「エリザベス1世 (イングランド女王)」の版間の差分
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| 在位 = [[1558年]][[11月17日]] - [[1603年]][[3月24日]] |
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| 出生日 = [[1533年]][[9月7日]] |
| 出生日 = [[1533年]][[9月7日]] |
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| 生地 = {{ENG927}}<br />[[グリニッジ]]<br />プラセンティア宮殿 |
| 生地 = {{ENG927}}<br />[[グリニッジ]]<br />プラセンティア宮殿 |
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| 死亡日 = |
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1533|9|7|1603|3|24}} |
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| 没地 = {{ENG927}}<br />[[ロンドン]]<br />リッチモンド宮殿 |
| 没地 = {{ENG927}}<br />[[ロンドン]]<br />リッチモンド宮殿 |
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| 埋葬日 = [[1603年]][[4月28日]] |
| 埋葬日 = [[1603年]][[4月28日]] |
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| 父親 = [[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]] |
| 父親 = [[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]] |
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| 母親 = [[アン・ブーリン]] |
| 母親 = [[アン・ブーリン]] |
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| 宗教 = [[イングランド国教会]] |
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| サイン = Autograph of Elizabeth I of England.svg |
| サイン = Autograph of Elizabeth I of England.svg |
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'''エリザベス1世'''({{lang-en-short|Elizabeth I}}、[[ユリウス暦]][[1533年]][[9月7日]] - [[グレゴリオ暦]][[1603年]][[4月3日]](ユリウス暦1602/3年[[3月24日]]<ref>{{Cite web |title=Elizabeth I {{!}} Biography, Facts, Mother, & Death {{!}} Britannica |url=https://www.britannica.com/biography/Elizabeth-I |website=www.britannica.com |access-date=2023-04-08 |language=en}}</ref>{{Efn|エリザベス1世在位中の[[1582年]]に、[[ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]はユリウス暦から[[グレゴリオ暦]]に{{仮リンク|インテル・グラヴィッシーマス|en|Inter gravissimas|label=改暦}}を行っており、Wikipedia日本語版表記ガイドでは、西暦年月日について改暦日(1582年10月15日)より前についてはユリウス暦を、改暦日以後についてはグレゴリオ暦を表記することとしている。しかしイングランド王国はグレゴリオ暦を採用しようとせず、最終的に[[グレートブリテン王国]]としての{{仮リンク|1750年改暦法|en|Calendar (New Style) Act 1750}}の施行([[1751年]])まで、ユリウス暦を使用していたという顕著な歴史を持つ。そこで、本記事においては、断り書きが無い限り、原則としてすべて1月1日を年初とするユリウス暦を用いて記述することにする。なお、現実にイングランド王国の用いていたユリウス暦は伝統的に3月25日を年初としており、1月1日から3月24日までの出来事に関しては、資料によっては、本記事の記載より西暦年が1年小さく記述されていることに注意が必要である。 |
'''エリザベス1世'''({{lang-en-short|Elizabeth I}}、[[ユリウス暦]][[1533年]][[9月7日]] - [[グレゴリオ暦]][[1603年]][[4月3日]](ユリウス暦1602/3年[[3月24日]]<ref>{{Cite web |title=Elizabeth I {{!}} Biography, Facts, Mother, & Death {{!}} Britannica |url=https://www.britannica.com/biography/Elizabeth-I |website=www.britannica.com |access-date=2023-04-08 |language=en}}</ref>{{Efn|エリザベス1世在位中の[[1582年]]に、[[ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]はユリウス暦から[[グレゴリオ暦]]に{{仮リンク|インテル・グラヴィッシーマス|en|Inter gravissimas|label=改暦}}を行っており、Wikipedia日本語版表記ガイドでは、西暦年月日について改暦日(1582年10月15日)より前についてはユリウス暦を、改暦日以後についてはグレゴリオ暦を表記することとしている。しかしイングランド王国はグレゴリオ暦を採用しようとせず、最終的に[[グレートブリテン王国]]としての{{仮リンク|1750年改暦法|en|Calendar (New Style) Act 1750}}の施行([[1751年]])まで、ユリウス暦を使用していたという顕著な歴史を持つ。そこで、本記事においては、断り書きが無い限り、原則としてすべて1月1日を年初とするユリウス暦を用いて記述することにする。なお、現実にイングランド王国の用いていたユリウス暦は伝統的に3月25日を年初としており、1月1日から3月24日までの出来事に関しては、資料によっては、本記事の記載より西暦年が1年小さく記述されていることに注意が必要である。 |
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この期間の出来事に関しては、冒頭の死去日に示した1602/3年のように記すのが誤解を招かない丁寧な表記であるが、記事中 |
この期間の出来事に関しては、冒頭の死去日に示した1602/3年のように記載するのが誤解を招かない丁寧な表記であるが、記事中全ての該当年表記に付すのは煩雑に過ぎるため、他の部分では省略する。}}))は、[[イングランド王国|イングランド]]と[[アイルランド王国|アイルランド]]の女王(在位:[[1558年]] - [[1603年]])。[[テューダー朝]]第5代{{Efn|ごく短期間在位した[[ジェーン・グレイ]]を加えれば第6代。}}にして最後の君主。彼女の統治した時代は、とくに'''[[エリザベス朝]]'''と呼ばれ、イングランドの黄金期と言われている。 |
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国王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の次女。[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]は異母姉。[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]は異母弟。[[通称]]に'''ザ・ヴァージン・クイーン'''︵''The Virgin Queen'' / 処女女王︶、'''グロリアーナ'''︵''Gloriana'' / 栄光ある女人︶、'''グッド・クイーン・ベス'''︵''Good Queen Bess'' / 善き女王ベス︶。
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国王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の次女。[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]は異母姉。[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]は異母弟。[[通称]]に'''ザ・ヴァージン・クイーン'''︵''The Virgin Queen'' / 処女女王︶、'''グロリアーナ'''︵''Gloriana'' / 栄光ある女人︶、'''グッド・クイーン・ベス'''︵''Good Queen Bess'' / 善き女王ベス︶。
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の王女として生 |
[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の王女として誕生したが、2年半後に母[[アン・ブーリン]]が処刑されたため、[[庶子]]とされた。弟の[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]は[[ジェーン・グレイ]]への王位継承に際して姉たちの王位継承権を無効としている。続く[[カトリック教会|カトリック]]の[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]の治世ではエリザベスは[[プロテスタント]]の反乱を計画したと疑われて1年近く投獄されたものの、1558年にメアリー1世が[[崩御]]すると王位を継承した。 |
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エリザベスは[[ウィリアム・セシル (初代バーリー男爵)|ウィリアム・セシル]]をはじめとする有能な顧問団を得て統治を開始し、最初の仕事として、父の政策を踏襲し﹁[[国王至上法]]﹂を発令し、﹁{{仮リンク|礼拝統一法|en|Act_of_Uniformity_1559}}﹂によって[[イングランド国教会]]を国家の主柱として位置づけた。
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エリザベスは[[ウィリアム・セシル (初代バーリー男爵)|ウィリアム・セシル]]をはじめとする有能な顧問団を得て統治を開始し、最初の仕事として、父の政策を踏襲し﹁[[国王至上法]]﹂を発令し、﹁{{仮リンク|礼拝統一法|en|Act_of_Uniformity_1559}}﹂によって[[イングランド国教会]]を国家の主柱として位置づけた。
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エリザベスの洗礼式は[[9月10日]]にグリニッジ宮殿で挙行された。大主教[[トマス・クランマー]]が名親に{{ill|エリザベス・スタッフォード|en|Elizabeth Stafford, Duchess of Norfolk|label=ノーフォーク公爵未亡人}}そして{{ill|マーガレット・ワットン (ドーセット侯爵夫人)|en|Margaret Wotton, Marchioness of Dorset|label=ドーセット侯爵夫人}}、{{ill|ガートルード・コートニー|en|Gertrude Courtenay, Marchioness of Exeter|label=エクセター侯爵夫人}}が[[代父母|代母]]となった{{Sfn|ヒバート|1998a|p=22}}。 |
エリザベスの洗礼式は[[9月10日]]にグリニッジ宮殿で挙行された。大主教[[トマス・クランマー]]が名親に{{ill|エリザベス・スタッフォード|en|Elizabeth Stafford, Duchess of Norfolk|label=ノーフォーク公爵未亡人}}そして{{ill|マーガレット・ワットン (ドーセット侯爵夫人)|en|Margaret Wotton, Marchioness of Dorset|label=ドーセット侯爵夫人}}、{{ill|ガートルード・コートニー|en|Gertrude Courtenay, Marchioness of Exeter|label=エクセター侯爵夫人}}が[[代父母|代母]]となった{{Sfn|ヒバート|1998a|p=22}}。 |
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エリザベスの誕生後、アンは男子を産 |
エリザベスの誕生後、アンは男子を出産することができなかった。彼女は[[1534年]]と[[1536年]]に少なくとも2度の流産に見舞われた後に逮捕され[[ロンドン塔]]に幽閉された。アンは捏造された不義密通の容疑による有罪が宣告され、エリザベスが満2歳であった[[1536年]][[5月19日]]に[[斬首刑]]に処された{{sfn|Loades|2003|pp=6-7}}{{sfn|Haigh|2000|pp=1-3}}。
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この時、2歳8か月だったエリザベスは庶子とされ、王女の称号を剥奪された{{Efn|1536年法はこう定めている:エリザベスは「庶子である。…国王の直系の…いかなる合法的な継承者としての主張、異議申し立て、請求も完全に剥奪、除外そして禁止する。」エリザベスは彼女の母親が死に彼女の名前が変わったことを知らされていなかった。非常に利口な子供だった彼女は養育係にこう尋ねている「先生、何があったの?昨日の私は王女様 (Lady Princess)。今日の私はレディ・エリザベス (Lady Elizabeth)?」{{sfn|Somerset|2003|p=10}}}}。 アン・ブーリンの死の11日後にヘンリー8世は[[ジェーン・シーモア]]と再婚したが{{efn|「ヘンリー8世が妻を姦通罪で処分し、何人かの彼女の友人を断頭台へ送り、彼女の子を私生児とし、新たな王妃を得るのに1カ月で済んだ。これが枢密院、教会そして法律を己の意思で動かすテューダー王家の権力である。」{{sfn|Haigh|2000|p=1}}}}、彼女は王子[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード]]を生んだ12日後に死去している。エリザベスはエドワードの邸宅に住まい、彼の洗礼式の際には白衣{{enlink|chrisom}}または洗礼衣を捧持している{{sfn|Loades|2003|pp=7-8}}。 |
この時、2歳8か月だったエリザベスは庶子とされ、王女の称号を剥奪された{{Efn|1536年法はこう定めている:エリザベスは「庶子である。…国王の直系の…いかなる合法的な継承者としての主張、異議申し立て、請求も完全に剥奪、除外そして禁止する。」エリザベスは彼女の母親が死に彼女の名前が変わったことを知らされていなかった。非常に利口な子供だった彼女は養育係にこう尋ねている「先生、何があったの?昨日の私は王女様 (Lady Princess)。今日の私はレディ・エリザベス (Lady Elizabeth)?」{{sfn|Somerset|2003|p=10}}}}。 アン・ブーリンの死の11日後にヘンリー8世は[[ジェーン・シーモア]]と再婚したが{{efn|「ヘンリー8世が妻を姦通罪で処分し、何人かの彼女の友人を断頭台へ送り、彼女の子を私生児とし、新たな王妃を得るのに1カ月で済んだ。これが枢密院、教会そして法律を己の意思で動かすテューダー王家の権力である。」{{sfn|Haigh|2000|p=1}}}}、彼女は王子[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード]]を生んだ12日後に死去している。エリザベスはエドワードの邸宅に住まい、彼の洗礼式の際には白衣{{enlink|chrisom}}または洗礼衣を捧持している{{sfn|Loades|2003|pp=7-8}}。 |
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=== エドワード6世の治世とトマス・シーモア事件 === |
=== エドワード6世の治世とトマス・シーモア事件 === |
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[[File:Thomas Seymour, Baron Seymour from NPG.jpg|thumb|200px|トマス・シーモア]] |
[[File:Thomas Seymour, Baron Seymour from NPG.jpg|thumb|200px|トマス・シーモア]] |
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[[1547年]]、エリザベスが13歳の時に父ヘンリー8世が崩御し、幼 |
[[1547年]]、エリザベスが13歳の時に父ヘンリー8世が崩御し、幼少である異母弟の[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]が即位した。母方の伯父[[エドワード・シーモア (初代サマセット公)|ハフォード伯エドワード・シーモア]]はサマセット公爵に叙され[[護国卿|保護卿]](摂政)となって実権を握り、その弟の[[トマス・シーモア]]はスードリーのシーモア男爵に叙され[[海軍本部 (イギリス)#主な役職|海軍卿]]になった。プロテスタント貴族に取り巻かれたエドワード6世は急進的なプロテスタント化政策を推し進めることになる{{sfn|松田|1961|pp=493-495}}。 |
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ヘンリー8世最後の王妃であったキャサリン・パーは程なくトマス・シーモアと再婚する。夫妻はエリザベスを[[チェルシー (ロンドン)|チェルシー]]の邸宅に引き取った。シーモアは40歳に近かったが魅力的で「強いセックスアピール」を有しており{{sfn|Loades|2003|p=11}}、14歳のエリザベスも彼に強く惹かれ{{sfn|スターキー|2006|p=106}}、シーモアは寝間着姿でエリザベスの寝室に入り込んだり、馴れ馴れしく彼女の臀部を叩いたり{{sfn|ヒバート|1998a|pp=56-58}}といった性的な悪戯に興じていた。キャサリンも当初は二人の関係を黙認どころか積極的に手を貸していた{{sfn|スターキー|2006|p=101}}が、あまりに度を越した二人の親密ぶりに我慢がならなくなり{{efn|ケイト・アシュリーはもう一人のエリザベスの召使トマス・パリーに「王妃様(キャサリン)は夫がエリザベスを抱いているところに偶然出会った時、彼女は2人を我慢ならなくなった」と語っている{{sfn|Somerset|2003|p=11}}。}}、[[1548年]]5月にエリザベスは追い出されチェシャントにある{{仮リンク|アンソニー・デニー|en|Anthony Denny}}(ケイト・アシュリーの義兄)の屋敷に移った{{sfn|Loades|2003|p=16}}。歴史家の中にはこの事件が彼女の人生に悪影響を残したと考える者もいる{{sfn|Loades|2003|p=11}}。 |
ヘンリー8世最後の王妃であったキャサリン・パーは程なくトマス・シーモアと再婚する。夫妻はエリザベスを[[チェルシー (ロンドン)|チェルシー]]の邸宅に引き取った。シーモアは40歳に近かったが魅力的で「強いセックスアピール」を有しており{{sfn|Loades|2003|p=11}}、14歳のエリザベスも彼に強く惹かれ{{sfn|スターキー|2006|p=106}}、シーモアは寝間着姿でエリザベスの寝室に入り込んだり、馴れ馴れしく彼女の臀部を叩いたり{{sfn|ヒバート|1998a|pp=56-58}}といった性的な悪戯に興じていた。キャサリンも当初は二人の関係を黙認どころか積極的に手を貸していた{{sfn|スターキー|2006|p=101}}が、あまりに度を越した二人の親密ぶりに我慢がならなくなり{{efn|ケイト・アシュリーはもう一人のエリザベスの召使トマス・パリーに「王妃様(キャサリン)は夫がエリザベスを抱いているところに偶然出会った時、彼女は2人を我慢ならなくなった」と語っている{{sfn|Somerset|2003|p=11}}。}}、[[1548年]]5月にエリザベスは追い出されチェシャントにある{{仮リンク|アンソニー・デニー|en|Anthony Denny}}(ケイト・アシュリーの義兄)の屋敷に移った{{sfn|Loades|2003|p=16}}。歴史家の中にはこの事件が彼女の人生に悪影響を残したと考える者もいる{{sfn|Loades|2003|p=11}}。 |
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=== 宗教問題の解決 === |
=== 宗教問題の解決 === |
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[[File:Bishops Bible Elizabeth I 1569.jpg|thumb|200px|1596年版[[主教聖書]]{{enlink|Bishops' Bible}}の表紙に描かれたエリザベス1世。]] |
[[File:Bishops Bible Elizabeth I 1569.jpg|thumb|200px|1596年版[[主教聖書]]{{enlink|Bishops' Bible}}の表紙に描かれたエリザベス1世。]] |
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彼女はプロテスタントの教育を受けているが、カトリック風に十字架を身に |
彼女は[[プロテスタント]]の教育を受けているが、[[カトリック教会|カトリック]]風に[[十字架]]を身に着けることもあった。彼女の宗教政策は現実主義であった。<!--大きな理由の一つとして彼女自身の嫡出性の問題がある。プロテスタントおよびカトリックの法に基づけば彼女は厳密には庶子であったが、[[イングランド国教会]]派︵英国王を最高位の指導者とするがカトリック的な宗教的信条を保持する人々︶によって遡及して庶子であると宣言される危険性はローマ派に比べれば深刻な問題ではなかった。彼女にとって恐らく最も危惧することは、イングランド国教会派の支持を失い嫡出性を否定されることであった。この理由で、エリザベスがたとえ名目上だけでもプロテスタント主義を受け入れることについて、真剣な疑いは持たれなかった。︵ユグノーがもつ経済力こそ動機として直接的・現実的である︶-->
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エリザベスと枢密院はカトリックにとっての異端であるイングランドへの[[十字軍]]の脅威を認識していた。それ故にエリザベスはカトリックを大きく刺激せずにイングランド・プロテスタントの希望を処理する解決法を模索した。そのために彼女はより急進的な改革を求める[[ピューリタン]]思想には寛容ではなかった<ref>{{citebook |title=[[:en:This Sceptred Isle]] 1547-1660 |chapter=Disc 1 |isbn=0563557699 |last1=Lee |first1=Christopher |date=1995, 1998}}</ref>。その結果、1559年議会はエドワード6世のプロテスタント政策{{enlink|Edward VI of England#Reformation|en}}(国王を教会の首長とするが、聖職者の法衣などに多くのカトリックの要素を残している)に基づく教会法の制定に着手した{{sfn|Loades|2003|p=46}}。 |
エリザベスと枢密院はカトリックにとっての異端であるイングランドへの[[十字軍]]の脅威を認識していた。それ故にエリザベスはカトリックを大きく刺激せずにイングランド・プロテスタントの希望を処理する解決法を模索した。そのために彼女はより急進的な改革を求める[[ピューリタン]]思想には寛容ではなかった<ref>{{citebook |title=[[:en:This Sceptred Isle]] 1547-1660 |chapter=Disc 1 |isbn=0563557699 |last1=Lee |first1=Christopher |date=1995, 1998}}</ref>。その結果、1559年議会はエドワード6世のプロテスタント政策{{enlink|Edward VI of England#Reformation|en}}(国王を教会の首長とするが、聖職者の法衣などに多くのカトリックの要素を残している)に基づく教会法の制定に着手した{{sfn|Loades|2003|p=46}}。 |
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[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]は諸提案を強く支持したが、国王至上法は[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]とりわけ主教たちから抵抗を受けた。エリザベスにとって幸運なことにこの時、[[カンタベリー大主教]]を含む主教管区の多くが空席であった{{Efn|﹁幸運なことに26の主教管区のうち10が空位であった。なぜならこの時期、主教職の中に高い比率の死亡者数が起こっており、熱病が︵都合よく︶メアリーのカンタベリー大主教レジナルド・ポールの命を︵メアリー死去の24時間以内に︶奪っていた。﹂{{sfn|Somerset|2003|p=98}}}}{{Efn|﹁10人以上の死亡や病によって出席できない主教と﹃いまいましい大主教﹄の無関心があった。﹂ {{sfn|Black|1936|p=10}}}}。これによって諸提案を支持する貴族勢力は主教や保守的な貴族に投票で打ち勝つことができた。それにもかかわらず、イングランド国教会における称号についてエリザベスは、女性が有することを多くの人が受け入れがたいと考えるであろう﹁[[イングランド国教会首長|首長]]﹂{{enlink|Supreme Head}}の称号ではなく、﹁[[イングランド国教会最高統治者|最高統治者]]﹂{{enlink|Supreme Governor of the Church of England|Supreme Governor}}の称号を受け入れざるを得なかった{{sfn|スターキー|2006|p=408}}。新たな[[国王至上法]]は[[1559年]][[5月8日]]に法制化された。全ての役人は最高統治者たる国王へ忠誠の誓約が求められ、さもなくば役人の資格を剥奪されることになる{{sfn|松田|1961|p=500}}。メアリー1世によって行われた反対者への迫害を繰り返さないために[[異端|異端排斥法]]が廃止された。同時に{{仮リンク|礼拝統一法|en|Act of Uniformity 1558}}が可決され、国教会礼拝への参加と、[[1552年]]版[[聖公会祈祷書]]の使用を必須のものとしたが、[[国教忌避]]または不参加、不使用への罰則は厳しいものではなかった{{sfn|Somerset|2003|pp=101-103}}。
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[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]は諸提案を強く支持したが、国王至上法は[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]とりわけ主教たちから抵抗を受けた。エリザベスにとって幸運なことにこの時、[[カンタベリー大主教]]を含む主教管区の多くが空席であった{{Efn|﹁幸運なことに26の主教管区のうち10が空位であった。なぜならこの時期、主教職の中に高い比率の死亡者数が起こっており、熱病が︵都合よく︶メアリーのカンタベリー大主教レジナルド・ポールの命を︵メアリー死去の24時間以内に︶奪っていた。﹂{{sfn|Somerset|2003|p=98}}}}{{Efn|﹁10人以上の死亡や病によって出席できない主教と﹃いまいましい大主教﹄の無関心があった。﹂ {{sfn|Black|1936|p=10}}}}。これによって諸提案を支持する貴族勢力は主教や保守的な貴族に投票で打ち勝つことができた。それにもかかわらず、イングランド国教会における称号についてエリザベスは、女性が有することを多くの人が受け入れがたいと考えるであろう﹁[[イングランド国教会首長|首長]]﹂{{enlink|Supreme Head}}の称号ではなく、﹁[[イングランド国教会最高統治者|最高統治者]]﹂{{enlink|Supreme Governor of the Church of England|Supreme Governor}}の称号を受け入れざるを得なかった{{sfn|スターキー|2006|p=408}}。新たな[[国王至上法]]は[[1559年]][[5月8日]]に法制化された。全ての役人は最高統治者たる国王へ忠誠の誓約が求められ、さもなくば役人の資格を剥奪されることになる{{sfn|松田|1961|p=500}}。メアリー1世によって行われた反対者への迫害を繰り返さないために[[異端|異端排斥法]]が廃止された。同時に{{仮リンク|礼拝統一法|en|Act of Uniformity 1558}}が可決され、国教会礼拝への参加と、[[1552年]]版[[聖公会祈祷書]]の使用を必須のものとしたが、[[国教忌避]]または不参加、不使用への罰則は厳しいものではなかった{{sfn|Somerset|2003|pp=101-103}}。
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1563年には[[39箇条|39カ条信仰告白]]が |
1563年には[[39箇条|39カ条信仰告白]]が制定され、イングランド国教会体制が確立した{{Sfn|成瀬|1978|p=177}}。 |
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=== 結婚問題 === |
=== 結婚問題 === |
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[[File:Elizabeth1England.jpg|thumb|200px|right|ウィリアム・シーガーまたはジョージ・ガワーが描いたエリザベスの肖像(1585年)]] |
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エリザベスの治世 |
エリザベスの治世初期から彼女の結婚が待望されたが、誰が女王の婿になるかが問題となっていた。数多くの男性からの求婚があったものの彼女が結婚することはなく、生涯独身を貫いた理由は明らかではない。歴史家たちはトマス・シーモアとの一件が彼女に性的関係を厭わせた、もしくは自身が[[不妊|不妊体質]]であると知っていたと推測している{{sfn|Loades|2003|p=38}}{{sfn|Haigh|2000|p=19}}。 |
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エリザベスは統治のための男性の助けを必要とせず、また、姉のメアリー1世に起きたように、結婚によって外国の干渉を招く危険もあった{{sfn|森|2000a|pp=404-405}}。未婚でいることによって外交を有利に運ぼうという政策が基本にあったという政治的な理由{{Sfn|小西|1988}}{{Sfn|別枝|1979|p=40}}や母アン・ブーリンおよび母の従姉妹[[キャサリン・ハワード]]が父ヘンリー8世によって処刑され、また最初の求婚者トマス・シーモアも処刑されたことから結婚と﹁斧による死﹂が結びつけられた心理的な要因{{Sfn|別枝|1979|p=38}}とする説もある。一方で、結婚は後継者をもうけ王家を安泰にする機会でもあった{{sfn|Loades|2003|p=39}}。
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エリザベスは統治のための男性の助けを必要とせず、また、姉のメアリー1世に起きたように、結婚によって外国の干渉を招く危険もあった{{sfn|森|2000a|pp=404-405}}。未婚でいることによって外交を有利に運ぼうという政策が基本にあったという政治的な理由{{Sfn|小西|1988}}{{Sfn|別枝|1979|p=40}}や母アン・ブーリンおよび母の従姉妹[[キャサリン・ハワード]]が父ヘンリー8世によって処刑され、また最初の求婚者トマス・シーモアも処刑されたことから結婚と﹁斧による死﹂が結びつけられた心理的な要因{{Sfn|別枝|1979|p=38}}とする説もある。一方で、結婚は後継者をもうけ王家を安泰にする機会でもあった{{sfn|Loades|2003|p=39}}。
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[[ファイル:Robert Dudley Elizabeth Dancing.jpg|250px|thumb|ダドリーと踊るエリザベス]] |
[[ファイル:Robert Dudley Elizabeth Dancing.jpg|250px|thumb|ダドリーと踊るエリザベス]] |
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[[1560年]]9月にダドリーの妻が階段から転落死すると、驚 |
[[1560年]]9月にダドリーの妻が階段から転落死すると、驚愕すべきことではないが、大きなスキャンダルとなった。多くの人々が女王と結婚するためにダドリーが妻の死を企てたと疑った{{sfn|Somerset|2003|pp=166-167}}{{Efn|現代の歴史家の多くは殺人はありそうもないと考えている。乳癌や自殺が最も広く受け入れられている説明である {{Sfn|Doran|1996|p=44}}。散逸したと信じられていた[[検視官]]の報告書が2000年代後半に{{仮リンク|国立古文書館|en|The National Archives}}から発見され、それは何らかの暴力よりも階段からの転落に整合する{{sfn|Skidmore|2010|pp=230-233}}。}}。 [[死因審問]]は事故であると断定し、暫くの間はエリザベスもダドリーとの結婚を真剣に考えている。しかしながら、ウィリアム・セシル、{{仮リンク|ニコラス・スロックモートン|en|Nicholas Throckmorton}}そして多くの貴族たちが警告し、明確に反対した<ref>Wilson, 126-128</ref>。反対は圧倒的であり、もしも結婚が実行されたら貴族たちは反乱を起こすとの噂まで流れた{{Sfn|Doran|1996|p=45}}。
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この後、他に幾つか結婚の話はあったが、ロバート・ダドリーは10年近く候補と見なされ続けている{{Sfn|Doran|1996|p=212}}。エリザベス自身は彼と結婚する意志が無くなった後でも、彼の恋愛にはひどく嫉妬した{{Sfn|Adams|2002|pp=146, 384}}。[[1564年]]にエリザベスはダドリーを[[レスター伯|レスター伯爵]]に叙した。結局、彼は[[1578年]]に再婚しており、この結婚にエリザベスは幾度も不機嫌を示し、彼の妻である{{仮リンク|レティス・ノウルズ|en|Lettice Knollys}}を生涯憎んだ{{Sfn|Hammer|1999|p=46}}{{Sfn|Jenkins|2002|pp=245, 247}}。しかし依然としてダドリーは「(エリザベスの)情緒生活の中心であり続けた」と歴史家{{仮リンク|スーザン・ドーラン|en|Susan Doran}}は述べている{{Sfn|Doran|2003a|p=61}}。彼は[[アルマダの海戦]]のすぐ後に死去し、そしてエリザベスの死後、彼女の私物の中から「彼からの最後の手紙」と自筆されたダドリーからの手紙が発見されている<ref>Wilson, 303.</ref>。 |
この後、他に幾つか結婚の話はあったが、ロバート・ダドリーは10年近く候補と見なされ続けている{{Sfn|Doran|1996|p=212}}。エリザベス自身は彼と結婚する意志が無くなった後でも、彼の恋愛にはひどく嫉妬した{{Sfn|Adams|2002|pp=146, 384}}。[[1564年]]にエリザベスはダドリーを[[レスター伯|レスター伯爵]]に叙した。結局、彼は[[1578年]]に再婚しており、この結婚にエリザベスは幾度も不機嫌を示し、彼の妻である{{仮リンク|レティス・ノウルズ|en|Lettice Knollys}}を生涯憎んだ{{Sfn|Hammer|1999|p=46}}{{Sfn|Jenkins|2002|pp=245, 247}}。しかし依然としてダドリーは「(エリザベスの)情緒生活の中心であり続けた」と歴史家{{仮リンク|スーザン・ドーラン|en|Susan Doran}}は述べている{{Sfn|Doran|2003a|p=61}}。彼は[[アルマダの海戦]]のすぐ後に死去し、そしてエリザベスの死後、彼女の私物の中から「彼からの最後の手紙」と自筆されたダドリーからの手紙が発見されている<ref>Wilson, 303.</ref>。 |
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この時期がしばしば、エリザベスの「第二期治世」と呼ばれる由縁<ref>{{harvnb|Adams|2002|p=7}}; {{Harvnb|Hammer|1999|p=1}}; {{Harvnb|Collinson|2007|p=89}}</ref>は[[1590年代]]のエリザベスの統治体制である[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]の性格の違いによる。新たな世代が台頭していた。バーリー卿を別として、ほとんどの有力な政治家が1590年前後に世を去り、レスター伯は1588年、フランシス・ウォルシンガム卿は1590年、{{仮リンク|クリストファー・ハットン|en|Christopher Hatton}}卿は[[1591年]]に死去していた{{sfn|Collinson|2007|p=89}}。1590年代以前には目立っては存在しなかった{{Sfn|Doran|1996|p=216}}政府内の派閥闘争が際立った特徴となっている{{Sfn|Hammer|1999|pp=1-2}}。国家における最有力の地位をめぐるエセックス伯と[[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|ロバート・セシル]](バーリー卿の子息)そして各々の支持者間の激しい闘争が政治を損なった{{Sfn|Hammer|1999|pp=1, 9}}。エリザベスが信頼する医師ロペス博士の事件でも明らかなように、女王個人の権威は軽んじられていた{{Sfn|Hammer|1999|pp=9-10}}。エセックス伯の個人的な悪意によってロペス博士が反逆罪で告発された時、彼女はこの逮捕を怒り、無実であると信じていたにもかかわらず、処刑を止めることができなかった{{sfn|Lacey|1971|pp=117-120}}。 |
この時期がしばしば、エリザベスの「第二期治世」と呼ばれる由縁<ref>{{harvnb|Adams|2002|p=7}}; {{Harvnb|Hammer|1999|p=1}}; {{Harvnb|Collinson|2007|p=89}}</ref>は[[1590年代]]のエリザベスの統治体制である[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]の性格の違いによる。新たな世代が台頭していた。バーリー卿を別として、ほとんどの有力な政治家が1590年前後に世を去り、レスター伯は1588年、フランシス・ウォルシンガム卿は1590年、{{仮リンク|クリストファー・ハットン|en|Christopher Hatton}}卿は[[1591年]]に死去していた{{sfn|Collinson|2007|p=89}}。1590年代以前には目立っては存在しなかった{{Sfn|Doran|1996|p=216}}政府内の派閥闘争が際立った特徴となっている{{Sfn|Hammer|1999|pp=1-2}}。国家における最有力の地位をめぐるエセックス伯と[[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|ロバート・セシル]](バーリー卿の子息)そして各々の支持者間の激しい闘争が政治を損なった{{Sfn|Hammer|1999|pp=1, 9}}。エリザベスが信頼する医師ロペス博士の事件でも明らかなように、女王個人の権威は軽んじられていた{{Sfn|Hammer|1999|pp=9-10}}。エセックス伯の個人的な悪意によってロペス博士が反逆罪で告発された時、彼女はこの逮捕を怒り、無実であると信じていたにもかかわらず、処刑を止めることができなかった{{sfn|Lacey|1971|pp=117-120}}。 |
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エリザベスが老い、結婚も |
エリザベスが老い、結婚する可能性もなくなると、彼女のイメージは次第に変化していった。彼女は[[エドマンド・スペンサー]]の詩集﹃[[妖精の女王]]﹄では{{仮リンク|ベルフィービ|en|Belphoebe}}または[[アストライアー]]そして[[アルマダの海戦]]以後は永遠に老いることのない女王{{仮リンク|グロリアーナ|en|Gloriana}}として描写されている{{Efn|エリザベスの女官長{{enlink|Lady of the Bedchamber|en}}{{仮リンク|ブランチ・パーリー|en|Blanche Parry}}は1578年以前にバクトン教会に彼女の墓碑銘を刻んだ。これをエリザベス1世をGlorianaと描写した最初である{{sfn|Richardson|2007|p=145-148}}。}}。 彼女の肖像画は次第に写実的ではなくなり、実際の彼女よりも若く見えるより謎めいた[[イコン]]として描かれるようになっていった。実際の彼女の肌は1562年に罹患した[[天然痘]]の痕が残り、髪は半ば禿げあがり、カツラと化粧に頼っていた{{sfn|Loades|2003|p=92}}。ウォルター・ローリー卿は彼女を﹁時間が驚かされた貴婦人﹂と呼んだ{{sfn|Haigh|2000|p=171}}。しかしながら、彼女の美貌がより失せるとともに、廷臣たちはより一層、褒め称えるようになった{{sfn|Loades|2003|p=92}}。
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エリザベスはこの役を演じることを楽しんだが{{Efn|﹁ドラマのメタファーはエリザベスの治世にふさわしい。彼女の権力が幻影であったという意味で。そして幻影は彼女の力であった。フランス王アンリ4世と同様に、彼女は国家の安定と権威をもたらすイメージを企画した。彼女の行動全体の詳細に対する絶え間ない注目によって、彼女はキャストの残りを油断させないでおいて、そして彼女自身の役を女王として保った﹂{{sfn|Haigh|2000|p=179}}}}、彼女の人生の最後の10年間に彼女は自らの演技を信じ込むようになり始めた可能性がある。彼女は魅力的な、だが無作法な若者であるエセックス伯ロバート・デヴァルーを溺愛して甘やかすようになり、彼は︵女王が許す限り︶傍若無人に振る舞った{{sfn|Loades|2003|p=93}}。エセックス伯が戦場で無能ぶりを晒し続けるにもかかわらず、彼女は彼を幾度も軍事的な地位につけている。1599年にエセックス伯がアイルランドの戦場から逃亡すると、エリザベスは彼を自宅軟禁に置き、翌年には彼の独占特許状{{Efn|貿易や製造業に関する支配権を与える独占特許{{Sfn|Neale|1934|p=382}}。}}を奪い取った{{sfn|Loades|2003|p=97}}。1601年2月にエセックス伯はロンドンで反乱を起こして女王の拘束を企てたが、彼を支持する者は僅かしかいなく反乱は失敗に終わり、彼は[[2月25日]]に斬首された。エリザベスは自らの判断の誤りが、この事態を招く一端になったと感じた。﹁彼女の喜びは闇に閉ざされ、しばしばエセックスのために嘆き悲しみ涙を流した﹂と1602年のある観察者は記録している{{sfn|Black|1936|p=410}}。
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エリザベスはこの役を演じることを楽しんだが{{Efn|﹁ドラマのメタファーはエリザベスの治世にふさわしい。彼女の権力が幻影であったという意味で。そして幻影は彼女の力であった。フランス王アンリ4世と同様に、彼女は国家の安定と権威をもたらすイメージを企画した。彼女の行動全体の詳細に対する絶え間ない注目によって、彼女はキャストの残りを油断させないでおいて、そして彼女自身の役を女王として保った﹂{{sfn|Haigh|2000|p=179}}}}、彼女の人生の最後の10年間に彼女は自らの演技を信じ込むようになり始めた可能性がある。彼女は魅力的な、だが無作法な若者であるエセックス伯ロバート・デヴァルーを溺愛して甘やかすようになり、彼は︵女王が許す限り︶傍若無人に振る舞った{{sfn|Loades|2003|p=93}}。エセックス伯が戦場で無能ぶりを晒し続けるにもかかわらず、彼女は彼を幾度も軍事的な地位につけている。1599年にエセックス伯がアイルランドの戦場から逃亡すると、エリザベスは彼を自宅軟禁に置き、翌年には彼の独占特許状{{Efn|貿易や製造業に関する支配権を与える独占特許{{Sfn|Neale|1934|p=382}}。}}を奪い取った{{sfn|Loades|2003|p=97}}。1601年2月にエセックス伯はロンドンで反乱を起こして女王の拘束を企てたが、彼を支持する者は僅かしかいなく反乱は失敗に終わり、彼は[[2月25日]]に斬首された。エリザベスは自らの判断の誤りが、この事態を招く一端になったと感じた。﹁彼女の喜びは闇に閉ざされ、しばしばエセックスのために嘆き悲しみ涙を流した﹂と1602年のある観察者は記録している{{sfn|Black|1936|p=410}}。
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2024年5月18日 (土) 18:45時点における版
エリザベス1世 Elizabeth I | |
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イングランド女王 | |
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在位 | 1558年11月17日 - 1603年3月24日 |
戴冠式 | 1559年1月15日 |
別号 | アイルランド女王 |
出生 |
1533年9月7日 イングランド王国 グリニッジ プラセンティア宮殿 |
死去 |
1603年3月24日(69歳没) イングランド王国 ロンドン リッチモンド宮殿 |
埋葬 |
1603年4月28日 イングランド王国 ウェストミンスター寺院 |
家名 | テューダー家 |
王朝 | テューダー朝 |
父親 | ヘンリー8世 |
母親 | アン・ブーリン |
宗教 | イングランド国教会 |
サイン |
概要
ヘンリー8世の王女として誕生したが、2年半後に母アン・ブーリンが処刑されたため、庶子とされた。弟のエドワード6世はジェーン・グレイへの王位継承に際して姉たちの王位継承権を無効としている。続くカトリックのメアリー1世の治世ではエリザベスはプロテスタントの反乱を計画したと疑われて1年近く投獄されたものの、1558年にメアリー1世が崩御すると王位を継承した。 エリザベスはウィリアム・セシルをはじめとする有能な顧問団を得て統治を開始し、最初の仕事として、父の政策を踏襲し﹁国王至上法﹂を発令し、﹁礼拝統一法﹂によってイングランド国教会を国家の主柱として位置づけた。 エリザベスは結婚することを期待され、議会や廷臣たちに懇願されたが、結婚しなかった。この理由は多くの議論の的になっている。年を経るとともにエリザベスは処女であることで有名になり、当時の肖像画・演劇・文学によって称えられ崇拝された。 統治においてエリザベスは父や弟、姉よりも穏健であった[2]。彼女のモットーの一つは﹁私は見る、そして語らない﹂︵"video et taceo" ︶であった[3]。この方策は顧問団からは苛立ちをもって受けとめられたが、しばしば政略結婚から彼女を救っている。 1588年のスペイン無敵艦隊に対する勝利と彼女の名は永遠に結びつけられ、英国史における最も偉大な勝利者として知られることになった。エリザベスの没後20年ほどすると彼女は黄金時代の統治者として称えられるようになった[4]。 エリザベスの治世は、ウィリアム・シェイクスピアやクリストファー・マーロウといった劇作家によるイギリス・ルネサンス演劇や、フランシス・ドレークやジョン・ホーキンスなど優れた航海士の冒険者たちが活躍したエリザベス時代として知られる。 一部の歴史家たちはエリザベスを運に恵まれた短気な[注釈 3]、そしてしばしば優柔不断な統治者[6]と捉えている。治世の終わりには一連の経済的・軍事的問題によって彼女の人気は衰え、臣下たちは彼女の死に安堵している[7]。 エリザベスは政府が弱体で、王権が限定された時代、また近隣諸国の王家ではその王座を脅かす国内問題に直面していた時代におけるカリスマ的な実行者、そして粘り強いサバイバーとして知られる。弟と姉の短期間の治世を経た彼女の44年間の在位は、王国に好ましい安定をもたらし、国民意識を作り出すことになった[2]。生涯
出生から少女期
エドワード6世の治世とトマス・シーモア事件
メアリー1世の治世
即位
宗教問題の解決
結婚問題
ロバート・ダドリー
政治的側面
スコットランド女王メアリー
メアリーの退位と亡命
エリザベスの最初の対スコットランド政策は駐留フランス軍への対抗であった[124]。彼女はフランスがイングランドへ侵攻し、スコットランド女王メアリーをイングランド王位に据えようと企てることを恐れていた[注釈 23]。エリザベスはスコットランド・プロテスタントの反乱を援助するようウィリアム・セシルらから説得され、女王自身は消極的だったが、1559年末に出兵を認めた[126]。イングランド軍はリース城を落とせず苦戦したが、1560年に和議が成立し︵エディンバラ条約︶フランスの脅威を北方から除くことができた[注釈 24]。 メアリーは条約の批准を拒否している[128]。 1560年末にフランス王フランソワ2世が崩御し、メアリーは帰国することになった。翌1561年に彼女がスコットランドへ帰国した時、国内にはプロテスタントの教会が設立され、エリザベスに支援されたプロテスタント貴族によって国政が運営されていた[129]。 1563年、エリザベスは彼女自身の愛人ロバート・ダドリーを、本人の意思を確かめることなく、メアリーの夫に提案した。この縁談はメアリー、ダドリーともに熱心にはならず[130] 、1565年にメアリーは自身と同じくマーガレット・テューダーの孫でイングランド王位継承権を持つ従弟のダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと結婚した。この結婚はメアリーの没落をもたらす一連の失策の端緒となった。 メアリーとダーンリー卿はすぐに不仲になる[131]。そして、ダーンリー卿がメアリーの愛人と疑ったイタリア人秘書ダヴィッド・リッツィオが惨殺されると、彼はその関与を疑われ、スコットランド国内において急速に不人気になった[132][133]。1566年6月19日、メアリーは王子ジェームズ︵後のスコットランド王ジェームズ6世/イングランド王ジェームズ1世︶を出産した。 1567年2月10日、ダーンリー卿が病気療養していた屋敷が爆破されて彼の絞殺死体が発見され、ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンが強く疑われた[134][135]。それからほどない5月15日に、メアリーはボスウェル伯と結婚し、彼女自身が夫殺しに関わっていたとの疑惑を呼び起こした[136]。 これらの出来事はメアリーの急速な失脚とロッホリーヴン城への幽閉という事態を招く。スコットランド貴族は彼女に退位とジェームズへの譲位を強いた。ジェームズはプロテスタントとして育てるためにスターリング城へ移された。1568年、メアリーはロッホリーヴンから逃亡したが、戦いに敗れ、国境を越えてイングランドへ亡命した。当初、エリザベスはメアリーを復位させようと考えたが、結局、彼女と枢密院は安全策を選ぶことにした。イングランド軍とともにメアリーをスコットランドへ帰国させる、もしくはフランスやイングランド内のカトリック敵対勢力の手に渡す危険を冒すより、彼らは彼女をイングランドに抑留することにし、メアリーはこの地で19年間幽閉されることになる[137]。メアリーと陰謀事件
戦争と外交
ネーデルラント派兵
アルマダの海戦
フランス王アンリ4世への支援
1589年にプロテスタントのアンリ4世がフランス王位を継承すると、エリザベスは彼に援軍を送った。これは1563年に失敗に終わったル・アーブル占領以来のフランスへの軍事的冒険だった。アンリ4世の継承はカトリック同盟とフェリペ2世から強く異議を唱えられており、エリザベスは海峡諸港をスペインに奪われることを恐れていた。しかしながら、この後のフランスにおけるイングランド軍の軍事行動は秩序を欠き、効果のないものだった[171]。 兵4,000を率いるウィラビー卿は、エリザベスの命令を無視して行動し、ほとんど戦果もなく北フランスを徘徊しただけだった。彼は半数の兵を失い、1589年12月に無秩序に撤退した。1591年に兵3,000を率いてブルターニュで戦った ジョン・ノリスはより悲惨な結果に終わっている。これらの遠征において、エリザベスは司令官たちの補給や増援の要請を出し渋っていた。ノリスは自らロンドンへ赴き支援を嘆願している。彼の不在中の同年5月にカトリック同盟はクランの戦いで英軍の残余を撃滅した。 7月、エリザベスはアンリ4世のルーアン包囲を援助すべくエセックス伯率いる軍隊を派遣した。結果は惨憺たるものだった。エセックス伯は何らなすことなく1592年1月に帰国し、アンリ4世は4月に解囲を余儀なくされた[172]。この時もエリザベスは海外へ赴いた司令官を統制することができなかった。﹁彼は何処にいて、何をしているのか、何をするのか﹂﹁私たちは全く知らない﹂と彼女はエセックス伯に書き送っている[173]。アイルランド
晩年
崩御
評価
エリザベスは哀悼されたが、多くの人々は彼女の死に安堵した[7]。後を継いだジェームズ1世に対する期待は高く、当初、人々は1604年のスペインとの戦争の終結と減税によって報われている。1612年のロバート・セシルの死まで、政府は従来の政策を踏襲していた[210]。だが、ジェームズ1世が国政を寵臣に委ねるようになると人気は衰え、そして1620年代に郷愁的なエリザベス崇拝が復活する[211]。エリザベスはプロテスタント主義と黄金時代のヒロインとして賞賛された[212]。エリザベスの治世の晩年に培った勝利者のイメージ︵背景にあった派閥闘争や軍事的、経済的な苦境に反してだが[213]︶が額面通りに受け取られ、彼女の評判が膨れ上がった。グロスター主教ゴッドフリー・グッドマンは﹁スコットランド人の政府を経験すると、女王は復活するように思われた。その時は彼女の記憶がとても拡大していた。﹂と語っている[214]。エリザベスの治世は国王、教会そして議会がバランスよく機能していた時代だったかのように理想化された[215]。年譜
※- 1582年10月15日(グレゴリオ改暦日)以降における参考事項の日付のみグレゴリオ暦とした。残りの日付は、1月1日を年初とするユリウス暦である。
- 年齢は満年齢。
西暦 | 年
齢 |
エリザベス1世 / イングランド関連事項 | 参考事項 |
---|---|---|---|
1533年 | 0 | (9月7日)グリニッジ宮殿で出生。 | |
1535年 | 2 | (7月6日)トマス・モア処刑。 | |
1536年 | 3 | (5月19日)母アン・ブーリンが処刑される。
(5月30日)父・ヘンリー8世がジェーン・シーモアと結婚。 (7月)第一継承法により庶子となり、王位継承権を剥奪される。 |
|
1537年 | 4 | (10月12日)弟エドワード出生。数日後に王妃ジェーン・シーモアが死去。 | |
1540年 | 7 | (1月6日)ヘンリー8世がアン・オブ・クレーヴズと結婚。
(7月9日)ヘンリー8世が王妃アン・オブ・クレーヴズを離婚。 (7月28日)ヘンリー8世がキャサリン・ハワードと結婚。 |
(9月27日)ローマ教皇パウルス3世がイエズス会を認可。 |
1541年 | 8 | ジャン・カルヴァンが教会規則を制定。ジュネーヴでの宗教改革に着手。 | |
1542年 | 9 | (2月13日)王妃キャサリン・ハワードが姦通罪で処刑される。 | (12月8日)メアリー・ステュアート出生。生後6日でスコットランド王位を継承。 |
1543年 | 10 | (7月12日)ヘンリー8世がキャサリン・パーと結婚。
(7月)第三継承法により、王位継承権が復活。 |
|
1544年 | 11 | (12月20日)王妃キャサリン・パーへ『罪深い魂の鏡』の英訳書を贈呈。 | |
1545年 | 12 | (3月15日)トリエント公会議召集。 | |
1547年 | 14 | (1月28日)ヘンリー8世死去。異母弟エドワード6世即位。
(5月ごろ)王太后キャサリン・パーが海軍卿トマス・シーモアと再婚。 (5月以降)トマス・シーモア夫妻に引き取られる。 |
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1548年 | 15 | (9月5日)キャサリン・パー死去。 | |
1549年 | 16 | (1 - 3月)トマス・シーモア事件。関与を疑われる。 | |
1553年 | 20 | (7月6日)エドワード6世死去。 | |
1554年 | 21 | (1 - 2月)ワイアットの乱。 | |
1555年 | 22 | メアリー1世のプロテスタント迫害が始まる。
(5月)軟禁を解かれ、ハットフィールドハウスへ移る。 |
(9月25日)ドイツでアウクスブルクの和議。 |
1556年 | 23 | (1月16日)フェリペ2世、スペイン王に即位。 | |
1558年 | 25 | (1月)大陸領土カレーがフランス軍に奪回される。
(11月17日)メアリー1世死去。王位を継承する。 |
|
1559年 | 26 | (1月15日)ウェストミンスター寺院で戴冠式を挙行。 | (4月3日)カトー・カンブレジ条約、イタリア戦争終結。 |
1560年 | 27 | (7月5日)スコットランド、フランスとの和議を締結(エディンバラ条約)。
(9月8日)ロバート・ダドリーの夫人エイミー・ロブサート変死。 |
(8月)フランス王フランソワ2世死去。シャルル9世即位。 |
1561年 | 28 | (3月)フランスでユグノー戦争勃発。
(8月20日)スコットランド女王メアリー帰国。 | |
1562年 | 29 | (10月)ユグノーとハンプトン・コート条約を結んでフランスへ派兵し、ル・アーヴルを占領。 | |
1563年 | 30 | 39箇条信仰告白を制定。
(7月28日)ル・アーヴルのイングランド軍降伏。 |
|
1565年 | 32 | (7月29日)スコットランド女王メアリー、ダーンリー卿と再婚。 | |
1566年 | 33 | (6月19日)スコットランド女王メアリーが王子ジェームズを出産。 | |
1567年 | 34 | (2月10日)ダーンリー卿が暗殺される。
(5月15日)スコットランド女王メアリーがボスウェル伯と再婚。 (6月)スコットランドで反乱が発生し、スコットランド女王メアリー退位。ジェームズ6世即位。 | |
1568年 | 35 | (5月)イングランドに亡命したメアリー・ステュアートを幽閉。 | オランダ独立戦争(八十年戦争)勃発。 |
1569年 | 36 | (11月 - 1月)北部諸侯の乱。 | |
1570年 | 37 | (2月25日)教皇ピウス5世により破門される (レグナンス・イン・エクスケルシス)。 | |
1571年 | 38 | (2月25日)リドルフィ陰謀事件。 | (10月7日)レパントの海戦 |
1572年 | 39 | (6月2日)ノーフォーク公を処刑。 | (8月24日)サン・バルテルミの虐殺。 |
1574年 | 41 | (5月30日)フランス王シャルル9世死去。アンリ3世即位。 | |
1579年 | 46 | (8月)来英したフランス王の弟アンジュー公フランソワから求婚を受ける。 | |
1580年 | 47 | (11月)スペイン王フェリペ2世がポルトガル王に即位。スペイン=ポルトガル同君連合成立。 | |
1581年 | 48 | (7月26日)ネーデルラント北部諸州が独立宣言。 | |
1583年 | 50 | (11月)スロックモートン陰謀事件。 | |
1585年 | 52 | (8月20日)オランダ人反乱軍とノンサッチ条約を締結し、オランダ独立戦争に介入。英西戦争開戦。 | |
1586年 | 53 | (8月)バビントン陰謀事件。メアリー・ステュアートの関与を示す証拠を摘発。 | |
1587年 | 54 | (2月8日)メアリー・ステュアート処刑。 | |
1588年 | 55 | (7月 - 8月)アルマダの海戦でスペイン無敵艦隊を撃退。
(9月4日)レスター伯ロバート・ダドリー死去。 |
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1589年 | 56 | アイルランドでティロン伯が反乱を起こす。(アイルランド九年戦争)
(4月 - 6月)イングランド艦隊がポルトガルを攻撃するが失敗に終わる。(イングランドの無敵艦隊) (9月)アンリ4世支援のためにフランスへ派兵。 |
(8月2日)フランス王アンリ3世が暗殺される(ヴァロワ朝断絶)。アンリ4世即位(ブルボン朝)。 |
1593年 | 60 | (7月25日)フランス王アンリ4世がカトリックに改宗。 | |
1596年 | 63 | (6月)イングランド艦隊がカディス港を襲撃。 | |
1598年 | 65 | (8月4日)バーリー卿ウィリアム・セシル死去。 | (4月13日)フランス王アンリ4世がナント勅令を発する。(ユグノー戦争終結)
(9月13日)スペイン王フェリペ2世死去。 |
1600年 | 67 | (9月)アイルランド総督エセックス伯が反乱鎮圧に失敗して無断帰国。
(12月31日)イギリス東インド会社設立。 |
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1601年 | 68 | エリザベス救貧法を制定。
(2月)エセックス伯がロンドンで反乱を起こすが、失敗して処刑される。 (11月30日)議会で黄金演説を行う。 |
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1603年 | 69 | (3月24日)リッチモンド宮殿で死去。スコットランド王ジェームズ6世が王位を継承。(イングランド王ジェームズ1世) |
称号
- 1533年9月7日-1536年7月: 王女エリザベス (The Princess Elizabeth)
- 1536年7月-1558年11月17日: レディ・エリザベス (The Lady Elizabeth)
- 1558年11月17日-1603年3月24日:女王陛下 (Her Majesty The Queen)
系図
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| マーガレット・ボーフォート |
| トマス・スタンリー ダービー伯 |
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| エリザベス・オブ・ヨーク |
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ジェームズ4世 スコットランド王 |
| マーガレット・テューダー |
| アーチボルド・ダグラス アンガス伯 |
| アーサー・テューダー ウェールズ公 |
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| フアナ カスティーリャ女王 |
| マリア・デ・アラゴン ポルトガル王妃 |
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| キャサリン・オブ・アラゴン |
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| メアリー・ブーリン |
| アン・ブーリン |
| ヘンリー8世 |
| ジェーン・シーモア |
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| キャサリン・パー |
| トマス・シーモア |
| エドワード・シーモア サマセット公 |
| チャールズ・ブランドン サフォーク公 |
| メアリー・テューダー |
| ルイ12世 フランス王 |
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ジェームズ5世 スコットランド王 |
| マシュー・ステュアート レノックス伯 |
| マーガレット・ダグラス |
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| カール5世 スペイン王・神聖ローマ皇帝 |
| イサベル・デ・ポルトゥガル |
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| キャサリン・キャリー |
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| メアリー1世 |
| エリザベス1世 |
| エドワード6世 |
| ジョン・ダドリー ノーサンバランド公 |
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| ヘンリー・グレイ サフォーク公 |
| フランセス・ブランドン |
| エレノア・ブランドン |
| ヘンリー・クリフォード カンバーランド伯 |
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メアリー1世 スコットランド女王 |
| ヘンリー・ステュアート ダーンリー卿 |
| チャールズ・ステュアート レノックス伯 |
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| マリア 神聖ローマ皇后 |
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| フェリペ2世 スペイン王・ポルトガル王 |
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| ウォルター・デヴァルー エセックス伯 |
| レティス・ノウルズ |
| ロバート・ダドリー レスター伯 |
| ギルフォード・ダドリー |
| ジェーン・グレイ |
| エドワード・シーモア ハートフォード伯 |
| キャサリン・グレイ |
| メアリー・グレイ |
| マーガレット・クリフォード |
| ヘンリー・スタンリー ダービー伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| ジェームズ6世/1世 スコットランド王・イングランド王 |
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| アラベラ・ステュアート |
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| アナ |
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| フェリペ3世 スペイン王・ポルトガル王 |
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| ロバート・デヴァルー エセックス伯 |
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| エドワード・シーモア |
| トマス・シーモア |
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| ファーディナンド・スタンリー ダービー伯 |
| ウィリアム・スタンリー ダービー伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| フランセス・デヴァルー |
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| ウィリアム・シーモア サマセット公 |
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| アン・スタンリー |
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エリザベス1世を扱った作品
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●エリザベス女王︵Les Amours de la reine Élisabeth, 1912年/フランス/監督: ルイ・メルカントン/主演: サラ・ベルナール︶ ●メアリー・オブ・スコットランド︵Mary of Scotland, 1936年/アメリカ/監督‥ジョン・フォード/主演‥キャサリン・ヘプバーン︶ - フローレンス・エルドリッジがエリザベスを演じた。 ●無敵艦隊︵Fire Over England, 1937年/イギリス/監督‥ウィリアム・K・ハワード/主演‥ローレンス・オリヴィエ、ヴィヴィアン・リー︶ - フローラ・ロブソンがエリザベスを演じた。 ●女王エリザベス︵The Private Lives of Elizabeth and Essex, 1939年/アメリカ/監督‥マイケル・カーティス/主演‥ベティ・デイヴィス、エロール・フリン︶ - エリザベスとエセックス伯の関係を描く。 ●悲恋の王女エリザベス︵Young Bess, 1953年/アメリカ/監督‥ジョージ・シドニー/主演‥ジーン・シモンズ、スチュワート・グレンジャー︶エリザベスとトマス・シーモアの関係を描く。 ●ヴァージン・クイーン︵The Virgin Queen, 1955年/アメリカ/監督‥ヘンリー・コスター/主演‥ベティ・デイヴィス、リチャード・トッド︶ - エリザベスとウォルター・ローリーの関係を描く。 ●クイン・メリー/愛と悲しみの生涯︵Mary, Queen of Scots, 1971年/イギリス‥チャールズ・ジャロット/主演‥ヴァネッサ・レッドグレイヴ︶ - グレンダ・ジャクソンがエリザベスを演じた。 ●エリザベス︵1998年/イギリス/監督‥シェカール・カプール/主演‥ケイト・ブランシェット︶ ●恋におちたシェイクスピア︵1998年/アメリカ/監督‥ジョン・マッデン/主演‥ジョセフ・ファインズ、グウィネス・パルトロー︶ - ジュディ・デンチがエリザベスを演じた。 ●エリザベス:ゴールデン・エイジ︵2007年/イギリス・フランス/監督‥シェーカル・カプール/主演‥ケイト・ブランシェット︶ - 1998年の﹃エリザベス﹄の続編。 ●ふたりの女王 メアリーとエリザベス︵2018年/アメリカ・イギリス/監督‥ジョージー・ルーク/主演・メアリー役‥シアーシャ・ローナン、エリザベス役‥マーゴット・ロビー︶テレビドラマ
●エリザベスR︵Elizabeth R, 1971年/イギリス/ミニシリーズ/主演‥グレンダ・ジャクソン︶ ●エリザベス1世 〜愛と陰謀の王宮〜︵2005年/イギリス・アメリカ/ミニシリーズ/主演‥ヘレン・ミレン︶戯曲
●フリードリヒ・シラー﹃メアリー・ステュアート﹄ (Maria Stuart)オペラ
●ジョアキーノ・ロッシーニ﹃イングランドの女王エリザベッタ﹄ - 序曲が﹃セビリアの理髪師﹄にも転用されたことで知られる。 ●ガエターノ・ドニゼッティ﹃マリア・ストゥアルダ﹄ (Maria Stuarda) - シラーの戯曲を原作とするオペラ。 ●ガエターノ・ドニゼッティ﹃ロベルト・デヴリュー﹄ (Roberto Devereux) ●ベンジャミン・ブリテン﹃グローリアーナ﹄ (Gloriana) - リットン・ストレイチーの﹁エリザベスとエセックス﹂を原作とするオペラ。ミュージカル
●レディ・ベス ︵2014年/2017年︶/日本小説
●榛名しおり﹃王女リーズ―テューダー朝の青い瞳﹄講談社︿講談社X文庫ホワイトハート﹀、1996年。ISBN 4062552736。漫画
●こざき亜衣﹃セシルの女王﹄ ●びっけ﹃王国の子﹄コンピューターゲーム
●﹃シヴィライゼーション﹄シリーズ - 第1作からイギリス文明の指導者として登場。ギリシャのアレキサンダー大王、モンゴルのチンギス・ハーン、ズールー王国のシャカ、インドのマハトマ・ガンジーとともに、︵ナンバリングタイトルでは︶第5作﹃Civilization 5﹄まで皆勤の指導者である[237]。脚注
注釈
出典
参考文献
関連書籍
●リットン・ストレイチー 著、福田逸 訳﹃エリザベスとエセックス 王冠と恋﹄中公文庫、1987年/新版1999年。 ●池田理代子、宮本えりか﹃女王エリザベス﹄中公文庫コミック。ISBN 4-12-203972-X。 ●石井美樹子︵監修︶ 編﹃エリザベス女王﹄︿学習まんが人物館﹀2004年。ISBN 4-09-270016-4。 ●イディス・シットウェル 著、和泉敬子 訳﹃エリザベス前奏曲 英国王室裏面史﹄文修堂、1965年。 ●リットン・ストレイチー 著、福田逸 訳﹃エリザベスとエセックス 王冠と恋﹄中央公論社、1983年。 ●植村雅彦﹃エリザベス1世 文芸復興期の女王﹄教育社歴史新書︿西洋史﹀、1981年。 ●フランシス・A・イエイツ 著、西沢竜生,正木晃 訳﹃星の処女神エリザベス女王 十六世紀における帝国の主題﹄東海大学出版会、1982年。 ●指昭博﹃イギリス宗教改革の光と影 メアリとエリザベスの時代﹄ミネルヴァ書房、2010年。 ●小林章夫﹃女王、エリザベスの治世 先進国の王政記﹄角川oneテーマ21、2012年。 ●Plaidy, Jean Queen of this realm ,New York:Three river press,︵初版は別の出版社で1985年、この版の出版年は不明︶ISBN 0-609-81020-0 ●Camden, William. History of the Most Renowned and Victorious Princess Elizabeth. Wallace T. MacCaffrey (ed). Chicago: University of Chicago Press, selected chapters, 1970 edition. OCLC 59210072. ●Clapham, John. Elizabeth of England. E. P. Read and Conyers Read (eds). Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 1951. OCLC 1350639. ●Elizabeth I: The Collected Works Leah S. Marcus, Mary Beth Rose & Janel Mueller (eds.). Chicago: University of Chicago Press, 2002. ISBN 0-226-50465-4. ●Elizabeth: The Exhibition at the National Maritime Museum. Susan Doran (ed.). London: Chatto and Windus, 2003. ISBN 0-7011-7476-5. ●Ridley, Jasper. Elizabeth I: The Shrewdness of Virtue. New York : Fromm International, 1989. ISBN 0-88064-110-X.関連項目
外部リンク
- William Camden. Annales Rerum Gestarum Angliae et Hiberniae Regnante Elizabetha. (1615 and 1625.) ハイパーテキスト版、英訳付き。Dana F. Sutton (ed.), 2000. Retrieved 7 December 2007.
- "エリザベス1世の関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
- Elizabeth I of Englandに関連する著作物 - インターネットアーカイブ
- エリザベス1世の作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- Annals of the Reformation and Establishment of Religion, and Other Various Occurrences in the Church of England, During Queen Elizabeth's Happy Reign by John Strype (1824 ed.): Vol. I, Pt. I, Vol. I, Pt. II, Vol. II, Pt. I, Vol. II., Pt. II, Vol. III, Pt. I, Vol. III, Pt. II, Vol. IV
- エリザベス1世の肖像画と貴重な絵画。大英博物館および 大英図書館より。
- 『エリザベス(1世)』 - コトバンク
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