群馬県立沼田高等学校
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群馬県立沼田高等学校 | |
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過去の名称 |
群馬縣尋常中學校利根分校 群馬縣立前橋中學校利根分校 群馬縣立沼田中學校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 |
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校訓 |
進取勤勉 和親協同 質実剛健 |
設立年月日 | 1897年 |
共学・別学 |
男子校(全日制) 男女共学(定時制) |
課程 |
全日制課程 定時制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科 |
学科内専門コース | 数理科学コース |
学期 | 3学期制 |
高校コード | 10126F |
所在地 | 〒378-0054 |
群馬県沼田市西原新町1510 ![]() 北緯36度38分45.7秒 東経139度3分8.92秒 / 北緯36.646028度 東経139.0524778度座標: 北緯36度38分45.7秒 東経139度3分8.92秒 / 北緯36.646028度 東経139.0524778度 | |
外部リンク | 公式サイト |
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群馬県立沼田高等学校︵ぐんまけんりつぬまたこうとうがっこう︶は、群馬県沼田市に所在する県立高等学校。沼高︵ぬまこう︶の通称で呼ばれている。
概要
1897年に群馬県尋常中学校利根分校として開校、その歴史の長さは県下の公立高校としては群馬県立前橋高等学校に次ぐ伝統校︵群馬県立高崎高等学校、群馬県立太田高等学校、群馬県立富岡高等学校も同時期に開校した︶。2000年度より自然科学分野で活躍する生徒を養成する為、数理科学コースが設置されている。 生徒は、全日制は男子のみ、定時制は男女となっている。 制服は黒学ラン︵標準学生服︶、学帽も存在していた。学食︵1973年、生徒会の希望で五常館内に設置︶も設置されている。学科
●全日制課程 ●普通科 ●普通コース ●数理科学コース ●定時制課程 ●普通科沿革
●1897年4月1日 - 群馬県尋常中学校利根分校として開校。 ●1900年4月1日 - 群馬県立前橋中学校利根分校と改称。 ●1912年4月1日 - 群馬県立沼田中学校として独立する︵全校生徒定員250名︶。 ●1912年5月13日 - 開校式挙行。 ●1920年10月 - 校訓制定。 ●1923年 - 校歌制定。 ●1924年4月1日 - 学級増︵全校生徒定員500名︶。 ●1928年5月20日 - 現在地に校舎落成、6月1日に移転。 ●1942年4月6日 - 学級増︵定員750名︶。 ●1948年4月1日 - 学制改革に伴い群馬県立沼田高等学校と改称︵全校生徒定員600名︶。 ●1948年11月1日 - 定時制課程設置︵定員200名︶。 ●1949年6月20日 - 定時制水上分校開校︵定員200名︶。 ●1959年9月28日 - 体育館落成。 ●1962年4月1日 - 全日制武尊分校開校︵定員150名︶。 ●1963年4月1日 - 全日制学級増︵定員750名︶、武尊分校学級増︵定員300名︶。水上分校全日制へ転換、定時制募集停止︵定員150名︶。 ●1964年4月1日 - 全日制学級増︵定員900名︶。 ●1967年12月20日 - 武道館落成。 ●1968年4月1日 - 武尊分校独立、寄宿舎閉鎖。 ●1971年3月6日 - 水上分校募集停止︵1973年3月31日閉校︶。 ●1973年 - 学食設置。 ●1974年4月1日 - 全日制学級減︵定員810名︶。 ●1977年6月16日 - テニスコート設置。 ●1981年4月1日 - 定時制学級増︵1学年2学級、男女共学となる︶。 ●2005年4月1日 - 全日制学級減︵1学年5学級、定員600名︶。 ●2014年12月26日 - 硬式野球部室内練習場落成。 ●2016年4月1日 - 全日制学級減(1学年4学級、定員480名) 。校歌
校歌のメロディーのほぼ全て、及び歌詞の一部の言い回しが静岡県立掛川西高等学校のものと酷似している。これは旧制掛川中で国漢教師をしていた岩崎莞爾教諭がそののち同沼田中で校歌の制定に携わったためと伝えられている︵静岡県立掛川西高等学校#校歌も参照。なお政界では第1次安倍内閣で財務大臣として沼田高出身の尾身幸次、厚生労働大臣として掛川西高出身の柳澤伯夫の両名が入閣したことがある︶。また、以下のようにも伝えられている。 大正9年10月30日に校歌を一般生徒から募集︵川路 幹校長︶することが発表された。上毛新聞(大正9年10月31日号)は次のように報じている。“校歌の募集を発表した沼中”利根郡沼田町県立沼田中学校にては、奉読式後、生徒自ら選びたる修養の徳目を発表し、これを実践躬行すべき旨の宣誓式を行い、且つその徳目を標準として校歌を作定すべき旨を発表したり、右徳目は﹁進取勤勉﹂﹁和親協同﹂﹁質実剛健﹂の三項目にして何れも勅語の趣旨に協︵そ︶ふべきものなり、校歌は生徒の創作を募集する筈、 …略…。 大正12年、梅田三郎校長の時に歌詞を生徒から募集し、何点かの応募作の中から、当時、国漢の教師であった岩崎莞爾先生が選択し、補筆して生まれた師弟の合作である。現在歌われている歌詞は戦後、一部変更されたものであり、制定年月日は定かではない。作曲者は不詳である。