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|人名 = 税所 篤 |
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=== 明治時代 === |
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[[File:国立歴史民俗博物館ー大久保利通展展示品.png|thumb|右側は大久保、左側が堺県知事時代の税所篤と思われる。大久保の日記︵明治四年五月六日条︶に﹁今日税所子同行写真所等江参﹂とある。]]
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[[File:国立歴史民俗博物館ー大久保利通展展示品.png|thumb|右側は大久保、左側が堺県知事時代の税所篤と思われる。大久保の日記︵明治四年五月六日条︶に﹁今日税所子同行写真所等江参﹂とある。]]
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新政府では内国事務権判事、次いで[[河内県 (日本)|河内]]・[[兵庫県|兵庫]]・[[堺県|堺]]・[[奈良県|奈良]]など、大久保の推薦を受ける形で、当時まだ政情不安定であった西日本各地の[[県令]]・[[知事]]を歴任する。堺県知事・県令時代には、県[[師範学校]]・医学校・病院・[[女紅場]]︵女学校︶・堺版教科書の発行など教育行政や、堺灯台の建造など港湾改修、紡績所・レンガ工場の建設、堺博覧会など商工業振興のほか、[[浜寺公園]]、[[大浜公園]]、[[奈良公園]]の開設など先進的な県治を行 |
新政府では内国事務権判事、次いで[[河内県 (日本)|河内]]・[[兵庫県|兵庫]]・[[堺県|堺]]・[[奈良県|奈良]]など、大久保の推薦を受ける形で、当時まだ政情不安定であった西日本各地の[[県令]]・[[知事]]を歴任する。堺県知事・県令時代には、県[[師範学校]]・医学校・病院・[[女紅場]]︵女学校︶・堺版教科書の発行など教育行政や、堺灯台の建造など港湾改修、紡績所・レンガ工場の建設、堺博覧会など商工業振興のほか、[[浜寺公園]]、[[大浜公園]]、[[奈良公園]]の開設など先進的な県治を行った。堺県令として多くの治績をあげ、能吏として評判も高かった<ref>吉川弘文館出版 小高根太郎著﹃人物叢書 新装版 富岡鉄斎﹄1985年 109頁</ref>という。当時堺県の経済振興と福利厚生の充実ぶりは他県の模範とされた。堺県令在任中の明治9年︵[[1876年]]︶12月、[[楠正行]]に対して贈従三位の際、勅使を務めている。明治10年︵[[1877年]]︶の[[西南戦争]]では、[[明治天皇]]の奈良行幸における事務や[[吉野宮]]造営の建議などを行っており、西南戦争に関与しておらず罪に問われることはなかった。明治13年︵[[1880年]]︶3月には[[東大寺]]大仏殿南大門の修繕、6月には[[畝傍山東北陵]]︵神武天皇陵︶の修復が行われたが、共に税所の建言に基くものである。
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=== 奈良県との関わり === |
=== 奈良県との関わり === |
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明治9年︵1876年︶4月18日に奈良県が堺県に編入され、明治14年︵[[1881年]]︶2月7日に堺県が[[大阪府]]に編入されたが、地元の有志らにより大阪府からの分離独立を求める奈良県分置運動がおこると、当時[[元老院議官]]であった税所は、この運動に対し好意と理解を示し︵元々税所は大阪府への併合に反対であった、その旨はすでに大久保宛て書簡に記述している︶、運動の推進者らに助言を与えたり、彼らの意を汲んで長州閥の政府高官に上申するなど、奈良県の成立に深く関わった。明治20年︵[[1887年]]︶12月1日に新生奈良県が発足すると、新任の郡長[[平田好]]は寄付金公募による公園の整備を進めるとともに県知事税所篤に[[奈良公園]]の拡張を上申した。これを容れた税所は明治21年︵1888︶公園地の拡張を政府に申請、[[内務大臣]][[山県有朋]]と[[農商務大臣]][[井上馨]]の連名で認可された。この結果、公園拡張が行われ、明治13年︵[[1880年]]︶時で14ヘクタールであった公園の面積は、明治22年︵[[1889年]]︶には、東大寺境内、春日野、若草山などの山間部を編入し、面積は535ヘクタールとなり、これが今日の奈良公園のアウトラインとなった︵税所も自身が所有していた山林、雑司村領惣持院山を寄付している︶。奈良県知事時代におけるその他の事績としては、[[神武天皇]]を祀るために[[橿原神宮]]の造営を奏請、私費を投じての[[吉野山]]への大規模な桜の栽植、[[廃仏毀釈]]により破壊された[[興福寺]]の再興、[[十津川大水害]]被災民らの[[北海道]]入植事業などがある。政治家としての税所は一貫して、天皇家の権威高揚および京都・奈良等における伝統文化の保護育成に重点を置いていた。
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明治9年︵1876年︶4月18日に奈良県が堺県に編入され、明治14年︵[[1881年]]︶2月7日に堺県が[[大阪府]]に編入されたが、地元の有志らにより大阪府からの分離独立を求める奈良県分置運動がおこると、当時[[元老院議官]]であった税所は、この運動に対し好意と理解を示し︵元々税所は大阪府への併合に反対であった、その旨はすでに大久保宛て書簡に記述している︶、運動の推進者らに助言を与えたり、彼らの意を汲んで長州閥の政府高官に上申するなど、奈良県の成立に深く関わった。明治20年︵[[1887年]]︶12月1日に新生奈良県が発足すると、新任の郡長[[平田好]]は寄付金公募による公園の整備を進めるとともに県知事税所篤に[[奈良公園]]の拡張を上申した。これを容れた税所は明治21年︵1888︶公園地の拡張を政府に申請、[[内務大臣]][[山県有朋]]と[[農商務大臣]][[井上馨]]の連名で認可された。この結果、公園拡張が行われ、明治13年︵[[1880年]]︶時で14ヘクタールであった公園の面積は、明治22年︵[[1889年]]︶には、東大寺境内、春日野、若草山などの山間部を編入し、面積は535ヘクタールとなり、これが今日の奈良公園のアウトラインとなった︵税所も自身が所有していた山林、雑司村領惣持院山を寄付している︶。奈良県知事時代におけるその他の事績としては、[[神武天皇]]を祀るために[[橿原神宮]]の造営を奏請、私費を投じての[[吉野山]]への大規模な桜の栽植、[[廃仏毀釈]]により破壊された[[興福寺]]の再興、[[十津川大水害]]被災民らの[[北海道]]入植事業などがある。政治家としての税所は一貫して、天皇家の権威高揚および京都・奈良等における伝統文化の保護育成に重点を置いていた。税所は古物、美術品に精通しており文人・知識人との交流も盛んで、堺県令時代には[[大鳥大社]]の大宮司に[[富岡鉄斎]]を推薦<ref>吉川弘文館出版 小高根太郎著﹃人物叢書 新装版 富岡鉄斎﹄1985年 109頁</ref>したり、奈良県知事時代の1888年6月には[[法隆寺]]宝物調査の途次であった[[フェノロサ]]を[[淨教寺]]の本堂に招いて講演を依頼︵演題﹃奈良ノ諸. 君ニ告グ﹄︶するなど、文化振興的な政策・活動に非常に熱心であった。
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のちに宮中顧問官、[[霧島神宮]]の宮司、枢密顧問官を務めた。明治20年︵[[1887年]]︶、維新の功により子爵を授けられる。明治43年︵1910年︶6月21日死去。享年84。
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のちに宮中顧問官、[[霧島神宮]]の宮司、枢密顧問官を務めた。明治20年︵[[1887年]]︶、維新の功により子爵を授けられる。明治43年︵1910年︶6月21日死去。享年84。
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* 古美術の鑑定を得意としていたことから、[[正倉院]]御物の整理掛に就任している。 |
* 古美術の鑑定を得意としていたことから、[[正倉院]]御物の整理掛に就任している。 |
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* 若い頃に税所篤の下で[[書生]]をしていた[[村上浪六]]の自伝﹃我五十年﹄によると、﹁身体は五尺に足らずして精悍無比、顔面は[[備前焼]]の羅漢に類して一種異様の鬼気を帯び、いわゆる[[薩摩]]の鬢ハゲ以外その頭上に敵の散弾を受けしがため毛は薄くして生ぜず、左足の関節また弾丸のために屈伸自由ならず、体中の刀痕数箇所﹂といった風貌であったという、また同書には堺県令時代の税所の剛直な人柄が細かに描写されている。
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* 若い頃に税所篤の下で[[書生]]をしていた[[村上浪六]]の自伝﹃我五十年﹄によると、﹁身体は五尺に足らずして精悍無比、顔面は[[備前焼]]の羅漢に類して一種異様の鬼気を帯び、いわゆる[[薩摩]]の鬢ハゲ以外その頭上に敵の散弾を受けしがため毛は薄くして生ぜず、左足の関節また弾丸のために屈伸自由ならず、体中の刀痕数箇所﹂といった風貌であったという、また同書には堺県令時代の税所の剛直な人柄が細かに描写されている。
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* 一般的に古美術品の収集家として知られる税所だが、村上によると元来はそのような人物ではなく、[[紀尾井坂の変]]での大久保の死をきっかけに、書画骨董や刀剣の収集に没頭するようになり、終日書斎にこもり読書をして過ごす事が多くなったという。村上はその様子を﹁殆ど志を世に絶てるが如く﹂と形容し﹁竹馬の友にして死生の間に携へ来り、しかも維新以後さらに肝胆相照らせし大久保利通その人を失ひしは、税所氏の前途生涯に他人の解し得ざる深酷の一線を横断せり﹂と述べており、大久保の死が税所に与えた影響が大きかったことが伺える。﹃甲東逸話﹄にも﹁税所は遭難(紀尾井坂の変 |
* 一般的に古美術品の収集家として知られる税所だが、村上によると元来はそのような人物ではなく、[[紀尾井坂の変]]での大久保の死をきっかけに、書画骨董や刀剣の収集に没頭するようになり、終日書斎にこもり読書をして過ごす事が多くなったという。村上はその様子を﹁殆ど志を世に絶てるが如く﹂と形容し﹁竹馬の友にして死生の間に携へ来り、しかも維新以後さらに肝胆相照らせし大久保利通その人を失ひしは、税所氏の前途生涯に他人の解し得ざる深酷の一線を横断せり﹂と述べており、大久保の死が税所に与えた影響が大きかったことが伺える。﹃甲東逸話﹄にも﹁税所は遭難(紀尾井坂の変)のことを聞いて馳せ行き、慟哭の余り殆ど絶え入らんとして僅に蘇生した。﹂といった記述があり、両者の関係の強さが窺える。
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*[[元老]]の一人[[松方正義]]は同じ荒田村出身の後輩にあたる。松方は晩年の税所に宛てた書簡中、税所に対し「閣下」という敬称を用いており、元老に栄達した後も先輩に対する礼をもって接していたことが窺える。税所篤は西郷隆盛、大久保利通と共に薩南の三傑と評されていたという<ref>「宛名の鵬北とあるは同じ薩州の税所篤氏(子爵)の事であつた。税所氏に対しては松方公も閣下とかいてゐる位で何れかと云へば松方公等よりは先輩に数ふべき人、西郷、大久保と共に薩南の三傑と云はれた人物であつた。御維新後各府縣の知事に歴任し最後に枢密顧問官で終つたが、大臣にはなつてゐなかつたから其後の人には忘れられ勝ちであるが、剛直を以て鳴り精神的感化の多かつた人傑であつた。松方公なぞも子には常に一目を置き其栄達後も先輩に対する礼を以てした。文面を見ても其のどことなく慇懃な所がうかがはれるのである。」(時事新報社政治部 編 『手紙を通じて』1929年 169頁より抜粋)</ref>。 |
*[[元老]]の一人[[松方正義]]は同じ荒田村出身の後輩にあたる。松方は晩年の税所に宛てた書簡中、税所に対し「閣下」という敬称を用いており、元老に栄達した後も先輩に対する礼をもって接していたことが窺える。税所篤は西郷隆盛、大久保利通と共に薩南の三傑と評されていたという<ref>「宛名の鵬北とあるは同じ薩州の税所篤氏(子爵)の事であつた。税所氏に対しては松方公も閣下とかいてゐる位で何れかと云へば松方公等よりは先輩に数ふべき人、西郷、大久保と共に薩南の三傑と云はれた人物であつた。御維新後各府縣の知事に歴任し最後に枢密顧問官で終つたが、大臣にはなつてゐなかつたから其後の人には忘れられ勝ちであるが、剛直を以て鳴り精神的感化の多かつた人傑であつた。松方公なぞも子には常に一目を置き其栄達後も先輩に対する礼を以てした。文面を見ても其のどことなく慇懃な所がうかがはれるのである。」(時事新報社政治部 編 『手紙を通じて』1929年 169頁より抜粋)</ref>。 |
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*『甲東逸話』[[冨山房]]、1928年。 |
*『甲東逸話』[[冨山房]]、1928年。 |
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*[[永富謙]]『日本の廃道』、2013年。 |
*[[永富謙]]『日本の廃道』、2013年。 |
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*[[吉川弘文館]]出版 [[小高根太郎]]著『[[人物叢書]] 新装版 富岡鉄斎』、1985年。 |
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2017年12月18日 (月) 21:26時点における版
税所 篤 | |
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生年月日 | 1827年12月22日 |
出生地 | 薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村 |
没年月日 | 1910年6月21日(82歳没) |
前職 | 武士(薩摩藩士) |
称号 |
正二位 子爵 勲一等瑞宝章 旭日大綬章 |
配偶者 | 椎原八十子 |
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在任期間 | 1869年1月22日 - 7月17日 |
在任期間 | 1869年7月17日 - 1870年8月19日 |
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在任期間 | 1870年8月19日 - 1881年2月7日 |
在任期間 | 1881年7月12日 - - 1887年11月9日 |
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在任期間 | 1887年11月9日 - 1889年12月26日 |
その他の職歴 | |
![]() (1889年12月26日 - 1890年6月5日) | |
![]() (1890年6月5日 - 1900年5月30日) | |
![]() (1905年4月28日 - 1910年) |
来歴
幼年・青年時代
幕末
明治時代
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4d/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%B0%91%E4%BF%97%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8%E3%83%BC%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A%E5%B1%95%E5%B1%95%E7%A4%BA%E5%93%81.png/220px-%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%B0%91%E4%BF%97%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8%E3%83%BC%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A%E5%B1%95%E5%B1%95%E7%A4%BA%E5%93%81.png)
奈良県との関わり
栄典
- 1887年(明治20年)11月25日 - 勲二等旭日重光章[4]
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[5]
- 1903年(明治36年)12月26日 - 勲一等瑞宝章[6]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 旭日大綬章[7]
- 1910年(明治43年)6月21日 – 正二位[8]
備考
家族・親族
出典
参考文献
公職 | ||
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先代 小河一敏 |
堺県知事・県令 1871年11月22日より県令 官選第2代:1870年8月19日 - 1881年2月7日 |
次代 廃止 |