1両の長さが約28mあり、供食設備も有していた。この気動車はTEE車両としては唯一床下機関を持つ車両で、客室床も他の客車より高い設計だった。また、空調装置は装備していなかった。通常は2両で運用されたが、TEE以外の運用では中間に付随車を連結し3両で運転されることもあった。1972年までTEEとして使用後、ALn442は厨房を撤去してALn460に改称し、国内特急列車に1982年まで使用された。現役当時は、「リーグレ(列車)」「レマノ」「メディオラヌム」「モン・スニ」に使用された。最高速度は140km/h。
仕様一覧[編集]
所属 | フランス国鉄 | オランダ国鉄 スイス国鉄 |
西ドイツ国鉄 | イタリア国鉄 | |
---|---|---|---|---|---|
形式名(車両番号) | X2700/XRS7700 (RGP 825) |
DE 1001 - 1003 RAm TEE 501, 502 |
VT 11.5 | ALn442-448 | |
基本編成[注 1] | 2両(最大3両) D-TC |
4両 D-T-T-TC |
7両(最大10両) D-T-T-T-T-T-D |
2両 D-D | |
製造数 | 動力車9両、制御車11両 | 5編成 | 8編成 動力車19両、付随車48両 |
9編成 | |
製造開始 | 1956年 | 1957年 | 1957年 | 1957年 | |
編成長 | 52.16m | 98.06m | 139.56m | 56.15m | |
編成質量 | 84t | 225t | 214t | 105t | |
編成出力[注 2] | 605kW | 735kW×2 | 810kW×2 | 360kW×2 | |
動力伝達方式 | 液体式 | 電気式 | 液体式 | 機械式 | |
最高速度 | 140km/h | 140km/h | 140km/h | 140km/h | |
編成定員 | コンパートメント | 0[74] | 54[75] | 72[76] | 0[77] |
開放座席 | 81[74] | 60[75] | 50[76] | 90[77] | |
計 | 81 | 114 | 122 | 90 | |
食堂車 | 無 | 32席 | 46席(+バー7席) | 無 | |
空調設備 | 無 | 有 | 有 | 無 | |
TEEでの使用期間[78] | 1957年 - 1965年 | 1957年 - 1974年 | 1957年 - 1972年 | 1957年 - 1972年 | |
出典は特記ない限りKoschinski 2007, p. 71による。データは製造時のもので、編成に関するデータは最小の基本編成のもの。 |
電車[編集]
RAe TEEII (1050) 形→RABe EC形 (スイス国鉄)[編集]
TEE専用として製造されたものとしては最初の電車で、1961年製。4電気方式(直流1.5kV、直流3kV、交流15kV16 2/3Hz、交流25kV50Hz)に対応。クリーム色と紅色のTEE色。6両編成(登場当時は5両編成)だが、中間の1両に動力や機器を集中させており、電源や架線の仕様の違いに対応した4つの集電装置を持ち、室内の約半分が機器室(残りは厨房と乗務員事務室)となっている。この中間電動車はいわば機関車といえるもので、出力は594kW×4 = 2376kW、クイル式駆動で台車も3軸ボギー(中央軸は無動力車軸)となっており、日本の電車の感覚とは程遠いものがある。最高速度は160km/h。1989年以降はユーロシティ用となり、一部座席が2等車に改装され、灰色のツートンカラーとなった。既に営業運転からは引退したが、1編成は登場当時の姿に復元され、企画列車として主にかつての「ゴッタルド」のダイヤで運転されている。TEEでは、「シザルパン」「ゴッタルド」「ティチーノ」「エーデルヴァイス」「イリス」の各列車に使用されていた。
ETR300型 (イタリア国鉄)[編集]
1953年に製造された曲線美あふれる優美な電車。車体はライトグレーと緑に塗装され、先頭スカート部の赤色がアクセントであった。それまでの特急用電車であったETR200型の発展型といえるこの電車は、2+3+2の3ユニットの7両編成で、カルダン駆動。各ユニットは連接構造になっている。運転席を2階に上げ、先頭部1階を展望スペースとした最初の本格的な長距離電車でもあった。このデザインは、その後日本の名鉄パノラマカーや、小田急3100形「NSE」に多大な影響を与えた。当初は2編成が製造され、その後第3編成が増備された。全3編成のうち第1・第3編成は引退後に解体されたが、第2編成のみは電車基地に留置されている。この電車は、日本には『ベスビアス特急』という文化映画で紹介され、イタリアを代表する電車として、日本にも知られることになった。ローマ - ミラノ間の運転で元々はTEE列車ではなかったが、国内列車もTEEに組み込まれるようになってからは、そのままTEE列車「セッテベロ」として運用された。この時点で台車の交換、ヘッドライトの強化などを行い200Km/h運転に対応した(試運転では240km/hを記録)。全長165.5m、定員160名(登場時)、自重301t、出力は180kW×12 = 2,160kW。
403形 (西ドイツ国鉄)[編集]
客車[編集]
フランス国鉄車[編集]
DEVステンレス客車[編集]
1950年代にフランス国鉄の客車研究部(Division des études des voitures, DEV)の設計した客車。車体をアメリカ合衆国バッド社のライセンスで製造したステンレス製とすることで、従来の客車より軽量化されている[79]。 1956年にパリ - ニース間の特急列車﹁ル・ミストラル﹂向けに製造された車両は﹁ミストラル1956形﹂とも呼ばれ、一等コンパートメント車とコンパートメント・バー合造車からなる。最高速度は160km/h。1965年のミストラルのTEE昇格とともにTEEの車両となった。ステンレス製であるためTEEの標準色とは異なり、車体は無塗装で窓の上に細い赤帯と"TRANS EUROP EXPRESS"の金文字が入る[79]。 1969年にミストラルに新型車両が投入されてからはアルバレート︵パリ - チューリッヒ︶やゲーテ︵パリ - フランクフルト・アム・マイン︶に転用されたが、このころには新型のTEE用客車と比べると見劣りするようになっていたため評判は好ましいものではなかった[80]。1976年にTEE運用からは退き、その後はフランス国内の列車などに用いられた。1980年代には一部の客車が二等車に格下げ改造されている。1989年9月をもってフランス国内での運用を終え、1990年には24両がセネガルに譲渡された[81]。 このほか、1978年に運行を始めたパリ - トゥールコワン間のTEE︵フェデルブ、ガヤン、ヴァトー︶も短期間ではあるが1950年代のステンレス客車︵ミストラルのものとは異なる︶を用いていた[82]。PBA客車[編集]
フランス国鉄とベルギー国鉄が共同で開発した車両で、1964年からパリ・ブリュッセル・アムステルダム(PBA)系統のTEEに用いられた。TEE線用車両として設計された初の客車である。車体はステンレス製で最高速度は160km/h。塗装はミストラル56形と同様である。内訳は以下の通り。記号はフランス国鉄・ベルギー国鉄における分類記号と1972年以降のUIC分類記号である。 ●一等開放座席車(A8s/A8tu) 11両 - ベルギー国鉄所属 ●一等コンパートメント車(A8myfi/A8u) 7両 - フランス国鉄所属 ●一等開放座席・バー合造車(A3Rmyfi/A3rtu) 4両 - フランス国鉄所属 ●一等開放座席・厨房合造車(A5smyfi/A5rtu) 7両 - フランス国鉄所属 ●荷物・電源車(A2Dsmfi/A2Dx) 7両 - フランス国鉄所属 専用の食堂車はなく、列車内の厨房から座席へのケータリングサービスが行なわれることになっていた[83]。 1984年以降パリ・ブリュッセル・アムステルダム系統のTEEがインターシティやユーロシティに変更された際には、一部の車両が二等車に改造された。1996年のユーロシティ﹁エトワール・デュ・ノール﹂の廃止により運用を終えた[83]。ミストラル1969客車[編集]
1969年にミストラルに投入された客車で、﹁新ミストラル(Nouveau Mistral)﹂とも呼ばれる。基本的な設計はPBA形と同様であるが、PBA系統よりも乗車時間が長いことが想定されていたので食堂車が存在する。またミストラル専用に売店や理容室、秘書室を備えた﹁特別バー﹂車もあった[84]。 1968年から1970年にかけて86両が製造され、フランス国内TEEのミストラル、リヨネ、ロダニアンのほか、パリ・ルール︵パリ - ドルトムント︶にも用いられた。1974年にはさらに36両が増備され、シザルパン︵パリ - ミラノ︶およびパリ - ブリュッセル系統の増発にあてられた。1974年製造分の開放座席車のうち5両はスイス連邦鉄道、6両はベルギー国鉄の所属である。パリ・ブリュッセル・アムステルダム系統ではPBA形と混結して用いられた[84]。 車両の内訳は以下の通り[84]。 ●一等開放座席車(A8tu) : 28両 + 11両︵ベルギー国鉄、スイス国鉄所属︶ ●一等コンパートメント車(A8u) : 27両 + 15両 ●特別バー車(Arux) : 4両 - ミストラル専用 ●食堂車(Vru) : 11両 + 2両 ●一等開放座席・バー合造車(A3rtu) : 2両 + 3両 ●一等開放座席・荷物・電源車(A5Dtux) : 14両 + 5両 1976年以降のリヨネ、ミストラルなどの廃止とともに、ミストラル69型はアルバレートやフランス国内の他方面への列車に転用された。1984年以降は一部が二等車に改造されている。1996年に営業運転を終え、1999年には44両がキューバに売却された[84]。グラン・コンフォール (Grand Confort)[編集]
1960年代にフランス国内の列車の高速化と居住性の向上を主な目的として開発された車両である。車内は1964年製のPBA形とほぼ同じであるが、窓やドアの断熱、防音性能が改善されている。最高速度は200km/h。車体は耐候性鋼製で、側面が曲面状になっているのが大きな特徴である。これは曲線部分の通過速度を上げるため車体傾斜機能を持たせようとしたためである。ただし車体傾斜機能そのものは、運用を想定されている路線では時間短縮効果が少なく割に合わないとして見送られた[85]。 グラン・コンフォール客車は本来TEE用ではなく、1970年にエタンダール︵パリ - ボルドー︶で使用を始めた際にはこの列車はまだTEEではなかった。このため塗装はTEE標準色ではなく、灰色地に窓部分が赤帯の﹁グラン・コンフォール﹂塗装であった。1970年の冬ダイヤ改正から、グラン・コンフォール客車を用いるフランス国内列車をTEEに加えるようになり、まずル・キャピトール︵パリ - トゥールーズ︶が客車の更新とともにTEEとなった[85]。その後パリを起点に南西︵ボルドー、トゥールーズ︶方面、東︵ストラスブール︶方面、西︵ナント︶方面のフランス国内TEEに用いられた[86]。1973年になって窓の上にTRANS EUROP EXPRESSの文字も取りつけられた[85]。 車両の内訳は以下の通り[87]。 ●一等コンパートメント車(A8u) : 40両 ●一等開放座席車(A8tu) : 21両 + 13両︵1973年以降増備︶ ●食堂車(Vru) : 10両 ●一等開放座席・バー合造車(A3rtu) : 6両 ●一等開放座席・荷物・電源車(A4Dtux) : 13両 1981年以降、一部は二等車に改造されている。1989年のジュール・ヴェルヌ︵パリ - ナント︶の廃止とともにTEEでの運用を終え、その後は国内の一般列車やルクセンブルクへのユーロシティに用いられた。1999年に営業運転を終了している[86]。その他[編集]
1963年のブラバント︵パリ - ブリュッセル︶の新設や1964年のオワゾ・ブルー︵同︶の客車列車化の時点では、PBA形客車の製造が間に合わなかったことから、前世代の鋼製客車が一時的に用いられた[88]。 ミストラルは1969年まで旧国際寝台車会社の食堂車︵1928年製︶とプルマン︵サロン︶車︵1929年製、コート・ダジュール形︶を連結していた。また同期間に用いられていた電源車は1927年製の旧パリ・オルレアン鉄道の車両である[79]。 ル・キャピトールは1970年のTEE昇格時から1974年まで、一部1970年以前の客車︵200km/h対応ではあるが空調設備はない︶を連結していた[86]。西ドイツ国鉄 TEE/IC客車[編集]
種類 | UIC分類記号・形式番号 | 製造開始年 | 製造数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
一等コンパートメント車 | Avmh111 Avmz111 |
1962年 | 267 | |
Avmz207 | 1977年 | 100 | ||
一等開放座席車 | Apmh121 Apmz121 |
1962年 | 100 | |
Apmz122 | 1975年 | 35 | ||
一等展望車 | ADmh101 | 1962年 | 5 | |
一等コンパートメント・バー合造車 | ARDmh105 | 1965年 | 11 | |
ARDmz106 | 1970年 | 3 | ||
ARmz211 | 1971年 | 56 | ||
ARmh217 | 1972年(改造) | 10 | 国内列車用車両からの改造 | |
食堂車 | WRmh131 | 1962年 | 5 | |
WRmh132 | 1965年 | 27 | ||
WRmz135 | 1969年 | 36 | パンタグラフによる給電 | |
クラブ車 | WGmh804 | 1982年(改造) | 3 | 国内列車用車両からの改造 |
イタリア国鉄車[編集]
種類 | 国際TEE用 | グラン・コンフォルト | ||
---|---|---|---|---|
製造開始 | 製造数 | 製造開始 | 製造数 | |
一等コンパートメント車(A) | 1972年 | 13 | 1973年 | 120 |
一等開放座席車(As) | 1972年 | 5 | 1973年 | 30 |
食堂車(WR) | 1972年 | 5 | 1973年 | 31 |
荷物・電源車(Ds) | 1972年 | 5 | - | |
荷物車 | - | 1976年 | 20 |
スペイン国鉄 Talgo III RD[編集]
スイス国鉄の食堂車[編集]
チューリッヒ - ミュンヘン間のTEEバヴァリアは1971年の脱線事故以降、西ドイツ国鉄のTEE客車による列車となっていたが、この編成に含まれる食堂車はスイス国鉄の車両であった。この車両は元は1967年に製造された一般国際列車用の車両である。1972年には塗装を赤色からTEE色に改めている。1977年のバヴァリアの急行格下げ以降は、TEE色のまま他方面への国際列車にも使用された[98]。
客車を牽引した主な電気機関車[編集]
CC40100型 (フランス国鉄) / 18型 (ベルギー国鉄)[編集]
1964年から製造された、4電気方式のC-C機。客車と同じステンレス製のボディで統一美観を保っていた。出力3,850kW、最高速度240km/h。「オワゾ・ブルー」「イル=ド=フランス」「エトワール・デュ・ノール」等を牽引した。
CC6500型 (フランス国鉄)[編集]
CC40100型とともにその前面形状から「ゲンコツ」と呼ばれた、直流専用のC-C機。2次形を除き最高速度200km/h。「ミストラル」「アキテーヌ」「キャピトール」等を牽引した。
E03型→103型 (西ドイツ国鉄)[編集]
1966年に製造を開始し、1970年から量産化されたドイツの代表的C-C機。出力7,440kW、最高速度200km/h。「ブラウエル・エンツィアン」に初めて使用された。「ラインゴルト」をはじめ西ドイツ担当のTEEの多くを牽引し、一部は塗り替えられて「ルフトハンザ・エアポート・エクスプレス」専用機となった。
Re 4/4I形 (スイス国鉄)[編集]
1946年から製造された小型のB-B機で最高速度は125km/h、当初は標準の濃緑色塗装、1972年以降は専用機がTEEカラーに塗装され使用された。スイスの食堂車を連結していた「バヴァリア」と短編成(3-4両)の「ラインゴルト」専用であった。TEE塗装機は10033、10034、10046、10050の4両(1950年 - 1951年製造)が在籍していたが、すでに引退。
Re 4/4II形→Re420形 (スイス国鉄)[編集]
E444型 ︵イタリア国鉄︶[編集]
イタリアのすべての客車TEE列車を牽引したB-B機。"Tartaruga"︵亀︶と愛称され、車体にも小さく空を飛ぶ亀の絵が描かれていた。1985年以降、高速新線走行用に大規模修繕工事が実施され車体デザインも大幅に変更された。この改造により最高速度は200km/hに向上した。269形︵スペイン国鉄︶[編集]
1973年より製造が開始された客貨両用のB-B機。WN駆動で、客車牽引時の最高速度は140 - 160 km/h。TEEを牽引した電気機関車のなかで唯一、設計および製造に日本の企業︵三菱グループ︶が関与しており、一部の車両は日本から輸出されている。専用のアダプター車両と共にカタラン・タルゴの牽引に用いられた。保存車両[編集]
TEE列車一覧[編集]
TEEとして運行されていた列車は以下の通り[101]。運行開始、終了はTEEとしての運行期間を示し、これ以前や以後にも別の種別の列車として存在していたものもある。経路は運行開始時のものであり、その後の変化については主要なもののみ記載している。また曜日などにより運休となったり運行区間を延長、短縮していた列車もある。列車名 | 原語表記 | 運行開始 | 運行終了 | 運行経路・備考 |
---|---|---|---|---|
アドリアティコ | Adriatico | 1973/06/03 | 1987/05/30 | ミラノ - リミニ - バーリ
|
アルベルト・シュヴァイツァー | Albert Schweitzer | 1980/06/01 | 1983/05/27 | ドルトムント - ケルン - マインツ - ストラスブール |
アンブロシアーノ | Ambrosiano | 1974/05/26 | 1987/05/30 | ミラノ - ローマ
|
アキテーヌ | Aquitaine | 1971/05/23 | 1984/05/30 | パリ(オステルリッツ駅) - ボルドー
|
アルバレート (ラルバレート) |
Arbalète (L'Arbalète) |
1957/06/02 | 1979/05/26 | パリ(東駅) - ミュルーズ - バーゼル - チューリッヒ |
アウロラ | Aurora | 1974/05/26 | 1975/05/31 | ローマ - ナポリ - レッジョ・ディ・カラブリア
|
バッカス | Bacchus | 1979/05/27 | 1980/05/30 | ドルトムント - ケルン - シュトゥットガルト - ミュンヘン
|
バヴァリア | Bavaria | 1969/09/28 | 1977/05/21 | チューリッヒ - リンダウ - ミュンヘン |
ブラウエル・エンツィアン | Blauer Enzian | 1965/05/30 | 1979/05/26 | ハンブルク=アルトナ - ハノーファー - ヴュルツブルク - ミュンヘン |
ブラバント | Brabant | 1963/05/26 | 1984/06/02 | パリ(北駅) - ブリュッセル(南駅)
|
ル・キャピトール | Le Capitole | 1970/09/27 | 1984/09/30 | パリ(オステルリッツ駅) - リモージュ - トゥールーズ
|
カタラン・タルゴ | Catalán Talgo | 1969/06/01 | 1982/05/22 | バルセロナ - モンペリエ - アヴィニョン - ヴァランス - シャンベリ - ジュネーヴ
|
シザルパン | Cisalpin | 1961/07/01 | 1984/01/21 | パリ(リヨン駅) - ローザンヌ - ミラノ
|
コロッセウム | Colloseum | 1984/06/03 (改名) |
1987/05/30 | ミラノ - ローマ
|
キクヌス | Cycnus | 1973/09/30 | 1978/05/27 | ミラノ - ジェノヴァ - ヴェンティミーリア
|
ディアマント (初代) | Diamant | 1965/05/30 | 1976/05/29 | アントウェルペン - ブリュッセル(北駅) - ケルン - ドルトムント |
ディアマント (2代目) | Diamant | 1979/05/27 | 1981/05/27 | ハンブルク=アルトナ - ハノーファー - ヴュルツブルク - ミュンヘン
|
エーデルヴァイス (エデルヴィス、レデルヴィス) |
Edelweiss (L'Edelweiss) |
1957/06/02 | 1979/05/26 | アムステルダム - ブリュッセル(北駅) - ルクセンブルク市 - ストラスブール - バーゼル - チューリッヒ
|
エラスムス | Erasmus | 1973/06/03 | 1980/05/31 | デン・ハーグ(HS駅) - ユトレヒト - ケルン - マインツ - フランクフルト・アム・マイン - ミュンヘン |
エタンダール (レタンダール) |
L'Étendard | 1971/09/26 | 1984/05/30 | パリ(オステルリッツ駅) - ボルドー |
エトワール・デュ・ノール (レトワール・デュ・ノール) |
L'Étoile du Nord | 1957/06/02 | 1984/06/02 | パリ(北駅) - ブリュッセル - アムステルダム |
フェデルブ | Faidherbe | 1978/10/01 | 1991/05/31 | パリ(北駅) - リール - トゥールコワン
|
フリードリヒ・シラー | Friedrich Schiller | 1979/05/27 | 1982/05/19 | ドルトムント - ケルン - マインツ - シュトゥットガルト
|
ガンブリヌス | Gambrinus | 1978/05/28 | 1983/05/28 | ハンブルク=アルトナ - ケルン - シュトゥットガルト - ミュンヘン |
ガヤン | Gayant | 1978/10/01 | 1986/05/30 | パリ(北駅) - リール - トゥールコワン
|
ゲーテ (初代) | Goethe | 1970/05/31 | 1975/05/31 | パリ(東駅) - ザールブリュッケン - フランクフルト・アム・マイン |
ゲーテ (2代目) | Goethe | 1979/05/27 | 1983/05/27 | ドルトムント - デュッセルドルフ - ケルン - フランクフルト・アム・マイン
|
ゴッタルド | Gottardo | 1961/07/01 | 1988/09/24 | チューリッヒ(中央駅) - ミラノ |
ハインリッヒ・ハイネ | Heinrich Heine | 1979/05/27 | 1983/05/27 | ドルトムント - ケルン - フランクフルト・アム・マイン
|
ヘルヴェティア | Helvetia | 1957/06/02 | 1979/05/26 | ハンブルク=アルトナ - ハノーファー - フランクフルト・アム・マイン - バーゼル - チューリッヒ |
イル・ド・フランス (リル・ド・フランス) |
L'Ile de France | 1957/06/02 | 1987/05/30 | パリ(北駅) - ブリュッセル - アムステルダム
|
イリス | Iris | 1974/05/26 | 1981/05/30 | ブリュッセル(南駅) - ルクセンブルク市 - ストラスブール - バーゼル - チューリッヒ |
ジュール・ヴェルヌ | Jules Verne | 1980/09/28 | 1989/09/22 | パリ(モンパルナス駅) - ナント
|
クレベール | Kléber | 1971/05/23 | 1989/05/27 | パリ(東駅) - ストラスブール
|
レマノ | Lemano | 1958/06/01 | 1982/05/22 | ジュネーヴ - ローザンヌ - ミラノ |
リーグレ (リギュール) |
Ligure | 1957/08/12 | 1982/05/22 | マルセイユ - ニース - ヴェンティミーリア - ミラノ
|
リヨネ | Le Lyonais | 1969/02/09 | 1976/09/25 | パリ(リヨン駅) - リヨン
|
メディオラヌム | Mediolanum | 1957/10/15 | 1984/06/02 | ミュンヘン - インスブルック - ミラノ |
メムリンク | Memling | 1974/09/29 | 1984/05/30 | パリ(北駅) - ブリュッセル(南駅) |
メルクール | Merkur | 1974/05/26 | 1978/05/27 | シュトゥットガルト - ケルン - ハンブルク(中央駅) -(渡り鳥コース)- コペンハーゲン、ハンブルク中央駅 - ハンブルク=アルトナ駅 |
ル・ミストラル (ミストラル) |
Le Mistral | 1965/05/30 | 1981/09/26 | パリ(リヨン駅) - リヨン - マルセイユ - ニース
|
モン・スニ | Le Mont Cenis | 1957/06/02 | 1972/09/30 | リヨン - シャンベリ - トリノ - ミラノ |
モリエール | Molière | 1973/06/03 (改名) |
1979/05/25 | パリ(北駅) - リエージュ - ケルン - デュッセルドルフ
|
オワゾ・ブルー (ロワゾ・ブルー) |
L'Oiseau Bleu | 1957/06/02 | 1984/06/02 | パリ(北駅) - ブリュッセル(南駅)
|
パリ-ルール | Paris-Ruhr | 1957/06/02 | 1973/06/02 (改名) |
パリ(北駅) - リエージュ - ケルン - デュッセルドルフ - ドルトムント
|
パルジファル | Parsifal | 1957/10/03 | 1979/05/26 | パリ(北駅) - リエージュ - ケルン - デュッセルドルフ - ドルトムント
|
プリンツ・オイゲン | Prinz Eugen | 1971/09/26 | 1978/05/27 | ブレーメン - ハノーファー - ゲッティンゲン - ヴュルツブルク - パッサウ - リンツ - ウィーン
|
レンブラント | Rembrandt | 1967/05/28 | 1983/05/27 | アムステルダム - ケルン - シュトゥットガルト - ミュンヘン
|
ラインゴルト | Rheingold | 1965/05/30 | 1987/05/30 | フーク・ファン・ホラント - ユトレヒト、アムステルダム - ユトレヒト - デュースブルク - ケルン - マインツ - マンハイム - バーゼル - ジュネーヴ |
ライン・マイン | Rhein-Main | 1957/06/02 | 1972/05/27 (改名) |
アムステルダム - ケルン - ボン - フランクフルト・アム・マイン
|
ラインプファイル | Rheinpfeil | 1965/05/30 | 1971/09/25 | ドルトムント - デュースブルク - ケルン - フランクフルト・アム・マイン - ミュンヘン
|
ローラント | Roland | 1969/06/01 | 1980/05/30 | ブレーメン - ハノーファー - フランクフルト・アム・マイン - バーゼル - ミラノ
|
ルーベンス | Rubens | 1974/09/29 | 1987/05/30 | パリ(北駅) - ブリュッセル(南駅) |
ロダニアン | Le Rhodanien | 1971/05/23 | 1978/09/29 | パリ(リヨン駅) - リヨン - マルセイユ
|
サフィール | Saphir | 1957/06/02 | 1979/05/26 | オーステンデ - ブリュッセル - ケルン - ドルトムント
|
セッテベロ | Settebello | 1974/05/26 | 1984/06/02 (改名) |
ミラノ - ローマ
|
スタニスラス | Stanislas | 1971/09/26 | 1982/09/25 | パリ(東駅) - ストラスブール
|
ティチーノ | Ticino | 1961/07/01 | 1974/05/25 | チューリッヒ - ミラノ |
ヴァン・ベートーヴェン | Van Beethoven | 1972/05/28 (改名) |
1979/05/26 | アムステルダム - ケルン - ボン - フランクフルト・アム・マイン
|
ヴェスヴィオ | Vesuvio | 1973/09/30 | 1987/05/30 | ミラノ - ローマ - ナポリ
|
ヴァトー | Watteau | 1978/10/02 | 1991/05/31 | パリ(北駅) - リール - トゥールコワン
|
ルフトハンザ・エアポート・エクスプレス | Lufthansa Airport Express | 1982/03/28 | 1993/05/22 | フランクフルト空港 - ボン - ケルン - デュッセルドルフ
|
ブラバント (一二等) | Brabant | 1993/05/23 | 1995/01/22 | パリ(北駅) - ブリュッセル(南駅)
|
イル・ド・フランス (一二等) | L'Ile de France | 1993/05/23 | 1995/05/26 | パリ(北駅) - ブリュッセル(南駅)
|
ルーベンス (一二等) | Rubens | 1993/05/23 | 1995/01/22 | パリ(北駅) - ブリュッセル(南駅)
|
ヴァトー (一二等) | Watteau | 1993/05/23 | 1995/05/26 | パリ(北駅) - ブリュッセル(南駅)
|
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c d e 坂本 1958
- ^ 山之内 1981, p. 9
- ^ 山之内 1970, p. 90
- ^ 植田 1978, p. 51
- ^ a b c d e f 山之内 1981, pp. 9–15
- ^ 山之内 1981, pp. 20–24
- ^ Hanna-Daoud 2007
- ^ a b c d e Koschinski 2007, p. 22
- ^ a b c d e Mertens & Malaspina 2007, pp. 6–7
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 307
- ^ 窪田 & 1960.4
- ^ 植田 1978, p. 68
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- ^ a b 山之内 1981, pp. 31–36
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- ^ Schönborn & Hanna-Daoud 2007
- ^ a b c Scharf & Ernst 1983, pp. 310–311
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- ^ 窪田 1961
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- ^ a b Mertens & Malaspina 2007, pp. 38–39
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- ^ a b Mertens & Malaspina 2007, pp. 26–27
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- ^ Germany calls for a new Trans Europe Express TEE 2.0 network,IRJ
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- ^ a b Mertens & Malaspina 2007, pp. 46–47
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- ^ Mertens & Malaspina 2007, p. 92,176
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- ^ a b c Mertens & Malaspina 2007, pp. 124–127
- ^ Mertens & Malaspina 2007, p. 143
- ^ a b Koschinski 2007, p. 82
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 66–67
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 40-41 および各列車の項
参考文献[編集]
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- Malaspina, Jean-Pierre (2005) (フランス語), Train d'Europe Tome 1, La Vie du Rail, ISBN 2-915034-48-6
- Malaspina, Jean-Pierre (2006) (フランス語), Train d'Europe Tome 2, La Vie du Rail, ISBN 2-915034-49-4
- Mertens, Maurice; Malaspina, Jean-Pierre (2007) (フランス語), La légende des Trans-Europ-Express, LR Press, ISBN 978-2-903651-45-9
- Scharf, Hans-Wolfgang; Ernst, Friedhelm (1983) (ドイツ語), Vom Fernschnellzug nach Intercity, Eisenbahn-Kurier, ISBN 3-88255-751-6
- (Magazine) (2007) (ドイツ語). Mythos TEE - 50 Jahre Trans-Europ-Express -(BAHN EXTRA 2/2007 - März/April). München, Germany: GeraMond. ISBN 978-3-89724-189-3
- Schönborn, H.-B.; Hanna-Daoud, T., “Der Weg Zum Trans-Europ-Express: die Jahre 1953-1957”, pp. 12 - 19
- Hanna-Daoud, Thomas, “Berufe im Trans-Europ-Express”, pp. 54 - 56
- 山之内秀一郎 (1981), 世界鉄道の旅, 大陸書房, ISBN 4-8033-0512-9
- 『世界の鉄道 国際特急』植田信行 監修、徳間書店〈カラーバックス〉、1978年。
- 山之内秀一郎 (1970), “ビジネスを運ぶ国際特急”, in 奥村芳太郎, 世界・汽車の旅, 毎日新聞社
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- 窪田太郎 (1960-4), “トランス・オイロープ・エクスプレス(TEE)印象記”, 鉄道ピクトリアル (鉄道図書刊行会) 10 (4): 55-57
- 窪田太郎 (1960-5), “トランス・オイロープ・エクスプレス(TEE)印象記(続)”, 鉄道ピクトリアル (鉄道図書刊行会) 10 (5): 28-29
- 窪田太郎 (1961-11), “トランス・オイロープ・エクスプレス(TEE)の交直両用電車”, 鉄道ピクトリアル (鉄道図書刊行会) 11 (11): 25-27
関連項目[編集]