林頼三郎
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林頼三郎 | |
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生年月日 | 1878年9月6日 |
出生地 |
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没年月日 | 1958年5月7日(79歳没) |
出身校 | 東京法学院 |
称号 | 正二位勲一等法学博士 |
在任期間 | 1932年5月28日 - 1935年5月13日 |
大審院長 | |
在任期間 | 1935年6月13日 - 1936年3月13日 |
元首 | 昭和天皇 |
内閣 | 廣田内閣 |
在任期間 | 1936年3月9日 - 1937年2月2日 |
在任期間 | 1937年1月12日 - 1938年12月9日 |
枢密顧問官 | |
在任期間 | 1938年12月6日 - 1947年5月2日 |
林 頼三郎︵はやし らいざぶろう、1878年︵明治11年︶9月6日 - 1958年︵昭和33年︶5月7日︶は、現在の埼玉県行田市出身の刑法法学者。検事総長・大審院院長・司法大臣を歴任した。
生涯
父は忍藩の御典医だったが、製粉業に失敗し、貧しい生活を強いられた。忍高等小学校在学中、父が病気となり、途中、北埼玉郡役所給仕となる。家計を助けるかたわら、出勤前早朝に恩師の自宅で英語を学ぶ努力家であり、その人物を見込まれ、16歳で北埼玉郡長の養子となる。同年、弁護士書生をしながら、東京法学院︵中央大学の前身︶に進学、法学博士の学位を得、法曹界に重きをなした。 検事となり﹁思想検事﹂系列に連なる。1919年︵大正8年︶末、三・一独立運動に関する平沼騏一郎検事総長宛の視察調査報告では、﹁思想犯の社会からの隔離﹂を提言。これは後の1941年︵昭和16年︶の新治安維持法において、行刑や思想犯保護観察法も絡め、予防拘禁として盛り込まれた[1]。また司法次官時代には、小山松吉検事総長らと、実際の治安維持法が初適用された京都学連事件にも関わった[2]。 一方、母校の中央大学、横浜専門学校︵現在の神奈川大学︶などで教育振興にも尽力し、故郷の行田市水城公園には顕彰碑が建立されている。ちなみに、中央大学法学部出身の俳優丹波哲郎は親戚にあたり、丹波自身、﹁仙台二校︵ママ︶を3度受けても入らない。中央大学に入ったのも、総長の林頼三郎が親戚だったので、入れていただいた﹂と後年語っている[3]。 1958年︵昭和33年︶には行田市の初代名誉市民に推挙された[4]。略歴
●1891年︵明治24年︶ 北埼玉郡役所給仕 ●1893年︵明治26年︶ 東京法学院︵中央大学の前身︶に入学 ●1897年︵明治30年︶ 判事検事登用試験に合格し、水戸区裁判所検事代理着任︵同年弁護士試験にも合格︶ ●1920年︵大正9年︶ 刑事法に関する業績により、法学博士号を授与 ●1929年︵昭和4年︶ 横浜専門学校設立、初代校長 ●1932年︵昭和7年︶ 検事総長 ●1935年︵昭和10年︶ 大審院長 ●1936年︵昭和11年︶ 広田弘毅内閣司法大臣 ●1938年︵昭和13年︶ 中央大学学長 ●1945年︵昭和20年︶ 枢密顧問官 ●1947年︵昭和22年︶ 公職追放 ●1952年︵昭和27年︶ 再び中央大学理事長から総長に就任 ●晩年は私立学校振興会長、中央教育審議会委員等を務めた栄典
●1930年︵昭和5年︶12月5日 - 帝都復興記念章[5] ●1958年︵昭和33年︶5月3日 - 埼玉県行田市から名誉市民称号が贈られる[4]。著書
●﹃刑事訴訟法要義﹄ ●﹃刑法総論﹄脚注
- ^ 荻野富士夫『思想検事』(岩波新書、2000年9月) P17 - P18
- ^ 荻野富士夫『思想検事』 P26
- ^ 丹波哲郎の霊界サロン/丹波哲郎が語る「死後の世界の実相」
- ^ a b "行田市の名誉市民の方々" (Press release). 行田市. 23 June 2011. 2016年8月23日閲覧。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
関連項目
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