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=== 挿絵画家から映画界へ === |
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[[1900年]]︵明治33年︶[[1月2日]]、[[愛媛県]][[松山市]]湊町2丁目24番地に、官吏の父・義行と母・キクヨの長男として生まれる<ref name="作家1">[[#冨士田1985|冨士田1985]]、p.245</ref><ref>[[#キネマ旬報1976|キネマ旬報1976]]、p.36</ref><ref name="記念館">[ |
[[1900年]]︵明治33年︶[[1月2日]]、[[愛媛県]][[松山市]]湊町2丁目24番地に、官吏の父・義行と母・キクヨの長男として生まれる<ref name="作家1">[[#冨士田1985|冨士田1985]]、p.245</ref><ref>[[#キネマ旬報1976|キネマ旬報1976]]、p.36</ref><ref name="記念館">[https://itami-kinenkan.jp/about/about05.html 伊丹万作]、[[伊丹十三記念館]]、2015年2月3日閲覧</ref>。後に2人の妹が産まれた<ref name="作家1" />。
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[[1906年]]︵明治39年︶、松山第一尋常小学校︵現在の[[松山市立番町小学校]]︶に入学、この秋に[[神戸]][[新開地]]の掛小屋で初めて[[活動写真]]を見る<ref name="作家1" />︵この時に観た活動写真は、[[日露戦争]]の実写であった<ref name="作家1" /><ref name="傍観史">[[#伊丹1936|伊丹1936]]</ref>︶。[[1912年]]︵大正元年︶、[[旧制中学校|旧制]]愛媛県松山中学校︵現在の[[愛媛県立松山東高等学校]]︶に入学。在学中に同窓の[[中村草田男]]、[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]、[[重松鶴之助]]らと回覧雑誌﹃楽天﹄を作り<ref name="記念館" />、雑誌の口絵や挿絵を描いた{{Refnest|group="注釈"|﹃楽天﹄は現存しないが、中村草田男の回想によると、中判の罫用紙に文章を書き、木炭紙に口絵を描いて綴じた簡素な雑誌であったという<ref>﹃中村草田男全集11﹄、みすず書房、1987年、p.160</ref>}}。
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[[1906年]]︵明治39年︶、松山第一尋常小学校︵現在の[[松山市立番町小学校]]︶に入学、この秋に[[神戸]][[新開地]]の掛小屋で初めて[[活動写真]]を見る<ref name="作家1" />︵この時に観た活動写真は、[[日露戦争]]の実写であった<ref name="作家1" /><ref name="傍観史">[[#伊丹1936|伊丹1936]]</ref>︶。[[1912年]]︵大正元年︶、[[旧制中学校|旧制]]愛媛県松山中学校︵現在の[[愛媛県立松山東高等学校]]︶に入学。在学中に同窓の[[中村草田男]]、[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]、[[重松鶴之助]]らと回覧雑誌﹃楽天﹄を作り<ref name="記念館" />、雑誌の口絵や挿絵を描いた{{Refnest|group="注釈"|﹃楽天﹄は現存しないが、中村草田男の回想によると、中判の罫用紙に文章を書き、木炭紙に口絵を描いて綴じた簡素な雑誌であったという<ref>﹃中村草田男全集11﹄、みすず書房、1987年、p.160</ref>}}。
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[[1917年]]︵大正6年︶3月、松山中学を卒業後、美術の道を志望するが父の反対と<ref name="記念館" /> 家庭の事情で<ref name="作家1" /> 父とともに[[樺太]]に渡る。父は綿屋を営み、万作は伯父の店を手伝わされた<ref>[[#米田1985|米田1985]]、p.295</ref> が、父の商売が失敗したため半年後に帰郷<ref name="創造者" />、叔父の柴山猪虎馬を頼って上京し、彼の務める[[鉄道院]]に勤務した<ref name="作家1" />。その傍ら独学で[[絵画|洋画]]を学んだ。
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[[1917年]]︵大正6年︶3月、松山中学を卒業後、美術の道を志望するが父の反対と<ref name="記念館" /> 家庭の事情で<ref name="作家1" /> 父とともに[[樺太]]に渡る。父は綿屋を営み、万作は伯父の店を手伝わされた<ref>[[#米田1985|米田1985]]、p.295</ref> が、父の商売が失敗したため半年後に帰郷<ref name="創造者" />、叔父の柴山猪虎馬を頼って上京し、彼の務める[[鉄道院]]に勤務した<ref name="作家1" />。その傍ら独学で[[絵画|洋画]]を学んだ。
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翌[[1918年]](大正7年)、鉄道院を退職し<ref name="作家1" /><ref name="記念館" />、2月に少年向け雑誌『[[少年世界]]』でに[[石黒露雄]]の小説『木枯吹く夜』の挿絵を描いて挿絵画家としてデビューする<ref name="挿絵"> |
翌[[1918年]]︵大正7年︶、鉄道院を退職し<ref name="作家1" /><ref name="記念館" />、2月に少年向け雑誌﹃[[少年世界]]﹄でに[[石黒露雄]]の小説﹃木枯吹く夜﹄の挿絵を描いて挿絵画家としてデビューする<ref name="挿絵">{{cite journal|和書|author=古川千家 |date=2008 |url=https://ehime-u.repo.nii.ac.jp/records/2385 |title=挿絵画家時代の伊丹万作の仕事 |journal=愛媛大学法文学部論集. 人文学科編 |ISSN=1341-9617 |publisher=愛媛大学法文学部 |volume=25 |pages=23-66 |CRID=1050860708481592064}}</ref>。同月の誌上には'''池内都夜坊'''の名で﹃ゴリラとピンくん﹄という[[漫画]]も掲載している<ref name="挿絵" />。その後は本名の'''池内義豊'''の名で﹃少年世界﹄の挿絵を担当し、[[1919年]]︵大正8年︶には'''水田豊平'''のペンネームで﹃中学生﹄の挿絵も描いている。[[1920年]]︵大正9年︶からは同年刊行の﹃[[新青年 (日本)|新青年]]﹄﹃女学生﹄の2誌も担当し、計4誌で挿絵を描いた。この頃から'''池内愚美'''の筆名を使っていた。
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同年、映画製作の事業に乗り出した[[松竹]]が[[松竹キネマ俳優学校]]の研究生を募集した。万作は伊藤大輔にこれに応募することを勧め、上京してきた伊藤と[[本郷区]][[根津|根津須賀町]]の下宿2階3畳で同居生活を始める<ref name="傍観史" /><ref name="作家2">[[#冨士田1985|冨士田1985]]、p.246</ref>{{Refnest|group="注釈"|「根津須賀町のその家は、よく建てこんだ狭い街にいくらでもあるような平凡な格子戸のある家であつたが、ただ変つた点は入口の格子戸の上に飛行機のプロペラの折れたのが打ちつけてあり、小さな札に日本飛行何とかという協会のような名まえが書いてあることであつた。<ref name="傍観史" />」}}。しかし、翌[[1921年]](大正10年)には大家から即時撤退を要求され、そのうち伊藤も試験をパスして松竹キネマ俳優学校の生徒となり一定の給費を受けるようになったため、[[谷中 (台東区)|谷中真島町]]の下宿で別々の部屋に暮らした<ref name="傍観史" />。同年5月、補充兵として[[広島市|広島]]の野砲連隊に3ヶ月間入営した<ref name="挿絵" />。 |
同年、映画製作の事業に乗り出した[[松竹]]が[[松竹キネマ俳優学校]]の研究生を募集した。万作は伊藤大輔にこれに応募することを勧め、上京してきた伊藤と[[本郷区]][[根津|根津須賀町]]の下宿2階3畳で同居生活を始める<ref name="傍観史" /><ref name="作家2">[[#冨士田1985|冨士田1985]]、p.246</ref>{{Refnest|group="注釈"|「根津須賀町のその家は、よく建てこんだ狭い街にいくらでもあるような平凡な格子戸のある家であつたが、ただ変つた点は入口の格子戸の上に飛行機のプロペラの折れたのが打ちつけてあり、小さな札に日本飛行何とかという協会のような名まえが書いてあることであつた。<ref name="傍観史" />」}}。しかし、翌[[1921年]](大正10年)には大家から即時撤退を要求され、そのうち伊藤も試験をパスして松竹キネマ俳優学校の生徒となり一定の給費を受けるようになったため、[[谷中 (台東区)|谷中真島町]]の下宿で別々の部屋に暮らした<ref name="傍観史" />。同年5月、補充兵として[[広島市|広島]]の野砲連隊に3ヶ月間入営した<ref name="挿絵" />。 |
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[[1922年]](大正11年)、演習召集を受けて三週間ほど服役<ref name="挿絵" /> し、その後伊藤と[[青山 (東京都港区)|青山南町]]で再び同居生活を始めた<ref name="作家2" />。この頃2人でしきりに映画を見て歩いており、好きな俳優は[[フランク・キーナン]]だったという<ref name="傍観史" /><ref name="エッセイ">伊丹万作・[[大江健三郎]]編『伊丹万作エッセイ集』、ちくま学芸文庫、2010年、p.298</ref>。また、この頃の挿絵の収入は百円内外あったという<ref name="作家2" />。同年、さらに絵画を勉強するためと、肺病で松山に療養している親友の[[野田実]]を見舞うために松山に帰省する<ref name="挿絵" /><ref name="作家2" />{{Refnest|group="注釈"|「もつと必死に絵の勉強をする必要を感じてきたのと、死なれては困る友人が郷里で肺病になつて寝ついてしまつたので見舞がてら一まず郷里へ帰る決心をした。そしてただちにそれを実行した。二十三の年の秋である。<ref name="傍観史" />」}}。 |
[[1922年]](大正11年)、演習召集を受けて三週間ほど服役<ref name="挿絵" /> し、その後伊藤と[[青山 (東京都港区)|青山南町]]で再び同居生活を始めた<ref name="作家2" />。この頃2人でしきりに映画を見て歩いており、好きな俳優は[[フランク・キーナン]]だったという<ref name="傍観史" /><ref name="エッセイ">伊丹万作・[[大江健三郎]]編『伊丹万作エッセイ集』、ちくま学芸文庫、2010年、p.298</ref>。また、この頃の挿絵の収入は百円内外あったという<ref name="作家2" />。同年、さらに絵画を勉強するためと、肺病で松山に療養している親友の[[野田実]]を見舞うために松山に帰省する<ref name="挿絵" /><ref name="作家2" />{{Refnest|group="注釈"|「もつと必死に絵の勉強をする必要を感じてきたのと、死なれては困る友人が郷里で肺病になつて寝ついてしまつたので見舞がてら一まず郷里へ帰る決心をした。そしてただちにそれを実行した。二十三の年の秋である。<ref name="傍観史" />」}}。 |
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[[1923年]]︵大正12年︶、[[関東大震災]]後に上京、[[長崎町 (東京府)|長崎村]]に[[初山滋]]と同居し、後に隣に小さな家を借りて自炊生活をした<ref name="挿絵" /><ref name="作家2" /><ref name="エッセイ" />。[[1925年]]︵大正14年︶、中村草田男、重松鶴之助らと回覧雑誌﹃朱樂﹄を作り、絵画の他、随筆・評論なども発表する<ref name="記念館" />。一方、芸術性を追求するうちに挿絵の仕事は減り、[[1926年]]︵大正15年︶には松山に帰郷して重松、白川晴一と松山市三番町に[[おでん]]屋﹁瓢太郎﹂を開店する<ref name="記念館" />{{Refnest|group="注釈"|﹁瓢太郎﹂は松山最初のおでん屋と言われている<ref name="傍観史" />}}。始めは繁盛したが、年明け頃から経営は悪化し、[[1927年]]︵昭和2年︶夏に借金を残して閉店した<ref name="傍観史" /><ref>[ |
[[1923年]]︵大正12年︶、[[関東大震災]]後に上京、[[長崎町 (東京府)|長崎村]]に[[初山滋]]と同居し、後に隣に小さな家を借りて自炊生活をした<ref name="挿絵" /><ref name="作家2" /><ref name="エッセイ" />。[[1925年]]︵大正14年︶、中村草田男、重松鶴之助らと回覧雑誌﹃朱樂﹄を作り、絵画の他、随筆・評論なども発表する<ref name="記念館" />。一方、芸術性を追求するうちに挿絵の仕事は減り、[[1926年]]︵大正15年︶には松山に帰郷して重松、白川晴一と松山市三番町に[[おでん]]屋﹁瓢太郎﹂を開店する<ref name="記念館" />{{Refnest|group="注釈"|﹁瓢太郎﹂は松山最初のおでん屋と言われている<ref name="傍観史" />}}。始めは繁盛したが、年明け頃から経営は悪化し、[[1927年]]︵昭和2年︶夏に借金を残して閉店した<ref name="傍観史" /><ref>[https://itami-kinenkan.jp/tayori/2011/01/000145.html 記念館便り﹁昭和2年のお正月﹂]、伊丹十三記念館、2015年2月3日閲覧</ref>。同年、知人夫妻を描いた[[油絵|油彩画]]﹃市河夫妻之像﹄が[[岸田劉生]]の目に留まり、激賞される。この絵は中村草田男によって第1回大調和美術展に搬入され入選したが、画家の道は断念している<ref name="記念館" />。
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同年10月、京都に暮らしていた伊藤大輔に手紙を出して彼の食客となった<ref name="作家3">[[#冨士田1985|冨士田1985]]、p.247</ref>。当時伊藤の食客だった人に[[香川良介]]と[[中川藤吉]]<Ref group="注釈">『私の活動写真傍観史』では、中川は『[[下郎 (映画)|下郎]]』の作者と紹介されている</ref> がいる<ref name="傍観史" />。伊藤のすすめで映画脚本を書くようになり、『[[花火 (1931年の映画)|花火]]』と『[[放浪三昧|伊達主水]]』<Ref group="注釈">[[1928年]](昭和3年)に[[稲垣浩]]監督が『放浪三昧』の題で映画化した</ref> を執筆する<ref name="創造者" /><ref name="傍観史" /><ref name="作家3" />。11月、[[奈良]]に[[谷崎十郎]]プロダクションが設立されると、香川、中川らとともに同プロに入り、俳優としての日々を過ごした<ref name="傍観史" /><ref name="作家3" />。奈良には1か月しかいなかったが、その間に書いた脚本が『草鞋』であった。12月、香川の台湾巡業に同行し、俳優として舞台に立った<ref name="傍観史" /><ref name="作家3" />。 |
同年10月、京都に暮らしていた伊藤大輔に手紙を出して彼の食客となった<ref name="作家3">[[#冨士田1985|冨士田1985]]、p.247</ref>。当時伊藤の食客だった人に[[香川良介]]と[[中川藤吉]]<Ref group="注釈">『私の活動写真傍観史』では、中川は『[[下郎 (映画)|下郎]]』の作者と紹介されている</ref> がいる<ref name="傍観史" />。伊藤のすすめで映画脚本を書くようになり、『[[花火 (1931年の映画)|花火]]』と『[[放浪三昧|伊達主水]]』<Ref group="注釈">[[1928年]](昭和3年)に[[稲垣浩]]監督が『放浪三昧』の題で映画化した</ref> を執筆する<ref name="創造者" /><ref name="傍観史" /><ref name="作家3" />。11月、[[奈良]]に[[谷崎十郎]]プロダクションが設立されると、香川、中川らとともに同プロに入り、俳優としての日々を過ごした<ref name="傍観史" /><ref name="作家3" />。奈良には1か月しかいなかったが、その間に書いた脚本が『草鞋』であった。12月、香川の台湾巡業に同行し、俳優として舞台に立った<ref name="傍観史" /><ref name="作家3" />。 |
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[[1961年]]︵昭和36年︶[[11月15日]]、[[筑摩書房]]より﹃伊丹万作全集﹄全3巻が[[志賀直哉]]、伊藤大輔、[[北川冬彦]]、[[中野重治]]の監修で刊行された。第1巻に52作の著述、第2巻に44作の著述、第3巻に﹃花火﹄﹃天下太平記﹄﹃國士無双﹄﹃[[闇討渡世]]﹄﹃[[忠次売出す (1935年の映画)|忠次売出す]]﹄﹃赤西蠣太﹄﹃無法松の一生﹄﹃不惜身命﹄﹃手をつなぐ子等﹄の脚本が収録されている。
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[[1961年]]︵昭和36年︶[[11月15日]]、[[筑摩書房]]より﹃伊丹万作全集﹄全3巻が[[志賀直哉]]、伊藤大輔、[[北川冬彦]]、[[中野重治]]の監修で刊行された。第1巻に52作の著述、第2巻に44作の著述、第3巻に﹃花火﹄﹃天下太平記﹄﹃國士無双﹄﹃[[闇討渡世]]﹄﹃[[忠次売出す (1935年の映画)|忠次売出す]]﹄﹃赤西蠣太﹄﹃無法松の一生﹄﹃不惜身命﹄﹃手をつなぐ子等﹄の脚本が収録されている。
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[[1997年]](平成9年)[[12月20日]]、長男の十三が満64歳で亡くなり、[[2004年]](平成16年)[[7月1日]]には妻のキミが満100歳で死去した<ref>[http://www.47news.jp/CN/200407/CN2004070601001061.html 池内キミさん死去 映画監督故伊丹万作氏の妻]、[[共同通信]]、2013年1月13日閲覧</ref>。 |
[[1997年]](平成9年)[[12月20日]]、長男の十三が満64歳で亡くなり、[[2004年]](平成16年)[[7月1日]]には妻のキミが満100歳で死去した<ref>[https://web.archive.org/web/20140528005904/http://www.47news.jp/CN/200407/CN2004070601001061.html 池内キミさん死去 映画監督故伊丹万作氏の妻]、[[共同通信]]、2013年1月13日閲覧</ref>。 |
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[[2010年]](平成22年)6月に、[[ちくま学芸文庫]]から『伊丹万作エッセイ集』が再刊された。 |
[[2010年]](平成22年)6月に、[[ちくま学芸文庫]]から『伊丹万作エッセイ集』が再刊された。 |
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|author = 伊丹万作 |
|author = 伊丹万作 |
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|year = 1936 |
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|url = http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43639_41466.html |
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|title = 私の活動写真傍観史 |
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|publisher = [[青空文庫]] |
|publisher = [[青空文庫]] |
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|isbn = |
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2024年7月25日 (木) 13:03時点における最新版
いたみ まんさく 伊丹 万作 | |||||
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本名 | 池内 義豊 (いけうち よしとよ) | ||||
別名義 |
水田 豊平 (みずた とよへい) 池内 愚美 (いけうち ぐみ) 青山 七造 (あおやま しちぞう) | ||||
生年月日 | 1900年1月2日 | ||||
没年月日 | 1946年9月21日(46歳没) | ||||
出生地 | 日本・愛媛県松山市湊町2丁目 | ||||
死没地 | 日本・京都府京都市上京区 | ||||
職業 | 脚本家、映画監督、俳優、エッセイスト、挿絵画家 | ||||
ジャンル | 映画、挿絵、随筆 | ||||
活動期間 | 1918年 - 1946年 | ||||
活動内容 |
1918年:挿絵画家としてデビュー 1927年:伊藤大輔のもとで脚本を執筆 1928年:片岡千恵蔵プロダクションに入社、監督デビュー 1934年:新興キネマに移籍 1937年:東宝映画に移籍 | ||||
配偶者 | 池内キミ(1904年 - 2004年) | ||||
著名な家族 |
長男:伊丹十三 内孫:池内万作 内孫:池内万平 長女:大江ゆかり 女婿:大江健三郎 外孫:大江光 | ||||
主な作品 | |||||
『國士無双』 / 『赤西蠣太』 / 『無法松の一生』 | |||||
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来歴・人物
[編集]挿絵画家から映画界へ
[編集]映画監督へ
[編集]没後
[編集]作品の現存状況
[編集]フィルモグラフィ
[編集]監督作品
[編集]- 仇討流転(1928年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作・脚本
- 続万花地獄 第一篇(1928年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼脚本・出演
- 春風の彼方へ(1930年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作・脚本
- 源氏小僧出現(1930年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作・脚本
- 逃げ行く小伝次(1930年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作・脚本
- 御存知源氏小僧(1931年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作・脚本
- 金的力太郎(1931年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作・脚本
- 花火(1931年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作・脚本
- 國士無双(1932年、片岡千恵蔵プロダクション)
- 闇討渡世(1932年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼脚本
- 研辰の討たれ(1932年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼脚本
- 刺青奇偶(1933年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼脚本
- 渡鳥木曾土産(1934年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼脚本
- 武道大鑑(1934年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼脚本
- 忠臣蔵 刃傷篇 復讐篇(1934年、日活) - 応援監督・原作・脚本
- 忠次売出す(1935年、新興キネマ) - 兼原作・脚本
- 戦国奇譚 気まぐれ冠者(1935年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作・脚本・作詞
- 赤西蠣太(1936年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼脚本
- 新しき土(1937年、東和商事映画部) - 兼脚本
- 故郷(1937年、J.O.スタヂオ) - 兼脚本
- 権三と助十(1937年、J.O.スタヂオ) - 兼脚本
- 巨人傳(1938年、東宝映画) - 兼脚本
脚本作品
[編集]- 天下太平記(1928年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作
- 放浪三昧(1928年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作・出演
- 源氏小僧(1928年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作
- 絵本武者修業(1929年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作
- 元禄十三年(1931年、片岡千恵蔵プロダクション)
- 快侠金忠輔(1931年、片岡千恵蔵プロダクション)
- 牡丹燈籠(1936年、聯合映画) - 兼原作
- 無法松の一生(1943年、大映)
- 手をつなぐ子等(1948年、大映)
- 俺は用心棒(1950年、東横映画)
- 恋風五十三次(1952年、東映)
出演作品
[編集]- 放浪三昧(1928年、片岡千恵蔵プロダクション) - 安藤兵衛 役
- 続万花地獄 第一篇(1928年、片岡千恵蔵プロダクション) - 肉植幸安 役
- 続万花地獄 第二篇(1929年、片岡千恵蔵プロダクション) - 肉植幸安 役
著作
[編集]著述
[編集]- 時代映画の存在理由に就て(1933年)
- 私の活動写真傍観史(1936年)
- ルネ・クレール私見(1936年)
- 映画界手近の問題(1936年)
- カメラに関する覚え書(1937年)
- 人間山中貞雄(1938年)
- 映画の普及力とは(1940年)
- 演技指導論草案(1940年)
- 映画と癩の問題(1941年)
- 映画と民族性(1944年)
- 戦争中止を望む(1945年)
- 政治に関する随想(1946年)
- 戦争責任者の問題(1946年)
著作集
[編集]- 影画雑記(1937年、第一文芸出版社)
- 静臥雑記(1943年、国際情報社出版部)
- 静臥後記(1946年、大雅堂)
- 伊丹万作全集 全3巻(1961年、筑摩書房)
- 伊丹万作エッセイ集(1971年、摩叢書) - 大江健三郎編
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 伊丹万作 - 日本映画データベース
- 伊丹万作 - KINENOTE
- 伊丹万作 - allcinema
- Mansaku Itami - IMDb
- 伊丹万作:作家別作品リスト - 青空文庫