「佐佐木信綱」の版間の差分
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* 苗字は本来﹁佐々木﹂と記したが、信綱が訪中の折、[[中国]]には﹁[[々]]﹂の字が存在しないことを知ったため、それ以後は﹁佐佐木﹂と改めた |
* 苗字は本来「佐々木」と記したが、信綱が明治36年(32歳のとき)に訪中の折、[[中国]]には「[[々]]」の字が存在しないことを知ったため、それ以後は「佐佐木」と改めた<ref>{{Cite book |和書 |author=小駒勝美 |author-link=小駒勝美 |title=漢字は日本語である |date=2008 |publisher=新潮新書 |isbn=978-4-10-610253-0 |page=40 |chapter=第二章 |quote=「々」は日本独自のもので、中国にはない。歌人であり国文学者だった佐佐木信綱…「佐佐木」に改姓した、という逸話がある。 |oclc=228498224 |at=§「々」は何と読むか}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.city.suzuka.lg.jp/life/shisetsu/9207_04.html |title=佐佐木信綱の紹介 |access-date=2022-08-23 |author=文化財課 |website=鈴鹿市ホームページ |work=佐佐木信綱記念館 |publisher=鈴鹿市 |quote=信綱は、なぜ「佐佐木」か? |
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信綱は明治36年(32歳)、中国へ遊学をしました。その時に上海で名刺を作りましたが、出来上がってきた名刺は、紅唐紙(縦約24cm×横約12cm)に「佐佐木信綱」と印刷されていました。この名刺を見て信綱は「見た目がよい」と大変気に入り、以後の著作物などに好んで「佐佐木信綱」と使うようになりました。}}</ref>。 |
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* 唱歌「[[夏は来ぬ]]」の作詞でも知られる。「卯の花の 匂う垣根に 時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ」。 |
* 唱歌「[[夏は来ぬ]]」の作詞でも知られる。「卯の花の 匂う垣根に 時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ」。 |
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* [[校歌]]の作詞 ― [[東京都]]の[[千代田区立麹町中学校]]、[[筑波大学附属小学校]]、[[台東区立根岸小学校]]、[[板橋区立赤塚第三中学校]]、世田谷区立緑丘中学校、[[栃木県]]の[[那須烏山市]]立烏山小学校、[[埼玉県]]の[[川口市立本町小学校]]、[[滑川町]]立宮前小学校、[[神奈川県]]の[[神奈川県立横浜平沼高等学校]]、[[横浜市立戸塚高校]]、[[清泉女学院中学高等学校]]、[[清泉小学校]]、横浜市立大綱小学校、[[岐阜県]]の[[岐阜県立武義高等学校]]、山梨県の中央市立三村小学校、郷里三重県の[[三重県立四日市高等学校]]、[[四日市市立楠中学校]]<ref>楠町史編纂委員会 編﹃楠町史﹄楠町教育委員会、1978年5月︵484頁より︶</ref>、鈴鹿市立石薬師小学校、[[滋賀県]]の[[近江八幡市立八幡小学校]]、[[奈良県]]の[[奈良県立奈良高等学校]]、吉野町立吉野中学校、[[静岡県]]の磐田市立福田中学校、磐田市立福田小学校、熱海市立熱海中学校、[[山口県]]下関市立下関商業高等学校などの[[校歌]]は彼の作詞による。また[[千葉工業大学]]の校歌は彼が選歌した。
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* [[校歌]]の作詞 ― [[東京都]]の[[千代田区立麹町中学校]]、[[筑波大学附属小学校]]、[[台東区立根岸小学校]]、[[板橋区立赤塚第三中学校]]、世田谷区立緑丘中学校、[[栃木県]]の[[那須烏山市]]立烏山小学校、[[埼玉県]]の[[川口市立本町小学校]]、[[滑川町]]立宮前小学校、[[神奈川県]]の[[神奈川県立横浜平沼高等学校]]、[[横浜市立戸塚高校]]、[[清泉女学院中学高等学校]]、[[清泉小学校]]、横浜市立大綱小学校、[[岐阜県]]の[[岐阜県立武義高等学校]]、山梨県の中央市立三村小学校、郷里三重県の[[三重県立四日市高等学校]]、[[四日市市立楠中学校]]<ref>楠町史編纂委員会 編﹃楠町史﹄楠町教育委員会、1978年5月︵484頁より︶</ref>、鈴鹿市立石薬師小学校、[[滋賀県]]の[[近江八幡市立八幡小学校]]、[[奈良県]]の[[奈良県立奈良高等学校]]、吉野町立吉野中学校、[[静岡県]]の磐田市立福田中学校、磐田市立福田小学校、熱海市立熱海中学校、[[山口県]]下関市立下関商業高等学校などの[[校歌]]は彼の作詞による。また[[千葉工業大学]]の校歌は彼が選歌した。
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2022年8月23日 (火) 08:28時点における版
ペンネーム | 佐佐木信綱 |
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誕生 |
佐々木信綱 1872年6月3日 日本・三重県鈴鹿郡石薬師村 |
死没 |
1963年12月2日(91歳没) 日本・静岡県熱海市 |
墓地 | 東京谷中霊園の五重塔跡近く |
職業 | 歌人、国文学者 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 文学博士 |
最終学歴 | 東京帝国大学文学部 |
主な受賞歴 |
正三位 文化勲章 勲六等 銀杯一組(菊紋) |
配偶者 | 佐佐木雪子 |
子供 | 佐佐木治綱 |
親族 | 佐々木弘綱(父) |
経歴
三重県鈴鹿郡石薬師村︵現・鈴鹿市石薬師町︶にて歌人佐々木弘綱の長男として生まれる。父の教えを受け5歳にして作歌。1882年︵明治15年︶上京。1884年︵明治17年︶、東京帝国大学文学部古典講習科に進む。1890年︵明治23年︶、父と共編で﹃日本歌学全書﹄全12冊の刊行を開始。1896年︵明治29年︶、森鷗外の﹃めざまし草﹄に歌を発表し、歌誌﹃いささ川﹄を創刊。また、落合直文、与謝野鉄幹らと新詩会をおこし、新体詩集﹃この花﹄を刊行。 歌誌﹃心の花﹄を発行する短歌結社﹁竹柏会[3]﹂を主宰し、木下利玄、川田順、前川佐美雄、九条武子、柳原白蓮、相馬御風など多くの歌人を育成。国語学者の新村出[4]、翻訳家の片山広子、村岡花子、後に娘婿となる国文学者の久松潜一も信綱のもとで和歌を学んだ。﹃思草﹄をはじめ数々の歌集を刊行した。1934年︵昭和9年︶7月31日、帝国学士院会員[5]。1937年︵昭和12年︶には文化勲章を受章、帝国芸術院会員。御歌所寄人として、歌会始撰者でもあった。その流れで貞明皇后[6]ら皇族に和歌を指導している。日本文学報国会短歌部会長であった。1952年︵昭和27年︶には上代文学会の設立に関わり、学会誌﹃上代文学﹄創刊号に祝辞を寄せている[7]。 1963年︵昭和38年︶、急性肺炎のため死去[8]。墓所は東京谷中霊園の五重塔跡近くにある。 1944年︵昭和19年︶から1963年︵昭和38年︶までの晩年の19年を過ごした熱海市西山町の邸宅﹁凌寒荘﹂は、2003年︵平成15年︶に熱海市が取得して以降、ボランティアによって管理・公開されている[9][10]。功績・評価
五島茂は信綱の業績を評して次のようにまとめている[11]。 ●万葉集の体系化を志し、﹃元暦校本万葉集﹄﹃西本願寺万葉集﹄など日本各地を巡って万葉集の古写本を発掘を行った。﹃万葉集の研究﹄など万葉集の基礎資料を数多く編集し、万葉学を樹立した。また、﹃英訳万葉集﹄などを通じて海外にも万葉集を宣布した。 ●﹃梁塵秘抄﹄など、埋もれていた歌集・歌謡書や歌人に光を当て、﹃日本歌学史﹄﹃和歌史の研究﹄﹃近世和歌史﹄を刊行し和歌の史的体系を構築した。 ●﹁校本萬葉集﹂、岩波文庫﹃新訓 万葉集﹄、﹃新古今和歌集﹄など、古典籍を活字本として複製・頒布した。 上田三四二は歌人としての信綱について﹁氏を大歌人と呼んでいいかどうか、私は疑う。けれども、氏は疑いなく大学者だった。﹂と評している[11]。三四二は、信綱にとって作歌と学問は別のものではなく、信綱の歌は学と識を備えた伝統的な詩歌の正統だった。しかし、近代以後の短歌は子規や啄木といった﹁歌学の何たるかをわきまえぬ﹂独断的・直感的な近代詩歌が、詩歌の革新を成し遂げてしまっている。信綱の歌の見方は正しい見方だが、文学においては正しい判断が文学を生かすとは限らない、と考察している[11]。逸話
●苗字は本来﹁佐々木﹂と記したが、信綱が明治36年︵32歳のとき︶に訪中の折、中国には﹁々﹂の字が存在しないことを知ったため、それ以後は﹁佐佐木﹂と改めた[12][13]。 ●唱歌﹁夏は来ぬ﹂の作詞でも知られる。﹁卯の花の 匂う垣根に 時鳥︵ほととぎす︶ 早も来鳴きて 忍音︵しのびね︶もらす 夏は来ぬ﹂。 ●校歌の作詞 ― 東京都の千代田区立麹町中学校、筑波大学附属小学校、台東区立根岸小学校、板橋区立赤塚第三中学校、世田谷区立緑丘中学校、栃木県の那須烏山市立烏山小学校、埼玉県の川口市立本町小学校、滑川町立宮前小学校、神奈川県の神奈川県立横浜平沼高等学校、横浜市立戸塚高校、清泉女学院中学高等学校、清泉小学校、横浜市立大綱小学校、岐阜県の岐阜県立武義高等学校、山梨県の中央市立三村小学校、郷里三重県の三重県立四日市高等学校、四日市市立楠中学校[14]、鈴鹿市立石薬師小学校、滋賀県の近江八幡市立八幡小学校、奈良県の奈良県立奈良高等学校、吉野町立吉野中学校、静岡県の磐田市立福田中学校、磐田市立福田小学校、熱海市立熱海中学校、山口県下関市立下関商業高等学校などの校歌は彼の作詞による。また千葉工業大学の校歌は彼が選歌した。家族
妻雪子は大蔵官僚藤島正健の長女。三男五女に恵まれた。 長男逸人は祖父正健の養子に入り、有坂成章の五女季子と結婚した。長女綱子は機械工学者朝永研一郎︵ノーベル物理学賞受賞者朝永振一郎の従兄弟︶に、三女三枝子は久松潜一に嫁いだ。二男文綱は三菱銀行に勤め、丘浅次郎の長女ひさと結婚した。三男の治綱も歌人だったが、父に先立ち1958年︵昭和33年︶に逝去。孫の幸綱も歌人で、信綱と同じく芸術院会員。著書
校訂・編纂
●新訓 萬葉集 ︵岩波文庫︵上下︶1927年︶、のち改版 ●白文 萬葉集 ︵岩波文庫︵上下︶1928年︶ ●新撰 山家集 西行︵岩波文庫 1928年︶、のち改版 ●新古今和歌集 ︵岩波文庫 1929年︶、のち改版 ●金槐和歌集 源実朝 ︵岩波書店 1930年︶ ●藤原定家歌集 ︵岩波文庫 1931年︶ ●校本 萬葉集 ︵岩波書店 全10巻、1931年 - 1932年︶ ●梁塵秘抄 後白河天皇撰︵岩波文庫 1933年︶、のち改版 ●列聖珠藻 ︵紀元二千六百年奉祝会 1940年︶、復刻・雄山閣、2006年 歴代天皇の御製集 -﹁聖徳餘光﹂辻善之助編と和本2冊組。作詞
●勇敢なる水兵 ︵1895年︶ ●夏は来ぬ ︵1896年︶ ●軍艦旗の歌 - 海軍軍歌 ●水師営の会見︵1910年︶ - 唱歌伝記・歌論
●佐佐木幸綱 ﹃佐佐木信綱﹄︵桜楓社︵おうふう︶︿短歌シリーズ人と作品2﹀、1982年︶ ●衣斐賢譲 ﹃佐佐木信綱の世界-﹁信綱かるた﹂歌のふるさと﹄︵中日本社、2008年︶ ●佐佐木頼綱﹃佐佐木信綱 ﹁愛づる心﹂に歌の本質を求めた大歌人﹄︵コレクション日本歌人選069‥笠間書院、2019年︶ ●鈴木健一﹃佐佐木信綱 本文の構築﹄︵近代﹁国文学﹂の肖像 第3巻‥岩波書店、2021年︶佐佐木信綱記念館
- 佐佐木信綱記念館
- 佐佐木信綱資料館
- 佐佐木信綱生家
- 石薬師文庫
脚注
関連項目
外部リンク
- 佐佐木信綱:作家別作品リスト - 青空文庫
- 伊藤嘉夫『佐佐木信綱』 - コトバンク
- 佐佐木信綱記念館
- 佐佐木信綱 | 近代日本人の肖像(国立国会図書館)
- 著者=“佐佐木信綱”で検索(近代デジタルライブラリー)