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三部会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1789年に開かれた三部会

: États générauxÉtats provinciaux[1]

[]


[2]

1302481[1]

151615[ 1]16[3]178955170[4]1789

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481302410[5]1302M"Documents inédits pour servir à l'histoire de France"[6]subside[2]

133762[7]13562[7][8]

7[2][2]

11148422[9]1560[2]76使[2]

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16[2]21560[11]1561[12]

31576[13]15883[14]341593États de la Ligue[2][15][16]

16144[2][2][17]1789[2]



14[2][18][2]14[2][2]14152[2]

1789[]


105-10%401715142500

16[19]1787[20]1787[21]

17891614[ 2]55578

612[22][23]617

16Salle des États178962047627[24]79[25]

一覧[編集]

幾つかの文献[要文献特定詳細情報]では三部会は21回開催されたとされるが、現状では招集された正確な回数は不明である。

全国三部会一覧(確定的なものではない)




招集者 案件・結果・特徴 開催日・場所


王権の強化と財政問題への対処
フィリップ4世の治世
1 フィリップ4世
  • (案件)王権の独立に関するボニファティウス8世との紛争。
  • (結果)国王の支持と教皇教書の焼却
  • (特徴)この手段の成功
1302年4月10日
ノートルダム大聖堂パリ

2 1303年6月14日
ルーヴル宮殿パリ

3 フィリップ4世 1308年
ポワチエトゥール

4 1312年
5 1313年
6
  • (案件)フランドルとの戦争に際して国王が特別補助金を希望。
1314年8月
パリ裁判所(Palais de Justice de Paris

フィリップ5世の治世
7 1317年2月2日
8
  • (特徴)通貨問題
1320年
ポントワーズ

9
  • (案件)通貨、度量衡、王領、十字軍。
1321年6月
ポワチエ

シャルル4世の治世
10
  • (案件)新税
  • (結果)失敗
1322年
11
  • (案件)イングランドとの戦争の再開について。
  • (特徴)第三身分は州ごとの議会に分割。
1326年
モー

百年戦争の危機対処
フィリップ6世の治世
12 1343年8月[26]
13
  • (結果)間接税(aides)の票決。
1346年2月2日
パリ
1346年2月15日
トゥールーズ

ジャン2世の治世
14 1355年12月2日
パリ
1356年3月2日
トゥールーズ




15 王太子シャルル 1356年10月15日11月3日
パリ

16 王国総代官
王太子シャルル
1357年1月13日
パリ

17 1358年5月4日
コンピエーニュ

18 1359年
19 1363年
シャルル5世の治世
20 1369年
パリ

シャルル6世の治世
21
  • (結果)12月初旬に間接税(aides)は廃止されたが、特別補助金(subside)が票決された。 1381年に炉税(fouages)が再導入された。
1380年11月14日
パリ

22 1413年1月30日
サン=ポール館パリ

23 1420年12月1日
サン=ポール館パリ

シャルル7世の治世
24
  • (結果)軍隊と間接税(aides)の常設化。
1439年10月
オルレアン

25 1448年
ブールジュ

諮問議会として
ルイ11世の治世
26
  • (結果)王弟へのノルマンディーの分割に反対。男系王族に対する親王領・親王采(apanage男系の子孫が途絶えた場合は王領に復帰する領土)が固定年収となる。
1468年4月1日4月14日
トゥールーズ

シャルル8世の治世
27 摂政
アンヌ・ド・ボージュー
シャルル8世の姉)
  • (案件)未だ合法的に任命されていないアンヌ・ド・ボージューブルボン公ピエール2世 に対してオルレアン公ルイ2世が自らの摂政就任を主張。
  • (結果)フィリップ・ポーの有名な「民主」(démocratique)演説。
    1484年2月20日、収支予算案が請求され成立が見込まれたが否決された。
    タイユ税(taille)の規模が減額された。3月14日、日当が廃止された。
    ベリー運河canal de Berry)の構想が初めて提起された。
  • (特徴)初めて王国全土から、身分によって任命された全ての社会団体から招集された。代表は285人。請願陳情書(cahiers de doléances)の登場。
1484年1月5日3月14日
トゥールーズ


ユグノー戦争への対処
シャルル9世の治世
28 フランソワ2世
  • (案件)宗教及び政治問題
  • (結果)貿易法を準備。この法は1789年まで有効だった。
  • (特徴)フランソワ2世が召集したが会合が始まった時には既に崩御していた。
    母后カトリーヌ・ド・メディシスを摂政に指名。ミシェル・ド・ロピタルの求めに応じて次期会合での宗教問題の討議を決める。母后は王権の制限を阻止。
1560年12月13日1561年1月31日
オルレアンのパレ・ド・レタップ(Place de l'Étape)の特設議場
詳細
29 摂政
カトリーヌ・ド・メディシス
1561年
ポワシー(第一身分)
ポントワーズ(第二、第三身分)

アンリ3世の治世
30 アンリ3世
  • (案件)財政及び司法問題。
  • (結果)アンリ3世がユグノー(プロテスタント)に与えた和平勅令の撤回。国王はカトリック同盟に反対せず、首領に就任。
    タイユ税taille)の権利放棄。
1576年12月6日1577年3月1日
ブロワ

31
  • (結果)特別補助金(subside)を拒否。
1588年10月6日
ブロワ

32 アンリ3世 1588年1589年
ブロア

アンリ4世の治世
33 カトリック同盟首領
マイエンヌ公シャルル
  • (案件)アンリ4世がカトリックではないことを理由にアンリ3世の後継として数人の候補者が挙げられる。
  • (結果)1593年7月25日にアンリ4世がカトリックへ改宗。
  • (特徴)「同盟の三部会」(États de la Ligue)と呼ばれた。代表120人が参加[27]
1593年1月26日8月8日
パリ

三部会の終焉
ルイ13世の治世
34 ルイ13世
  • (案件)王権の強化を目的とした臣下のためのはけ口。
  • (結果)宗教問題、財政政策。タイユ税(taille)の節減と年金(pension)の減額。大学の再編とパリ大学におけるイエズス会の認可。国王とスペイン王女および王女エリザベートとスペイン王太子との結婚。
    トリエント公会議布告への同意。貴族に対するポーレット税paulette)の廃止。
    教皇権に対する国王の優越の承認は否決、イエズス会はパリ大学との和解を拒否。
  • (特徴)聖職者150人、貴族132人、第三身分182人。
    国王によって招集された最後から二番目の三部会。フランス絶対王政の始まり。
1614年10月27日1615年2月23日
ルーヴル宮内のブルボン館(hôtel de Bourbon) (パリ

ルイ16世の治世
35 ルイ16世
  • (案件)財政赤字
  • (結果)国民議会への退去命令により、議員はヴェルサイユの球戯場へ移動。
  • (特徴)聖職者代表291人、貴族代表270人、第三身分(平民)代表578人。フランス革命の開始。
1789年5月5日
ムニュ・プレズィール館内の「三身分会議室」(Salle des trois ordres)(ヴェルサイユ

全国三部会の組織運営と権限[編集]

構成と代表の選挙[編集]


[2][2]

1415[2][2][2]

[2][2](bonnes villes)[2]procureurs[2]plat pays[2]

1630[2][2]procureur[2][2]

1484bailliagesénéchaussé[2]1468[2][28]

1484[2]roturiers[2][2][2][1][2][1]

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1789

[2][2]1484[2]15601789623[2]1789conseil du roi[2]

[2]séances royales[2]orateur[2]sections[2]1484généralité6nationssections[2]gouvernementbureau[2][2][2][2]

16[2]1789

[]


cahier de doléances[2][2]cahier général[2]1484[2]la grande cause[29]

[2]ordonnances de reforme[2][2]16141629grande ordonnance [2]

[]

1789

[2]14[2][2]haute justice[2][2][2][2]

14[2][2]aide[ 3][2]220[2][2]15tailleaides gabelle1437[2]

[2][2][2]1617[2]1718dixièmevingtième[2]cours des aidesparlement[2]

[2]15763[2][2]doléances[2]ordonnance1415[2]

[2]lois fondamentales du royaume[2][2][30][2][2][2]15761588[2][2]

[]


états provinciaux14[31]pays d'etats[31][32]

[32]

16[32][33][33]14退1789[31][34]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 一部の地方では地方三部会が残っていた
  2. ^ これは地方三部会では実現していた
  3. ^ 君主の長男が成人するとき、君主の長女が嫁入りするとき、君主が十字軍に出発するとき、君主が捕虜になった時(ルイ9世以降)の4つの事例で援助を求めることができるとされた。

出典[編集]

  1. ^ a b c d 『アンシアン・レジーム』p52
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu bv bw bx by bz ca cb cc cd ce cf cg ch ci cj ck cl cm cn co cp Esmein, Jean P. H. E. A. (1911). "States-General" . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 25 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 803–805.
  3. ^ 『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』p245-246
  4. ^ 『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』p255-259
  5. ^ 『カペー朝』p217-218
  6. ^ 『カペー朝』p224
  7. ^ a b 『英仏百年戦争』p89-90
  8. ^ 『英仏百年戦争』p90-91
  9. ^ 『アンシアン・レジーム』p53
  10. ^ 『アンシアン・レジームの国家と社会』p35-36
  11. ^ 『宗教戦争』p15
  12. ^ 『宗教戦争』p16-17
  13. ^ 『聖なる王権ブルボン家』p34
  14. ^ 『聖なる王権ブルボン家』p42
  15. ^ 『宗教戦争』p29
  16. ^ 『聖なる王権ブルボン家』p46-47
  17. ^ 『聖なる王権ブルボン家』p68-71
  18. ^ 『アンシアン・レジームの国家と社会』p37-39
  19. ^ 『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』p243-244
  20. ^ 『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』p244-246
  21. ^ 『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』p244
  22. ^ 『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』p255
  23. ^ 『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』p257
  24. ^ 『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』p261
  25. ^ 『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』p262
  26. ^ a b 『英仏百年戦争』p89
  27. ^ 『聖なる王権ブルボン家』p46
  28. ^ 『アンシアン・レジームの国家と社会』p39
  29. ^ 『アンシアン・レジームの国家と社会』p43
  30. ^ 『アンシアン・レジーム』p.48
  31. ^ a b c 『世界の歴史10 フランス革命とナポレオン』p83
  32. ^ a b c 『アンシアン・レジーム』p51
  33. ^ a b 『アンシアン・レジームの国家と社会』p49
  34. ^ 『世界の歴史10 フランス革命とナポレオン』p83-84

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]