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* [[ヤーコプ・ブルクハルト]]([[柴田治三郎]]訳)『[[イタリア・ルネサンスの文化]]』([[中公クラシックス]]全2巻、[[中央公論社]]、2002年)/新井靖一訳『イタリア・ルネサンスの文化』(筑摩書房、2007年)。 |
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* [[インドロ・モンタネッリ]]、ロベルト・ジェルヴァーゾ『ルネサンスの歴史』([[中公文庫]] 上・下) |
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* [[樺山紘一]]『世界の歴史:16 ルネサンスと地中海』(中公文庫) |
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* [[ピーター・バーク]](亀長洋子訳)『ルネサンス』([[岩波書店]]、2005年) |
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*[[池上俊一]]監修『原典 イタリア・ルネサンス人文主義』([[名古屋大学出版会]]、2010年) |
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*『原典 イタリア・ルネサンス人文主義』 ([[池上俊一]]監修、[[名古屋大学出版会]]、2010年) |
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2012年12月23日 (日) 07:40時点における版
ルネサンス |
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テーマ別 |
建築 舞踊 文学 音楽 美術 哲学 科学 技術 戦争 |
国別 |
イングランド フランス ドイツ イタリア ネーデルラント 北欧 ポーランド スペイン |
カテゴリ |
ルネサンス︵仏: Renaissance 直訳すると﹁再生﹂︶とは、一義的には、14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようとする歴史的文化革命あるいは運動を指す。また、これらが興った時代︵14世紀 - 16世紀︶を指すこともある。
日本では長らく文芸復興と訳されてきたが、︵文芸のみでなく広義に使われるため︶現在では余り使われない。ルネッサンスとも表記され、通俗的に﹁復興﹂﹁再生﹂を指す言葉として用いられている場合、例えばコスメティック・ルネッサンス、あるいはカルロス・ゴーン著﹃ルネッサンス﹄などは、ルネッサンスと表記されることが多い。現在の歴史学、美術史等ではルネサンスという表記が一般的である。
ルネサンスの中心都市であったフィレンツェ
ルネサンス︵イタリア語でリナシメント rinascimento︶は北イタリア、フィレンツェなど地中海貿易で繁栄したトスカーナ地方の諸都市を中心に、教会やイスラム世界、東ローマ帝国の保存していた古典文化の影響を受けて14世紀頃にはじまった、というのが一般的な理解である。
その先駆者とされるのは神聖ローマ帝国皇帝のフェデリコ2世︵1194 - 1250年︶である。フェデリコ2世はローマ教皇と敵対し十字軍との戦いでギリシャ、ローマ文明の取り入れが失敗に終わる。その後フィレンツェ出身の詩人ダンテ︵1265 - 1321年︶が政敵によってフィレンツェを追放され、流浪の生活の中で代表作﹁神曲﹂を完成させた。古代ローマの詩人・ウェルギリウスが地獄・煉獄巡りの案内人として登場し、主人公が地獄・煉獄から魂の浄化を経て天国へ昇ってゆくという内容であり、ローマの古典文学とキリスト教による救済との調和を図った一大叙事詩である。続いてペトラルカ︵1304年 - 1374年︶は古典古代の時代こそ人間性が肯定されていた理想の時代であり、中世︵キリスト教公認以降のローマ帝国が衰退した時代︶を暗黒時代と考えた。ペトラルカは古代の文献を収集し、ラテン語による詩作、著述を行ったが、このように古典の教養を持ち、人間の生き方について思索する知識人を人文主義者︵Umanista ウマニスタ︶と呼ぶようになった。また、1453年のコンスタンティノープルの陥落︵東ローマ帝国滅亡︶の前後には、東ローマから多数のギリシャ人の知識人がイタリアへ亡命してきた。末期の東ローマ帝国では古代ギリシャ文化の研究が盛んになっており︵パレオロゴス朝ルネサンス︶、彼等が携えてきた古代ギリシャ・ローマの書物や知識は古代文化の研究を活発化させた。人文主義者の一人、フィチーノ︵1433年 - 1499年︶はメディチ家のプラトン・アカデミーの中心人物で、プラトンの著作を翻訳した。
イタリアは古代ローマ帝国の文化が栄えた土地で、古代の遺物も多く、彫刻家、建築家らはこれらから多くを学ぶことができた。建築の分野ではブルネレスキがルネサンスの建築家の始めとされる。ブルネレスキは当時困難とされていた、フィレンツェ大聖堂︵サンタ・マリア・デル・フィオーレ︶に大ドームをかけるという課題に合理的な解決をもたらし、世の賞賛を浴びた。中世の職人とは異なる、高い教養と科学的知識を持つ建築家の誕生である。﹁人間はあらゆるものになる可能性を持っている﹂と説いた人文主義者アルベルティは建築論と実作、絵画論など多くの分野で業績を挙げており、ルネサンスの理想である﹁万能の天才﹂の一典型とされる。また、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロはそれぞれ絵画、建築、彫刻など多方面での才能を発揮した。
芸術表現の特徴としては、キリスト教の洗脳による先入観から解放するために、キリスト教が罪と定義する裸、すなわちカナンが奴隷となった原因であるところの﹁裸を見る﹂行為を奨励し、裸図や裸像を作った。また、ドナテッロやミケランジェロは、ユダヤ王ダビデの像のペニスを割礼のない様相を強調して彫り、ダビデがユダヤ人ではなくパレスチナ人であったことを主張した。さらに、レオナルドダビンチにおいては、絵画﹃最後の晩餐﹄で、聖杯の血の意味を暗示して、イエスが救済したのは、旧約聖書の律法において死刑にあたる女性とイエスのような子の命であることを、表現した。[要出典]
フィレンツェ・ルネサンスの黄金時代を築いたロレンツォ・デ・メディ チ
音楽の分野での﹁ルネサンス音楽﹂という用語は、単にルネサンス期に作られた音楽という意味合いが強く、実際に音楽家たちが﹁復興﹂を意識するようになったのはルネサンス末期である。16世紀後半フィレンツェ、ジョヴァンニ・デ・バルディ伯をパトロンとして、カメラータと呼ばれる研究グループが結成され、﹁古代ギリシア音楽の復興﹂を目指す試みがなされた。主要なメンバーは、ジュリオ・カッチーニ、リュート奏者ヴィンチェンツォ・ガリレイ︵科学者ガリレオ・ガリレイの父︶、ピエトロ・ストロッツィである。彼らは従来のポリフォニー音楽では均整の取れた美しさと引き換えに歌詞が聞き取りづらいことを批判して、より人間の感情を強調できるモノディ様式とよばれる独唱のスタイルを生み出し、その成果はバロック音楽への発展に繋がった。また、カメラータの活動に刺激された同時代の作曲家は、ギリシア悲劇を思想上の範としてオペラを創出し、ヤコポ・ペーリの﹃ダフネ﹄︵確認できるうちでは最古のオペラ︶や、クラウディオ・モンテヴェルディの﹃ポッペーアの戴冠﹄といった傑作が生まれた。
イタリアでルネサンス文化が開花したのは、フィレンツェ、ミラノ、ローマ、ヴェネツィア、ナポリ、フェッラーラなどの都市である︵すべての都市ではない︶。学芸を愛好し、芸術家たちを育てたパトロンとして、フィレンツェのメディチ家、ミラノのスフォルツァ家、フェッラーラのエステ家などが知られている。15世紀末にはサヴォナローラの改革によりフィレンツェの芸術は衰退し、フランスとの抗争でミラノのスフォルツァ家も追放された︵1515年︶が、ローマでは教皇によるサン・ピエトロ大聖堂などの建設が行われ、多くの芸術家を集めることになった。ローマ略奪︵1527年︶によりローマは一時荒廃したが、ヴェネツィア共和国やトスカーナ大公国︵フィレンツェ︶で美術の隆盛が見られた。
ルネサンスの時代は明るい時代ではなく、ペストの流行や︵マキャヴェッリが﹃君主論﹄を著したことで知られるように︶政争、戦乱の続く波乱の時代であった。文化を享受していたのも宮廷や教皇庁など一部の人々に過ぎず、魔術や迷信もまだ強く信じられていた。
ルネサンスのイタリアは文化の先進国としてヨーロッパを近代に導く役割を果たしたが、国内は教皇領や小国に分裂し、またイタリア戦争後は外国の勢力下に置かれたため国家統一が遅れ、政治・社会の近代化では立ち遅れる結果になったのである。
1600年には宇宙の無限性を唱えたブルーノが異端として火刑に処せられた。イタリアにおいては自由な科学研究も困難な状況であることが示され、ルネサンスの時代は終焉を迎えたというべきであろう︵ガリレオ・ガリレイの項目も参照。なお、17世紀のローマはカトリック教会を中心にバロック美術の時代に入り、直ちに文化的に不毛な状態になったわけではない︶。
アルノルフィニ夫妻の肖像、ヤン・ファン・エイク、1434年
一般に、15世紀末から16世紀には、程度の差はあるが、ルネサンスの文化はアルプス以北の西欧や一部東欧諸国にも波及したと考えられている︵北方ルネサンス︶。しかし、ルネサンスを社会形態まで含めた総体的運動として捉えた場合、ルネサンスは本質的にイタリア固有の現象であって、絶対王政が確立しつつあった西欧諸国にルネサンスを認めない立場もある。また、ルネサンスと宗教改革の関連についても議論がある。
以下に、一般に﹁ルネサンス﹂と評される各国の文化を挙げる。必ずしも古典の復興を目指したものとは限らないが、イタリア・ルネサンスに触発され発達したものや、明らかに中世文化とは異なる特徴を持つものなどが含まれる。これらは一時的な流行、単なる模倣に留まらず、各国の国民文化の核にもなっていったものである。
ネーデルラント
1384年から1477年までブルゴーニュ公領であったフランドルでは、毛織物工業と貿易が活発であり、豊かな文化が花開いた。
﹁ルネサンス﹂という語
ルネサンス Renaissance という語は﹁再生﹂︵re- 再び + naissance 誕生︶を意味するフランス語で、19世紀のフランスの歴史家ミシュレが﹃フランス史﹄第7巻︵1855年︶に‘Renaissance’という標題を付け、初めて学問的に使用した。続くスイスのヤーコプ・ブルクハルトによる﹃イタリア・ルネサンスの文化﹄Die Kultur der Renaissance in Italien︵1860年︶によって、決定的に認知されるようになった概念である。 ルネサンスに相当する言葉はすでに16世紀から用いられており、ジョルジョ・ヴァザーリの﹃画家・彫刻家・建築家列伝﹄に現れた rinascita︵再生︶の語に直接的な起源があると思われるが、﹁再生﹂という意識そのものは、はやくも中世末期のダンテやペトラルカの著作に見られる。 ところで、論者によってルネサンスの定義は、しばしば大きく異なる。文化運動を指す場合と時代区分を指す場合でしばしば混乱が生じる︵例えばルネサンス音楽の項目を参照︶。ブルクハルトの時代には、ルネサンスは極めて明瞭に区分できると思われていたが、その後、特にゲルマン系学者による中世の再評価が行われた結果、ルネサンスを特徴づけると考えられていた事象︵古典古代の文化の復興が最たるものである︶の多くが、中世にも存在していたことが明らかになった︵12世紀ルネサンスなど︶。また、ルネサンスの時代にも、占星術や魔術など甚だ非理性的・非科学的な思考が多く残存していることも明らかにされた。これらによって、中世とルネサンスを明確に峻別することは困難になったのである︵中には、﹁ルネサンス﹂の存在そのものを否定する研究者もいる︶。ルネサンスが近代の始まりなのか、それとも中世の範囲になるのか、という点についても論議が続いている。 ただし、14-15世紀にイタリアを中心に大きな文化運動が起こり、各国に影響を及ぼしたこと自体を否定する論者はいない。本項では、古代ギリシャ・ローマの文献の再発見による学問・知識の復興であり、またヨーロッパにおける文化の再生でもあると捉えておく。イタリア・ルネサンスの時期としてはおおむね14世紀中頃のペスト流行以降、1600年、宇宙の無限性を唱えたブルーノ火刑のあたりまでが想定されるだろう。ギリシア哲学、イスラム科学との関係
中世=暗黒時代観
従来の一般的な見方は次のようなものである。およそ1000年の間の純粋キリスト教支配のもと、西ヨーロッパ圏では古代ローマ・ギリシャ文化の破壊が行われ、多様性を失うことにより、世界に貢献するような文化的展開をすることはできなかった。こうした見方はルネサンス以前の中世を停滞した時代、暗黒時代とみなすものであるが、現在では古典古代の復興はイタリア・ルネサンスより以前にも見られる現象であることが明らかにされている。 9世紀フランク王国の﹁カロリング朝ルネサンス﹂や、10世紀東ローマ帝国の﹁マケドニア朝ルネサンス﹂および帝国末期の﹁パレオロゴス朝ルネサンス﹂、西ヨーロッパにおける﹁12世紀ルネサンス﹂などがあり、これら︵複数のルネサンスとも呼ばれる︶についてはそれぞれの項目で述べる。イスラム科学との関係
ギリシアをはじめとする古典的な知の遺産は、そのほとんどがごく短期間のうちにアラビア語に次々と翻訳され、初期のイスラム文化の発達に多大の貢献をもたらしたのだが、そうした知識の継承が一段落ついたかと思う間もなく、新たな翻訳の時代がその幕を明けた。古典的な文献とイスラムの哲学者や科学者たちがそれに加えた注釈が次々とラテン語に翻訳されたことによって、西ヨーロッパの人たちはイスラムが継承、拡充した古典をラテン語で読むことができるようになった。翻訳作業の大半は、イスラム圏とヨーロッパ大陸を繋ぐ中継基地としての役割を担っていた、イスラム支配下のスペインにおいておこなわれたのだが、この作業には、それぞれ出身地を異にするイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒など、数多くの翻訳者集団が参加した。社会と経済の発達の重要性を痛感していた西洋の社会は初期のイスラム社会と同じように、とりわけ、医学をはじめとする科学的な知識を必要としていた。アリストテレスが魂について哲学的考察を加えた﹃霊魂論﹄︵これにはイスラムの哲学者イブン・ルシュドが注釈をつけている︶、イブン・スィーナーが著した﹃医学典範﹄、哲学者であるとともに医師であったアル・ラーズィーが著した﹃アル・マンスールの書﹄は、いずれも15世紀から16世紀にかけて翻訳されたのだが、これらの作品は、西洋の学生たちにとって必読書であり、そうした事情は500年という途方もないほど長い歳月にわたって変わらなかった。 ルネサンス期のヨーロッパの学者たちは、膨大な百科全書的なギリシアーイスラム文献に取り組み、こうした文献は、最終的には、あらゆるヨーロッパの言語に翻訳され、印刷技術の飛躍的な革新によってヨーロッパ全土に普及した。イスラム文化が衰退の一途をたどりはじめた時代と相前後してギリシャ-イスラムの知の遺産を継承した西洋がルネサンスによって旺盛な活力を獲得し、イスラム文化にとって代わって世界史の表舞台に登場したことは歴史の皮肉にほかならない。[1]ギリシア文化との関係
ルネサンス初期においてはギリシアとイタリア等西欧諸国との関係は薄く、上記﹁イスラム科学との関係﹂項にもあるように、いったんアラビア語を介しての文化伝達に過ぎなかった。しかし1397年、ビザンツ帝国からギリシア語学者のマヌエル・クリュソロラスがフィレンツェに招聘されてギリシア語学校を開き、以後イタリアにおいてギリシア語学習が盛んになった。これに伴い、ビザンツ帝国に保管・継承されていたギリシア語の古典文献の読解が可能となり、ルネサンスの一助となった。とくに1453年のコンスタンティノープル陥落によるビザンツ帝国の滅亡によって、ビザンツから優れた学者がイタリア半島に相次いで移住し、古典文献研究は大きく進んだ[2]。ルネサンス史
ルネサンスは、西欧世界の進行方向を決定付けるような、文化史・精神史の上での一大事件であった。まず、イタリア・ルネサンスと呼ばれる事象の興り・発展・終焉、次に、イタリア以外での西欧諸国のルネサンスの受容と発展の様相を見る。イタリア
その他の西欧諸国のルネサンス
●絵画 - 15世紀のフーベルト、ヤンのファン・エイク兄弟が油絵の技法を完成させ、いち早くルネサンスの到来を告げている。このころのネーデルラント絵画はイタリア・ルネサンスと並び立つ水準にあり、むしろイタリア絵画に大きな影響を与えるほどであったが、16世紀頃には逆転し、イタリアを手本とするようになった。ブリューゲル︵1525年? - 1569年︶もイタリア旅行をした後、独自の農村風景画を描くようになった。ただ、初期フランドルの絵画には古典の復興という要素がないため、中世末期の美術と見なす説もある。
●思想 - 新約聖書をギリシア語から翻訳したエラスムス︵1466年 - 1536年︶が人文主義者として著名である。古代ギリシア語研究は、キリスト教を原点に遡って再検討することにつながり、次第に中世カトリックの権威を揺るがすものとなった。エラスムスは﹃痴愚神礼賛﹄でカトリックの堕落を風刺したが、宗教改革運動を起こしたマルティン・ルターとは袂を分かった。
●音楽 - ネーデルラントの顕著な文化活動に、音楽の勃興と隆盛があった。
「ルネサンス音楽」を参照
フランス
16世紀はイタリアの先進文化が伝えられ、国王の文芸保護政策もあって文化活動が活発になり、フランス・ルネサンスの時代といわれる。︵ミシュレ﹃フランス史﹄︶
●絵画 - イタリアに侵攻したフランソワ1世の時代︵イタリア戦争の項を参照︶にレオナルド・ダ・ヴィンチが宮廷に招かれ、イタリアのルネサンス美術が伝えられた。その後もロッソ・フィオレンティーノらがイタリアから宮廷に招かれ、マニエリスムの影響を受けたフォンテーヌブロー派が活躍した。
●文学 - ギリシャ古典を研究したラブレー︵1483年 - 1553年︶は﹃ガルガンチュワ物語﹄を著した。荒唐無稽な巨人の物語であるが、既成の権威を風刺した内容で、活版印刷で刊行され、禁書処分を受けるが広く読まれた。このほか、16世紀中頃にはロンサールなど古典文学を学んだ若い詩人ら︵プレイヤード派︶が文学運動を起こした。またアリストテレスの演劇論などが影響を与えた。これらの動向は、17世紀のフランス古典主義文学︵コルネイユ、ラシーヌなど︶に継承されていった。
「フランス・ルネサンスの文学」を参照
●思想 - ユグノー戦争期に生きたモンテーニュ︵1533年 - 1592年︶はフランスのルネサンス期を代表する思想家といわれ、セネカらの引用と自己の考察を綴った﹃エセー﹄︵随想録︶で知られる。
ドイツ
●絵画 - デューラー︵1471年 - 1528年︶が有名である。イタリア旅行を経て、ルネサンス絵画に学び、思想的にも深みのある表現に達した。銅版画の﹁メランコリアI﹂や油彩の﹁四人の使徒﹂などの宗教画がよく知られている。
●思想 - ルターの宗教改革はルネサンスの人文主義者による聖書の原典研究が進んだことが背景にある︵前述︶。
イングランド
一般にイングランドにおけるルネサンスの最盛期は16世紀のエリザベス朝で、ピューリタン革命︵1642年 - 1649年︶によって幕を下ろしたとされる。
「イギリス・ルネサンス演劇」を参照
●文学 - ジェフリー・チョーサー︵1340年 - 1400年︶がボッカッチョの影響を受け﹃カンタベリー物語﹄を著している。その後、エリザベス朝期には古代ギリシャ以来とも言われるほど演劇が盛んになり、古代ローマの思想家でもあるセネカの書いた﹃オイディプス﹄等の悲劇が英語に翻訳され、大きな影響を与えた。イングランドの後期ルネサンスを代表する劇作家シェイクスピア︵1564年 - 1616年︶の存在もこの流れの中にある。ただし、シェイクスピア自身はラテン語・ギリシャ語についての知識はあまりなく、イタリアを舞台にした劇を書いてはいるが、実際に訪れたことはない。
●思想 - ﹃ユートピア﹄で知られるトマス・モア︵1478年 - 1535年︶はイングランドの代表的な人文主義者であり、フィチーノの著作に影響を受け、エラスムスと交友を持つ。また、フランシス・ベーコン︵1561年 - 1626年︶はセネカの思想の影響を受け、﹃随想録﹄を執筆した。
スペイン
●絵画 - エル・グレコ︵1541年 - 1614年︶が知られる。クレタ島出身のギリシャ人でヴェネツィア・ローマを経てトレドに移り住む。マニエリスムの影響を受けながらも、独自の神秘的な画風を築いた。
●文学 - 小説家セルバンテス︵1547年 - 1616年︶は、スペインのエラスムス主義者フワン・ロペス・デ・オーヨスの弟子であり、20代初めにローマで枢機卿に仕え、イタリアの先進文化にふれた。1605年に出版された﹁ドン・キホーテ﹂は当時ベストセラーになり、現在では﹁近代小説の始まり﹂と評価されている。
俗語で書かれた文芸作品も多く︵﹁神曲﹂、﹁デカメロン﹂、﹁カンタベリー物語﹂、﹁ガルガンチュワ物語﹂、シェイクスピアの戯曲、﹁ドン・キホーテ﹂など︶、各国の国語が形成されていった時期に重なっている。一方、各国の知識人が交流する上で、中世以来の国際語であったラテン語の役割も見逃せない。例えばネーデルラントのエラスムスとイングランドのトマス・モアはラテン語という共通語があったことで、思想的な交友を持つことができた。
なお、建築の分野については、イタリアで生まれたルネサンス建築が規範となり、他の国にも普及していった。古典様式をいかに理解し消化するかが課題となり、それぞれの国で特色ある様式が生まれた︵北方ルネサンス建築の項を参照︶。ルネサンス以降、古代ギリシャ・ローマを範とする古典主義建築が正統的な建築様式と見なされるようになり、20世紀に至るまで権威を保った。
ギャラリー
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『農民の踊り』 ブリューゲル
(1568年、美術史美術館)
ルネサンス期に活躍した人物
商業・経済
思想
「ルネサンス哲学」を参照
文学
「ルネサンス文学」を参照
美術
「ルネサンス美術」を参照
「ルネサンス期のイタリア絵画」を参照
音楽
「ルネサンス音楽」を参照
ルネサンス期の器楽曲・声楽曲は、イタリアよりブルゴーニュ、フランドルが中心であった。イタリアではルネサンス後期に至ってようやくパレストリーナが登場した。
●ギヨーム・デュファイ フランドルのカンブレ出身で、20代・30代の大半をイタリアで過ごす。のちカンブレに戻り、ブルゴーニュ楽派の中心になる。
●ジョスカン・デ・プレ
●パレストリーナ
●カメラータ - 16世紀後半にフィレンツェで結成されたグループで、﹁古代ギリシア音楽の復興﹂を目的とした。主要メンバーは、ジュリオ・カッチーニとヴィンチェンツォ・ガリレイ。
●ヤコポ・ペーリ - 古代ギリシア悲劇を範に取り、オペラを創出。
●クラウディオ・モンテヴェルディ - ルネサンス後期〜バロック初期の最も重要な作曲家の一人。﹃ポッペーアの戴冠﹄は初期オペラの最高傑作の一つとされる。
建築
「ルネサンス建築」を参照
脚注
- ^ ハワード・R・ターナー、久保儀明訳「図説科学で読むイスラム文化」青土社、2001年 (ISBN 4791758641)
- ^ 「イタリア・ルネサンス」pp152-164 澤井繁男 講談社現代新書 2001年6月20日第1刷