テクノ歌謡
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テクノ歌謡︵テクノかよう︶とは、1980年代前後の日本の歌謡曲の1ジャンルである。当時のYMOブームに代表されるテクノポップやニュー・ウェイヴブームに影響を受けたもので、アイドル歌謡曲などのポピュラー音楽にもテクノ・ポップ調のアレンジが導入されて流行した。
なお、当時から﹁テクノ歌謡﹂というジャンルとして売り出していたわけではなく、一種のレトロニムである。そのため厳密な定義はなく、シンセサイザーや打ち込みなどを多用した﹁テクノらしさ﹂を感じさせる歌謡曲を指す。当時のアナログシンセサイザーの音色から﹁ピコピコ・サウンド﹂などと呼ばれた。
歴史[編集]
コルグやヤマハのシンセサイザーやシモンズのシンセドラムが日本の音楽界に実験的に導入され、1977年にピンク・レディーの﹃サウスポー﹄のイントロに挿入されたアメリカのポラード社製のシン・ドラム︵SYN-DRUMS︶の音響が﹁歌謡界のテクノ化﹂の嚆矢とされる。 1980年、筒美京平が榊原郁恵に﹃ROBOT﹄を提供、船山基紀による﹁バブルガムテクノ﹂︵高橋幸宏︶的アレンジにより﹁テクノ歌謡﹂を一般に認知させた。 1980年代のテクノ・ポップやシンセポップの隆盛後、YMOの細野晴臣や坂本龍一、ムーンライダーズの鈴木慶一や白井良明、大村憲司、戸田誠司などテクノ・ポップ系のミュージシャンが、アイドル歌謡曲などの歌手に楽曲提供をした曲が、後年﹁テクノ歌謡﹂と呼ばれるようになった。 1980年には近田春夫プロデュースによるジューシィ・フルーツのデビューシングル﹃ジェニーはご機嫌ななめ﹄がヒット。ジューシィ・フルーツのプロデュースを手がけてデビューした戸田誠司は、のちにアイドル歌手のYOUとテクノ歌謡色の濃いバンド﹁FAIRCHILD﹂を結成した。テクノ歌謡の終焉[編集]
1990年代以降は、シンセサイザーや打ち込みの普及によりそれらを使った歌謡曲は珍しくなくなったため、﹁テクノ歌謡﹂というジャンルも消滅した。いわゆる﹁小室サウンド﹂と呼ばれ、1990年代に一世を風靡したエイベックス系のアーティストもシンセサイザーや打ち込みを多用していたが、彼らが﹁テクノ歌謡﹂と呼ばれることはなかった。 2000年代以降は、デジタルシンセサイザーやDTMが一般化したことにより、歌謡曲やJ-POPの制作現場でそれらが使用されることはごく当たり前となった。かつての﹁テクノ歌謡﹂の系譜は、中田ヤスタカプロデュースによるPerfumeやきゃりーぱみゅぱみゅなどに受け継がれてゆくことになる。テクノ歌謡の発見と再評価[編集]
1999年、Pヴァインが矢倉邦晃・安田謙一の監修により、各大手レコード会社の﹁テクノ歌謡﹂の楽曲を収録したCDを8枚発売する。このCDシリーズにより﹁テクノ歌謡﹂という語と概念が世間に知られるようになった。Pヴァインは翌2000年にも﹁テクノ歌謡﹂シリーズのCDを数枚発売している。同社のCDは、これまで過小評価され埋もれていた1980年代の楽曲やアーティストの再発見・再評価を促すきっかけとなった。 2005年にはYMOのメンバーが作詞・作曲・プロデュースを手がけた楽曲を収録した﹃イエローマジック歌謡曲﹄と、YMO以外の作詞・作曲・プロデュースによる楽曲を収録した﹃テクノマジック歌謡曲﹄が発売された。翌2006年にはムーンライダーズが手がけた楽曲を収録したCDシリーズ﹃ムーンライダーズのいい仕事!﹄が発売された。両作品ともに、テクノ歌謡の代表例が収録されている。主な作品[編集]
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- ピンク・レディー『Last Pretender』
- スターボー『ハートブレイク太陽族』
- イモ欽トリオ『ハイスクールララバイ』
- コスミック・インベンション『コンピューターおばあちゃん』
- 真鍋ちえみ『不思議・少女』
- 伊藤つかさ『恋はルンルン』
参考文献[編集]
- 『テクノ歌謡マニアクス』コイデヒロカズ編、ブルースインターアクションズ、2000年4月
- 『テクノ歌謡ディスクガイド』ユービック「テクノ歌謡」研究チーム著、扶桑社、2008年11月