「毛利元知」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
1行目: | 1行目: | ||
'''毛利 元知'''︵もうり もととも、[[寛永]]8年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]︵[[1631年]][[7月21日]]︶ - [[天和 (日本)|天和]]3年[[5月14日 (旧暦)|閏5月14日]]︵[[1683年]][[7月8日]]︶︶は、[[長門国]][[清末藩]]の初代藩主。
|
'''毛利 元知'''︵もうり もととも、[[寛永]]8年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]︵[[1631年]][[7月21日]]︶ - [[天和 (日本)|天和]]3年[[5月14日 (旧暦)|閏5月14日]]︵[[1683年]][[7月8日]]︶︶は、[[長門国]][[清末藩]]の初代藩主。
|
||
[[長府藩]]初代藩主・[[毛利秀元]]︵[[毛利元就]]の孫︶の三男。母は長沼氏︵本光院︶。[[正室]]は七沢清宗の娘・蓮華院︵[[宝樹院]]の異父妹。[[増山正利]]の養女。[[青木利長]]の娘との説もある︶。[[側室]]に船越氏、小笠原氏がいる。子に[[毛利元武|元武]]︵長男︶、[[毛利 |
[[長府藩]]初代藩主・[[毛利秀元]]︵[[毛利元就]]の孫︶の三男。母は長沼氏︵本光院︶。[[正室]]は[[七沢清宗]]の娘・蓮華院︵[[宝樹院]]の異父妹。[[増山正利]]の養女。[[青木利長]]の娘との説もある︶。[[側室]]に船越氏、小笠原氏がいる。子に[[毛利元武|元武]]︵長男︶、[[毛利匡広|元平]]︵次男︶、[[稲葉正方]]︵三男︶。官位は従五位下、刑部少輔。
|
||
[[摂津国]]大坂で生まれる。[[承応]]2年︵[[1653年]]︶に長府藩主であった兄の[[毛利光広|光広]]が死去して甥の[[毛利綱元|綱元]]が跡を継ぐと、亡父の秀元の遺言もあって元知は綱元から1万石を分与され、清末藩を立藩するに至った。この清末藩は、[[毛利氏]]の三支藩の一つとして厚遇された。
|
[[摂津国]]大坂で生まれる。[[承応]]2年︵[[1653年]]︶に長府藩主であった兄の[[毛利光広|光広]]が死去して甥の[[毛利綱元|綱元]]が跡を継ぐと、亡父の秀元の遺言もあって元知は綱元から1万石を分与され、清末藩を立藩するに至った。この清末藩は、[[毛利氏]]の三支藩の一つとして厚遇された。
|
||
天和3年︵1683年︶閏5月14日、[[江戸]]で死去した。[[享年]]53。跡を次男・[[毛利 |
天和3年︵1683年︶閏5月14日、[[江戸]]で死去した。[[享年]]53。跡を次男・[[毛利匡広|元平]]が継いだ。法号は高林院涼岸常清。墓所は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[高輪]]の[[泉岳寺]]。
|
||
{{安芸毛利氏当主|清末毛利家|初代:1653年 - 1683年}} |
{{安芸毛利氏当主|清末毛利家|初代:1653年 - 1683年}} |
2016年1月30日 (土) 11:09時点における版
毛利 元知︵もうり もととも、寛永8年6月22日︵1631年7月21日︶ - 天和3年閏5月14日︵1683年7月8日︶︶は、長門国清末藩の初代藩主。
長府藩初代藩主・毛利秀元︵毛利元就の孫︶の三男。母は長沼氏︵本光院︶。正室は七沢清宗の娘・蓮華院︵宝樹院の異父妹。増山正利の養女。青木利長の娘との説もある︶。側室に船越氏、小笠原氏がいる。子に元武︵長男︶、元平︵次男︶、稲葉正方︵三男︶。官位は従五位下、刑部少輔。
摂津国大坂で生まれる。承応2年︵1653年︶に長府藩主であった兄の光広が死去して甥の綱元が跡を継ぐと、亡父の秀元の遺言もあって元知は綱元から1万石を分与され、清末藩を立藩するに至った。この清末藩は、毛利氏の三支藩の一つとして厚遇された。
天和3年︵1683年︶閏5月14日、江戸で死去した。享年53。跡を次男・元平が継いだ。法号は高林院涼岸常清。墓所は東京都港区高輪の泉岳寺。