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| notable_works = 『[[月に吠える (萩原朔太郎の詩集)|月に吠える]]』(1917年)<br />『青猫』(1923年)<br />『純情小曲集』(1925年)<br />『[[氷島 (詩集)|氷島]]』(1934年)<br />『[[猫町]]』(1935年、小説) |
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| influenced = [[三好達治]]、[[宮沢賢治]]、[[西脇順三郎]]、[[吉本隆明]]、[[三島由紀夫]]、[[伊藤信吉]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E4%BF%A1%E5%90%89-155310 コトバンク-伊藤信吉]</ref> |
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| debut_works = 『ひと夜えにし』(1902年、短歌)<br />『みちゆき』(1913年、詩) |
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'''萩原 朔太郎'''︵はぎわら さくたろう、[[1886年]]︵[[明治]]19年︶[[11月1日]] - [[1942年]]︵[[昭和]]17年︶[[5月11日]]︶は、[[日本]]の[[詩人]]、[[評論家]]。[[大正|大正時代]]に[[近代詩]]の新しい地平を拓き﹁日本近代詩の父﹂と称される。
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{{文学}} |
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'''萩原 朔太郎'''(はぎわら さくたろう、[[1886年]]([[明治]]19年)[[11月1日]] - [[1942年]]([[昭和]]17年)[[5月11日]])は、[[大正]]・昭和期の[[詩人]]。[[近代詩]]の頂点に立つ詩人として「'''日本近代詩の父'''」と称される。 |
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==生涯== |
== 生涯 == |
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=== 誕生から学生時代 === |
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[[群馬県]]東群馬郡北曲輪町︵現‥[[前橋市]]千代田町︶に、開業医の父・密蔵と母・ケイの長子として生まれる。名前の朔太郎は、長男で朔日︵ついたち︶生まれであることから、命名された。
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[[群馬県]][[東群馬郡]][[北曲輪町 (前橋市)|北曲輪町]](のちの[[前橋市]]北曲輪町(現・ |
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[[千代田町 (前橋市)|千代田町]]一丁目︶︶に、開業医の父・密蔵と母・ケイの長子として生まれた。名前の朔太郎は、長男で朔日︵ついたち︶生まれであることから、命名された。[[1893年]]︵[[明治]]26年︶に[[群馬大学教育学部附属小学校|群馬県師範学校附属小学校]]に入学。この頃から神経質かつ病弱であり、﹁学校では一人だけ除け者にされて、いつも周囲から冷たい敵意で憎まれている。﹂<ref>詩人全集︵1966年︶P.319</ref> と孤独を好み、一人で[[ハーモニカ]]や[[手風琴]]などを楽しんだ。
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師範学校附属小学校高等科を卒業後、[[1900年]](明治33年)に旧制県立前橋中学校(現・[[群馬県立前橋高等学校]])入学。この時代に従兄弟[[萩原栄次]]に短歌のことを教わる。校友会誌に『ひと夜えにし』と題してはじめて[[短歌]]五首を発表。在学中に級友と共に『野守』という回覧雑誌を出して短歌を発表する。『野守』には[[町田佳声|町田嘉章]]も加わり交友を深めた。作品には[[与謝野晶子]]の影響が見られ、[[1903年]](明治36年)に[[与謝野鉄幹]]主宰の『[[明星]]』に短歌三首掲載され、[[石川啄木]]らと共に「[[新詩社]]」の同人となる。学校へ行くと言って家を出ながら、郊外の野原で寝転んだり、森や林の中を歩き回り、学校の授業中はいつも窓から空を見ていた<ref>(「永遠の退屈」)</ref>。結局、中学で落第。 |
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旧制県立前橋中学校︵現・[[群馬県立前橋高等学校]]︶の在学中に﹃野守﹄という回覧雑誌を編集して短歌を発表し、[[石川啄木]]らとともに早くからその才能を発揮し始める。[[1907年]][[第五高等学校 (旧制)|第五高等学校]]に入学し、翌年[[第六高等学校 (旧制)|第六高等学校に]]転校するが、中退。続いて[[1910年]]・[[1911年]]の2度[[慶應義塾大学]]予科に進学するが、音楽に没頭してどちらも短期間で中退した。
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[[1907年]]︵明治40年︶9月熊本にある[[第五高等学校 (旧制)|第五高等学校]]第一部乙類︵英語文科︶に浪人して入学する<ref>[[関川夏央]]︵﹁あはれ花びらながれ…﹂﹃やむを得ず早起き﹄[[小学館]] [[2012年]]︶</ref> が翌年7月落第し、[[1908年]]︵明治41年︶9月、岡山にある[[第六高等学校 (旧制)|第六高等学校]]第一部丙類︵ドイツ語文科︶に転校。試験を受けないため教師の間で問題となり、翌年7月落第。[[1910年]]︵明治43年︶、六高に籍を残しつつ[[慶應義塾大学]][[予科]]了組に入学するも直後に退学。同年の夏頃に[[チフス]]にかかり、帰郷し5月、六高を退学する。翌年、慶大予科に再入学する。[[比留間賢八]]について[[マンドリン]]を習い音楽会や[[オペラ]]を楽しむが、精神的苦悩に悩まされ、同年11月、慶大予科を中途退学。慶大への入退学が重なっているのは奇妙だが、これは旧制第六高等学校の教授が朔太郎の父・密蔵に手紙を寄せ、﹁朔太郎の学業に将来の望みなし﹂と諭告したことに関連する<ref>﹃現代文学大系︿第34﹀萩原朔太郎,[[三好達治]],[[西脇順三郎]]集﹄︵[[筑摩書房]]、[[1978年]]、ASIN B000JAUHJ0、P493︶</ref>。
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[[1913年]]︵大正2年︶、[[北原白秋]]編集の﹃朱欒﹄に五編の詩を発表、詩人として出発し、そこで[[室生犀星]]と知り合い、[[山村暮鳥]]と三人で﹁人魚詩社﹂を設立し、[[1915年]]︵大正4年︶には詩誌﹃卓上噴水﹄を創刊。
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=== 歌人・詩人としての出発 === |
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[[1917年]](大正6年)32歳で、第一詩集『月に吠える』を刊行。口語象徴詩・叙情詩の新領域を開拓し、詩壇に確固たる地位を確立。[[1923年]](大正12年)には第二詩集『青猫』を刊行して口語自由詩のリズムを完成させ、倦怠・憂鬱を繊細に表現した。 |
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[[File:Hagiwara Sakutaro.jpg|thumb|180px|萩原朔太郎(1930年)]] |
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[[File:'Portrait of Hagiwara Sakutarô', woodblock print by Onchi Kôshirô, 1943, 1st edition, National Museum of Modern Art, Tokyo.jpg|thumb|180px|[[恩地孝四郎]]が描いた朔太郎の肖像]] |
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[[1913年]]︵[[大正]]2年︶に[[北原白秋]]の雑誌﹃朱欒﹄に初めて﹁みちゆき﹂ほか五編の[[詩]]を発表、[[詩人]]として出発し、そこで[[室生犀星]]と知り合い、室生とは生涯の友となる。[[1914年]]︵大正3年︶に東京生活を切り上げて帰郷し、屋敷を改造して書斎とする<ref group="注釈">現在、[[文化財]]として保存されている。</ref>。6月に室生犀星が[[前橋]]を訪れ、そこで[[山村暮鳥]]と3人で詩・宗教・音楽の研究を目的とする﹁[[人魚詩社]]﹂を設立。[[1915年]]︵大正4年︶には詩誌﹃[[卓上噴水]]﹄を創刊。﹁ゴンドラ洋楽会﹂を組織してマンドリンやギターを教授して前橋や[[高崎市|高崎]]で演奏会を開催する。またこのころから教会に出入りし、神や信仰、罪などの問題に悩み始める<ref>詩人全集︵1966年︶P.322</ref>。
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[[1916年]]︵大正5年︶春頃から自宅で毎週一回の﹁詩と音楽の研究会﹂を開き、6月に室生犀星との2人雑誌﹃[[感情 (雑誌)|感情]]﹄を創刊。高度に成熟した[[散文詩]]や[[評論]]を発表し始め、[[1917年]]︵大正6年︶32歳で、第一詩集﹃[[月に吠える (萩原朔太郎の詩集)|月に吠える]]﹄を感情詩社と白日社共刊により自費出版で刊行。内容・形式共に従来の詩の概念を破り、口語象徴詩・叙情詩の新領域を開拓し、詩壇に確固たる地位を確立。[[森鷗外]]の絶賛を受けるなど<ref>詩人全集︵1966年︶P.323</ref>、一躍詩壇の寵児となり、5月﹃[[文章世界]]﹄誌上において[[神秘主義]]・[[象徴主義]]論のきっかけをつくる論文を発表。﹃文章世界﹄1917年5月に﹁三木露風一派の詩を追放せよ﹂を発表した。
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[[1919年]]5月に上田稲子と結婚し、葉子と明子の2女をもうけるが、[[1925年]]︵大正14年︶上京し、[[1929年]]︵昭和14年︶に妻の稲子と離婚するに至り、家庭内の不幸と[[二・二六事件]]等による[[昭和]]初期時代の違和感も重なり、詩集﹃氷島﹄を生みだした。[[1938年]]4月、大谷美津子と再婚するが、1年余りで離婚した。
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[[1918年]]︵大正7年︶﹃[[感情 (雑誌)|感情]]﹄に詩3編を発表したのち、[[前橋市]]でマンドリン倶楽部の演奏会を頻繁に開催し、前橋在住の詩人歌人たちと﹁文芸座談会﹂を設ける。[[1919年]]︵大正8年︶5月、上田稲子と結婚。6月、[[若山牧水]]来訪。詩人団体﹁[[詩話会]]﹂の委員となり、機関紙﹃[[日本詩人]]﹄の創刊と共に[[アフォリズム]]風の文章を初めて発表し始める。[[1922年]]︵大正11年︶に﹃新しき欲情﹄を刊行。﹃[[短歌雑誌]]﹄に発表した﹁現歌壇への公開状﹂をきっかけに歌壇人と論争になり、朔太郎は[[万葉集|万葉]]の浪漫的抒情精神の復活を唱えた。[[1920年]]︵大正9年︶長女[[萩原葉子]]誕生。[[1922年]]︵大正11年︶次女明子誕生。
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[[1937年]]に自ら透谷会を設立して、[[1940年]]に﹁帰郷者﹂で[[透谷賞]]受賞。晩年には評論集﹃日本への回帰﹄を表して[[古典]]回帰への姿勢をも示した。門人に[[三好達治]]など。
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=== 再度の上京から「氷島」まで === |
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[[1942年]]に急性[[肺炎]]で死去。享年満55歳。 |
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[[1923年]]︵大正12年︶1月26日詩集﹃青猫﹄刊行、7月﹃蝶を夢む﹄を刊行し、[[谷崎潤一郎]]を訪問。[[1924年]]︵大正13年︶2月に雑誌﹃新興﹄創刊号に発表した﹁情緒と理念﹂一二篇により同誌が発売禁止となる。[[1925年]]︵大正14年︶には妻と娘二人を伴い上京し、[[東京府]][[荏原郡]][[大井町 (東京府)|大井町]]︵現・[[品川区]]内︶、[[北豊島郡]][[滝野川区|滝野川町]][[田端]]︵現・[[北区 (東京都)|北区]]内︶へ移り住み、近隣の[[芥川龍之介]]や[[室生犀星]]と頻繁に往来し、8月に﹃純情小曲集﹄を刊行。雑誌﹃[[日本詩人]]﹄の編集を後に妹・アイが嫁ぐ[[佐藤惣之助]]と担当し、[[ニヒリズム]]の傾向を強める。11月、妻の健康回復のため[[鎌倉]]に転居。
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[[1926年]]︵大正15年・[[昭和]]元年︶荏原郡[[馬込町 (東京府)|馬込町]]︵現・[[大田区]]内︶に転居。[[1927年]]︵昭和2年︶頃から[[三好達治]]、[[堀辰雄]]、[[梶井基次郎]]などの書生や門人を多く抱えるようになる。[[三好達治]]は朔太郎の4人いた妹の末っ子アイに求婚するが断られ、のちにアイが再々婚した佐藤惣之助に先立たれると、妻を離縁しアイを妻として[[三国町]]で暮らすが、まもなく離縁する。[[1928年]]︵昭和3年︶に﹁[[詩人協会]]﹂の創立に伴い評議委員となり、2月﹃詩論と感想﹄を、12月﹃詩の原理﹄を刊行。
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詩の他には、[[比留間賢八]]に[[マンドリン]]を習いマンドリン倶楽部を作るなど音楽家も志し、一方、少年時代から写真撮影にも凝っていた。晩年には、アマチュア・マジシャン・クラブに入会、手品に熱中した。
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[[1929年]]︵昭和4年︶7月に家庭破綻により娘二人を伴い前橋の実家に帰り、離婚と家庭崩壊の苦悩により生活が荒廃し始める。10月﹃虚妄の正義﹄を刊行。11月、単身上京、赤坂区檜町︵現・港区赤坂︶のアパート乃木坂倶楽部に仮寓。11月、父重態となり前橋に帰る。翌年7月父死去。10月、妹アイとともに上京、牛込区市谷台町︵現・新宿区内︶に居住。[[1931年]]︵昭和6年︶5月、[[万葉集]]から[[新古今和歌集|新古今集]]にいたる和歌・437首の解説を中心とする﹃恋愛名歌集﹄を刊行。[[1933年]]︵昭和8年︶に世田谷区代田一丁目に自ら設計して自宅新築、入居。個人雑誌﹃生理﹄を発刊。ここで、[[与謝蕪村]]や[[松尾芭蕉]]など、古典の詩論を発表し、日本の伝統詩に回帰した。
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また、大の[[ミステリー]]ファンとして知られており、1926年のエッセイ﹁[[探偵小説に就いて]]﹂で[[江戸川乱歩]]の、とくに﹁[[人間椅子 (江戸川乱歩)|人間椅子]]﹂を賞賛︵ちなみに、朔太郎には﹁[[腕のある寝台]]﹂と題された詩篇もある︶。1931年からは直接親交を結び、﹁[[パノラマ島奇譚]]﹂︵﹁[[パノラマ島奇談]]﹂︶を賞賛した︵朔太郎が﹁パノラマ島奇譚﹂を直接に論じた文章は現在までの所確認されていないが、乱歩の﹃[[探偵小説四十年]]﹄中に、朔太郎が直接乱歩に賞賛の言葉を贈った旨の回想がある。朔太郎自身、しばしば[[パノラマ]]を詩・散文詩のモティーフとして取り上げている︶。
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=== 日本主義者への変貌 === |
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また、[[作曲]]もいくつか試みており、[[室生犀星]]の詩による合唱曲『野火』、マンドリン曲"A Weaving Girl"([[機織る乙女]])などが残されている。 |
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[[1934年]]︵昭和9年︶に詩集﹃氷島﹄を刊行。同年7月に明治大学文芸科講師となり、詩の講義を担当するようになる。[[1935年]]︵昭和10年︶4月﹃純正詩論﹄、10月﹃絶望の逃走﹄、11月には﹃猫町﹄を刊行。自らが発起人となって[[伊東静雄]]の出版記念会を行った。[[1936年]]︵昭和11年︶3月﹃郷愁の詩人与謝蕪村﹄、5月随筆論評集﹃廊下と室房﹄を刊行。前年に雑誌﹃[[文学界]]﹄に連載した﹁詩壇時評﹂により、第八回文学界賞を受ける。10月に﹁[[詩歌懇和会]]﹂が設立されると役員となる。
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[[1937年]]︵昭和12年︶に[[上毛新聞]]主宰の﹁萩原朔太郎歓迎座談会﹂に出席し帰郷。3月﹃詩人の使命﹄、8月﹃無からの抗争﹄を刊行。﹁[[透谷会]]﹂の創立発起人となり、9月に﹁透谷文学賞﹂が設立されると、[[島崎藤村]]・[[戸川秋骨]]・[[武者小路実篤]]と共に選考委員となる。この頃からおびただしい量の執筆・座談会・講演等をこなすようになる。[[1938年]]︵昭和13年︶1月﹁新日本文化の会﹂の機関紙﹃[[新日本]]﹄を創刊。3月に﹃日本への回帰﹄を発表して[[日本主義]]を主張し、一部から[[国粋主義者]]と批判される。雑誌﹃日本﹄に﹁詩の鑑賞﹂を執筆した。4月、大谷美津子と結婚するも入籍せず。
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[[1939年]]︵昭和14年︶に[[パノンの会]]︵正式名・詩の研究講義の会︶を結成。9月﹃宿命﹄を刊行。[[1940年]]︵昭和15年︶に﹃帰郷者﹄︵第四回透谷文学賞受章︶、﹃港にて﹄を刊行し、10月﹃阿帯﹄を刊行する。この頃から身体に変調を感じ始め、[[1942年]]︵昭和17年︶4月末付で明治大学講師を辞任。同年5月11日に急性[[肺炎]]で世田谷の自宅にて55歳で死去。墓所は前橋市榎町[[政淳寺]]。法名は'''光英院釈文昭居士'''。
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== 家族 == |
== 家族 == |
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長女[[萩原葉子]]も |
長女・[[萩原葉子]]も作家であり、演出家の[[萩原朔美]]は葉子の息子(朔太郎の孫)である。朔太郎の妹・愛子は、詩人[[佐藤惣之助]]の妻。 |
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== 著作 == |
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朔太郎の妹愛子は、詩人[[佐藤惣之助]]の妻。 |
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=== 詩集 === |
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*『月に吠える』感情詩社 ほか, 1917([[角川文庫]]・[[講談社文庫]]で再刊) |
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*『蝶を夢む』[[新潮社]], 1923 |
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*『青猫』新潮社, 1923(三笠文庫、新潮文庫で再刊) |
|||
*『純情小曲集』新潮社, 1925 |
|||
*『萩原朔太郎詩集』[[第一書房 (第1期)|第一書房]], 1928(復刻版も刊) |
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*『氷島』第一書房, 1934 |
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*『定本 青猫』版画荘, 1936 |
|||
*『宿命』[[創元社]], 1939(創元文庫<ref group="注釈">昭和20年代後半に、伊藤信吉らの解説で文庫選集を刊行</ref> で再刊) |
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;選集「詩集」 |
|||
*『萩原朔太郎詩集』 [[三好達治]]選、[[岩波文庫]], 1952、改版1981 |
|||
*『萩原朔太郎詩集』 [[伊藤信吉]]編、[[彌生書房]], 1963/角川文庫, 1956 |
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*『萩原朔太郎詩集』 [[河上徹太郎]]編、[[新潮文庫]]、改版2004 |
|||
*『萩原朔太郎詩集』 [[思潮社]] [[現代詩文庫]], 1975 |
|||
*『萩原朔太郎 近代の詩人7』 [[中村真一郎]]編・解説、[[潮出版社]], 1991 |
|||
*『青猫 萩原朔太郎詩集』 [[阿毛久芳]]解説、[[集英社文庫]], 1993 |
|||
*『月に吠える 萩原朔太郎詩集』 [[角川文庫]], 改版1999 |
|||
*『萩原朔太郎詩集』 [[ハルキ文庫]]・[[角川春樹事務所]], 1999 |
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=== アフォリズム集 === |
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==作品== |
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*『新しき欲情』[[アルス (出版社)|アルス]], 1922 |
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[[北原白秋]]に師事し、[[1917年]]2月刊行の処女詩集﹃[[月に吠える]]﹄で全国に名を知られるようになった。続いて[[1923年]]1月に﹃[[青猫]]﹄を刊行。これは﹃月に吠える﹄と並ぶ朔太郎の代表作とされている。白秋に次いで[[文化学院]]で教鞭をとる。
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|||
*『虚妄の正義』第一書房, 1929([[講談社文芸文庫]]で再刊) |
|||
*『絶望の逃走』第一書房, 1935 |
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*『港にて』創元社, 1940 |
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=== 随筆・小説 === |
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この他、﹃蝶を夢む﹄、﹃萩原朔太郎詩集﹄、それらを集成した﹃定本青猫﹄がある。これらの作品は、口語体によって書かれ、[[高村光太郎]]と共に﹁口語自由詩の確立者﹂とされる。一方、実生活上では医師の長男でありながら、生涯定職に就かなかった負い目の意識や、2度の離婚。最初の離婚にまつわる家庭内のいざこざが原因で次女に知的障害が残るなど、過失の意識を強めていった。[[1933年]]6月に刊行された﹃氷島﹄では、[[漢文]]調の文語体に立ち帰り、寂寥と懐疑の情を訴えている。この作品を巡っては、評価は好悪まったく二分されている。最後の詩集は、[[散文詩]]と[[抒情詩]]︵行わけ詩︶をまとめた綜合詩集﹃宿命﹄であった。
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|||
*『詩論と感想』素人社書屋, 1928 |
|||
*『純正詩論』第一書房, 1935 |
|||
*『猫町』版画荘, 1935 - 唯一の小説 |
|||
*『人生読本 春夏秋冬』[[辻野久憲]]編、第一書房, 1936([[ちくま文庫]]で再刊) |
|||
*『廊下と室房』第一書房, 1936 |
|||
*『詩人の使命』第一書房, 1937 |
|||
*『無からの抗争 詩と文学に関する問題』[[白水社]], 1937 |
|||
*『日本への回帰』白水社, 1938 |
|||
*『帰郷者』[[白水社]], 1940([[中公文庫]]で再刊) |
|||
*『阿帯 萩原朔太郎随筆集』河出書房, 1940 |
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== |
=== 詩歌論 === |
||
*『詩の原理』第一書房, 1928(創元選書、新潮文庫で再刊) |
|||
以下は生前に発表された作品のみ。﹁全集﹂は現在までに5度出版されている。最新版は、筑摩書房︵全15巻および補巻、1986年から89年かけての出版︶にある。
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*『恋愛名歌集』選評 第一書房, 1931(岩波文庫で再刊, 2022) |
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*『郷愁の詩人 [[与謝蕪村|與謝蕪村]]』第一書房, 1936(新潮文庫、岩波文庫で再刊) |
|||
*『昭和詩鈔』[[冨山房]]百科文庫, 1940 |
|||
=== |
===全集ほか=== |
||
*『萩原朔太郎全集』全10巻・別冊 [[小学館]], 1943-44 |
|||
*月に吠える 角川文庫 [http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/859_21656.html] |
|||
*『萩原朔太郎全集』全8巻 [[東京創元社|創元社]], 1951。伊藤信吉ほか解説 |
|||
*蝶を夢む |
|||
*『萩原朔太郎全集』全5巻 [[新潮社]], 1959-60。編集委員:室生犀星・三好達治・伊藤信吉 |
|||
*青猫 [[集英社文庫]] |
|||
*『萩原朔太郎全書簡集』[[人文書院]], 1974。伊藤信吉編 |
|||
*純情小曲集 |
|||
*萩原朔太郎 |
*『萩原朔太郎全集』全15巻 筑摩書房, 1975-78、補訂版(全16巻), 1986-89 |
||
*『萩原朔太郎全詩集』筑摩書房, 1979 |
|||
*氷島 |
|||
*定本青猫 |
|||
*宿命 |
|||
:*「詩集」は[[新潮文庫]]、[[ハルキ文庫]](旧[[角川文庫]])、[[岩波文庫]]がある |
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===アフォリズム集=== |
|||
*新しき欲情 |
|||
*虚妄の正義 講談社文芸文庫(品切) |
|||
*絶望の逃走 |
|||
*港にて |
|||
=== 編著・選集(新版)=== |
|||
===小説=== |
|||
*『昭和詩鈔』萩原朔太郎編、[[安藤元雄]]解説、[[冨山房]]百科文庫、1977、新版1989(本編は上記版) |
|||
*猫町 [[清岡卓行]]編、岩波文庫/金井田英津子の画でパロル舎刊 ISBN 4894191679 |
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*『エレナ! 萩原朔太郎<郷土望景詩>幻想』[[司修]]画、[[小沢書店]]、1993 |
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*『萩原朔太郎の人生読本』[[辻野久憲]]編、[[ちくま文庫]]、1994 |
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*『猫町 他十七篇』[[清岡卓行]]編、岩波文庫、1995 |
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*『萩原朔太郎 [[ちくま日本文学]]』 [[筑摩書房]]、2009。文庫判 |
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*『萩原朔太郎 近代浪漫派文庫21』 [[新学社]]、2005 |
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*『猫町』[[金井田英津子]]・画、パロル舎 のち長崎出版 / しきみ・画 立東舎。ISBN 4845628791 |
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*『宿命』(未来社〈転換期を読む〉、2013) |
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*[[室生犀星]]との共著『二魂一体の友』中公文庫、2021。巻末は娘の萩原葉子×室生朝子対談 |
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*『詩人はすべて宿命である』[[国書刊行会]]、2022(安智史・栗原飛宇馬編) |
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== 資料・顕彰 == |
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===随筆=== |
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[[ファイル:Maebashi City Museum of Literature Hagiwara Sakutaro statue.jpg|thumb|前橋文学館]] |
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*詩論と感想 |
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[[File:A plaque posted on the concourse of Naebo Station.jpg|thumb|JR苗穂駅出札口上の額]] |
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*純正詩論 |
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*出生地である[[前橋市]]にある[[水と緑と詩のまち前橋文学館]]に、地元出身の詩人[[伊藤信吉]]︵全集編集に従事し、伝記﹃萩原朔太郎﹄により、第28回[[読売文学賞]]を受賞︶らの努力により、朔太郎など[[群馬県]]出身の詩人に関する貴重な資料が保存・展示されている。
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*廊下と室房 |
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*[[2007年]]9月7日、台風による強風で木が倒れ、生家に直撃し、屋根などが破損し修理された。 |
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*詩人の使命 |
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*朔太郎の功績を記念し、前橋市の条例により、[[萩原朔太郎賞]]が制定されている。萩原朔太郎賞一覧([https://web.archive.org/web/20051124042120/http://homepage3.nifty.com/sakutarou/genzai/shou.htm 萩原朔太郎賞一覧]-萩原朔太郎研究所 のHPより) |
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*無からの抗争 |
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*前橋市[[敷島公園]]に詩碑が建立されている。 |
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*日本への回帰 |
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*[[2013年]]︵平成24年︶東京世田谷の市民ボランティア団体[[北沢川文化遺産保存の会]]が、朔太郎終焉の地近くの北沢川緑道に﹁萩原朔太郎・葉子と代田の丘の61号鉄塔﹂という由来碑を建立した。これには﹃定本青猫﹄の一節が刻まれている。この高圧鉄塔は、萩原朔太郎の居住痕跡を示す唯一のものということで﹁[[世田谷区]]地域風景資産﹂に選定されている。
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*帰郷者 |
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*没後80年となる[[2022年]]、朔太郎に関する企画展「萩原朔太郎大全2022」が全国52カ所の文学館等で開催された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.atpress.ne.jp/news/312430 |title=「萩原朔太郎大全2022」を開催 ~萩原朔太郎没後80年記念事業~ |publisher =アットプレス |date=2022-06-08 |accessdate=2022-12-04}}</ref>。 |
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*阿帯 |
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*[[北海道旅客鉄道|JR北海道]][[苗穂駅]]の出札口上に﹁ふらんすへ 行きたしと...﹂で始まる朔太郎の詩﹁旅上﹂の一節が書かれた額が掲げられている。この一節は[[2018年]]の現駅舎供用開始前まで使用された旧駅舎の頃から長らく駅舎の外壁に看板として掲げられており<ref>{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000244643 |title=苗穂駅に掲示されている、﹁フランスに行きたいが遠いので、せめて新しい背広に着替えて旅に出よう﹂というような内容の詩の作者とタイトルを特定したい。 |date=2018-10-31 |work=[[国立国会図書館]] レファレンス協同データベース |accessdate=2023-11-16}}</ref>、駅を通る列車からよく目立つこともあって苗穂駅の名物として親しまれていた。
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== 作品の特徴 == |
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===詩歌論=== |
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[[1917年]]2月刊行の処女詩集﹃[[月に吠える (萩原朔太郎の詩集)|月に吠える]]﹄で全国に名を知られるようになった。続いて[[1923年]]1月に﹃[[青猫]]﹄を刊行。これは﹃月に吠える﹄と並ぶ朔太郎の代表作とされている。白秋に次いで[[文化学院]]で教鞭をとる。
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*詩の原理 新潮文庫(絶版)ほか |
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*恋愛名歌集 |
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*郷愁の詩人-[[与謝蕪村]] 岩波文庫 |
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この他、﹃蝶を夢む﹄、﹃萩原朔太郎詩集﹄、それらを集成した﹃定本青猫﹄がある。これらの作品は、口語体によって書かれ、[[高村光太郎]]と共に﹁[[口語]][[自由詩]]の確立者﹂とされる。一方、実生活上では医師の長男でありながら、生涯定職に就かなかった負い目の意識や、2度の離婚。最初の離婚にまつわる家庭内のいざこざが原因で次女に知的障害が残るなど、過失の意識を強めていった。[[1934年]]6月に刊行された﹃氷島﹄では、全篇[[漢文]]調の文語体を用いて、寂寥と懐疑の情を訴えている。この作品を巡っては、評価は好悪まったく二分されている。最後の詩集は、[[散文詩]]と[[抒情詩]]︵行わけ詩︶をまとめた綜合詩集﹃宿命﹄であった。
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==編著・選集(新版)== |
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*『昭和詩鈔』 ([[冨山房]]百科文庫 1977年) 初版は昭和15年 |
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*『のすたるぢや 萩原朔太郎写真作品 詩人が撮ったもうひとつの原風景』 |
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:(フォトミュゼ・[[新潮社]]、1994年) 朔太郎による写真・詩 |
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*『萩原朔太郎』 <ちくま日本文学036>([[ちくま文庫]]、2009年) |
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*『萩原朔太郎』 ([[新学社]]近代浪漫派文庫 2005年) |
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== 人物・その他 == |
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==資料== |
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*[[マンドリン]]奏者でもあり、たびたび前橋市で演奏している。[[群馬県立前橋高等学校]]には朔太郎にちなんで結成されたギター・マンドリン部がある。[[ギター]]も独学で学んでおり、家では娘[[萩原葉子]]が[[マンドリン]]を弾き、朔太郎が[[ギター]]を弾くということもあったという。朔太郎の演奏は非常に感情がこもっており、﹁音楽は正確なテンポと感情が大事だよ﹂と娘に決まって言っていた。
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出生地である[[前橋市]]にある[http://www15.wind.ne.jp/~mae-bun/index.html 前橋文学館]に、地元出身の詩人[[伊藤信吉]]︵全集編集に従事し、伝記﹃萩原朔太郎﹄により、第28回[[読売文学賞]]を受賞︶らの努力により、朔太郎など[[群馬県]]出身の詩人に関する貴重な資料が保存・展示されている。2007年9月7日、台風による強風で木が倒れ、生家に直撃し、屋根などが破損し修理された。
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*[[1902年]]︵明治35年︶頃、16歳の時最初のカメラを買って写真を始めた。この時従兄である萩原栄次の日記に﹁朔ちゃんが六五銭の写真機を買って来て、屋根の上から釣鐘堂を撮す﹂とある。この頃はパノラマでない通常の、おそらく軽便写真器を使っていたが、明治期に撮影されたと思われるステレオ[[写真乾板]]も存在することから写真を始めて10年程ですでにステレオカメラを入手し、その後は特にパノラマ写真を好んだ。ステレオカメラに詳しい島和也によれば使ったカメラは[[ジュール・リシャール]]のヴェラスコープではないかという。前橋文学館に45×107mm判写真乾板が展示されている。これらの写真は妹の幸子の家で1972年に発見され、前橋市立文化会館館長で若い頃から朔太郎の詩に魅せられ研究を続けていた野口武久の元に持ち込まれ、7年をかけて撮影年代や場所を特定され、1979年﹃萩原朔太郎撮影写真集﹄として出版され、また再編集の上で1994年10月﹃萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや-詩人が撮ったもうひとつの原風景﹄として出版された<ref>﹃季刊クラシックカメラNo.5ツァイス﹄p.116。</ref>。
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*大の[[ミステリ]]ファンとして知られており、1926年のエッセイ﹁[[推理小説|探偵小説]]に就いて﹂で[[江戸川乱歩]]の、とくに﹁[[人間椅子 (江戸川乱歩)|人間椅子]]﹂を賞賛︵ちなみに、朔太郎の詩に﹁腕のある寝台﹂の題もある︶。1931年からは直接親交を結び、﹁[[パノラマ島奇譚]]﹂を賞賛した︵朔太郎が﹁パノラマ島奇譚﹂を直接に論じた文章は現在までの所確認されていないが、乱歩の﹃[[探偵小説四十年]]﹄中に、朔太郎が直接乱歩に賞賛の言葉を贈った旨の回想がある。朔太郎自身、しばしば[[パノラマ]]を詩・散文詩のモティーフとして取り上げている︶。
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*20代の頃から手品に興味を持っており、晩年になって阿部徳蔵主催のアマチュア・マジシャン・クラブに入会した。当時この会に入会するのは難しかったそうで入会した時には﹁僕のようなものでも不思議に入会できたよ。なにしろ偉い人達ばかりなので詩人の僕など、とてもだめかと思っていたのだが…。﹂とまるで子どものような表情で喜んでいたという。亡くなるまで手品を楽しんでおり、朔太郎の亡き後書斎の棚に﹁手をふれるべからず﹂という紙が書いた紙が貼ってある棚を開けるとすべて手品のネタ明かしだったというエピソードが残っている。
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*とても正直で嘘や、その場の取り繕いということができない性格だった。また非常に気が弱くお金を借りにきた人に断ることができなかった。 |
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*非常に臆病で、自分の書いたものの悪口を言われるとかなり気にして、幾日も家にこもったきりということもあったという。また、家に知らない人が来るとかなり怯えた様子をすることもあった。話し方は早口でことばがもたれたりしてちょっと舌ったらずの感じで話すが、飲むと少しゆっくりになったという。いつも伏し目がちで相手の顔を見なかったが、なにかの拍子に不意に顔を挙げて、おどろくほど大きな目で一瞬相手の目を見て、すぐまた目を逸らしてしまうのが癖だった。
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*娘達が小さい頃、よく寝る前に童話を話して聞かせていた。中でも[[不思議の国のアリス]]は朔太郎が子供の頃から好きだったこともあり繰り返し聞かせたという。アリスの映画が上映されたときには娘達に「映画に行こう」と誘ったという。 |
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*[[三好達治]]がよく家を訪ねてきており、仕事中だと家の者がちょっとでも入ると嫌がる書斎に通してよく話をしていた。気が弱くて喧嘩の嫌いな朔太郎は危険の感じられるような会合の時には三好によく用心棒を頼んでおり、何か困ったことがあると﹁三好君に相談してみよう﹂と言って頼りにしていた。病気で寝込んでいる際にも三好が来ると家族のものに﹁寝室に通してくれ﹂と頼んでいたという。家に苦手な人が訪ねてきたときには三好の下宿に﹁原稿を書かせてくれ﹂と言いながら訪れ、2~3時間後に三好を引き連れて家に戻り﹁三好君と会ったので一緒に散歩していた﹂と言ったというエピソードがあったと後日三好が語っている。
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*暑さに弱く暑い時期には毎年弱っていたが、寒さには強く「僕は夏にはかなわないが、冬は元気だよ」と寒さに強いのを得意にしていた。 |
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*歩き方が変わっていてふわふわと宙に浮くような早足で、あやつり人形のようなぎこちない歩き方だった。自動車や自転車がたくさん走っている道路を横断するのが苦手で、同行者に引っ張ってもらうように恐々と渡っていたという。 |
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*同姓同窓同郷の詩人の[[萩原恭次郎]]と交友があった。尚、朔太郎が主宰していたマンドリン研究会に中学生時代に参加しておりその頃からの知り合いであった。 |
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*作曲もいくつか試みており、[[室生犀星]]の詩による合唱曲『野火』、マンドリン曲"A Weaving Girl"([[機織る乙女]])などが残されている。 |
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== 発言・持論等 == |
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また、朔太郎の功績を記念して前橋市の条例により、[[萩原朔太郎賞]]が制定されている。萩原朔太郎賞一覧([http://homepage3.nifty.com/sakutarou/genzai/shou.htm 萩原朔太郎賞一覧]-萩原朔太郎研究所 のHPより) |
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* 私の詩集﹁月に吠える﹂を変態心理の代表作品の如く言ふ人があるが、そんなことからの御問合せならば少しく不愉快です。私自身では別に常人と変つた心理は持つて居ないと思つてゐます。しかし解しやうによつては、 すべての芸術家は皆一種の変態心理者でせう。我々は千里眼や狐ツキでこそないが、物事を直覚する点では遥かに常人にすぐれてゐます。何かさういふ意味の変態はあるでせう<ref>萩原朔太郎﹁私の変態心理﹂︵﹃変態心理﹄十一巻二号 一九二三・二︶</ref>。
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* 物の﹁真理﹂といふべき普遍の本質をつかむことはむつかしく、その智慧を有する人だけが恵まれた芸術の天才なのだ。︵中略︶但し最後に注目すべきは、普遍性と通俗性とは、似て非なるものだと言ふことである。 民衆派詩人たちの芸術論は、いつもこの点で誤解があるやうに思はれる<ref>萩原朔太郎﹁質疑問答﹂︵﹃日本詩人﹄大正十五年四月号 一九二六・四︶九七頁</ref>。
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==評論・伝記== |
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*萩原葉子『父・萩原朔太郎』筑摩書房, 1959、新版1980、[[中公文庫]] 1979、小学館 2022 |
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*[[世界の中心で、愛をさけぶ]]の主人公の名前はこの朔太郎から名付けられた。 |
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**萩原葉子『朔太郎とおだまきの花』新潮社, 2005 |
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*映画[[ゲド戦記 (映画)|ゲド戦記]]の挿入歌、『テルーの唄』は萩原朔太郎の詩「こころ」に着想を得た[[宮崎吾朗]]監督が作詞し、[[谷山浩子]]が作曲。 |
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*三好達治『萩原朔太郎』筑摩書房「筑摩叢書」, 1963、[[講談社文芸文庫]] 2006 |
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*同姓同窓同郷の詩人の[[萩原恭次郎]]と交友があった。 |
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*『萩原朔太郎研究』伊藤信吉編、[[思潮社]], 1966、増補版1972 |
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*[[伊藤信吉]]『萩原朔太郎』北洋社, 1976。増訂版「著作集 第二巻」沖積舎 2001 |
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*『萩原朔太郎研究』[[那珂太郎]]編、[[青土社]], 1974 |
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**那珂太郎『萩原朔太郎その他』[[小沢書店]], 1975 |
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**那珂太郎『萩原朔太郎詩私解』小沢書店, 1977 |
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*[[清岡卓行]]『萩原朔太郎『猫町』私論』[[文藝春秋]], 1974、筑摩叢書 1991 |
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*[[岡庭昇]]『萩原朔太郎 陰画の近代』[[第三文明社]], 1974 |
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*[[村上一郎]]『萩原朔太郎ノート 抒情と憤怒』[[国文社]], 1975 |
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*[[飯島耕一]]『萩原朔太郎』[[角川書店]], 1975 |
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*[[富士川英郎]]『萩原朔太郎雑志』小沢書店, 1979 |
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*[[粟津則雄]]『萩原朔太郎論』思潮社, 1980 |
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*[[嶋岡晨]]『伝記萩原朔太郎』[[春秋社]], 1980 |
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*[[大岡信]]『萩原朔太郎』(近代日本詩人選)筑摩書房, 1981、[[ちくま学芸文庫]] 1994 |
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*岸田俊子([[エリス俊子]])『萩原朔太郎 詩的イメージの構成』[[沖積舎]], 1986 |
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*[[磯田光一]]『萩原朔太郎』講談社, 1987、講談社文芸文庫 1993 |
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*[[北川透]]『萩原朔太郎<詩の原理>論』筑摩書房, 1987 |
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*[[坪井秀人]]『萩原朔太郎論 <詩>をひらく』和泉書院, 1989 |
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*北川透『萩原朔太郎<言語革命>論』筑摩書房, 1995 |
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*安智史『萩原朔太郎というメディア ひき裂かれる近代/詩人』森話社,2008 |
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*[[野村喜和夫]]『萩原朔太郎』[[中央公論新社]]「[[中公選書]]」, 2011 |
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*[[中村稔 (詩人)|中村稔]]『萩原朔太郎論』青土社, 2016 |
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*『萩原朔太郎大全』同・実行委員会編、[[春陽堂書店]], 2022 |
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=== アルバム === |
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==外部リンク== |
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*『萩原朔太郎 日本文学アルバム17』筑摩書房, 1956 |
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*[http://www15.wind.ne.jp/~mae-bun/index.html 萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち前橋文学館] |
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* |
*那珂太郎『名詩鑑賞 萩原朔太郎』[[講談社学術文庫]], 1979 |
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*『萩原朔太郎 新潮日本文学アルバム15』新潮社, 1984 |
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*[http://homepage3.nifty.com/sakutarou/index.htm 萩原朔太郎研究所] |
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*『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや-詩人が撮ったもうひとつの原風景』フォトミュゼ・[[新潮社]], 1994。朔太郎による写真・詩 |
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*[http://www.geocities.jp/scaffale00410/sakutarolist.htm 萩原朔太郎 詩一覧] |
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*[http://www.geocities.jp/scaffale00410/sakutarotop.htm 萩原朔太郎(日本詩人愛唱歌集)] - 誰がどの詩に作曲したか |
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*[http://www.jliterature.com Takemoto Hiroaki Page] -「月に吠える」のテキストを掲載 |
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*[http://www.kamakurabungaku.com/literature/w100_6.html 文学者100人|鎌倉と文学【鎌倉文学館】] |
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== 派生関連作品 == |
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*『[[世界の中心で、愛をさけぶ]]』の主人公の名前はこの朔太郎から名付けられた。 |
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*映画『[[ゲド戦記 (映画)|ゲド戦記]]』の挿入歌「[[テルーの唄]]」は萩原朔太郎の詩「こころ」に着想を得た[[宮崎吾朗]]監督が作詞し、[[谷山浩子]]が作曲した。 |
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*[[清家雪子]]『[[月に吠えらんねえ]]』[[月刊アフタヌーン]] 2013~2019年 - 萩原朔太郎の作品から受けた印象をキャラクター化した朔くんという人物が主人公として登場する |
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*『天上の花』- 2022年公開の映画、原作は[[萩原葉子]]『天上の花 三好達治抄』(新潮社、1966年)、萩原役は[[吹越満]]、[[三好達治]]は[[東出昌大]]、妹・萩原慶子を[[入山法子]]が演じる。 |
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== 関連項目 == |
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*[[日本浪曼派]] |
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*[[日本主義]] |
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*[[日本の近現代文学史]] |
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*[[猫町紀行]] - [[つげ義春]]が、朔太郎『猫町』に感得し、実際の[[甲州街道]]の宿場町への[[旅行]]に題材を得て書き上げた[[エッセイ]]。 |
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*[[宮沢賢治]] - 朔太郎から強い影響を受けた詩人の一人。 |
|||
*[[レーゼシナリオ]]、[[シネポエム]] ‐ 自身の﹃文学としてのシナリオ﹄なる論稿で、[[北川冬彦]]らによって後に左のように呼ばれるようになる文学形式の可能性について言及した<ref>[[筑摩書房]]﹃萩原朔太郎全集 第十一巻﹄所収の同名の[[エッセイ]]︵576頁︶。﹃年末の一日、浅草公園 他十七篇﹄︵[[芥川龍之介]]・作、石割透・解説 岩波書店より2017年6月に[[岩波文庫]]として刊行︶においても、石割による巻末解説の文中︵204頁9行目︶に﹁レーゼ・シナリオ﹂という語が出てきて、朔太郎による芥川や北川のレーゼシナリオやシネポエムについての同論稿における言及も紹介・引用されている。</ref>。
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Notelist}} |
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=== 出典 === |
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<references/> |
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== 参考文献 == |
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*『萩原朔太郎 日本詩人全集第14巻』 [[新潮社]] 1966年 |
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*『季刊クラシックカメラNo.5ツァイス』[[双葉社]] ISBN 4-575-47199-2 |
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== 外部リンク == |
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{{Commonscat|Sakutarō Hagiwara}} |
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{{Wikiquote|萩原朔太郎}} |
{{Wikiquote|萩原朔太郎}} |
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* {{青空文庫著作者|67|萩原 朔太郎}} |
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* [https://www.maebashibungakukan.jp/ 萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち 前橋文学館] |
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* [http://www.kamakurabungaku.com/literature/w100_6.html 文学者100人|鎌倉と文学【鎌倉文学館】] |
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* [https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/32837 『氷島』の著者(萩原朔太郎像)] 文化遺産オンライン |
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* [http://saku.in.coocan.jp/sakulabo/index.php 萩原朔太郎研究所] |
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* [http://blog.livedoor.jp/sakutaro_society/ 萩原朔太郎研究会 - Society for the study of HAGIWARA Sakutaro -] |
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* [https://web.archive.org/web/20120305132021/http://jliterature.com/ Takemoto Hiroaki Page] -「月に吠える」のテキストを掲載 |
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* {{Wayback |url=http://www.geocities.jp/scaffale00410/sakutarotop.htm |title=萩原朔太郎(日本詩人愛唱歌集) |date=20190330043608 }} |
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* {{Wayback |url=http://www.geocities.jp/scaffale00410/sakutarolist.htm |title=萩原朔太郎 詩一覧 |date=20190330043611 }} |
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{{Normdaten}} |
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{{DEFAULTSORT:はきわら さくたろう}} |
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[[Category:歌人]] |
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{{デフォルトソート:はきわら さくたろう}} |
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[[Category:日本の詩人]] |
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[[Category: |
[[Category:萩原朔太郎|*]] |
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[[Category:日本の |
[[Category:19世紀日本の詩人]] |
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[[Category:20世紀日本の詩人]] |
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[[Category:20世紀日本の小説家]] |
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[[Category:19世紀日本の随筆家]] |
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[[Category:20世紀日本の随筆家]] |
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[[Category:19世紀日本の教育者]] |
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[[Category:20世紀日本の教育者]] |
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[[Category:19世紀日本の編集者]] |
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[[Category:20世紀日本の編集者]] |
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[[Category:日本の男性作曲家]] |
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[[Category:19世紀の歌人]] |
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[[Category:20世紀の歌人]] |
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[[Category:日本のマンドリン奏者]] |
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[[Category:日本の雑誌編集者]] |
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[[Category:群馬県立前橋高等学校出身の人物]] |
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[[Category:慶應義塾大学出身の人物]] |
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[[Category:明治大学の教員]] |
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[[Category:前橋市の歴史]] |
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[[Category:群馬県出身の人物]] |
[[Category:群馬県出身の人物]] |
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[[Category:1886年生]] |
[[Category:1886年生]] |
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[[Category:1942年没]] |
[[Category:1942年没]] |
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[[de:Hagiwara Sakutarō]] |
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[[en:Sakutarō Hagiwara]] |
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[[es:Sakutarō Hagiwara]] |
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[[ko:하기와라 사쿠타로]] |
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[[sv:Sakutaro Hagiwara]] |
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[[zh:萩原朔太郎]] |
2024年6月20日 (木) 15:57時点における最新版
萩原 朔太郎 (はぎわら さくたろう) | |
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萩原朔太郎(1915年) | |
誕生 |
1886年11月1日 日本・群馬県東群馬郡北曲輪町 |
死没 |
1942年5月11日(55歳没) 日本・東京府東京市世田谷区代田 |
墓地 | 政淳寺(前橋市) |
職業 | 詩人 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 慶應義塾大学予科中退 |
活動期間 | 1917年 - 1942年 |
ジャンル | 詩・随筆・評論・小説・短歌 |
主題 | 寂寥感・孤独感・倦怠感・憂鬱感・空虚感 |
文学活動 | 象徴主義・芸術詩派・アフォリズム・口語自由詩・神秘主義 |
代表作 |
『月に吠える』(1917年) 『青猫』(1923年) 『純情小曲集』(1925年) 『氷島』(1934年) 『猫町』(1935年、小説) |
主な受賞歴 |
第8回文学界賞(1936年) 第4回透谷文学賞(1940年) |
デビュー作 |
『ひと夜えにし』(1902年、短歌) 『みちゆき』(1913年、詩) |
子供 | 2女(長女=萩原葉子) |
ウィキポータル 文学 |
生涯[編集]
誕生から学生時代[編集]
群馬県東群馬郡北曲輪町︵のちの前橋市北曲輪町︵現・ 千代田町一丁目︶︶に、開業医の父・密蔵と母・ケイの長子として生まれた。名前の朔太郎は、長男で朔日︵ついたち︶生まれであることから、命名された。1893年︵明治26年︶に群馬県師範学校附属小学校に入学。この頃から神経質かつ病弱であり、﹁学校では一人だけ除け者にされて、いつも周囲から冷たい敵意で憎まれている。﹂[2] と孤独を好み、一人でハーモニカや手風琴などを楽しんだ。 師範学校附属小学校高等科を卒業後、1900年︵明治33年︶に旧制県立前橋中学校︵現・群馬県立前橋高等学校︶入学。この時代に従兄弟萩原栄次に短歌のことを教わる。校友会誌に﹃ひと夜えにし﹄と題してはじめて短歌五首を発表。在学中に級友と共に﹃野守﹄という回覧雑誌を出して短歌を発表する。﹃野守﹄には町田嘉章も加わり交友を深めた。作品には与謝野晶子の影響が見られ、1903年︵明治36年︶に与謝野鉄幹主宰の﹃明星﹄に短歌三首掲載され、石川啄木らと共に﹁新詩社﹂の同人となる。学校へ行くと言って家を出ながら、郊外の野原で寝転んだり、森や林の中を歩き回り、学校の授業中はいつも窓から空を見ていた[3]。結局、中学で落第。 1907年︵明治40年︶9月熊本にある第五高等学校第一部乙類︵英語文科︶に浪人して入学する[4] が翌年7月落第し、1908年︵明治41年︶9月、岡山にある第六高等学校第一部丙類︵ドイツ語文科︶に転校。試験を受けないため教師の間で問題となり、翌年7月落第。1910年︵明治43年︶、六高に籍を残しつつ慶應義塾大学予科了組に入学するも直後に退学。同年の夏頃にチフスにかかり、帰郷し5月、六高を退学する。翌年、慶大予科に再入学する。比留間賢八についてマンドリンを習い音楽会やオペラを楽しむが、精神的苦悩に悩まされ、同年11月、慶大予科を中途退学。慶大への入退学が重なっているのは奇妙だが、これは旧制第六高等学校の教授が朔太郎の父・密蔵に手紙を寄せ、﹁朔太郎の学業に将来の望みなし﹂と諭告したことに関連する[5]。歌人・詩人としての出発[編集]
再度の上京から﹁氷島﹂まで[編集]
1923年︵大正12年︶1月26日詩集﹃青猫﹄刊行、7月﹃蝶を夢む﹄を刊行し、谷崎潤一郎を訪問。1924年︵大正13年︶2月に雑誌﹃新興﹄創刊号に発表した﹁情緒と理念﹂一二篇により同誌が発売禁止となる。1925年︵大正14年︶には妻と娘二人を伴い上京し、東京府荏原郡大井町︵現・品川区内︶、北豊島郡滝野川町田端︵現・北区内︶へ移り住み、近隣の芥川龍之介や室生犀星と頻繁に往来し、8月に﹃純情小曲集﹄を刊行。雑誌﹃日本詩人﹄の編集を後に妹・アイが嫁ぐ佐藤惣之助と担当し、ニヒリズムの傾向を強める。11月、妻の健康回復のため鎌倉に転居。 1926年︵大正15年・昭和元年︶荏原郡馬込町︵現・大田区内︶に転居。1927年︵昭和2年︶頃から三好達治、堀辰雄、梶井基次郎などの書生や門人を多く抱えるようになる。三好達治は朔太郎の4人いた妹の末っ子アイに求婚するが断られ、のちにアイが再々婚した佐藤惣之助に先立たれると、妻を離縁しアイを妻として三国町で暮らすが、まもなく離縁する。1928年︵昭和3年︶に﹁詩人協会﹂の創立に伴い評議委員となり、2月﹃詩論と感想﹄を、12月﹃詩の原理﹄を刊行。 1929年︵昭和4年︶7月に家庭破綻により娘二人を伴い前橋の実家に帰り、離婚と家庭崩壊の苦悩により生活が荒廃し始める。10月﹃虚妄の正義﹄を刊行。11月、単身上京、赤坂区檜町︵現・港区赤坂︶のアパート乃木坂倶楽部に仮寓。11月、父重態となり前橋に帰る。翌年7月父死去。10月、妹アイとともに上京、牛込区市谷台町︵現・新宿区内︶に居住。1931年︵昭和6年︶5月、万葉集から新古今集にいたる和歌・437首の解説を中心とする﹃恋愛名歌集﹄を刊行。1933年︵昭和8年︶に世田谷区代田一丁目に自ら設計して自宅新築、入居。個人雑誌﹃生理﹄を発刊。ここで、与謝蕪村や松尾芭蕉など、古典の詩論を発表し、日本の伝統詩に回帰した。日本主義者への変貌[編集]
1934年︵昭和9年︶に詩集﹃氷島﹄を刊行。同年7月に明治大学文芸科講師となり、詩の講義を担当するようになる。1935年︵昭和10年︶4月﹃純正詩論﹄、10月﹃絶望の逃走﹄、11月には﹃猫町﹄を刊行。自らが発起人となって伊東静雄の出版記念会を行った。1936年︵昭和11年︶3月﹃郷愁の詩人与謝蕪村﹄、5月随筆論評集﹃廊下と室房﹄を刊行。前年に雑誌﹃文学界﹄に連載した﹁詩壇時評﹂により、第八回文学界賞を受ける。10月に﹁詩歌懇和会﹂が設立されると役員となる。 1937年︵昭和12年︶に上毛新聞主宰の﹁萩原朔太郎歓迎座談会﹂に出席し帰郷。3月﹃詩人の使命﹄、8月﹃無からの抗争﹄を刊行。﹁透谷会﹂の創立発起人となり、9月に﹁透谷文学賞﹂が設立されると、島崎藤村・戸川秋骨・武者小路実篤と共に選考委員となる。この頃からおびただしい量の執筆・座談会・講演等をこなすようになる。1938年︵昭和13年︶1月﹁新日本文化の会﹂の機関紙﹃新日本﹄を創刊。3月に﹃日本への回帰﹄を発表して日本主義を主張し、一部から国粋主義者と批判される。雑誌﹃日本﹄に﹁詩の鑑賞﹂を執筆した。4月、大谷美津子と結婚するも入籍せず。 1939年︵昭和14年︶にパノンの会︵正式名・詩の研究講義の会︶を結成。9月﹃宿命﹄を刊行。1940年︵昭和15年︶に﹃帰郷者﹄︵第四回透谷文学賞受章︶、﹃港にて﹄を刊行し、10月﹃阿帯﹄を刊行する。この頃から身体に変調を感じ始め、1942年︵昭和17年︶4月末付で明治大学講師を辞任。同年5月11日に急性肺炎で世田谷の自宅にて55歳で死去。墓所は前橋市榎町政淳寺。法名は光英院釈文昭居士。家族[編集]
長女・萩原葉子も作家であり、演出家の萩原朔美は葉子の息子︵朔太郎の孫︶である。朔太郎の妹・愛子は、詩人佐藤惣之助の妻。著作[編集]
詩集[編集]
●﹃月に吠える﹄感情詩社 ほか, 1917︵角川文庫・講談社文庫で再刊︶ ●﹃蝶を夢む﹄新潮社, 1923 ●﹃青猫﹄新潮社, 1923︵三笠文庫、新潮文庫で再刊︶ ●﹃純情小曲集﹄新潮社, 1925 ●﹃萩原朔太郎詩集﹄第一書房, 1928︵復刻版も刊︶ ●﹃氷島﹄第一書房, 1934 ●﹃定本 青猫﹄版画荘, 1936 ●﹃宿命﹄創元社, 1939︵創元文庫[注釈 2] で再刊︶ 選集﹁詩集﹂ ●﹃萩原朔太郎詩集﹄ 三好達治選、岩波文庫, 1952、改版1981 ●﹃萩原朔太郎詩集﹄ 伊藤信吉編、彌生書房, 1963/角川文庫, 1956 ●﹃萩原朔太郎詩集﹄ 河上徹太郎編、新潮文庫、改版2004 ●﹃萩原朔太郎詩集﹄ 思潮社 現代詩文庫, 1975 ●﹃萩原朔太郎 近代の詩人7﹄ 中村真一郎編・解説、潮出版社, 1991 ●﹃青猫 萩原朔太郎詩集﹄ 阿毛久芳解説、集英社文庫, 1993 ●﹃月に吠える 萩原朔太郎詩集﹄ 角川文庫, 改版1999 ●﹃萩原朔太郎詩集﹄ ハルキ文庫・角川春樹事務所, 1999アフォリズム集[編集]
●﹃新しき欲情﹄アルス, 1922 ●﹃虚妄の正義﹄第一書房, 1929︵講談社文芸文庫で再刊︶ ●﹃絶望の逃走﹄第一書房, 1935 ●﹃港にて﹄創元社, 1940随筆・小説[編集]
●﹃詩論と感想﹄素人社書屋, 1928 ●﹃純正詩論﹄第一書房, 1935 ●﹃猫町﹄版画荘, 1935 - 唯一の小説 ●﹃人生読本 春夏秋冬﹄辻野久憲編、第一書房, 1936︵ちくま文庫で再刊︶ ●﹃廊下と室房﹄第一書房, 1936 ●﹃詩人の使命﹄第一書房, 1937 ●﹃無からの抗争 詩と文学に関する問題﹄白水社, 1937 ●﹃日本への回帰﹄白水社, 1938 ●﹃帰郷者﹄白水社, 1940︵中公文庫で再刊︶ ●﹃阿帯 萩原朔太郎随筆集﹄河出書房, 1940詩歌論[編集]
●﹃詩の原理﹄第一書房, 1928︵創元選書、新潮文庫で再刊︶ ●﹃恋愛名歌集﹄選評 第一書房, 1931︵岩波文庫で再刊, 2022︶ ●﹃郷愁の詩人 與謝蕪村﹄第一書房, 1936︵新潮文庫、岩波文庫で再刊︶ ●﹃昭和詩鈔﹄冨山房百科文庫, 1940全集ほか[編集]
●﹃萩原朔太郎全集﹄全10巻・別冊 小学館, 1943-44 ●﹃萩原朔太郎全集﹄全8巻 創元社, 1951。伊藤信吉ほか解説 ●﹃萩原朔太郎全集﹄全5巻 新潮社, 1959-60。編集委員‥室生犀星・三好達治・伊藤信吉 ●﹃萩原朔太郎全書簡集﹄人文書院, 1974。伊藤信吉編 ●﹃萩原朔太郎全集﹄全15巻 筑摩書房, 1975-78、補訂版︵全16巻︶, 1986-89 ●﹃萩原朔太郎全詩集﹄筑摩書房, 1979編著・選集︵新版︶[編集]
●﹃昭和詩鈔﹄萩原朔太郎編、安藤元雄解説、冨山房百科文庫、1977、新版1989︵本編は上記版︶ ●﹃エレナ!萩原朔太郎<郷土望景詩>幻想﹄司修画、小沢書店、1993 ●﹃萩原朔太郎の人生読本﹄辻野久憲編、ちくま文庫、1994 ●﹃猫町 他十七篇﹄清岡卓行編、岩波文庫、1995 ●﹃萩原朔太郎 ちくま日本文学﹄ 筑摩書房、2009。文庫判 ●﹃萩原朔太郎 近代浪漫派文庫21﹄ 新学社、2005 ●﹃猫町﹄金井田英津子・画、パロル舎 のち長崎出版 / しきみ・画 立東舎。ISBN 4845628791 ●﹃宿命﹄︵未来社︿転換期を読む﹀、2013︶ ●室生犀星との共著﹃二魂一体の友﹄中公文庫、2021。巻末は娘の萩原葉子×室生朝子対談 ●﹃詩人はすべて宿命である﹄国書刊行会、2022︵安智史・栗原飛宇馬編︶資料・顕彰[編集]
作品の特徴[編集]
1917年2月刊行の処女詩集﹃月に吠える﹄で全国に名を知られるようになった。続いて1923年1月に﹃青猫﹄を刊行。これは﹃月に吠える﹄と並ぶ朔太郎の代表作とされている。白秋に次いで文化学院で教鞭をとる。 この他、﹃蝶を夢む﹄、﹃萩原朔太郎詩集﹄、それらを集成した﹃定本青猫﹄がある。これらの作品は、口語体によって書かれ、高村光太郎と共に﹁口語自由詩の確立者﹂とされる。一方、実生活上では医師の長男でありながら、生涯定職に就かなかった負い目の意識や、2度の離婚。最初の離婚にまつわる家庭内のいざこざが原因で次女に知的障害が残るなど、過失の意識を強めていった。1934年6月に刊行された﹃氷島﹄では、全篇漢文調の文語体を用いて、寂寥と懐疑の情を訴えている。この作品を巡っては、評価は好悪まったく二分されている。最後の詩集は、散文詩と抒情詩︵行わけ詩︶をまとめた綜合詩集﹃宿命﹄であった。人物・その他[編集]
●マンドリン奏者でもあり、たびたび前橋市で演奏している。群馬県立前橋高等学校には朔太郎にちなんで結成されたギター・マンドリン部がある。ギターも独学で学んでおり、家では娘萩原葉子がマンドリンを弾き、朔太郎がギターを弾くということもあったという。朔太郎の演奏は非常に感情がこもっており、﹁音楽は正確なテンポと感情が大事だよ﹂と娘に決まって言っていた。 ●1902年︵明治35年︶頃、16歳の時最初のカメラを買って写真を始めた。この時従兄である萩原栄次の日記に﹁朔ちゃんが六五銭の写真機を買って来て、屋根の上から釣鐘堂を撮す﹂とある。この頃はパノラマでない通常の、おそらく軽便写真器を使っていたが、明治期に撮影されたと思われるステレオ写真乾板も存在することから写真を始めて10年程ですでにステレオカメラを入手し、その後は特にパノラマ写真を好んだ。ステレオカメラに詳しい島和也によれば使ったカメラはジュール・リシャールのヴェラスコープではないかという。前橋文学館に45×107mm判写真乾板が展示されている。これらの写真は妹の幸子の家で1972年に発見され、前橋市立文化会館館長で若い頃から朔太郎の詩に魅せられ研究を続けていた野口武久の元に持ち込まれ、7年をかけて撮影年代や場所を特定され、1979年﹃萩原朔太郎撮影写真集﹄として出版され、また再編集の上で1994年10月﹃萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや-詩人が撮ったもうひとつの原風景﹄として出版された[10]。 ●大のミステリファンとして知られており、1926年のエッセイ﹁探偵小説に就いて﹂で江戸川乱歩の、とくに﹁人間椅子﹂を賞賛︵ちなみに、朔太郎の詩に﹁腕のある寝台﹂の題もある︶。1931年からは直接親交を結び、﹁パノラマ島奇譚﹂を賞賛した︵朔太郎が﹁パノラマ島奇譚﹂を直接に論じた文章は現在までの所確認されていないが、乱歩の﹃探偵小説四十年﹄中に、朔太郎が直接乱歩に賞賛の言葉を贈った旨の回想がある。朔太郎自身、しばしばパノラマを詩・散文詩のモティーフとして取り上げている︶。 ●20代の頃から手品に興味を持っており、晩年になって阿部徳蔵主催のアマチュア・マジシャン・クラブに入会した。当時この会に入会するのは難しかったそうで入会した時には﹁僕のようなものでも不思議に入会できたよ。なにしろ偉い人達ばかりなので詩人の僕など、とてもだめかと思っていたのだが…。﹂とまるで子どものような表情で喜んでいたという。亡くなるまで手品を楽しんでおり、朔太郎の亡き後書斎の棚に﹁手をふれるべからず﹂という紙が書いた紙が貼ってある棚を開けるとすべて手品のネタ明かしだったというエピソードが残っている。 ●とても正直で嘘や、その場の取り繕いということができない性格だった。また非常に気が弱くお金を借りにきた人に断ることができなかった。 ●非常に臆病で、自分の書いたものの悪口を言われるとかなり気にして、幾日も家にこもったきりということもあったという。また、家に知らない人が来るとかなり怯えた様子をすることもあった。話し方は早口でことばがもたれたりしてちょっと舌ったらずの感じで話すが、飲むと少しゆっくりになったという。いつも伏し目がちで相手の顔を見なかったが、なにかの拍子に不意に顔を挙げて、おどろくほど大きな目で一瞬相手の目を見て、すぐまた目を逸らしてしまうのが癖だった。 ●娘達が小さい頃、よく寝る前に童話を話して聞かせていた。中でも不思議の国のアリスは朔太郎が子供の頃から好きだったこともあり繰り返し聞かせたという。アリスの映画が上映されたときには娘達に﹁映画に行こう﹂と誘ったという。 ●三好達治がよく家を訪ねてきており、仕事中だと家の者がちょっとでも入ると嫌がる書斎に通してよく話をしていた。気が弱くて喧嘩の嫌いな朔太郎は危険の感じられるような会合の時には三好によく用心棒を頼んでおり、何か困ったことがあると﹁三好君に相談してみよう﹂と言って頼りにしていた。病気で寝込んでいる際にも三好が来ると家族のものに﹁寝室に通してくれ﹂と頼んでいたという。家に苦手な人が訪ねてきたときには三好の下宿に﹁原稿を書かせてくれ﹂と言いながら訪れ、2~3時間後に三好を引き連れて家に戻り﹁三好君と会ったので一緒に散歩していた﹂と言ったというエピソードがあったと後日三好が語っている。 ●暑さに弱く暑い時期には毎年弱っていたが、寒さには強く﹁僕は夏にはかなわないが、冬は元気だよ﹂と寒さに強いのを得意にしていた。 ●歩き方が変わっていてふわふわと宙に浮くような早足で、あやつり人形のようなぎこちない歩き方だった。自動車や自転車がたくさん走っている道路を横断するのが苦手で、同行者に引っ張ってもらうように恐々と渡っていたという。 ●同姓同窓同郷の詩人の萩原恭次郎と交友があった。尚、朔太郎が主宰していたマンドリン研究会に中学生時代に参加しておりその頃からの知り合いであった。 ●作曲もいくつか試みており、室生犀星の詩による合唱曲﹃野火﹄、マンドリン曲"A Weaving Girl"︵機織る乙女︶などが残されている。発言・持論等[編集]
●私の詩集﹁月に吠える﹂を変態心理の代表作品の如く言ふ人があるが、そんなことからの御問合せならば少しく不愉快です。私自身では別に常人と変つた心理は持つて居ないと思つてゐます。しかし解しやうによつては、 すべての芸術家は皆一種の変態心理者でせう。我々は千里眼や狐ツキでこそないが、物事を直覚する点では遥かに常人にすぐれてゐます。何かさういふ意味の変態はあるでせう[11]。 ●物の﹁真理﹂といふべき普遍の本質をつかむことはむつかしく、その智慧を有する人だけが恵まれた芸術の天才なのだ。︵中略︶但し最後に注目すべきは、普遍性と通俗性とは、似て非なるものだと言ふことである。 民衆派詩人たちの芸術論は、いつもこの点で誤解があるやうに思はれる[12]。評論・伝記[編集]
●萩原葉子﹃父・萩原朔太郎﹄筑摩書房, 1959、新版1980、中公文庫 1979、小学館 2022 ●萩原葉子﹃朔太郎とおだまきの花﹄新潮社, 2005 ●三好達治﹃萩原朔太郎﹄筑摩書房﹁筑摩叢書﹂, 1963、講談社文芸文庫 2006 ●﹃萩原朔太郎研究﹄伊藤信吉編、思潮社, 1966、増補版1972 ●伊藤信吉﹃萩原朔太郎﹄北洋社, 1976。増訂版﹁著作集 第二巻﹂沖積舎 2001 ●﹃萩原朔太郎研究﹄那珂太郎編、青土社, 1974 ●那珂太郎﹃萩原朔太郎その他﹄小沢書店, 1975 ●那珂太郎﹃萩原朔太郎詩私解﹄小沢書店, 1977 ●清岡卓行﹃萩原朔太郎﹃猫町﹄私論﹄文藝春秋, 1974、筑摩叢書 1991 ●岡庭昇﹃萩原朔太郎 陰画の近代﹄第三文明社, 1974 ●村上一郎﹃萩原朔太郎ノート 抒情と憤怒﹄国文社, 1975 ●飯島耕一﹃萩原朔太郎﹄角川書店, 1975 ●富士川英郎﹃萩原朔太郎雑志﹄小沢書店, 1979 ●粟津則雄﹃萩原朔太郎論﹄思潮社, 1980 ●嶋岡晨﹃伝記萩原朔太郎﹄春秋社, 1980 ●大岡信﹃萩原朔太郎﹄︵近代日本詩人選︶筑摩書房, 1981、ちくま学芸文庫 1994 ●岸田俊子︵エリス俊子︶﹃萩原朔太郎 詩的イメージの構成﹄沖積舎, 1986 ●磯田光一﹃萩原朔太郎﹄講談社, 1987、講談社文芸文庫 1993 ●北川透﹃萩原朔太郎<詩の原理>論﹄筑摩書房, 1987 ●坪井秀人﹃萩原朔太郎論 <詩>をひらく﹄和泉書院, 1989 ●北川透﹃萩原朔太郎<言語革命>論﹄筑摩書房, 1995 ●安智史﹃萩原朔太郎というメディア ひき裂かれる近代/詩人﹄森話社,2008 ●野村喜和夫﹃萩原朔太郎﹄中央公論新社﹁中公選書﹂, 2011 ●中村稔﹃萩原朔太郎論﹄青土社, 2016 ●﹃萩原朔太郎大全﹄同・実行委員会編、春陽堂書店, 2022アルバム[編集]
●﹃萩原朔太郎 日本文学アルバム17﹄筑摩書房, 1956 ●那珂太郎﹃名詩鑑賞 萩原朔太郎﹄講談社学術文庫, 1979 ●﹃萩原朔太郎 新潮日本文学アルバム15﹄新潮社, 1984 ●﹃萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや-詩人が撮ったもうひとつの原風景﹄フォトミュゼ・新潮社, 1994。朔太郎による写真・詩派生関連作品[編集]
●﹃世界の中心で、愛をさけぶ﹄の主人公の名前はこの朔太郎から名付けられた。 ●映画﹃ゲド戦記﹄の挿入歌﹁テルーの唄﹂は萩原朔太郎の詩﹁こころ﹂に着想を得た宮崎吾朗監督が作詞し、谷山浩子が作曲した。 ●清家雪子﹃月に吠えらんねえ﹄月刊アフタヌーン 2013~2019年 - 萩原朔太郎の作品から受けた印象をキャラクター化した朔くんという人物が主人公として登場する ●﹃天上の花﹄- 2022年公開の映画、原作は萩原葉子﹃天上の花 三好達治抄﹄︵新潮社、1966年︶、萩原役は吹越満、三好達治は東出昌大、妹・萩原慶子を入山法子が演じる。関連項目[編集]
●日本浪曼派 ●日本主義 ●日本の近現代文学史 ●猫町紀行 - つげ義春が、朔太郎﹃猫町﹄に感得し、実際の甲州街道の宿場町への旅行に題材を得て書き上げたエッセイ。 ●宮沢賢治 - 朔太郎から強い影響を受けた詩人の一人。 ●レーゼシナリオ、シネポエム ‐ 自身の﹃文学としてのシナリオ﹄なる論稿で、北川冬彦らによって後に左のように呼ばれるようになる文学形式の可能性について言及した[13]。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ コトバンク-伊藤信吉 (二)^ 詩人全集︵1966年︶P.319 (三)^ ︵﹁永遠の退屈﹂︶ (四)^ 関川夏央︵﹁あはれ花びらながれ…﹂﹃やむを得ず早起き﹄小学館 2012年︶ (五)^ ﹃現代文学大系︿第34﹀萩原朔太郎,三好達治,西脇順三郎集﹄︵筑摩書房、1978年、ASIN B000JAUHJ0、P493︶ (六)^ 詩人全集︵1966年︶P.322 (七)^ 詩人全集︵1966年︶P.323 (八)^ “﹁萩原朔太郎大全2022﹂を開催 ~萩原朔太郎没後80年記念事業~”. アットプレス (2022年6月8日). 2022年12月4日閲覧。 (九)^ “苗穂駅に掲示されている、﹁フランスに行きたいが遠いので、せめて新しい背広に着替えて旅に出よう﹂というような内容の詩の作者とタイトルを特定したい。”. 国立国会図書館 レファレンス協同データベース (2018年10月31日). 2023年11月16日閲覧。 (十)^ ﹃季刊クラシックカメラNo.5ツァイス﹄p.116。 (11)^ 萩原朔太郎﹁私の変態心理﹂︵﹃変態心理﹄十一巻二号 一九二三・二︶ (12)^ 萩原朔太郎﹁質疑問答﹂︵﹃日本詩人﹄大正十五年四月号 一九二六・四︶九七頁 (13)^ 筑摩書房﹃萩原朔太郎全集 第十一巻﹄所収の同名のエッセイ︵576頁︶。﹃年末の一日、浅草公園 他十七篇﹄︵芥川龍之介・作、石割透・解説 岩波書店より2017年6月に岩波文庫として刊行︶においても、石割による巻末解説の文中︵204頁9行目︶に﹁レーゼ・シナリオ﹂という語が出てきて、朔太郎による芥川や北川のレーゼシナリオやシネポエムについての同論稿における言及も紹介・引用されている。参考文献[編集]
●﹃萩原朔太郎 日本詩人全集第14巻﹄ 新潮社 1966年 ●﹃季刊クラシックカメラNo.5ツァイス﹄双葉社 ISBN 4-575-47199-2外部リンク[編集]
- 萩原 朔太郎:作家別作品リスト - 青空文庫
- 萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち 前橋文学館
- 文学者100人|鎌倉と文学【鎌倉文学館】
- 『氷島』の著者(萩原朔太郎像) 文化遺産オンライン
- 萩原朔太郎研究所
- 萩原朔太郎研究会 - Society for the study of HAGIWARA Sakutaro -
- Takemoto Hiroaki Page -「月に吠える」のテキストを掲載
- 萩原朔太郎(日本詩人愛唱歌集) - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)
- 萩原朔太郎 詩一覧 - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)