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[[1923年]](大正12年)1月26日詩集『青猫』刊行、7月『蝶を夢む』を刊行し、[[谷崎潤一郎]]を訪問。[[1924年]](大正13年)2月に雑誌『新興』創刊号に発表した「情緒と理念」一二篇により同誌が発売禁止となる。[[1925年]](大正14年)には妻と娘二人を伴い上京し、[[東京府]][[荏原郡]][[大井町 (東京府)|大井町]](現・[[品川区]]内)、[[北豊島郡]][[滝野川区|滝野川町]][[田端]](現・[[北区 (東京都)|北区]]内)へ移り住み、近隣の[[芥川龍之介]]や[[室生犀星]]と頻繁に往来し、8月に『純情小曲集』を刊行。雑誌『[[日本詩人]]』の編集を後に妹・アイが嫁ぐ[[佐藤惣之助]]と担当し、[[ニヒリズム]]の傾向を強める。11月、妻の健康回復のため[[鎌倉]]に転居。

[[1923年]](大正12年)1月26日詩集『青猫』刊行、7月『蝶を夢む』を刊行し、[[谷崎潤一郎]]を訪問。[[1924年]](大正13年)2月に雑誌『新興』創刊号に発表した「情緒と理念」一二篇により同誌が発売禁止となる。[[1925年]](大正14年)には妻と娘二人を伴い上京し、[[東京府]][[荏原郡]][[大井町 (東京府)|大井町]](現・[[品川区]]内)、[[北豊島郡]][[滝野川区|滝野川町]][[田端]](現・[[北区 (東京都)|北区]]内)へ移り住み、近隣の[[芥川龍之介]]や[[室生犀星]]と頻繁に往来し、8月に『純情小曲集』を刊行。雑誌『[[日本詩人]]』の編集を後に妹・アイが嫁ぐ[[佐藤惣之助]]と担当し、[[ニヒリズム]]の傾向を強める。11月、妻の健康回復のため[[鎌倉]]に転居。



[[1926年]](大正15年・[[昭和]]元年)荏原郡[[馬込町]](現・[[大田区]]内)に転居。[[1927年]](昭和2年)頃から[[三好達治]]、[[堀辰雄]]、[[梶井基次郎]]などの書生や門人を多く抱えるようになる。[[三好達治]]は朔太郎の4人いた妹の末っ子アイに求婚するが断られ、のちにアイが再々婚した佐藤惣之助に先立たれると、妻を離縁しアイを妻として[[三国町]]で暮らすが、まもなく離縁する。[[1928年]](昭和3年)に「[[詩人協会]]」の創立に伴い評議委員となり、2月『詩論と感想』を、12月『詩の原理』を刊行。


[[1926]]15[[]][[ ()|]][[]][[1927]]2[[]][[]][[]][[]]4[[]][[1928]]3[[]]212


[[1929年]](昭和4年)7月に家庭破綻により娘二人を伴い前橋の実家に帰り、離婚と家庭崩壊の苦悩により生活が荒廃し始める。10月『虚妄の正義』を刊行。11月、単身上京、赤坂区檜町(現・港区赤坂)のアパート乃木坂倶楽部に仮寓。11月、父重態となり前橋に帰る。翌年7月父死去。10月、妹アイとともに上京、牛込区市谷台町(現・新宿区内)に居住。[[1931年]](昭和6年)5月、[[万葉集]]から[[新古今和歌集|新古今集]]にいたる和歌・437首の解説を中心とする『恋愛名歌集』を刊行。[[1933年]](昭和8年)に世田谷区代田一丁目に自ら設計して自宅新築、入居。個人雑誌『生理』を発刊。ここで、[[与謝蕪村]]や[[松尾芭蕉]]など、古典の詩論を発表し、日本の伝統詩に回帰した。

[[1929年]](昭和4年)7月に家庭破綻により娘二人を伴い前橋の実家に帰り、離婚と家庭崩壊の苦悩により生活が荒廃し始める。10月『虚妄の正義』を刊行。11月、単身上京、赤坂区檜町(現・港区赤坂)のアパート乃木坂倶楽部に仮寓。11月、父重態となり前橋に帰る。翌年7月父死去。10月、妹アイとともに上京、牛込区市谷台町(現・新宿区内)に居住。[[1931年]](昭和6年)5月、[[万葉集]]から[[新古今和歌集|新古今集]]にいたる和歌・437首の解説を中心とする『恋愛名歌集』を刊行。[[1933年]](昭和8年)に世田谷区代田一丁目に自ら設計して自宅新築、入居。個人雑誌『生理』を発刊。ここで、[[与謝蕪村]]や[[松尾芭蕉]]など、古典の詩論を発表し、日本の伝統詩に回帰した。


2022年7月27日 (水) 07:58時点における版

萩原 朔太郎
(はぎわら さくたろう)
萩原朔太郎(1930年撮影)
誕生 1886年11月1日
日本の旗 日本群馬県東群馬郡北曲輪町
死没 (1942-05-11) 1942年5月11日(55歳没)
日本の旗 日本東京府東京市世田谷区代田
墓地 政淳寺(前橋市)
職業 詩人
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 慶應義塾大学予科中退
活動期間 1917年 - 1942年
ジャンル 随筆評論小説短歌
主題 寂寥感・孤独感・倦怠感・憂鬱感・空虚感
文学活動 象徴主義芸術詩派アフォリズム口語自由詩神秘主義
代表作月に吠える』(1917年)
『青猫』(1923年)
『純情小曲集』(1925年)
氷島』(1934年)
猫町』(1935年、小説)
主な受賞歴 第8回文学界賞(1936年)
第4回透谷文学賞(1940年)
デビュー作 『ひと夜えにし』(1902年、短歌)
『みちゆき』(1913年、詩)
子供 2女(長女=萩原葉子
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"A Weaving Girl"





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<>, 1987

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, 2011

, 2016


 17, 1956

 , 1979

 15, 1984

 -, 1994


 2013~2019 - 








 - 宿

  稿[10]



(一)^ 1966P.319

(二)^ 退

(三)^  2012

(四)^ ︿34,,西1978ASIN B000JAUHJ0P493

(五)^ 

(六)^ 1966P.322

(七)^ 1966P.323

(八)^ 20

(九)^ No.5p.116

(十)^  576  201762049稿

参考文献

外部リンク