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'''複都制'''︵ふくとせい︶は、[[国家]]に複数の[[首都|都]]を置く制度 |
'''複都制'''︵ふくとせい︶とは、[[国家]]に複数の[[首都|都]]を置く制度。広大な領土を有する国に多く採用される。都が2つの場合は'''両都制'''︵りょうとせい︶、'''両京制'''︵りょうけいせい︶ともいう。
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また、国家の[[首都機能]]を複数の都市に置く制度を指すこともある。現代的な複都制については[[首都#複都制]]を |
また、国家の[[首都機能]]を複数の都市に置く制度を指すこともある。{{main2|現代的な複都制については[[首都#複都制]]を}} |
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==概要== |
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[[中央集権国家]]の複都制では、皇帝が常住する都を'''上京'''、'''上都'''、'''京城'''、'''皇都'''、'''京師'''などといい、その他の都を'''陪都'''︵ばいと︶、'''留都'''︵りゅうと︶などという。しかし、陪都に対応する語句は西洋になく、これは東洋的なものとされ、'''陪都制'''︵ばいとせい︶と呼ばれる。日本史で言われる難波遷都などは、正確には天皇の陪都巡守や皇都昇格であり、都を移す遷都とは異なる<ref>[[744年]]︵[[天平]]16年︶、聖武天皇が[[恭仁京]]を離れて難波に行幸し、一時難波を皇都と定めたが、これも陪都から皇都への昇格で都を移したのではなかった。翌年の[[平城京]]への還幸によって再び陪都に戻った。法制史学者の瀧川政次郎は、﹁従来の日本史では、遷都ということが多すぎる﹂と指摘している︵﹃京制並に都城制の研究﹄︶。</ref>。
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[[中央集権国家]]の複都制では、皇帝が常住する都を'''上京'''、'''上都'''、'''京城'''、'''皇都'''、'''京師'''などといい、その他の都を'''陪都'''︵ばいと︶、'''留都'''︵りゅうと︶などという。しかし、陪都に対応する語句は西洋になく、これは東洋的なものとされ、'''陪都制'''︵ばいとせい︶と呼ばれる。日本史で言われる難波遷都などは、正確には天皇の陪都巡守や皇都昇格であり、都を移す遷都とは異なる<ref>[[744年]]︵[[天平]]16年︶、聖武天皇が[[恭仁京]]を離れて難波に行幸し、一時難波を皇都と定めたが、これも陪都から皇都への昇格で都を移したのではなかった。翌年の[[平城京]]への還幸によって再び陪都に戻った。法制史学者の瀧川政次郎は、﹁従来の日本史では、遷都ということが多すぎる﹂と指摘している︵﹃京制並に都城制の研究﹄︶。</ref>。
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皇帝が陪都に滞在し、皇帝不在の皇都で国政をみさせるために代理を置くときは、権限を制限したうえで太子を置いたり(太子監国の制)、信頼の厚い重臣などの有力者を置いたりした(留守官の制)。 |
皇帝が陪都に滞在し、皇帝不在の皇都で国政をみさせるために代理を置くときは、権限を制限したうえで太子を置いたり(太子監国の制)、信頼の厚い重臣などの有力者を置いたりした(留守官の制)。 |
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== 日本の複都制 == |
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⚫ | 古代の日本では唐を強く意識して複都制が採られ、王権発祥の地である[[奈良盆地]]と同時に[[水運]]の要衝である[[大阪湾]]岸や[[琵琶湖]]岸にも都が置かれたが、[[793年]]([[延暦]]12年)に[[桓武天皇]]により永らく陪都であった難波宮が廃され[[平安京]]に一本化された。 |
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⚫ | 2世紀後半、[[ローマ帝国]]では[[ディオクレティアヌス]]帝の時代に帝国の行政区画が東西に分けられ、2人の[[正帝]]と2人の[[副帝]]によって[[テトラルキア|四分統治]]された。これにより各皇帝が拠点を置いた[[ニコメディア]](イズミット)、[[シルミウム]]、[[メディオラヌム]](ミラノ)、[[アウグスタ・トレヴェロールム]](トリーア)が各地方の実質的な首都となったが、名目的には[[元老院 (ローマ)|元老院]]のある[[ローマ]]が帝国全体の首都とされた。その後、西方正帝[[コンスタンティヌス1世]]が帝国を統一して東方に新都[[コンスタンティノポリス]]を建てた後も、ローマは「唯一の都」として帝国の名目的な首都の座を保持した。 |
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⚫ | [[395年]]には、東帝[[テオドシウス1世]](西帝は形式的に幼い次男[[ホノリウス]])の死により長男[[アルカディウス]]が東帝とされ、東西皇帝の拠点が東のコンスタンティノポリスと西のメディオラヌム(後に[[ラヴェンナ]]へ遷都)とに置かれ、ラテン語圏とギリシア語圏となる東西二分が進むことになった。 |
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*[[明治維新]]時に[[江戸]]を[[東京]]と改名し奠都による[[京都]]との両京制とした︵[[東京奠都]]、[[留守官]]を参照︶<ref>この間、福原への行幸があったが、平安京は廃されず、[[福原京]]も正式な設置に至らず[[離宮]]にとどまった。また都は置かれなかったが、[[鎌倉幕府]]が首都機能の一端を担ったという意味で、[[鎌倉時代]]の[[鎌倉]]を複都制として考えることもできる︵山田邦和﹃福原京に関する都城史的考察﹄︶。</ref><ref>[[室町時代]]に栄華を極めた[[山口市|山口]]のことを﹁西の京都﹂という意味で西京︵さいきょう、にしのきょう︶と呼んだが、東京に対比させた呼び名ではなかった。現在も[[西京銀行]]や山口県立西京高等学校などの名残がある。因みに、[[京都府立大学]]の旧称は西京大学だった。</ref>。
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== 中国の複都制 == |
== 中国の複都制 == |
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関中から起こり、[[中原]]諸侯の国際社会を征服し統一王朝を拓いた[[秦]]は短期間で崩壊したが、それを襲って長期に安定した統一王朝となった[[前漢]]は長安を首都とするとともに洛陽を複都として統治を行った。しかし、前漢崩壊後に[[豪族]]の連合政権として再生した[[後漢]]は、関中を出て洛陽に重心を移した統治を行った。
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関中から起こり、[[中原]]諸侯の国際社会を征服し統一王朝を拓いた[[秦]]は短期間で崩壊したが、それを襲って長期に安定した統一王朝となった[[前漢]]は長安を首都とするとともに洛陽を複都として統治を行った。しかし、前漢崩壊後に[[豪族]]の連合政権として再生した[[後漢]]は、関中を出て洛陽に重心を移した統治を行った。
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漢朝の統一が失われたのちの[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]、[[北周]]は政権中枢の軍事力の集結する[[関中]]の[[長安]]を都とし、東方の[[華北平原]]への出口に位置する[[洛陽]]を穀倉地帯からの物資を集積する陪都とする複都制をとった。[[隋]]もこれを引き継ぎ、[[唐]]の[[723年]]︵[[開元]]11年︶には、長安・洛陽︵東都︶両都に北都として[[オルドス]]地方や[[黄土高原]]北部の[[遊牧民|遊牧地帯]]の騎馬軍事力を扼する[[汾水]]流域の[[太原]]を加え三京になった。[[757年]]︵[[至徳 (唐)|至徳]]2 |
漢朝の統一が失われたのちの[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]、[[北周]]は政権中枢の軍事力の集結する[[関中]]の[[長安]]を都とし、東方の[[華北平原]]への出口に位置する[[洛陽]]を穀倉地帯からの物資を集積する陪都とする複都制をとった。[[隋]]もこれを引き継ぎ、[[唐]]の[[723年]]︵[[開元]]11年︶には、長安・洛陽︵東都︶両都に北都として[[オルドス高原|オルドス]]地方や[[黄土高原]]北部の[[遊牧民|遊牧地帯]]の騎馬軍事力を扼する[[汾水]]流域の[[太原]]を加え三京になった。[[757年]]︵[[至徳 (唐)|至徳]]2載︶には更に西域を望む関中渭水盆地西端の[[鳳翔府|鳳翔]]︵西京︶、穀倉地帯として重要な[[四川盆地]]の[[成都府|成都]]︵蜀郡︶が加えられ五京を持つに至ったが、この2都は間もなく廃された。これらの中でも華北平原や江南の穀倉地帯の物産が集積される洛陽は、食糧に乏しい長安に比べて食糧が豊富なため、皇帝は皇太子に長安で監国させ、たびたび洛陽に巡幸した。特に[[武則天]]はその治世の間は長安にほとんど行かず洛陽の都に住んでいた。このように洛陽は重要な陪都として長安と並び両京と称された。
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その後、[[モンゴル帝国]]の皇帝直轄政権として成立した[[元 (王朝)|元]]では[[遊牧国家]]の伝統に則り皇帝は直轄の遊牧軍団と共に夏営地に設けられた夏都の[[上都]]と冬営地に設けられた冬都の[[大都]]の間の広大な[[首都圏]]を季節巡回した。元朝を華北から締め出した[[明]]では当初建国地の[[南京市|南京]]から全国を統治していたが、 |
その後、周辺遊牧王国であった[[渤海 (国)|渤海]]に倣い、[[征服王朝]]である[[遼]]や[[金 (王朝)|金]]は、根拠地である遊牧地域と征服下においた漢民族の地域を統治するのに複数の統治機構を構成する目的などから、五京制などを採用し多数の統治拠点をおいた。[[モンゴル帝国]]の皇帝直轄政権として成立した[[元 (王朝)|元]]では[[遊牧国家]]の伝統に則り皇帝は直轄の遊牧軍団と共に夏営地に設けられた夏都の[[上都]]と冬営地に設けられた冬都の[[大都]]の間の広大な[[首都圏]]を季節巡回した。元朝を華北から締め出した[[明]]では当初建国地の[[南京市|南京]]︵応天府︶から全国を統治していたが、[[1402年]]︵[[建文]]4年︶に靖難の変で勝利した燕王の朱棣が[[永楽帝]]として即位すると、[[1403年]]︵[[永楽 (明)|永楽]]元年︶に自らの根拠地であった旧大都の北平を都に定め、[[1421年]]︵永楽19年︶﹁[[北京市|北京]][[順天府]]﹂と改称して、[[北元]]やその後のタタール部などと対峙する前線基地として最も重要な[[北京市|北京]]を主都とし、南京応天府を副都として残した複都制に移行した。[[マンチュリア]]から興った[[清]]は建国の地である[[盛京]]と共に、征服した中華世界を統治するために明の北京・南京の首都機能を継承した。
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王朝時代の中国は王朝の本拠地と征服地の双方の統治、軍事力と統治権力の首都機能と経済力の首都機能の両立、遊牧国家の影響などから複都制が盛んであった。 |
王朝時代の中国は王朝の本拠地と征服地の双方の統治、軍事力と統治権力の首都機能と経済力の首都機能の両立、遊牧国家の影響などから複都制が盛んであった。 |
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[[1912年]]に成立した[[中華民国]]は当初北京︵[[北京政府]]︶、次いで1928年に成立した[[南京国民政府]]︵[[蔣介石政権|蒋介石政権]]︶は南京を首都としたが、[[1937年]]に[[日中戦争]]で首都南京を放棄した際には、一時的に首都機能を移した[[重慶市|重慶]]を{{仮リンク|重慶首都時期|zh|重庆陪都时期|label = 陪都}}と称した。[[蔣介石|蒋介石]]政権は[[1945年]]に戦争の勝利で南京に帰還した後、[[1949年]]に[[国共内戦]]の敗北で中国本土を脱出して[[台湾]]の[[台北市]]に首都機能を移したが、その後もあくまで南京が法的な首都で、台北は臨時首都、ないし中央政府の臨時所在地だった。しかし、内戦に勝利して北京を単独の首都と定め、南京は[[江蘇省]]の[[省都]]とした[[中華人民共和国]]による中国本土の統治が固定化し、中華民国の﹁台湾化﹂が進むと、台北を事実上の首都としてみなす見解が国内で定着していった︵[[中華民国の首都]]︶。いずれにしても、中華民国の首都機能は台北に集約されており、複都制は採られていない。
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近代国家の時代になると、[[日中戦争]]で首都南京を放棄した際には、一時的に首都機能を移した[[重慶市|重慶]]を陪都と称した。 |
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=== 北宋 === |
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[[北宋]]は、次の4つの都を置く四京制を敷いた。 |
[[北宋]]は、次の4つの都を置く四京制を敷いた。 |
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*[[南京析津府]]([[北京市]]) |
*[[南京析津府]]([[北京市]]) |
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*[[西京大同府]]([[大同市]]) |
*[[西京大同府]]([[大同市]]) |
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=== 金 === |
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[[金 (王朝)|金]]は、遼の五京制を継承、[[1138年]]([[天眷]]元年)、会寧府を﹁上京会寧府﹂とし、遼の﹁上京臨潢府﹂を﹁北京臨潢府﹂に改称、[[北宋]]の首都であった[[開封府|開封]]を﹁汴京開封府﹂として、七京とした。 [[1150年]]([[天徳 (金)|天徳]]2年)、臨潢府から京号を除く。[[1153年]](天徳5年)会寧府から燕京に遷都、会寧府の京号を除き、﹁南京析津府﹂を﹁中都大興府﹂に改称、これに伴い、﹁中京大定府﹂を﹁北京大定府﹂に改称、又、﹁汴京開封府﹂を﹁南京開封府﹂に改称し、五京とした。[[1173年]]([[大定 (金)|大定]]13年)に会寧府を再び﹁上京会寧府﹂に戻し、以降、滅亡まで六京制であった。
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*[[上京会寧府]](現在の[[黒竜江省]][[ハルビン市]][[阿城区]]白城) |
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*北京臨潢府(遼の上京臨潢府を継承、1150年京号を除く) |
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*東京遼陽府(遼の京を継承) |
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*北京大定府(遼の中京大定府を継承) |
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*[[中都大興府]](遼の南京析津府を継承) |
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*西京大同府(遼の京を継承) |
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*[[南京開封府]]([[開封市]]) |
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=== 渤海 === |
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[[高麗]]王朝は、正都開京︵[[開城市|開城]]︶に、東京︵[[慶州市|慶州]]︶、西京︵[[平壌]]︶を加え三京とした。8代[[顕宗 (高麗王)|顕宗]]の時代の[[1010年]]に、南京︵漢城、現在の[[ソウル特別市|ソウル]]︶を加え四京とした。
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[[高麗]]王朝は、正都開京︵[[開城市|開城]]︶に、東京︵[[慶州市|慶州]]︶、西京︵[[平壌]]︶を加え三京とした。8代[[顕宗 (高麗王)|顕宗]]の時代の[[1010年]]に、南京︵漢城、現在の[[ソウル特別市|ソウル]]︶を加え四京とした。
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== ローマ帝国の複都制 == |
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⚫ | 2世紀後半、[[ローマ帝国]]では[[ディオクレティアヌス]]帝の時代に帝国の行政区画が東西に分けられ、2人の[[正帝]]と2人の[[副帝]]によって[[テトラルキア|四分統治]]された。これにより各皇帝が拠点を置いた[[ニコメディア]](イズミット)、[[シルミウム]]、[[メディオラヌム]](ミラノ)、[[アウグスタ・トレヴェロールム]](トリーア)が各地方の実質的な首都となったが、名目的には[[元老院 (ローマ)|元老院]]のある[[ローマ]]が帝国全体の首都とされた。その後、西方正帝[[コンスタンティヌス1世]]が帝国を統一して東方に新都[[コンスタンティノポリス]]を建てた後も、ローマは「唯一の都」として帝国の名目的な首都の座を保持した。 |
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⚫ | 古代の日本では唐を強く意識して複都制が採られ、王権発祥の地である[[奈良盆地]]と同時に[[水運]]の要衝である[[大阪湾]]岸や[[琵琶湖]]岸にも都が置かれたが、[[793年]]([[延暦]]12年)に[[桓武天皇]]により永らく陪都であった難波宮が廃され[[平安京]]に一本化された。 |
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⚫ | [[395年]]には、東帝[[テオドシウス1世]](西帝は形式的に幼い次男[[ホノリウス]])の死により長男[[アルカディウス]]が東帝とされ、東西皇帝の拠点が東のコンスタンティノポリスと西のメディオラヌム(後に[[ラヴェンナ]]へ遷都)とに置かれ、ラテン語圏とギリシア語圏となる東西二分が進むことになった。 |
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*[[明治維新]]時に[[江戸]]を[[東京]]と改名し奠都による[[京都]]との両京制とした︵[[東京奠都]]、[[留守官]]を参照︶<ref>この間、福原への行幸があったが、平安京は廃されず、[[福原京]]も正式な設置に至らず[[離宮]]にとどまった。また都は置かれなかったが、[[鎌倉幕府]]が首都機能の一端を担ったという意味で、[[鎌倉時代]]の[[鎌倉]]を複都制として考えることもできる︵山田邦和﹃福原京に関する都城史的考察﹄︶。</ref><ref>[[室町時代]]に栄華を極めた[[山口市|山口]]のことを﹁西の京都﹂という意味で西京︵さいきょう、にしのきょう︶と呼んだが、東京に対比させた呼び名ではなかった。現在も西京銀行や山口県立西京高等学校などの名残がある。因みに、[[京都府立大学]]の旧称は西京大学だった。</ref>。
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== 脚注 == |
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*[[首都|都]] |
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*[[奠都]] |
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*[[東京奠都]] |
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*[[遷都]] |
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*[[首都]] |
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[[Category:政治史]] |
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